2009年3月30日月曜日

The Third Mind

先ほどハワイに戻ってきました。ニューヨークでの一週間は本当に充実していて楽しかったので去るのが悲しかったですが、青空のハワイにはやはり、飛行機を降りたとたんに、身体がのびのびとするような空気があります。ニューヨーク最後の夜は、泊めていただいたお宅でのディナーパーティが夜中の2時近くまで盛り上がり(日本人ばかり9人の集まりだったのですが、武蔵野音大のピアノ教授、N響首席ファゴット奏者、彫刻家、作曲家、ジャズピアニスト、60代でだんなさまを亡くされてから単身ニューヨークに移住して英語を勉強中というたくましい女性と、実に豊かな顔ぶれでした。それぞれが言いたいこと言うだけではなくて、お互いの話をよく聞いて茶々をいれたりしながら、いいリズムで会話が進んでいくのが実に楽しく、よく笑うと同時に実のある一夜でした)、私はそのあと朝4時半のバスで空港に向かわなければいけなかったので、睡眠不足と時差ぼけで今は朦朧としてなにがなんだかよくわからない状態です。でも今晩は仲良しの友達の室内楽のコンサートがあるので、なんとか目をさましていなければいけません。

ニューヨーク最終日には、グッゲンハイム美術館で開催中のThe Third Mindという展覧会に行ってきました。19世紀後半から冷戦終了期までのあいだ、アジアの思想・文化・芸術に影響を受けたアメリカの芸術家たちの作品を集め、その影響のありかたの様々な流れを辿った展覧会です。私がEmbracing the Eastで分析しているような題材そのもので、Embracing the Eastにも出てくるMary Cassattの版画やEzra Poundの詩なども展示されているほか、アジアの思想や宗教を勉強した芸術家たちの抽象画や、1970年代以降のマルチメディア作品まで、実にいろいろな作品が集められています。イサム・ノグチやヨーコ・オノの作品もあります。これらのアメリカ芸術における「アジアの影響」というのは、オリエンタリズムの系譜を引き、その文化や思想のいくつかの部分を選択的に抽出・移植・翻訳したものである、ということを明確にしながら、芸術家たちが真剣にアジアに目を向けそれを理解しようとし、そうした他文化との対峙のなかで新しい表象のしかたを生んだ、ということが、時系列的にまたテーマ別によくわかる構成になっています。4月19日までやっているので、ニューヨークにいるかたはぜひどうぞ。そうでないかたは、アマゾンでカタログ(ここまで重厚にする必要があるのかと思うくらい実に立派なカタログです。でも参考文献にEmbracing the Eastが載っていないのが納得いかん!:))購入可能です。

2009年3月29日日曜日

ニューヨークより 続き

ニューヨーク滞在の最終日となってしまいました。あまりにも刺激が多く楽しい毎日なので、終わってしまうのは悲しいですが、ニューヨークという街に身を置いてからハワイに戻ると、また感じるものも多いだろうと思います。

昨日はNew York Public Library for the Performing Artsという図書館で午後を過ごしました。これは、ニューヨーク市立図書館の一部で、音楽や演劇を専門にした図書館なのですが、一般閲覧・貸し出し用の書籍やCD、DVDのほかに、さまざまな一次資料がそろった研究施設があって、これがまた素晴らしいのです。私は、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールについてのリサーチを始めているので(これについては研究がもう少し進んだら詳しく書きます)、クライバーンについての資料を見に行ったのですが、クライバーンが冷戦さなかの1958年にチャイコフスキー・コンクールで優勝して「アメリカン・スプートニック」と言われ大変な騒ぎになった頃の新聞・雑誌記事のクリッピングから、最近のクライバーン・コンクールに関する資料まで、ありとあらゆるものが揃っています。音楽そのものを研究する人には、さまざまな作曲家の自筆の楽譜などもたくさん揃っていて、弾いてみるためにクラヴィノーヴァもあるし、CDやDVDを視聴するためのPCも列をなしていて、しかも誰でも無料で好きなだけ使える。研究者やオタクには夢の遊園地のような場所です。

その他、知人の彫刻家の作品が展示してあるハーレムの美術・音楽学校を見に行ったり、友達の両親が経営しているアジア美術のギャラリーを見に行ったり、ジャズを聴きに行ったりして、刺激たっぷりの毎日です。今日は、友達とブランチをして、夜は泊めていただいているお宅でディナーパーティで、そのあいだにグッゲンハイム美術館に行こうかと思っています。

関係ありませんが、歴史家John Hope Franklin氏が先週94歳で亡くなりました。奴隷制の歴史を初めとする、アメリカの黒人史研究家のパイオニアで、とくに第二次大戦後において、アメリカの歴史観に、黒人の歴史をとりこむという点でたいへん大きな功績を残した人です。自身が黒人の歴史家としてもパイオニアで、人種隔離されていた南部歴史協会で黒人として初めて論文を発表したり、黒人初のアメリカ歴史協会会長となったりしたほか、同僚や後輩、学生ともとても温かく指導や共同研究などをするとして人望を集めていた人です。今ではマイノリティや女性などの歴史や視点が「メインストリーム」のアメリカ史に取り入れられるのは当たり前になっていますが、その布石を敷いた人物です。

2009年3月26日木曜日

ニューヨークより

今週は大学が春休みなので、ニューヨークに来ています。友達と会って、チャイナタウンの小龍包を食べに行ったり、『セックス・アンド・ザ・シティ』の映画にも出てきたお洒落なレストランに行ったり、ブルックリンにお昼を食べにいったり、SOHOで買い物したり、20年ぶりに会う高校時代の同級生においしい食事をご馳走してもらったりして、とても楽しく過ごしています。少しは仕事もしないといけないので、明日はニューヨーク公立図書館の一部であるNew York Public Library for the Performing Artsという実に素晴らしい図書館にリサーチに行く予定ですが、基本的には遊び中心の一週間です。

それにしてもニューヨークというのは私にとっては本当に天国のような街で、実際に住んでいたのは一年強にもかかわらず、来るたびにとてもホッとする気持ちになります。二十年間育った東京についてそう思うのは当然としても、なぜ自分がここまでニューヨークに愛着を感じるのか、自分でも不思議なくらいですが、たぶんその大きな理由は、ニューヨークにはあまりにもいろんな種類の人たちがいるので、自分がどういうタイプの人間であろうと、周りと合わなくて居心地の悪い思いをすることがない、ということだと思います。人間の種類というのは、もちろん人種や民族もそうですが、それに加えて、社会階層、職業タイプ、お洒落度、興味の対象、生活スタイルなどにおいて、世の中には実に幅広い種類があるものなんだということを、地下鉄やバスに乗っている人たちを見回しただけでもしみじみ感じます。そういうまったく違うタイプの人間たちが、ごく普通に隣り合わせになって空間と時間を共有している、その様子は、圧倒されて目が回りそうでもあると同時に、ある種の開放感も与えてくれます。

『ドット・コム・ラヴァーズ』にも書きましたが、これはやはり、ニューヨークという街で、地下鉄やバスという公共交通機関の果たす役割が大きいと思います。アメリカのほとんどの街には地下鉄は存在しないし、バスは低所得者層の人々しか乗らないことが多いのに対して、ニューヨークでは皆が普通に地下鉄やバスを使い、自分の仕事や社交生活においては一緒にならない種類の人たちとも空間を共にする、というのは、かなり意味のあることだと思います。そうした意味でニューヨークの地下鉄は素晴らしいと思いますが、それと同時に、ニューヨークの地下鉄に乗るたびに、日本の電車の仕組み(?)との違いに呆れもします。時刻表というものがなく、次の電車がいったいいつくるのかさっぱりわからない。通勤時間だというのに、待てど暮らせど全然電車がやってこないこともしょっちゅう。それも、ニューヨーカーのようにものうるさい人たちが、さほど文句も言わずにじっと立って待っている。また、なんの説明もないまま(あるいは説明があっても、「サタデー・ナイト・ライヴ」の古典的なネタにもなったように、車内のアナウンスが騒音でまるで聞き取れないので意味をなさない)、各駅停車であるはずの電車が突然快速になって自分が降りるべき駅を飛ばしてずっと先まで行ってしまったりする。なんだか訳もわからず普段と違うホームに停車したりもする。よくもまあこれだけの大都市の地下鉄が、こんなに不可解な仕組みのまま成り立っているなあと感心するくらいですが、世界的な視点で考えたら、一分と遅れない日本の電車のほうが異常なのかもしれません。

ニューヨークにいるととても遠く感じられるハワイでは、例のシヴィル・ユニオン法案が、今期はどうやら法案化せずに終わるようです。州上院の委員会で三対三の票でわれたまま、その後の処理について議論されていましたが、委員会をバイパスして上院全体の投票にかけるという案が、昨日の上院全体会議で否決になりました。これは、シヴィル・ユニオン法案そのものへの支持や反対を表す票ではなく、手続きについての票なのですが(上院議員の過半数はシヴィル・ユニオン支持を表明しています)、当然ながら、これまでこの法案にむけて懸命に活動してきた人々には、大きな落胆です。しかし、映画『ミルク』からもわかるように、こうした活動は、だめでもあきらめず、忍耐強く連帯の輪をひろげ支持者層を拡大しながら、しつこく何度も何度も活動していくことによって実現していくので、今回の運動で学んだことを参考にして、また来期への活動に向けて準備開始です。

2009年3月19日木曜日

ジャーナリズムのオンライン化がもたらすもの

シアトルの「ポスト・インテリジェンサー」という新聞の紙バージョンが廃刊になり、報道活動はオンラインのみで続行することになりました。日本と同様アメリカでも、インターネットの急速な普及と人々の活字離れで、新聞や雑誌の多くは深刻な経営難に陥っており、新聞の廃刊は今後も続くと思われます。オンラインの報道が一概に悪いとは決して言えません。しばらく前の投稿でも書いたように、日本と比べるとアメリカはインターネット上でのジャーナリズムをはじめとする言論活動がずっと充実していて、「ニューヨーク・タイムズ」や「ウオール・ストリート・ジャーナル」などの大手新聞もインターネットという媒体の特性をきわめて効果的に使って、画像や動画を含む多様な形式できわめて洗練された報道をしています。オンライン版は収入マージンが小さいので経営の面ではあまり有効な策ではないらしいですが、これから先、紙の媒体がオンラインに移行していくのはおそらく必至でしょう。

紙の新聞が失われることがもたらす影響についての興味深い論説が、「ニューヨーク・タイムズ」に載っています。(この論説の著者は、以前「ニューヨーク・タイムズ」の東京支局長をしていたNicholas Kristofです。)いわく、人は、オンラインでニュースを読むときには、自分が興味のある話題や、自分が賛同する論旨の記事を選んで読む傾向が強い。なんらかの政治的意見をもった人のほとんどは、自分の意見や立場を確証するような文章を積極的に読み、自分の信念を強めるのに対し、自分と違う意見を表明した文章については、あまり真剣に考えようとしない。ある調査によると、中立的な情報源が民主党支持者と共和党支持者それぞれに同じニュースを送ると、どちらの党の人々も、自分と同じ意見を示している記事を熱心に読み、逆の立場の記事はまともにとりあわない、という結果が出たそうです。まあ人間というのはたいていそういうものだろうとは想像できますが、「ニュースを読む」という活動のオンライン化が進むと、こうした政治的な隔離と非寛容がますます悪化するだろう、というのがこの論説の主旨です。人々が、自分が興味のある話題について、自分の考えていることをサポートしてくれるような報道しか読まなくなったら、政治的・思想的・文化的な境界を超えた真剣な対話や議論というものが社会から消えてしまう。それは想像するだけでも本当に恐ろしい、という意見には私も賛成です。

もちろん、紙の新聞だって、多くの人は自分の好きなセクションの自分の興味のあるニュースにしか目を通さないのが現実でしょう。私自身そうです。なにしろ「ニューヨーク・タイムズ」なんかはあまりにも記事が多くてひとつひとつが長いので、毎日新聞に一通り目を通すということだってとてもじゃないですができません。私はスポーツのセクションは広げすらしないままリサイクルですし、ビジネスのセクションもめったに読みません。総合セクションでも、自分が背景をまるで知らない国や地域のニュースだと、読んでも理解するのに時間と労力がかかるので、面倒だから飛ばしてしまうことが多いのが正直なところです。それでも、何十頁もある紙の新聞をよっこらしょと広げて、どこを読もうかと選びながら一枚一枚めくっていく過程で、一応は見出しや写真だけでも目に入ってくるので、なんとなく世界で起こっていることは感じ取れます。それに対して、オンライン版では、見出しを見て意味がわからないものや興味の湧かないものには、カーソルを動かさないので、頭に入れる情報を自分でおおいにフィルターをかけているわけです。仮に毎日「ニューヨーク・タイムズ」を隅から隅まで読んだとしても、「ニューヨーク・タイムズ」という媒体を情報源の中心に選んでいることで、すでにある程度のフィルターはかかっているわけですから、さらにそれに大きく厚いフィルターを自分でかけるのは、たしかに、とても恐ろしいことです。とは言っても、じゃあ、積極的にフォックス・ニュースを見てみようという気になるかというと、うーむ。。。

2009年3月17日火曜日

『新潮45』本日発売

『新潮45』4月号、本日発売です。今回の「恋愛単語で知るアメリカ」は、「恋が行き詰まるとき」と題した、もつれ編です。恋愛、交際をしていればたいてい誰もがぶちあたるさまざまな壁、それらに対処したりそれらについて愚痴ったりするときに出てくる英語表現を解説しました。前回のセックス編よりは刺激度は低いかもしれませんが、自分たちの恋愛や結婚についてふりかえる材料にはなるかと思います。よかったらどうぞ。

経済危機は、アメリカの大学にもたいへんな影響を及ぼしています。ニューヨーク・タイムズにも、20%、30%、ときにはそれ以上の予算削減をしのぐために、教員・職員のポジションを何百という単位で削ったり、学部や学科をとり潰している州立大学が少なくない、という記事があります。ハワイ大学では、今のところテニュア・トラック(『アメリカの大学院で成功する方法』参照)の教員を削除する予定はないとのことですが、大幅な予算削減は授業を含む日常業務のいたるところに影響を及ぼしています。英文学部では、コピーが一切禁止になり、授業で配布するプリントを作るにも、教授が街のコピー屋さんで私費でやらなくてはいけなくなりました。私の学部ではなんと、普段は1.5人(フルタイムが一人とハーフタイムが一人)いる秘書が今月いっぱいでいなくなってしまいます。(一人は昨年末でリタイアしたのですが、学部が彼女の代わりを雇えないために、週に数日間だけ時間単位でアルバイトに来てくれています。もう一人は、大学内での別の仕事にうつることになり、彼女の代わりも雇えないので、なんと秘書がゼロになってしまうのです。)オフィス・スタッフがすでに普段の半分以下になっていることで、あらゆる事務作業から授業や試験に関わるさまざまなことが動かなくなってしまい、教員も学生もパニックしています。学者のような変人と社会人としての常識をじゅうぶん備えていない学生が集まった大学のような大組織で、日常的な業務が滞りなく進むのは、一にも二にも事務スタッフのおかげなのに、秘書なくしてどうやって学部を運営していったらいいのだろうと、皆ほんとに半泣き状態です。やれやれ。

2009年3月14日土曜日

コロンビア大学新学長

オバマ大統領の母校でもあるニューヨークの名門コロンビア大学(私はサバティカルでニューヨークにいた一年間、コロンビアに所属をもらってひとつ授業を教えていました)のdeanに、Michele Moody-Adamsという52歳の黒人女性の哲学者が選ばれました。アメリカと日本では大学の組織構造が違うのでdeanという単語は訳しにくいのですが、ここではdean of Columbia Collegeですから、すなわち、総合研究大学としてのコロンビア大学のなかの学部生教育の部分を管轄する部分の学長です。コロンビアではこのポジションに黒人が任命されるのは初めてのことです。Moody-Adams氏は、ウェルズリー、オックスフォード、ハーヴァードで教育を受け、ヒュームについて博士論文を書き、道徳哲学・倫理学の専門家で研究者として立派な業績をあげながら、大学の運営者としても功績をあげている女性です。ここしばらくは、コーネル大学の学部生教育の担当を管轄するポジションに就いていました。この件に関するニューヨーク・タイムズの記事はこちら、コロンビア大学による発表はこちら

コロンビア大学はあらゆる分野で世界に誇る研究・教育を行っている名門大学ですが(ちなみに数年前には、イランのアフマディネジャド大統領に講演を主催して、学内外でたいへんな議論を巻き起こしました)、なかでも有名なのが、日本の大学の一般教養課程に相当する、Core Curriculumをよばれるプログラムです。たいていどこの大学にもこうした基礎教養のカリキュラムはありますが(ちなみにブラウン大学にはそうした必須のカリキュラムがないのが特徴です。各学生の独創性と主体性に任せたより自由なカリキュラム、というのがブラウンの自慢で、これが好きでブラウンに来る学生が多いです。ただし、ある程度の学力と幅広い知的好奇心と主体性を備えた学生が集まってくる大学だからこそ成立する制度でもあります)、コロンビアでは、全学共通のシラバス(日本の大学で「シラバス」制度をとり始めたところもありますが、アメリカでいうところの「シラバス」とはまるで違うことが多いようです。要は授業要項ですが、授業の全体内容だけでなく、毎回の授業の課題を細かく指定してある、何頁にもなる書類です)にもとづいて、一年生と二年生全員が通年二年間、二十人ほどの小人数の授業で毎週四時間ずつ、西洋文明・思想の基礎を作っている古典を読んで議論する、という徹底したカリキュラムが特徴です。コロンビアのウェブサイトで、現在使われているシラバスを見ることができますが、それによると、一年生用の「人文」の授業は、ホメロスやソフォクレス、ツキディデスに始まって、創世記・ヨブ記、ダンテ、ボッカチオなどを経由して、シェークスピア、ジェーン・オースティン、ドストエフスキー、ヴァージニア・ウルフまで。二年生用の「現代文明」(なぜこの授業に「現代」という単語がついているのかは不明)は、プラトン・アリストテレスに始まって、旧・新約聖書、コーラン、そしてマキャヴェリ、ホッブズ、ロック、ルソーを経由し、スミス、カント、トクヴィル、ヘーゲル、マルクス、ダーウィン、ニーチェ、デュボイス、フロイト、ボーヴォワール。これをまだ二十歳にならない学生に毎週毎週読ませるのですから、その理念の高さにはまったくもって頭が下がります。『日本語が亡びるとき』のなかで水村美苗さんが、国語教育においては、生徒がわかってもわからなくてもとにかく近代日本文学の名作を次々に読ませることを提唱していますが、それを西洋文明・文学・思想全般に広げたものです。しかも、テキストの選択は変わっているとはいえ、この基本カリキュラムは、二十世紀前半からコロンビア大学でずっと継承されてきたものだというのですから、こうした形の「伝統」というもののすごさを感じます。教えるほうもたいへんです。私のブラウン時代の同級生のひとりが、今コロンビアの英文学部で教えていますが、人文系の教授はみな、自分の専門とかけはなれていてもプラトン・アリストテレスからなにから教えなくてはいけないので、十代の学生と一緒に自分も勉強し直しで、ヒーヒー言っているとのことでした。教えるほうがヒーヒー言っているのですから、当然学生のほうはもっとたいへんです。『ドット・コム・ラヴァーズ』の最後に出てくる「ジェフ」は学部はコロンビア出身なのですが、くらくらになりそうな思いをしながら毎週難解な古典を読み教授や同級生と議論を重ねるというこのカリキュラムが、オハイオから出てきた青年にとってどれだけ刺激的だったかということを、何度も語っていました。あの経験をしただけでもコロンビアに行った意味があったと言っていました。知的好奇心と吸収力に満ちた若者にこうした教育をすることが、どれほど素晴らしいことか。そして、バブル末期に日本の大学に行って、ちゃらちゃらと遊んでばかりいた自分の大学生活を振り返ると、なんと哀しくなることか。自分の馬鹿さを大学や先生がたのせいにするつもりはないですが、それでも、それなりに知的好奇心は旺盛で勉強する気はあって大学に入った自分は、きちんと設定と材料と方向性を与えてもらっていたら、それなりには勉強しただろうにとは思います。嗚呼。

もちろん、極端に西洋文明・思想に偏ったこのカリキュラムの内容自体には、とくに若い世代の教授からは批判もあり、現代の社会や文化をより反映したシラバスに作り替えていくべきだという議論もさかんにあります。Moody-Adams氏も、このCore Curriculumはコロンビアの学部教育の根幹をなす誇りであると同時に、西洋以外の文明・思想もとりこんでいくこと、また、自然科学も教養課程の必須カリキュラムにより積極的にとりいれることを提唱しています。

2009年3月12日木曜日

『サタデー・ナイト・ライヴ』ハワイ・スキットをめぐる議論

定番の深夜バラエティー番組『サタデー・ナイト・ライヴ』で、ハワイのカウアイ島の架空のホテルを舞台にしたスキットが演じられ、ハワイで議論をかもしています。ホテルのバーで観光客のためにフラを演じるドウェイン・ロック・ジョンソンを中心にしたこのスキットは、一般のアメリカ人がもっている常夏のパラダイスというハワイのイメージに隠されるハワイの現実に言及しながら、そうしたことに思いをはせることのない白人観光客の無知と無神経を皮肉ったものです。また同時に、観光業によって経済が成り立っている土地の哀しさや、そこで観光業に従事しながら生活している住民の「内実の思い」を、コメディの形にして、社会風刺・批判をしているものです。

しかし、このスキットには非難の声もたくさんあがっています。ハワイの住民を、教育程度や知性の低い下品な人間として描いている。また、実際には接客を初めとするサービスに関してはきわめて高レベルのハワイの観光業をおとしめるような描きかたをしている。などなど。デューク・アイオナ副知事やハワイ観光局などは、不況によってハワイの観光業が危機に瀕しているときに、ハワイの観光業をこのように侮蔑的に描写することは無神経・無責任である、との旨の抗議を表しています。この件についての地元新聞記事には、現在の時点で500近くもの読者からのコメントがオンラインで寄せられていることから、関心の高さがわかります。これを「コメディというジャンルを巧みに使って、観光というものが隠蔽する社会・経済状況を明らかにして風刺したもの」と見る人と、「ハワイの住民に対して侮蔑的なもの」と見る人のあいだでの議論にくわえて、ハワイという特有の歴史と人種・民族構成をもつ場所における「白人」の位置や、「ローカル」の人たちの白人の扱いについての議論なども混ざって、そのやりとりを見るのもとても興味深いです。ちなみに私は、「コメディというジャンルを巧みに使って、観光というものが隠蔽する社会・経済状況を明らかにして風刺したもの」派ですが、うーむ、なかなか難しいところです。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、ハワイにおける観光業の位置や、「ローカル」と白人、また観光客の関係はとても難しいものなので、風刺・批判を意図したコメディが、その意図とは違うように受け取られて議論を巻き起こすのも理解はできます。先住ハワイ人コミュニティのなかでももっとも声高に活動を続けてきた活動家・詩人・学者、Haunani-Kay Traskによる『From a Native Daughter』という重要な本に、先住ハワイ人の立場からみた、ハワイの観光業とそれがもたらす「文化的買春」についての痛烈な批判のエッセイがあります。ぜひ読んでみてください。

2009年3月8日日曜日

シヴィル・ユニオン支持集会



すでに何度か報告している、ハワイ州のシヴィル・ユニオン法案は、上院の委員会で凍結したままで、委員会をバイパスして上院全体の投票にかけるかどうかが議論されているところです。上院全体の投票ということになれば、過半数の議員は法案支持を表明しているので、無事に通過すると予測されています。ただ、委員会をバイパスして法案を投票にかけるとなると、委員会制度そのものの権威が揺らぎかねないので、よほどの緊急事態でなければ議員はそうした手続きをとりません。この法案が「緊急事態」にあたるかどうかが議論のポイントでもあります。

そうした議論が続くなか、昨晩、州議会議事堂で、シヴィル・ユニオンを支持する人たちの集会があり、私も行ってきました。さまざまな教会によって組織された反対派の集会よりはずっと小さいものの、雨のなか数百人(この新聞記事には「200人以上」となっていますが、私が見たところでは500人近くはいたと思います。正確には計りえないこうした数字をどのように表示するかにも、政治的要素がからんできます。反対派の集会に関しては、翌日の新聞は「2000人」となっていたのに、その数日後にはなぜか「8000人」に膨らんでいました)の人々が集まり、前宵祭のように灯したろうそくを手に、性的アイデンティティや信仰や階層や文化を超えて、すべての人に公平な権利を与える社会を作ろうという意思を表現しました。ユニティ・チャーチというキリスト教会や、テンプル・エマニュエルというユダヤ教寺院(これらの教会・寺院では同性愛者の牧師がいます)、そして先住ハワイ人コミュニティのリーダーや、この法案を支持している州議員たちのスピーチにくわえて、先日の上院委員会の公聴会でも証言をしたレズビアンのカップルなどが心のこもったスピーチをしました。集まった人たちは、もちろん同性愛者の人たちも多かったですが、さまざまな背景の異性愛者も数多く集まっていたのが心強かったです。私の同僚や学生もたくさんいました。私は、この法案を支持しているのは同性愛者だけではない、ということを示すために、Straights for Civil Unionというサインをもって参加しました。異性愛者・同性愛者ともにたくさんの人たちが、このサインを見て「よし!」という意味の親指を立てる合図をしてくれました。

ちなみに、私の同僚で、宗教と政治やセクシュアリティの問題を専門にしているKathleen Sandsと、法律専門家で先日の公聴会でとても雄弁な証言をしたLinda Krieger(この二人はカップル)についてのとても興味深い記事が、Honolulu Weeklyというコミュニティ新聞に載っています。レズビアンとしてカム・アウトするということがどういうことか、彼女たちがどういった思いでこの法案可決のための運動にのぞんでいるか、ということが等身大で伝わってくるいい記事ですので、読んでみてください。

2009年3月6日金曜日

笹川氏の発言

笹川自民総務会長が、「女性議員はあまり上品でない」と発言したというニュースを読みました。去年、ナンシー・ペローシ米下院議長のことを指して、「下院議長が女性だから金融安定化法案が否決となった」という意味の発言をしたときにも、どうしてこういう発言をする人がこういう立場にいて、しかも発言が世間に知られてもその立場から降ろされないのだろうと仰天しましたが、今回もまたしかりです。何度もこうした発言が続くということは、たまたま言葉の使い方を間違って誤解を招くような発言をしてしまったのではなく、女性の能力や尊厳についての基本的な認識が欠如しているということでしょう。アメリカだったら、このような事件があったら政治家はほうぼうから糾弾を受けて即刻辞任となります。各法案に関する政治家の立場やあらゆる言動をモニターする団体や機関がいろいろあって、なにか問題が起こればあっという間に大騒ぎになります。もちろん日本にもそうした活動をする団体はあるでしょうが、それらの活動が政治家にアカウンタビリティを求める市民の動きにもっとつながっていけばいいのにと思います。

オバマ政権の国家経済会議委員長となったローレンス・サマーズ氏がハーバード大学総長だったときに、「科学の分野に女性が少ないのは素質の差によるのではないか」という意味の発言をしてたいへんな騒ぎになり、他の批判とも重なって教授会で総長不信任案が可決され、辞任にいたったといういきさつがあり(『現代アメリカのキーワード 』303−307頁参照。)、サマーズ氏がオバマ政権に指名されることには、かなりの批判もありました。

ハーバードといえば、ハーバードで医学と人類学の博士号をとった49歳のジム・ヨン・キム氏が、ダートマス大学の総長に任命されて話題になっています。アジア系アメリカ人で初のアイビーリーグの大学の総長です。「モデル・マイノリティ」というレッテルが貼られがちなアジア系アメリカ人は、科学や工学などの分野でとくに活躍が目立ちますが、東海岸のエスタブリッシュメントであるアイビーリーグの総長といった立場にアジア系アメリカ人がつくのは、やはりかなり画期的なことです。ちなみに、私の母校であるブラウン大学がルース・シモンズを総長に任命したときに、黒人女性初のアイビーリーグ総長として話題になりました。サマーズ氏の後任にハーバード総長に任命されたのは、ドリュー・ギルピン・ファウストという、南北戦争期を専門とする女性の歴史家です。トップの顔と組織全体の風土は必ずしも一致しないでしょうが、トップにどういう人をおくかというのは、実質的にも象徴的にもやはり大きな意味をもっていると思います。