Pico Iyerは、イギリス生まれのインド系で、アメリカとイギリスを行ったり来たりしながら育ち、オックスフォードとハーヴァードで教育を受け、その後ジャーナリスト、エッセイスト、評論家として世界各地をまわり、長年日本に住んでいる、グローバル化時代を象徴するような人物。私は一昨年、桜美林大学でアメリカ人の日本についての紀行文を扱う留学生向けの授業を教えたときに、彼のThe Lady and the Monk: Four Seasons in Kyoto
この記事は、血液学・腫瘍学を専門とするアメリカ人医師で、チェルノブイリ事故およびそれ以後のあらゆる原発事故においての現地で調査や治療にあたってきたRobert Gale氏についてまわりながら、福島第一原発で作業にあたる従業員たちの姿を描いたもの。Gale氏は、福島原発事故がもたらす放射能についての報道や政府の反応は危険を過大視しているものが多いという立場をとり、居酒屋などで原発の従業員たちの質問に答えたり相談に乗ったりしながら正確な情報を提供しようとしている人物。放射能の危険性については、専門家のあいだでも評価がわかれ、Gale氏の立場に反論するものも少なくなく、また、これまでの彼の研究や治療方法についての批判もある、ということをきちんと説明してGale氏の位置づけを明確にしている点では、よい記事だと思います。そしてまた、危険を承知の上であえて原発での作業に足を運ぶ男性たちの姿の描きかたも人間的で、James Nachtweyによる写真もなかなかよい。
でもそのいっぽうで、話の行き着くところは、自分の命や健康に不安を抱きながらも作業をする従業員たちの、自己犠牲や義務感の背景にある、日本的な文化や精神。もちろん、そうした文化や精神は、従業員たちの動機の一部であることは間違いないでしょう。今の状況で原発で作業をしている人たちにはもちろん深い敬意と感謝の念を抱きますし、私は震災後の数ヶ月を日本で過ごしたので、福島に限らず、未曾有の事態において日本の人々が示した助け合いや我慢の精神を目の当たりにし、ほんとうに感動もしました。震災直後から、外国のメディアはそうした日本の人々のありかたを好意的に報じてきて、この記事もそのひとつとして捉えることができます。でも、そうした報道によくあるように、そうした人々のありかたを、神道だの儒教だのサムライ精神だので説明されると、「うーん。。。」という気持ちにならずにはいられません。文化の一部である以上、そうした要素がないとは言えないけれども、そうした歴史的具体性に欠けた精神論よりも、人々をこうした仕事に向かわせる社会経済状況や、原発の産業構造を、もうちょっと深く論じてもらいたかった。もちろん、政府や東電の構造の批判に焦点を当てた報道もたくさんあるのですが、そうした報道からは、生身の人間の姿が見えてこないことが多い。構造的な分析と人間的な描写の両方をバランスよく扱った報道がもっとほしいところです。