2011年5月31日火曜日

宴のあと

日曜日の本選、授賞式、閉会ディナーをもって、コンクールは終了しました。今は、ダラスの友達のところに遊びにきて、明日の朝日本に出発します。ピアノ・テキサスのワークショップを含めての2週間は、終わってみると本当に夢のようで、こんな体験をしたのがまったくもって信じられない思いです。ピアノについても、人生全般についても、深くいろんなことを考えさせられる、素晴らしく貴重な経験となりました。

準本選の演奏を聴きながら、まず頭に浮かんだのが、「あー、自分が準本選に残らなくて本当によかった!」という思いです。予選であんな大失敗をしてしまったので、残るわけはありませんでしたが、もしもミスがなく自分なりにとてもいい演奏ができていたとしても、準本選に残るような人たちと自分とのあいだには、もっと根本的なレベルの違いがある、ということが、25人の演奏を聴いてよくわかりました。なにかの間違いでセミファイナリストとなってしまい、あの人たちに混じって舞台で20分(準本選は16~20分)も演奏しろと言われたら、泣き出して「嫌です、辞退します」と言ってきびすを返して走って逃げるだろうと思うくらい、準本選のレベルは高く、とくに2日目の演奏はすごかった。そして、本選の6人となると、もうコンクール云々はどうでもよく、プロの演奏会を聴くのと同じ気持ちで聴きました。最後に演奏したClark Griffithの演奏を聴きながら、私は、その音楽性に感動すると同時に、「これでもうこのコンクールが終わってしまうのか」と悲しい気持ちで、涙が出てきてしまいました。審査の結果は、多くの聴衆の予想通りとなりましたが、誰が何位だとか、そんなことは本当にどうでもいい、というのが多くの人たちの気持ちだったと思います。

現在の職業が演奏家でなくても、かつて音大で勉強してプロを志したり、ある時点まではプロに準ずる演奏活動をしてきていた人たちと、私のような「本物の」アマチュアとが一緒の土俵で比べられるのは、なんだか納得がいかないという気持ちもないではありませんが、すべてが終わってこの経験を振り返ってみれば、準本選や本選に残るような人たち(彼らは、ほんとうにプロとなんら変わらない演奏をします。プロのほうのクライバーン・コンクールとは、演目の量こそ違え、演奏の質そのものはそう変わるとは思えません)と、私のような人間があえて一緒になって、それぞれの姿勢とアプローチでピアノや音楽への愛情を表現するというのは、実に独特の素晴らしさがあるとも思います。プロとして、あるいはプロ並みのトレーニングを受けた人たちが上手な演奏を競い合うだけだったら、イベントとしてはちっとも面白くないけれど、ピアノの腕前はさまざま(といっても、出場している70数名は、その倍ほどの応募者のなかからオーディション録音で選ばれてきているので、やはり一定水準には達している)で、ふだんの仕事や生活もてんでんばらばらな人たちが、世界から集まってきて、自分たちの仲間が生み出す音楽の感動を共有し、緊張や興奮を共に体験するからこそ生まれる友情や絆こそが、このアマチュア・コンクールの本質だと思います。

そしてついでに。過去のアマチュア・クライバーン・コンクールで出会った男女が結婚に至ったケースというのは複数あるらしいのですが、私は「そんな夢物語みたいなことがあるかいな」と懐疑的でした。が...具体的なことはここで書くようなことではないので省略しますが、そういうことが起こりうるんだ、と思うようになった、と思わせぶりなことだけ書いて本日はこれにて。ムフフ。

2011年5月27日金曜日

ピアノというクスリ

一昨日、コンクール出場者は71人から25人にしぼられ、今日と明日が準本選です。当然ながら私は25人には入っていませんが、25人の顔ぶれを見ると、「そりゃそうだよな」という結果となっており、自分なぞとはまるっきり次元が違うことが明らか。準本選と本選の演奏を聴くのがとても楽しみです。

予選最後の日に、優勝候補のひとりと噂されているChristopher Shihの演奏がありましたが、彼の演奏を聴いていると、度肝を抜かれるというか、身体に震えがくるというか、深いため息が出るというか、もうそれはそれは素晴らしく、こんな人と私が同じ舞台で弾くなどということが、ばかばかしいやら可笑しいやら。「こういう人が出る舞台に、私なぞを立たせていただいて、本当に申し訳ありませんでした」と謝りたくなります。彼は1997年のプロのほうのクライバーン・コンクールに出場したという人で、つまりプロのピアニストとしてのトレーニングや経験を積んだ人なのですが、現在はなんと医者。プロのクライバーン・コンクールに出た人と私を一緒にされても困るのですが、そうしたことはともかくとして、彼のような人がプロの演奏家としての道を選択せず、それでもアマチュアとしてこのようなコンクールに出ようという気持ち、そのあたりに私はとても興味があります。機会があったらゆっくり話を聞いてみたい。

彼に限らず、このコンクールに出ている人たちの顔ぶれを見ると、実に考えさせられることが多く、私はここにいることがひとつの人生の転機になっているような気すらします。それは、これから真剣にピアノの道を志すとかそういったことではなく(もちろん、もっともっとピアノが上手くなりたいという気持ちはとても強くなりましたが)、この人たちと一緒にいると、私は、人間としてもっと優れた人間であらねばならないという気持ちになるのです。準本選や本選にいくような人たちが、ピアノ演奏と関係のない仕事をしたり子育てをしたりしながらそれほどの演奏能力を身につけるためには、私なんかとは比べものにならない努力をして、練習時間を作り、効率的な練習方法を身につけ、つねにより高きものを目指しているはず。ピアノ云々ということを超えて、そうした姿勢そのものに、人間として学ぶことが多いです。そしてまた、自分の人生のなかで、ピアノをどういう位置づけにしたいかということについても、深く考えさせられます。もっと上手くなるために、自分の時間や労力やお金の配分を大幅に変更して、ピアノにもっと集中することも可能。でははたしてそれが自分が本当に求めていることかというと、私の場合はそうも言いきれない。コンクールが始まってから興奮しすぎて夜眠れない(ふだん私はよく寝る人間なのですが、コンクールが始まってからは自分の演奏が終わってからも連日3−4時間しか寝ていません)ので、ベッドで横になってここで経験したことを考えていると、私の頭に浮かんでくるのは、執筆プロジェクトの案。これだけ刺激的な音楽体験をしながらも、それについてなにをどう書きたいか、ということにまず頭がいくのは、自分の性向や資質が一にも二にも物書きであって、ピアノ弾きというのはそれより下にある、ということなのだなあと、自分で改めて認識して感心(?)したりしています。

さて、昨日は、ピアノ・マラソンという催しがありました。これは、プロのコンクールのほうでもあるのですが、準本選に残れなかった出場者のうち希望者が、残りのプログラムの一部を同じ舞台で演奏できるというものです。審査員もいなく、聴衆も少なく、リラックスした雰囲気のなかで演奏するので、こちらでのほうが本番よりずっといい演奏をする人も多いです。私も、とにかくシャコンヌを大きなピアノで弾いてみたいので、弾いてきました。予選で弾いたバーバーの思い出組曲のうちのヘジテーション・タンゴをもう一度(もっと上手く弾けるということを自分にも友達にも証明したかった)弾いてから、シャコンヌを弾いたのですが、この20分で、いろんなことを勉強しました。なんのプレッシャーもないので緊張はまるでせず、気分はノリノリで弾いたので、とくにタンゴはとても楽しくパンチのきいた演奏ができたと思いますが、緊張しないぶん、どうしても集中力が100%でなく、ディテールへの配慮は散漫で、ラフな演奏でもありました。しかし、ハンブルグ・スタインウェイをああしたホールで弾くのは、麻薬のようなもので、下手でもなんでも、とにかく快感。私はハワイでは電子ピアノで、東京ではアップライトピアノで練習しているので、こんな楽器とホールをどう扱っていいものかまったくわかっておらず、自分がピアノという楽器の性質をちゃんと理解していないということがよくわかりました。ピアニッシモで和音を弾くとまろやかに温かく響きわたるその音に、自分でびっくり感動してしまい、しかし感動している間に曲は進んでいくので、そのときどきに気をつけなければいけないことに気が回らなくなる。そして、楽器とホールの素晴らしさに合わせて鍵盤のタッチやペダルの踏みかたを適宜調整しながら弾くということができない。なので、とてもムラのある演奏になってしまうのですが、まあそれはそれとして、とにかく麻薬のような快感。私はポルシェを運転したことはないけれど、きっとポルシェを運転するのはこういう感じなんじゃないかと想像します。私たちのようなアマチュアがこんな楽器を触らせてもらうためには、よほどの大金持ちでもなければ、こうしたコンクールに出場するくらいしか機会がない。というわけで、大枚をはたいて、有給をとって、せっせと練習して、わざわざテキサスまで世界からやってくるアマチュアピアニストたちの気持ちはよくわかります。それにしても、予選を通過できなかった人たちにも、こうしてこの楽器をもう一度演奏させてくれるというその心遣いが、やはりクライバーン・コンクール運営者たちの粋なところだと思います。

ピアノ・マラソンに加えて、昨日はコンクール出場者のうちの希望者がプロの音楽家と室内楽を譜読みできる、という企画もありました。私はふだん室内楽を弾く機会などないので、これまたありがたしと張り切って参加し、ブラームスのクラリネット三重奏のアダージョ(自分のレパートリーを練習するので精一杯なので、音符がたくさんあって拍が変化してややこしい他の楽章はなしで、アダージョだけお願いしました)を合わせてもらったのですが、これまたソロとは違った快感。クラリネットとチェロの人たちもとても優しく、室内楽というものを形にしていくためにはどういうことに気をつけるべきかということを示してくれて、最高に楽しかったです。この室内楽はコンクールでは今年初めての企画らしいのですが、たいへん素晴らしいアイデアだと思います。

といったわけで、さっさと敗退したにもかかわらず、最高に楽しく刺激的な毎日を過ごしています。

2011年5月23日月曜日

いやはやの巻

やれやれ、とにもかくにも終了いたしました。ネットで見ていただければわかりますが(見ていない人は見なくていいです!!!)、ワルツの途中で訳がわからなくなり(これはワークショップ最中の演奏でもつっかかった箇所で、「ここが危ないんだよなー」などとちらりとも思いがよぎると案の定そこで訳がわからなくなる)数小節ぶんとんでもない大惨事になりましたが、それによってコンクールの評価はもう問題外になったので、残りは割と吹っ切れて好きな演奏をしました。コンクールの他の出場者の多くは、音大を出ていたり他のコンクールにもたくさん出場していたりする人たちなので、そんな中に私のような未経験者が混じって舞台に立たせてもらっただけでも夢のような話だし、あんなに素晴らしい楽器(ハンブルグ・スタインウェイD)で音響のいいホールで、愛情いっぱいの聴衆に向かって好きな曲を演奏できるのは、至福の思いでした。こういう場に身を置いていろんな出会いをすることで、いろんなことを感じたり考えたり学んだりし、人生の大切な宝物になりました。頑張ってここまでやって来てよかった!そして、これからしばらくは練習しなくてよくなってよかった!(笑)コンクールの残りの期間は、友達の演奏を聴き、思う存分飲みしゃべって過ごすぞ〜!

日本やハワイやアメリカ本土など、いろんなところから応援のメッセージを送ってくださった皆さま、本当にありがとうございました!それがどれほど嬉しいことか、ふだんはペラペラとしゃべったり書いたりする私にも、表す言葉がありません。

2011年5月22日日曜日

コンクール本番前夜

いよいよ明日からコンクールの本番が始まります。出場者が次々と集まってきて、今日はフォート・ワース名物の大きなメキシコ料理レストランでウェルカム・ディナーがありました。さすがクライバーン財団、温かくいい雰囲気の集まり。世界のいろいろなところからやってくる、実にさまざまな職業の人たちと会うのは、単純に面白いです。自分が弾かなくてよくて、取材するだけだったら、もっと気が楽だけれど、緊張や恐怖や興奮を共有することで生まれる絆というものもあるのでまあよしとしましょう。

フォート・ワースの地元新聞は、コンクールのことを大きく取り上げ、何人かの出場者のプロフィール紹介もしています。2009年のプロのコンクールのときに、地元メディアが総力で取材をしているのにいたく感心しましたが、アマチュア・コンクールにこれだけの紙面を割くというのも驚き。こうした姿勢が、地域コミュニティの芸術支援の血となり肉となっているのだと思います。

ピアノ・テキサスのワークショップのミニ・セッションは今日で終了。最後のコンサートでびしっと決めて明日に備えようと思っていたのですが、緊張しすぎてまるで納得のいかないできばえとなってしまいました。でも、ワークショップの運営者であるTamas Ungar先生が、この5日間で全員が大きく成長したこと、コンクールでは余計なことを考えずとにかく自分の音楽をすること、と、とても心に響く言葉をくださり、それだけで私は胸がいっぱい、涙が出そうでした。この5日間でできた、音楽への愛情とピアノへの思い入れを共有する仲間たちが、お互いを応援して演奏を楽しみにしていると思うと、それだけで私はもうじゅうぶん、という気分。

私の出番は、テキサス時間の明日23日の一番最後、夜10:15からです。私の直前に演奏するのは、ベルリンのアマチュア・コンクールで優勝してベルリン・フィルと共演したという、Jun Fujimotoという日系カナダ人。彼もワークショップに出ているので、何度も演奏を聴きましたが、私なぞとはまるで異次元の腕前。そんな人の直後、しかも初日の最後でみんなが疲れているときに弾くと思うと、嫌で嫌でたまらないのですが、そんなことを言っても始まらない。Junとはさっき一緒に飲みに行って仲良くなったので、それでずいぶんと気が楽になりました。上手い下手などということは一切ふっ切って、音楽を楽しめたらと思っています。見られていると思うとますます緊張するのであまりこの事実を広めたくないのですが、演奏はすべてネット上で生中継されるそうです。

新たなるピアノ体験さまざま

一昨日は、マスタークラスの後Harold Martina氏のプライベートレッスンを受け、夜はコンサートでバッハ=ブゾーニのシャコンヌを演奏。こちらは緊張しながらも実力相応の出来で、とにかく大きなホールでコンサート・グランド・ピアノでシャコンヌを弾くというのが夢だった私には、ごちゃごちゃとしたミスはともかくとして、気分のいい体験でした。

この日はコンサートの後、ワークショップを運営しているTamas Ungar氏が参加者全員を集め、自分たちの演奏についてなど話し合う時間を設けてくれました。緊張して手が震えたりつっかえたりどんどん演奏が速くなったりしてしまうという状態を皆が共有し、どうやってそれに対処するかということをお互い話し合ったのですが、話の内容自体はとくに大きな発見があるというわけではなくても、そういった気持ちをみんなで話し合うということには大きな意味がありました。グループのなかでも飛び抜けて上手な人というのが何人もいるのですが、そうした人たちも演奏経験の少ない私などと同じような気持ちでいるのだなということもわかるし、なんといっても、ここにいる仲間が、お互いがいい演奏ができるようにと応援しあっているということが、最大の心強さにつながり、話しているあいだに涙が出そうな気分になってきました。このグループのなかには、テキサスの医者やマサチューセッツの弁護士やニューヨークの建築家やブラジルの投資家やドイツの物理学者など、いろんな人がいるのですが、ふだんの仕事や生活とはまったく関係なく、ピアノへのこだわりで結ばれたこういうコミュニティというのがあるんだなあと、感じ入るところ多し。

昨日は、朝一番でRobert Roux氏のマスタークラスでバーバーを演奏。こちらの演奏はけっこうよい出来で、本番でああいうふうに演奏できれば自分としては満足だなあと思ったのですが、こういう演奏は本番以外のときにしかできないもの(苦笑)。マスタークラスの指導はこれまた素晴らしく、前日のレッスンに加えて、これだけでずいぶんと良くなった感触あり。

そして、昨晩のコンサートでは、初回の雪辱をはらすべく、再びバーバーを演奏。またしてもたいへん緊張しましたが、今回は前回とはまるで違った体験になりました。前回は、緊張しすぎて自分で音楽に入りきることができず、音が心配になって頭が先走り、テンポがどんどん速くなってコントロールを失うという状況でしたが、今回は、緊張しながらも音楽には入り込み、少々のミスはともかくとして気分良く演奏していたのですが、入り込みすぎて途中で音がわからなくなり、次の回復できるところまで流れを保つために複数の声部の入り組んだ箇所で右手の単線だけを弾くという大惨事に。にもかかわらず、残りも気分的には集中して演奏でき、一種の高揚感を味わいました。これがコンクール本番だったら、間違いなくこれでアウトですが、今回のワークショップに参加して他の出場者のレベルを見て、私が予選を通過する可能性はゼロであるということをじゅうぶん認識したので、私はもう上手に弾くことなど忘れて、気持ちよく自分らしい演奏をすることに集中することにしました。その点、昨日は演奏の後、何人もの人が、とてもよかったとか、私もあの曲を弾いてみたいから楽譜を見せてくれとか、弾いている本人がとても楽しそうに弾いているのを見て気分がよかったとか、曲の雰囲気がとても良く出ていたとか、いろいろ言ってくれたので、メモリースリップはまあよしとしましょう(と自分に甘い)。本番では、音楽に入り込み、かつ、形も整った演奏ができるとよいのですが...

それにしても、このワークショップに参加することで、自分の演奏についても、他の人の演奏についても、ピアノ指導のありかたについても、実にさまざまな発見をしています。ここにいる参加者は、技術的にもなにごとかと思うくらい長けているのだけれど、それ以上に、それぞれの思い入れが強く感じられる人間的な演奏をします。その人たちと友達になり、彼らの人生を少しずつ知るにつれ、そのピアノへの思いにますます感動。自分自身の音楽への愛情もいっそう深められている気持ちがします。

さて、ワークショップは本日で終了し、今日はいよいよコンクール参加者のためのディナーパーティがあります。その後で、最後の一回の練習演奏をして、明日の本番に臨みます。

2011年5月20日金曜日

アマチュア・クライバーン・コンクール 地元(ホノルル)報道

数日前に電話でインタビューを受けていたのですが、今朝のハワイの地元新聞ホノルル・スター・アドヴァタイザーに、こんなでかでかとした記事が載ってしまいました。いやー、参った。新聞のウェブサイトのトップページに顔写真入りで載ってしまったので、読む人は結構多いのではないかと思われ(この記事が今朝載ったということは、記事を読んだという知らない人からのメールでついさっき知りました)、ますます「あー、マズいことになった」感増大。しかし、なにしろメディア対策が得意なクライバーン財団の主催イベントなので、このように出場者の地元メディアにも広報がなされているのは当然で、まあ仕方ないか...

今朝は、朝8時半から、John Owings氏のマスタークラスを受け、バッハ=ブゾーニのシャコンヌを演奏しました。昨晩のコンサートでの悲惨なできばえよりは落ち着いて弾け、また、Owings氏の温かく優しく、そして具体的でポイントを突いた指導は、涙が出るほど素晴らしく、たった1時間で自分の演奏がずいぶんとよくなった気持ちがします。それに、シャコンヌのような曲は、ハワイの自宅にある電子ピアノや、今回の東京での滞在先にあるアップライトピアノで弾くのと、大きなホールでスタインウェイのグランドピアノで弾くのとでは、まるっきり違う体験で、途中の難しい箇所がいかにごちゃごちゃになろうとも、最後の大きな和音でどーんと終わるときには、たいへんな満足感があります。マスタークラスででも、この曲をホールで弾けたというだけで、私は至福の気分。

人の演奏を見学するのでも、自分が演奏するのでも、マスタークラスというものは本当に素晴らしく、私は、残りの人生をマスタークラスを受けたり見学したりして過ごせたらどんなに幸せかと思ってしまいます。

あと一時間で今度はプライベートレッスンなので、その準備にかかります。

2011年5月19日木曜日

本番はオソロしい

先ほど、ピアノ・テキサスのワークショップの夜のコンサートで、今回初めての演奏をしてきました。結論から言うと、自分的にはまったくの大惨事に終わりました。今晩弾いたのは、予選で弾くことにしている、サミュエル・バーバーの「思い出」組曲作品28より「ワルツ」「パ・ドゥ・ドゥ」「ヘジテーション・タンゴ」の3曲。とても思い入れのある曲なのですが、なんといっても最初の「ワルツ」の出だしで一番つまづきがちで、そこで肝心な音を外してしまうと、動揺して、そこから坂を転げ落ちるようにどんどん崩壊していく...というパターンが、今日も展開されてしまいました。よっぽど途中で演奏をやめて舞台を下りて帰ってこようかと思ったくらいでした。落ち着いて弾けばじゅうぶん弾けるはずなのはわかっているのに、舞台に出ると、頭上から照りつけるライトの強い光にまずびっくりし、その反射で客席などまるで見えないのにどぎまぎし(数人でも知っている顔が見えればずいぶん安心するのですが)、どうでもいいようなミスをしながら弾いているうちに、暗譜はちゃんとできているはずなのに、途中で頭が真っ白になってしまうんじゃないかという強迫観念が湧いてきて、全体的なことよりもその場その場の音(それも、どういう質の音を出すかということではなく、次に出すべきはドだったかミだったかというレベルの話)のことしか考えられなくなってくる。落ち着いて弾けているときは、なんといってもちゃんとしたホールでスタインウェイのコンサート・グランド・ピアノを弾いているわけなので、自分でも幸せな気分になるくらいいい音が出るのですが、そんな落ち着いた気持ちでいられるのは、12分のうち2分くらい。いやー、まいった。復習(今、漢字変換をしようとしたらまず出てきたのが「復讐」。なんと適切な変換であることか!)用に一応録音もしたものの、聴く気にもならないくらいの出来でした。

本番(本番といっても、これはあくまで練習コンサートなので、聴衆はほんの一握りしかいないのですが)というのはオソロしいなあと実感。他のいろんなアマチュア・コンクールやコンサートに出て演奏経験を積んでいる人なら慣れているでしょうが、私のように人前で演奏する機会をまるでもってこなかった人間は、一回の演奏のたびに寿命が3年くらい縮まる思いです。でも、コンクール本番でいきなりこれだったらどうにもしようがないけれど、コンクール前に数回は舞台で演奏する練習ができるので、その数回で少しは度胸がついて落ち着いて演奏できるようになるといいなあ...

というわけで、自分の演奏は悲惨でしたが、他の参加者たちとお友達になって、演奏のあと部屋でビールを飲みながらおしゃべりしたりするのは、とても楽しいです。私としては、そういう交流が主な目的で来ているので、精一杯楽しむことにします。といっても、明日は、朝8時半からマスタークラス、正午にプライベートレッスン、夜はコンサートと、長い一日が控えているので、もう寝まーす。

ピアノ・テキサス・ミニ・セッションにて

アマチュア・クライバーン・コンクールが開催されるテキサス・クリスチャン大学で、ピアノ・テキサスというワークショップに参加して今日が2日目です。このピアノ・テキサスは今年で30年目になるワークショップで、音楽教師のためのプログラムや若い音楽学生のためのプログラムなど多様な構成になっているのですが、私が参加しているのは、アマチュア・クライバーン・コンクール出場者のためのミニ・セッション。コンクール前に、マスタークラスやコンサートで舞台上で演奏し「本番」に向けて準備をするという主旨で、今回の参加者は15人。昨日顔合わせをしてから、5日間、昼間にはマスタークラス、夜はコンサートが詰まっています。

2日目の午後である現在、私はまだ舞台には立っていないのですが、他の人の演奏を聴いて、ぶったまげることしきり。「とんでもないところに来てしまったものだ」と焦る気持ちでいっぱいになります。プロ(志望者)のコンクールで世界から集まってくるトップの演奏家たちがとてつもないレベルであるのは当然としても、アマチュアの世界でも、グローバルスタンダードというのはこういうレベルなのかと、目が点になるほどみんな上手い。それも、指がよく動いて上手に弾くというだけならともかく、それぞれの人の演奏には、その人の人生や人間性が滲み出るなんともいえない味わいやこだわりが感じられて、たいへん魅力的です。この道で生きていくというプロ志願者ならともかく、この人たちは皆、医者だったり弁護士だったり(今回の参加者は、やたらと医者と弁護士が多い)建築家だったり教師だったりエンジニアだったりと、時間的にもエネルギー的にも要求の多い仕事をしている人たちばかりで、いったいいつどうやって練習時間をひねり出しているのだろうと不思議でたまらない。世界の各地で、そういった人たちが、少しずつでも時間を見つけてはピアノに向かい、好きな音楽と向き合っている、その成果をみると、人間ってすごいなあと感動します。その姿を見るだけで、自分が演奏しなくてよければ、感心したり感動したりしていれば済むのですが、この人たちのなかに入って自分が演奏しなければならないのだと思うと、そーっと逃げ出したい気持ちになります。なにかの間違いで小学生が大学院のゼミに迷いこんでしまい、他の学生と一緒にディベートをしなくてはいけなくなったような、そんな気分。自分の性格に似合わず妙に弱気で及び腰になってしまうのですが、誰に頼まれたわけでもなく好きでやってきているのだから、とにかくここにいることで学べることはすべて学び、自分なりに成長して、そして楽しい時間を過ごせればと思っています。24時間いつでも練習できるようにと各人にあてがわれた練習室は、音大の練習室に典型的な、窓のない小さな部屋で、なんとも圧迫感がある上に、廊下を歩いていればもちろん、部屋のなかにいても近くの部屋から他の人の練習している音がずーっと聴こえてきて、これまたプレッシャー。でも、それぞれが音楽と関係のない仕事をしている大人たちにとって、ふだんこんなふうに連日朝から晩までピアノにどっぷり浸かっていることはたいへんな贅沢。ここにいる人たちはみんな、仕事や家族から休みをとって、かなりのお金を使って、ワークショップとコンクール合わせて2週間、ピアノ三昧の時間を過ごしているわけです。人生の贅沢とはこういうことを言うのだとしみじみ思います。

私は以前から、マスタークラス(聴衆の前で演奏し先生の指導を受けること)を見学するのがとても好きで、このワークショップでも、数えきれないくらいのマスタークラスを見られる(自分がマスタークラスで演奏するのは2回)のが素晴らしいのですが、参加者の多くは自分の練習に忙しく、初めの数人ぶんを除いては、マスタークラスにはほとんど見学者がいない状態。そんななかで私は、自分の練習そっちのけで、他の人が指導を受けるのを見ています。(コンクールで成功を狙っている参加者とは、自分の取り組み姿勢が違うのがこのあたりからすでに露呈している。)他の人の演奏から学ぶこともとても多いし、先生たちの指導のしかたも素晴らしく、生徒としても教師としても、とても勉強になります。自分が演奏しなくてよいのであれば、私は毎日一日中マスタークラスを見て過ごせれば大満足なのですが、マスタークラスを数時間見学していると、だんだん焦った気持ちになってきて、さすがの私も練習室に向かう、ということを繰り返しています。

というわけで、せっかく練習室に座っている時間を無駄にしないために、パソコンを置いてピアノに向かいます。

2011年5月18日水曜日

フォート・ワース到着

昨日、テキサスはフォート・ワースに到着しました。日本からアメリカに来るといつもそうですが、とくにテキサスに来ると、一歩降り立った瞬間から、なにごとにつけてもスケールの大きさを感じます。まず人間が大きい(ここでは精神性のことではなくて、身体のサイズ)。レンタカーで貸してくれる車も大きい(一番コンパクトな車を頼んでいたのに、やたらとでかい車をくれた)。また、空間の感覚がまるっきり違う。縦横に交差する高速を走っていると、一歩間違ったらメキシコあたりまで行ってしまうんじゃないかと、ハンドルを握りながら不安で緊張してしまうのですが、あまり交通量も多くなく迷子にさえならなければ、運転はけっこう気持ちがいい。

そしてなんといっても、『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』でも書いたように、金持ちの金持ちぶりが半端ではない。私は今回は、2009年に辻井伸行さんのホストファミリーであった、デイヴィッドソン夫妻のところに滞在させていただいているのです(アマチュア・コンクールのほうは、ホストファミリー制ではないので、出場者は普通はホテルに泊まるのですが、私は2009年に仲良くなったデイヴィッドソン夫妻に、「ぜひうちに泊まりなさい」とオファーされて泊めていただくことになりました)が、2009年に何度か訪問したときには漠然としか認識していなかったこのおうちの豪華さに、宿泊客になってみると圧倒されます。実際には、新興タウンハウスの一部であるこの家は、フォート・ワースのなかでは比較的こじんまりしたほうなのだと思いますが、それでも、日本の感覚からいえば、超豪邸。家のなかに荷物を運ぶためのエレベーターがある。ゲストルーム(辻井さんが使った部屋を私も使わせていただいているという縁起の良さ)とゲストルーム専用のバスルームだけでも、東京のゆったりしたワンルームマンションくらいのサイズがある。なんといっても家具調度がすごい。こんなところにいても、私はあんまり居心地がよくないんじゃないかと思いきや、すぐに慣れて落ち着いてしまうところがオソロしい(私はよく人の家に泊まりにいっては、その家の人間のように落ち着いてしまう傾向があるのです)。そして、「これから2週間は、この家はあなたの家だから、家にあるものは自由になんでも使って、必要なものがあったら遠慮せずにすぐに言うこと」とキビしく言われ、カワイのグランドピアノも夜中であろうがなんであろうがいつでも弾きなさい、鍵盤やペダルの調子が悪かったらすぐに調律師に来てもらえるから、と言われ、初日は私の好きなメキシカン料理をご馳走になり、街のあちこちを案内してもらい(2009年に私が滞在したとき以来、ずいぶんと新しい建物が建って、街はだいぶ変わっている)、まったくもってお姫様のような扱いを受けています。ウェストポイント士官学校を卒業し長年軍に勤めたあとボーイング社に勤務し、今は退職しているジョンと妻のキャロルは、マジメに教会に通い政治信条的には保守(別にそう確認したわけではないけれど、話の流れから大体わかる)の人たちだけれども、頑固に教条的なところはまるでなく、アメリカの学界に身を置いている私がいわゆる「リベラル」であろうことは理解した上でオープンに話をする。自分たちの持っているものを、単に自分たちが裕福な生活をするために使うのでなく、芸術支援や貧困者層へのチャリティにも積極的にかかわり、こうして、知り合った人を温かく家に迎え入れるその姿勢に、感心も感動もします。

また、昨日家に到着してお茶を飲みながらくつろいでいると、ジェリーさん(『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』参照のこと!)からオレンジ色の花束が届いたのにも、涙が出る思いがしました。こんなにしてもらって、演奏で大失敗してしまったらどうしようと、プレッシャーも...(苦笑)

今日から5日間、ピアノ・テキサスというワークショップでマスタークラスやレッスンを受け、来週からいよいよコンクールです。

2011年5月14日土曜日

ミニコンサート終了

昨晩は、アマチュア・クライバーン・コンクールの予行演習として、文京シビックホールの練習室で、ミニコンサートを開催しました。聴きに来てくださったかたがた、どうもありがとうございました!

コンクールのために準備している予選から本選までの全曲を演奏して約1時間。普通のコンサートと比べると半分から三分の二くらいの長さなので「ミニ」をつけましたが、私としては、これだけのレパートリーを人前で弾けるくらいのレベルに持って行くだけでもかなり大変で、今年度がサバティカルでなければできなかったのは間違いなし。今回の聴衆は40名弱で、ほとんどが私の友達や親族だったので、審査員と何百人もの聴衆を前にしての演奏とは訳が違うものの、「本番」というものの経験がほとんどない私にとっては、これでもかなり緊張します。人前で演奏するとなると、家で練習しているときには絶対にしないようなミスが出たりして、大満足というには程遠い演奏だったものの、それなりに気持ちよく弾くことができ、いろいろとちょっとしたミスがあっても大パニックに陥ったり途中で頭が真っ白になったりすることがなかった(けっこうわかりやすいミスをした箇所では、立派にごまかしてなにごともなかったかのように進んでいったので、その回復ぶりに自分で感心:))ので、そういう意味では合格点。本番のようなものをやることで、自分にとっても発見が多くて勉強になりました。なんといっても、メンタルコントロールが重要。一時間のコンサートだと、弾いているうちにだんだんと集中力やノリが高まってくるのですが、コンクールの予選は12分間なので、「だんだんと」なんていっている間に終わってしまう。初めの第一音から最高のものを出せなければいけないのだけれど、それを邪魔するさまざまな雑念をどうコントロールするかが課題です。また、とんでもないことをやらかしてしまわないように、ひとつひとつの音を大事にして弾くように、と注意しながら弾いていると、そのときそのときの音を出す作業で頭がいっぱいになって、音と音のつながりや全体の流れまで気が回らなくなってしまったり、思い切りがいまいちになってしまったりする。などなど。

聴きにきてくれたかたたちはみな、「人柄や人間性がよく出ている演奏だった」とか「自分の音楽を聴いてもらおうという姿勢がよかった」とか言ってくださったので、そういう意味では私が求めていることが達成できたとも言えます。が、今回は聴衆が私のことを知っている人たち、つまり、私の人間性を重ね合わせながら私の演奏を聴いてくださる人たちだったから、そういうコメントがいただけましたが、私のことを知らないテキサスの聴衆やプロの音楽家である審査員たちが、はたして私の演奏からなにを感じ取るのかは不明。他人になにかを伝えられる演奏ができるかどうかが勝負。

というわけで、課題はいろいろと浮上しましたが、とにかく、自分の音楽性を表現するような、私らしい演奏をできることを目標に、本番でも頑張ります。火曜日に出発して5日間ピアノ・テキサスというワークショップに参加してからコンクールの本番にのぞみます。

2011年5月5日木曜日

ラフォルジュルネのタイタンたち

震災の影響でいったんキャンセルとなり、その後再びプログラムを組み直して開催されたラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに、3日間続けて行ってきました。前回まではどんどんと規模拡大を続けていたのが、今回は大幅に縮小したイベントとなり、去年と比べると会場全体の雰囲気もずいぶん寂しい感はぬぐえませんでしたが、それにしても、この状況下でとにもかくにも開催にこぎつけたことだけでも大拍手!いったん来日をキャンセルしたアーティストたちが、やはり演奏に来てくれたということ、小さな子どもたちを連れた家族たちや根っからのクラオタたちが空間と時間をともにすべく足を運んでくれたということ、それ自体に、運営事務局の人たちは大きな感動をおぼえたのではないかと思います。「タイタンたち」というのが今回のテーマでしたが、今回のラフォルジュルネのタイタンたちは、まさに運営事務局の人たちと、度重なる予定変更にも動じず素晴らしい演奏を提供してくれた音楽家たちだと思います。

私が行ったのは、初日のテノール、ハンス・イエルク・マンメルによるマーラーとシューマンのコンサートと、二日目のヴァイオリニスト竹澤恭子さんのブラームスのソナタ2番と3番のコンサートと、今日のクラリネット奏者ロマン・ギュイヨを中心とするブラームスのクラリネット・ソナタとクラリネット五重奏のコンサート。

マンメルの歌はとてもよかったけれど、会場の音響があまりにも悪くて気の毒なくらいでした。もともとラフォルジュルネで使う会場は、音楽演奏のためにデザインされた空間ばかりではない上に、今回はもともと使う予定だったのに地震の影響で使えなくなったホールもあったため、こうしたことは仕方のないことなのだと思いますが、第一級の演奏を実現させるということと、クラシック音楽をなるべく広い聴衆層に届けるということのあいだのバランスのとりかたが、なかなか難しいとあらためて実感。

竹澤恭子さんのコンサートは、文句なしに素晴らしかった。こちらは、ヴァイオリン・ソナタの演奏にはホールがちょっと大きすぎるのではないかという気もしましたが、そんな思いは初めの数分ですぐに消えてしまいました。竹澤さんの演奏は、いつもしっかと地に足がついていて、自分の声をもっていて迫力があるのですが、今回の演奏も、実に優しく繊細でもあり、情熱的でもあり、聴きながら鳥肌が立って涙が出そうになったり、思わず「か、か、かっこいい〜!」と言ってしまいそうになったりで、本当に素晴らしかったです。本当はアン・ケフレックと共演する予定だったのがキャンセルになり、直前までピアニストが決まっていなかったのに、そんなことはみじんも感じさせない見事なアンサンブルでもありました。ちなみに、私はMusicians from a Different Shoreの研究のさいにニューヨークで竹澤恭子さんをインタビューし、その抜粋が本に載ってもいますので、興味のあるかたはごらんください。

そして、今日のクラリネットのコンサート、これもとてもよかったけれど、この会場は実に久しぶり(子どものときになにかのイベントで連れて行かれたような記憶が漠然と...)に足を踏み入れたよみうりホール。ここはまた、今の東京にこんな古めかしい会場が残っているのかと驚くほど、昭和の香り漂うホール。東京国際フォーラムと一本道を隔てただけで、ここまで雰囲気の違う空間があるというのもなんだか面白い。あくまで演目で選んだ三つのコンサートですが、それぞれまるで違うタイプの会場で聴けたことで、違う種類の音楽体験ができたような気もします。

2011年5月2日月曜日

デジタル時代の恋愛模様

ニューヨーク・タイムズが、恋愛についてのエッセイを全米の大学生から募集したコンテストを行い、みごと優勝した作品が載っています。受賞したのは、シラキュース大学で雑誌ジャーナリズムを専攻している4年生の女性。さすが受賞作だけあって、この文章、とてもよい。

3年前に同じコンテストを開催したときに集まったエッセイの多くは、以前にこのブログでも言及したhooking up、つまり、深く継続的な交際関係になることを前提としないカジュアルな性的関係について書かれたものだったそうですが、3年間という時間を経て、今回提出されたエッセイのなかで一番多く取り扱われたトピックは、コンピューターやウェブカメラ、携帯テキストなどのデジタル媒体を介して展開される恋愛模様だったそうです。受賞作も、ツイッターやスカイプで展開される「ヴァーチャルな」交際と、「生身の」「現実の」「物理的な」出会いとの相関関係を、ユーモラスかつ率直に描いていて、面白い。日本とアメリカで多少事情は違うだろうとは思いますが、考えさせられることは多いです。この文章、長いものではないし、ぜひ読んでみてください。

今考えてみると、私が「ナントカ先輩」とか「なになにクン」についてひたすら大騒ぎしていた中学や高校や大学の頃には、携帯すらなく、電話はすべてお互いの親を介していたわけで、よくもまあその状況であれだけやっていたものだと、妙に感心します。それと同時に、今の若者の恋愛体験というのは、私が当時体験したものとは、根本的になにかが違うのではないだろうかという気もします。

2011年5月1日日曜日

平田オリザ・演劇展

ただ今、こまばアゴラ劇場で、『平田オリザ・演劇展vol.1』を開催中。このブログでも以前に書いたように、平田オリザ氏の仕事には前から興味をもっていて、また、文化政策の研究の一環で、平田氏が内閣官房参与として出席している文化庁や芸術文化基金の各種検討会の傍聴に通ったりしていることもあり、なるべく足を運ぶつもりでいます。先日は、『マッチ売りの少女たち』(こちらは別役実原作で、平田氏の演出)、今日は『走りながら眠れ』(こちらは平田氏の作・演出)を観てきました。『マッチ売りの少女たち』は、演出そして演技は素晴らしかったけど、脚本はどうも解せないというのが正直な感想。『走りながら眠れ』は、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝の日常の会話を描いたもの。ふたりのやりとりはきわめて日常的で他愛もないものでありながら、社会正義を追求し知を探求し革命に身を投じる二人の人間性や、ふたりのあいだに流れる温かい愛情と尊敬を、平田氏の演出とふたりの役者さん(大杉栄を演じるのは古屋隆太さん、伊藤野枝は能島瑞穂さん)の演技が鮮やかに描き出していました。実にシンプルな舞台の上で、何気ない仕草や身体の動きで、それぞれの人物のはにかみや情熱や色気や欲求や困惑や決意を表現する、演劇ってすごいなあと素直に感動。この演劇展は、今月17日まで続きます。舞台の後に上映される、平田氏の映像もなかなか興味深いです。機会のあるかたは是非。

あさってからは、紆余曲折を経て結局プログラムを大幅に変更・縮小して開催にいたったラフォルジュルネが東京国際フォーラムで始まります。本当は、このイベントをさまざまな角度から取材させていただくという話があったのですが、震災の影響で開催そのものが一度とりやめとなり、その後またプログラムを変更して開催となったといういきさつから、事務局のかたはとてもじゃないけれども私の取材の案内などをしている場合ではなく、ともかくいくつかのコンサートに行って自分で歩き回ることにしました。取材のプレッシャーなく純粋に音楽を鑑賞するのも、それはそれで楽しみです。

文化イベントといえば、いよいよ今月後半にせまったアマチュア・クライバーン・コンクール。毎日数時間せっせと練習に励んでいますが、そうこうしている間に、2009年のコンクール見学のときに隣の席で仲良くなったジェリーさん(といわれてもなんのことだかわからないかたは、『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』を参照してください:))から、数日毎にメールがあります(一日に何度もメールが来ることもあります)。「このあいだノブ(辻井伸行さん)がフォートワースで演奏をしにきたので聴きに行ったが、コンクールのときよりさらに素晴らしい演奏で、忙しいスケジュールのなかでもちゃんと芸術性を伸ばしているのをみて安心した」とか、「僕と同じ通りに住んでいるクラウディアという女性が、クライバーン・コンクールの舞台裏で演奏者の面倒をみるボランティアを何十年もしていて、アマチュア・コンクールでも君たちの世話をするはず。彼女はあれこれ指図するけど、なんでもよく知っているので、彼女の指図はちゃんと聞いて従うべし」とか、「ロン(2009年に私とジェリーさんと一緒の列に座ったもうひとりのおじさん)もマリと一度食事をしたいと言っている。もちろんマリは日曜日の本選まで演奏が続くことを祈っているから、全部が終わるまでそんな余裕はないかもしれないけど、どうかな?」とか、「万が一予選を通過しなかったら、残りのプログラムをプライベートなリサイタルで演奏するかい?そうしたかったら、僕がどこか会場を確保できると思う」とか。別にコンクールの運営に直接かかわっているわけでもなく、単なる街の一音楽愛好家である彼が、よくもまあアマチュアのピアノ・コンクールにここまで熱心になるなあと、感心もするし感動もするのですが、『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』でも書いたように、こうした街の人々の純粋な熱意が、芸術文化を育てるのだと思います。今日の舞台の後で上映された映像のなかで、平田オリザ氏は、社会における芸術の役割は大きく分けて(1)芸術そのものの意義、(2)コミュニティの育成や活性化、(3)教育・福祉・観光などの公共的な効果、という三つにある、ということを述べていましたが、そうした視点から考えると、クライバーン財団は見事にそれら三つの役割をこなしているのだと改めて感心します。ジェリーさんがそこまで言ってくれているのに、私の演奏がしょぼかったら申し訳ないので、観劇やコンサート鑑賞の合間に演奏を磨かなければ。