2009年1月29日木曜日

オバマ大統領 Lilly Ledbetter法に署名

今日(アメリカ時間木曜日)大統領になって初めてオバマ氏が署名した法案が、Lilly Ledbetter Fair Pay Actであることには、女性史を教えているものとして感慨深いです。この法案は、男女間の賃金差別に関する訴訟をしやすくするものです。Lilly Ledbetterとは70歳になる女性で、工場の監督として大手タイヤメーカーのGoodyear社に19年間勤め、そのキャリアの終わり近くになって、自分と同じ内容の仕事をしている男性が自分よりも二割高い賃金を受け取っていることを知り、雇用上の平等を保障する公民権法第7編に反するとして会社を訴えていました。会社が違法行為をしたと陪審員が判断したにもかかわらず、2007年に最高裁が、不平等な賃金が払われた最初の日から180日以内に訴訟手続きをしなければこの件は無効であるとの判決をくだしたことによって、賃金平等の実現が滞っていました。今年に入ってこの法案は下院・上院の両方をスムーズに通過し、選挙キャンペーン中一貫してこの法案の支持を表明していたオバマ氏が、最初に署名する法案となりました。この法案によって、賃金差別を受けた人は、不公平な賃金を受け取った最初ではなく最後の日から180日以内に手続きをすれば、訴訟は有効となります。これによって不当に低い賃金を受けている女性の経済状況も改善するし、訴訟を恐れる雇用者があらかじめ賃金格差をなくす措置をとるようにもなるはずです。

この立法を可能にしたLilly Ledbetterという女性が、フェミニズムだとか女性の権利だとかいうことを叫ぶ活動家ではなく、家族を支えるために真面目に工場で働いていたごく普通のおばさんです。さまざまな不公正を是正するには、多数の人々を動員しての社会運動ももちろん必須ですが、それと同時に、一般市民の一人一人が勇気とエネルギーを絞り出して、面倒で不愉快で長引く裁判にのぞむといった行為によって、少しずつ歴史が変わっていくのだ、ということを学ばされます。この立法は、Lilly Ledbetterさんのケースにはなんの効力もないので、彼女自身はこれによって一ドルとも手にすることはありません。それでも、このひとりのおばさんの勇気とねばりが、これから先のアメリカの女性の経済的地位にとても重要な遺産を残すことは間違いありません。オバマ大統領が、署名の場で、自分のおばあさんと娘たちに言及しているのがなかなか感動的です。「経済がうまく動くためには、すべての人にとってうまく動く経済でなくてはいけない」という一言にも、希望を与えられます。この法案の詳細については、こちらをどうぞ。

2009年1月28日水曜日

金融危機と男女関係

昨年からの金融危機そして経済全体の不景気は、あらゆるところで影響を与えています。ハワイ大学でも大幅な予算削減によって、教員採用の凍結に始まって、事務スタッフや設備・運営費などのカットが次々に通知されています。やがては選択的に学科がまるごと潰されたり、教員が解雇されたりという可能性もありうる、という話です。私の学部も、年末にリタイアした秘書の代わりを雇うことができず、アルバイトの事務スタッフでしのいでいます。大学というのは、教授の一人や二人がしばらく病気になったりしてもまあなんとかなりますが、秘書が一人いなくなったら日常業務がまるでストップしてしまいます。今まで私たちの面倒をみてくれていた秘書があまりにも有能ですばらしい人だったので、教授陣はどんな事務事項に関してもあたふたとするばかりでとても困っています。でも、他の学部では、授業の教材も含めコピーが一切できなくなった、というところもあるので、それに比べたらまだうちはなんとかやっています。

不況は経済生活そのものだけでなくいろんなところに影響を与えますが、今日のニューヨーク・タイムズに、ウォール・ストリートなどで働く銀行マンと「デート」している女性のためのサポート・グループについての記事があります。金融危機で、多額の損失をしたり、自分のポジションの心配をしたり、あるいは従業員を多数解雇したりで、ストレスが極度にたまると、男性は恋人や妻との対話やセックスを避けようとしたり(逆に、仕事で損失を出すとそのぶん性欲旺盛になる男性もいるらしい)、お酒に走ったり、浮気をしたり、趣味やスポーツなどから遠のいたり、精神的に不安定になりがちで、当然ふたりの関係に大きな負担がかかります。そうしたさなかに、贅沢な生活スタイルに慣れたガールフレンドや妻が、豪勢な外食や旅行ができなくなったのことについて文句を言ったりすると、これまた当然男性のほうはキレてしまいます。そうした状況で銀行マンとの交際をしている女性たちが、愚痴を言い合ったり解決策をシェアしたりするためのサポート・グループがあり、その名もDating a Banker Anonymousというのだそうです。アメリカでは、アルコール依存症の人のためのAlcoholic Anonymous(俗にAAという)や麻薬中毒者のための(Narcotics Anonymous)、過食症の人のためのOvereaters Anonymous、買い物や万引き中毒の人のためのShopaholic Anonymousなど、実にいろいろな組織があって(セックス中毒者のためのSex Addicts Anonymousなんていうのもあります)、参加者は「12 Steps」といわれる体系だったプログラムに則って、専門のトレーニングを受けた人のガイダンスのもと、グループのサポートのなかで、自分の問題とたたかっていくようになっています。こういうグループが全国のいたるところにあって、たいていは無料で参加でき、またプライバシー保護のためのメカニズムも実によくできているのには感心します。Dating a Banker Anonymousはそれをもじって、遊び的な要素が多く作られたものですが、グループのブログまであって、なんとも面白いです。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも以前の投稿でもお金のことについては言及しましたが、私にとって、金銭感覚やお金をめぐる問題は、恋愛や結婚においてトップ3に入る重要ポイントだと思っているので(他の2つは政治観とセックスの相性)、お金とそれから派生する精神的・感情的な問題は、目をそらさずにきちんと取り組むべきだと思いまーす。

2009年1月25日日曜日

『ユリイカ』「日本語は亡びるのか?」特集

雑誌『ユリイカ』の、「日本語は亡びるのか?」という特集が本日発売になりました。言うまでもなく、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』についての特集で、水村さん自身のインタビューもあり、他には蓮実重彦、前田塁、巽孝之、四方田犬彦など、立派な顔ぶれの特集です。それに混じって、私の「『普遍』と『固有』の翻訳としての文学と学問」という文章が入っています。私は、水村さんが論じていることの本質は、英語や日本語云々ということよりも、知識人が書き言葉を使って「現実」を表象するにあたって、「普遍」と「固有」の関係にどのように向き合っていくか、という問題にあると思っています。水村さん自身の小説がどのようにその問題に取り組んでいるか、そして、学問が「文学の言語」と生産的な緊張関係をもっていくためには、学問がどんなことをしていかなければいけないか、といったことに焦点を絞って書きました。かなり気合いを入れて書いたつもりです。前からこのブログを読んでくださっているかたは、あまりにもしつこく私が水村さんに言及するのでうんざりしているかも知れませんが、私は水村さんがこの本で提言していることは本当に重要なことだと思うので、是非とも『日本語が亡びるとき』と『ユリイカ』の両方、読んでみてください。

『日本語が亡びるとき』についてはインターネットをはじめいろんなところでいろんな人が議論していますが、どうもピントがずれた話が多いです。水村さんの文章はとても論理的で明晰かつ美しいのに、なぜその論旨を正確に理解する人がこんなに少ないんだろうと不思議に思います。論理的に書かれた日本語の文章をきちんと理解できる人が少ないということ自体が、水村さんの憂いを証明していると思います。で、しつこいですがもう一度だけ、私がもっとも重要だと考える(そして『ユリイカ』で私が書いていることにもっとも直接関係する)論旨をここで繰り返しておきます。(本当はこの要約を『ユリイカ』の文章のなかにも入れたかったのですが、紙面の制限でやむなく削除になりました。)

急速に押し進められていった国家主導の「近代化」という歴史的状況 のなかで、夏目漱石を初めとする明治期の「叡智を求める人」たちは、「西洋近代」と「日本」、そして「普遍」と「固有」のあいだの不均衡な力関係に、正面から対峙せざるをえなかった。その状況に立ち向かう彼らは、「普遍的」で「世界性」のある主題に取り組み、それと同時に、「西洋の衝撃」やそれが生んださまざまな精神的曲折、そして日常生活の微細な出来事を含む、日本固有の「現実」を描こうとした。その過程で、「普遍語」の翻訳として創られた「学問の言葉」がそうした日本固有の現実を表象できないと認識した彼らは、 漢文に始まって、ひらがな文、漢字カタカナ混じり文を経由し、言文一致体や文語体という、複雑多様な幾層もの形式によって織り成された日本語という言葉、そして日本文学の伝統や小説という芸術形式に真剣に向き合った。そして、 いっぽうでは「普遍語」を日本の言語に翻訳し、またいっぽうでは「現地語」でしかなかった日本語をより普遍な言語に翻訳することで、書き言葉としての日本語を「国語」として昇華させ、 「日本近代文学」を生んだ。そうすることで、「国語」で書かれた「文学の言葉」が「学問の言葉」を超越し、美的にも知的にも倫理的にも最高のものを目指す言語となった。
ヨーロッパ帝国主義の時代からアメリカの覇権の時代を経て、そしてインターネット文化が代表するグローバリゼーションが進む過程で、英語は、他の「国語」とは性質を異にする「普遍語」としての位置と影響力をもつようになった。英語を母語とする人の言語というだけでなく、世界中で様々な言語を使っている人々同士が抽象的・普遍的なことを表現伝達するために使う、「普遍的」な言語となったのである。この過程で、「普遍語」としての英語と、日本語を初めとする多くの「国語」のあいだの不均衡な関係は強まるいっぽうである。その結果、より多くの「叡智を求める人」は英語で「現実」を表象するようになる。そのこと自体は、必然的な歴史の流れであろう。
しかし、現代の日本に固有の「現実」を表象するためには、その現実を生み出してきた文化的精神的歴史をふまえた上で、その固有性にもっともふさわしい言語形式を模索しなければいけない。そうした言語活動こそが文学者の仕事である。「叡智を求める人」がそうした固有の言語の創作に携わらなくなれば、「日本文学」という言語の営みは亡びていくのではないか。


『ユリイカ』は大きめの書店でないと並んでないかもしれないので、アマゾンその他で買うのがいいかもしれません。というわけで、どうぞよろしく。

2009年1月24日土曜日

女性の性欲を解剖

今日は土曜日だというのに朝から晩まで仕事しっぱなしです。午前中は『新潮45』の原稿を書いていたのですが、午後からはずっと、大学のtenure and promotion review committeeの仕事で、人の昇進の応募書類を読んでいます。『アメリカの大学院で成功する方法』を読んでいただいたかたはご存知のように、アメリカの大学では、いったん教授職に就職しても、テニュア(終身雇用権)を獲得するまではせっせと論文や研究書を書いて業績をあげないとクビになってしまうし、そのテニュア取得や、助教授から准教授、そしてさらに教授への昇進のためには、かなり七面倒くさい審査のプロセスがあります。審査そのものの実際の厳しさは、大学によってまちまちですが、手続きそのものは相当大がかりなものです。自分が応募するほうの立場にいたときは、大量の書類を準備するのが面倒だという気持ちでいっぱいでしたが、審査をする側にたってみると今度は、プロセスの大がかりなことのほうに仰天します。

応募者が提出する分厚い(何百ページにもなることもある)書類は、他大学に勤める、その分野の専門家数人(これも大学によりますが、5−7人くらいが一般的)に送られ、その専門家たちは、その人がテニュアや昇進にふさわしい業績をあげているかどうかについて、かなり丁寧な審査レポートを書きいます。本人の書類とその評価レポートは、まずは学部内の人事委員によって審査され投票されます。その次に、学部長が独立した審査と投票をします。そして今度は、dean(日本の大学ではこのdeanに相当する役職がないですが、アメリカの「学部長」は日本の「学科長」により近いとすれば、アメリカのdeanは日本の「学部長」に近いかもしれません)がすべての書類と投票結果に目を通して、また独立した投票をします。そしてさらに、大学の各分野の教授で構成された人事委員会でそれらの書類がまた審査され投票されます。(私がいま入っているのはこの人事委員会です。)そして今度は、大学総長そして理事によって審査されます(ただし普通この段階まで行ったら、よっぽどややこしいケースでなければ、総長が票をくつがえすようなことは滅多にありません)。ハワイ大学の場合、ひとつの人事委員会は八人ぶんの審査を担当するのですが(その年に何人の人がテニュアや昇進に応募するかによって、人事委員会そのものの数も変わってきますが、たいてい一年につき数十個の人事委員会が組まれます)、なにしろ一人の書類がそれぞれゆうに百ページ以上もあるし、人の人生に関わることだからいいかげんにすることもできないしで、気が遠くなるくらい大変な作業です。よくもまあこんな大掛かりなことをアメリカの大学はどこでもやっているなあと、感心してしまいます。

さて、この書類を読む前は、次号の『新潮45』の原稿を書いていたのですが、次号のトピックはなんとずばり、セックスです。セックスにまつわるさまざまな用語や表現を、例文入りで懇切丁寧に説明していますので、乞うご期待。(笑)で、そのセックス原稿を書いている矢先に、今週末のニューヨーク・タイムズ・マガジン(毎週日曜日についてくる付録のようなものですが、付録にしてはものすごい充実ぶりで、それだけで読み物としてもじゅうぶん勉強になります)に、What Do Women Want?という長文記事が出ました。「女性はなにを求めているのか」ということですが、内容は女性の性欲のありかたを、最先端の神経科学や性科学がどのように分析しているか、という記事で、とてもとても興味深いです。男性と比べると女性は身体的な性反応が感情や気分により密接に結びついている、というのは一般常識として知られていることですが、それは具体的にはいったいどういうことなのかを、いろいろな実験をして(男女それぞれの被験者の性器にセンサーのようなものをつけて、さまざまなタイプの性行為の映像を見せ、本人が自分の気分をどう説明するかと、その人の身体的な反応との関連を調べるとか、ゴーグルのような眼鏡をかけた男女にポルノを見せて、眼が画像のどの部分を追うかを調べるとか)データを集計している研究者が何人かいるらしいのです。データを分析してみると、一概に「女性の性欲とはこういうふうになっている」とはなかなか言えない要素が多く、そのこと自体もなかなか面白いです。日本でセックスレス・カップルが多いのはしばらく前から話題になっていますが、アメリカでも長年結婚生活を続けているカップルの場合、感情面で二人の関係は円満でも、日常生活からくる惰性や年齢に伴う身体やホルモンの変化によって、セックスがなくなったりあるいは女性にとって苦痛になったりするケースは多く、女性の性欲を維持したり高めたりするにはどうしたらよいか、というのは多くの男女にとって切実な問題です。ヴァイアグラの登場によって男性にとっての性的な悩みはだいぶ解決された部分もありますが、そもそも男性の場合は、性欲ではなく勃起が問題なわけで、勃起さえ無事にできれば、性欲が起こらないからせっかく勃起したものを使う気分にならない、という状況はまずないのに対して(要は、男性はいつでも性欲そのものはあるということ)、女性の場合は、そのように化学的に身体を操作することは、性欲という神経学的な問題の解決にはならない、とのことです。ふーむ、なるほど。

この記事にも出てきますが、これまでアメリカにおいてもっともインパクトのある研究であるいわゆる『キンゼイ報告』の著者である動物学者・性科学者アルフレッド・キンゼイの生涯と仕事を描いた映画『愛についてのキンゼイ・レポート』もとても興味深いです。(前のランダム映画選の投稿に、『トルーマン・ショウ』や『You Can Count On Me』をあげましたが、これらはすべてローラ・リニー主演。私はローラ・リニーは一番好きな女優のひとりです。)映画の原題は単なる『Kinsey』で、内容からしてこれに「愛について」とかいう余計な修飾をつけるのは不正確でもあるし悪趣味でもあると思うのですが、まあそのへんは、観てみて判断してください。

2009年1月21日水曜日

インターネットと政治参加

オバマ氏が大統領になってまず最初になにをするのか、世界中が注目していましたが、彼がまずサインした行政命令が、ホワイトハウスのスタッフの給与の据え置き、ロビイストの権限の制限、そして政府の情報公開に関するものであったことは、「おー、さすがー」と思いました。国民の政府に対する信用を取り戻し、経済危機のさなかに政府が一般市民の側にたっているということを示し、政府のアカウンタビリティを回復するには、象徴的にも実質的にも重要な第一歩だと思います。

PBS(アメリカの公共テレビ局)のニュース番組で、オバマ政権のもとでインターネットが果たす役割についての話題がありました。オバマ氏の選挙キャンペーン中に、特に若者層のあいだでインターネットがきわめて重要な役割を果たしたことは以前の投稿で何度か言及しましたが、インターネットは選挙活動の道具だけではなく、一般市民と政府を結びつけ、国民の主体的な政治・社会参加を促進する媒体であるということを、オバマ政権が認識していることがよくわかります。もちろん、政策をはじめとするさまざまな情報を政府が公開するための道具としては、すでにインターネットは幅広く使われていましたが、オバマ政権は、インターネットを、単に政府から市民への一方的な情報伝達の道具ではなく、市民が積極的に政治に関わり、社会奉仕活動などにさまざまなコミュニティを動員するための、よりダイナミックな媒体と捉えていることが伝わってきます。選挙キャンペーン中にインターネットを使って地域の支持者を集めたホームパーティなどを企画してオバマ氏への支持を増やしていった一般市民たちが、オバマ氏当選後も、そうした経験を、具体的な政治・社会参加活動に結びつけている様子が興味深いです。政治のリーダーが若ければいいとは必ずしも思いませんが、このあたりは、ブラックベリーを手放さないデジタル世代のオバマ氏とそのスタッフならではの、新鮮な動きだと思います。テクノロジー関連を担当する政権スタッフも一ヶ月以内ぐらいに指名されるとのことです。

オバマ大統領就任

昨日は、授業の前も授業の合間も授業の後も、ずっとテレビやパソコンに釘付けでした。ワシントンの「モール」と呼ばれる広場に世界中から集まった百五十万人とも二百万人とも言われる人の光景は圧巻でした。一時に一カ所に集まった人の数としてはアメリカ史上最大だとか。この瞬間を現地で体験したいという人々の思いが感じられます。これだけ沢山の人が、氷点下の寒さの中で何時間もじっとしていたり警備チェックやトイレの長い列でイライラしながらも、さして混乱もなく終わったのは、皆が達成感と祝福の思いと将来への希望を共有しているからだろうと、ワシントンに行った友達からの報告にもありました。

オバマ大統領の就任演説は、感慨深いものでした。2004年の民主党大会で"there's the United States of America"を繰り返して国民の連帯を鼓舞したときの熱気や、キャンペーン中のフィラデルフィアでの「人種スピーチ」のような淡々としながらも一人一人の心に訴えかける説諭力、国民自身の功績と勇気を讃える当選演説のように、思わず人々が立ち上がって拍手をしながら涙を流すようなタイプの、高揚感のあるスピーチとは違って、現在のアメリカそして世界が直面している大きな問題の数々を直視した、厳粛なスピーチでした。オバマ氏のスピーチはどれも、皆が簡単に覚えて口にするようなキャッチフレーズに満ちたものではなく(オバマ氏の演説で一般の人が口にできるのは、"there's the United States of America"と、唯一のキャッチフレーズ"Yes, We Can"ぐらいではないでしょうか)、彼の言葉のパワーはむしろその内容の深さにあります。ある批評家が、「オバマ氏のスピーチのすごいところは、アメリカ人にきわめてアメリカ人らしからぬことーースピーチをまるごと最後まできちんと聞くということーーをさせることだ。」と言っていましたが、昨日の就任演説も、ほとんど途中で拍手や歓声もなく、ワシントンに集まった人たちも各地でテレビを見ていた人たちも、じっと耳を傾けていました。

"The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace. Yet, every so often the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms. At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because We the People have remained faithful to the ideals of our forbearers, and true to our founding documents."

"And because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation and emerged from that dark chapter stronger and more united, we cannot help but believe that the old hatreds shall someday pass; that the lines of tribe shall soon dissolve; that as the world grows smaller, our common humanity shall reveal itself; and that America must play its role in ushering in a new era of peace."

"Our challenges may be new, the instruments with which we meet them may be new, but those values upon which our success depends, honesty and hard work, courage and fair play, tolerance and curiosity, loyalty and patriotism -- these things are old. These things are true. They have been the quiet force of progress throughout our history. What is demanded then is a return to these truths. What is required of us now is a new era of responsibility -- a recognition, on the part of every American, that we have duties to ourselves, our nation and the world, duties that we do not grudgingly accept but rather seize gladly, firm in the knowledge that there is nothing so satisfying to the spirit, so defining of our character than giving our all to a difficult task. This is the price and the promise of citizenship."

といった文には、アメリカ建国の理念とそれを実現するためのさまざまな戦いを経てきたアメリカ人の精神への、根本的な信頼があり、そうした精神に立ち返ろう、というメッセージがよく表れています。選挙キャンペーン中は変革や未来といったメッセージが前面に出ていたオバマ氏が、就任演説でこのように歴史を振り返っていることに、深い意味があると思います。

ところで、今日のニューヨーク・タイムズに、オバマ氏と夫人の家族のバックグラウンドについての興味深い記事があります。ケニヤやインドネシア、カナダをはじめとして世界中からの人々で構成されたオバマ一家の背景をみると、彼らがある意味で本当に「アメリカならでは」の家族であること、そして歴代の大統領の背景と彼の背景がいかに違うか、ということが実感できます。ここに出てくる、オバマ氏の義弟の中国系カナダ人のKonrad Ngは、ハワイ大学で映画学を教えていて私の知り合い(そんなに親しいわけでもないのに大統領になった人の家族だということで急に「友達」呼ばわりするのもなんなので、「知り合い」にしておきます)なのですが、就任式の途中も彼の姿が何度かテレビにうつりました。「ファースト・ファミリー」の中にアジア人の姿を見るのもとても新鮮です。

それにしても、単純に見かけの点からだけ言っても、なんて素敵なファースト・ファミリーなんでしょう。

2009年1月18日日曜日

オバマ大統領就任を前に

アメリカは明日はマーティン・ルーサー・キングJr牧師記念日で休日です。その翌日がいよいよオバマ大統領就任の日です。なんという象徴的なときなのでしょう。日本でも報道されているでしょうが、この歴史的な瞬間に居合わせようと、そしてその瞬間を何十万人という赤の他人と共有しようと、すでにワシントンにはものすごい数の人々が押し寄せています。さまざまな団体や企業が主催しているたくさんのパーティやコンサートの様子もさることながら、テレビに写る、全米そして全世界のあらゆるところから万難を排してワシントンまで駆けつけてきた一般人の老若男女の姿、なかでも黒人たちの姿に一番感動します。白人と同じ店で食事をできなかったり、乗り物で好きな席に座れなかったり、学校に通うのにも身の危険を感じなければいけなかった時代を経験した人たちにとって、黒人の大統領が誕生するというのは、言葉では表現できないほどの大きな意味があることでしょう。そして、生まれたときにはすでに世界にeメールが存在した若い世代(こういう表現を使ってしまうところに自分のトシを感じます)にとっても、オバマ氏がどれほどの存在か、アメリカじゅうでオバマ氏について学校で学ぶ子供たちの姿の報道でよく伝わってきます。

オバマ氏の就任演説を控えて、毎日新聞記者の友達に取材を受けたので(20日の毎日新聞夕刊に載る予定らしいので、よかったら手に取ってみてください)、オバマ氏の選挙キャンペーン中のスピーチの代表的なものをちょっと復習してみました。あらためて、オバマ氏の言葉の力に深く感動しました。とりわけ人と違う気の利いたコメントはありませんが、私がなんといってもスゴいと思うのは、2008年3月18日フィラデルフィアでのいわゆる「人種スピーチ」と、当選が決まった11月4日シカゴでの当選演説です。人種スピーチは、ライト牧師の扇情的な発言に批判が高まるなかで、アメリカの歴史と社会における爆弾といえる、人種というきわめて難しい問題に正面から向き合って、オバマ氏の人種観、社会観、そして道徳観を示した演説です。深い歴史的認識にもとづいて、黒人そして白人の両方がもちつづける怒りや苛立ちへの理解を示しながらも、怒りという感情を動力にして行動することは歴史や社会を変えるための生産的な道とはなりえないこと、そして、差別や偏見や経済や社会構造によって不当な扱いを受けてきた人々は、そうした不正に対して声を大にして闘うと同時に、自分に対する不正とは別の形の不正を受けている人々と手を結び、ともに前進することが肝要であることを、冷静かつパワフルに説いています。半分黒人である自分を愛情こめて育ててくれた自分のおばあさんが、ときには人種差別的な行動や発言をする人でもあったことに言及し、人種問題というのは決してきれいごとではないこと、人々の善意だけでやがて自然に解決していく問題ではないことも、率直に語っています。最後の、Ashleyという若い白人女性と年老いた黒人男性についてのエピソードが心を打ちます。当選演説は、私は歴史に残る名演説のひとつだと思います。何度聞いても読んでも私は涙が出てきます。どちらも、全文を読むこともできるしYouTubeでビデオを観ることもできますので、是非読むなり観るなりしてみてください。

もちろんオバマ氏が当選したのは彼の政策を投票者が支持したからですが、オバマ氏の演説がアメリカの人々の心を打つのは、彼がアメリカの人々に対して尊敬と信頼の念を抱いていることが伝わってくるからだと思います。彼のスピーチには、アメリカの人々を形容する言葉としてdecencyとかgenerosityとかdignityとかいう単語がしばしば登場しますが、アメリカの人々というのは根源的には善良で寛容で威厳のある行動をする人々である、ということを彼が信じていて、そうした人々が偏狭なドグマや差別や偏見の心に打ち克って、手を取り合ってなにかをしようとすれば、信じられないようなことを成し遂げることができるのだと、彼自身が本当に思っていることが伝わってくるからだと思います。教師に「この子は資質がある」と信じてもらえる子は教師を信頼して伸びていくのと同じように、リーダーに信頼してもらえる国民は、リーダーを信頼し尊敬して自分も努力をするようになるのではないでしょうか。政治的レトリックを使ってものごとを単純な白黒や善悪の二項対立に還元して国民を駆り立てようとするのは、国民の知性と判断力を馬鹿にした行為であって、そうしたことをせず、複雑で困難なことは複雑で困難であると率直に伝え、その上で具体的な方向性を示しながら人々の努力と協力を集めていく、それがオバマ氏のパワーだと思います。

20日の就任演説が楽しみです。

さて、まったく関連のない今日のおススメCDです。今回はチェロです。ハンナ・チャンの『白鳥~チェロ名曲集』。ハンナ・チャン(Han-Na Chang)は、1982年韓国生まれの若いチェリストで、私の『Musicians from a Different Shore』に何カ所か登場します。彼女は、幼少のときに彼女のチェロの勉強をジュリアードでさせるために、両親ともども韓国からアメリカに移民してきた(こういう移民のパターンは、とくに韓国人家族のなかに多いのです)後、11歳にしてロストロッポヴィッチ・チェロ・コンクールで優勝し、世界にデビューしたという天才少女です。とはいえ彼女はもう20代後半ですから「少女」ではなく、精神的にも音楽的にも成熟した立派な大人の音楽家です。演奏活動をしながらハーヴァードで哲学を勉強している彼女は、他の音楽家たちと比べても、音楽とアイデンティティ、文化、歴史などといったことについてとりわけ深い思索をしているのが、私のインタビューでも明らかでした。たくさんCDがあるなか、これはチェロのレパートリーのなかでは代表的な名曲を集めたものですが、とても深みがある演奏で、おススメです。

2009年1月17日土曜日

『Gran Torino』

昨晩、クリント・イーストウッド監督・主演の映画『グラン・トリノ』を観てきました。『硫黄島からの手紙』を初め、クリント・イーストウッドの最近の映画はなかなかスゴいなあと思っていたのですが、これもたいへん考えさせられる映画です。ドラマチックな筋は伏せておきますが、中西部のある町(映画のなかではどこと特定されていませんが、中西部でモン族が多いのはミシガンやウィスコンシンで、また、イーストウッドが演じる主人公はもとフォードの自動車工場で働いていたという設定で、最後には大きな湖のシーンが出てくるので、ミシガンかもしれません)の、荒れた労働者階級の居住区(と日本語で書くとなんだか違和感がありますが、dilapidated working-class neighborhoodの訳です)を舞台に、朝鮮戦争の退役軍人で長年フォードの工場で勤めていたポーランド系の主人公と、彼の隣の家に住むモン族(日本語のウェブサイトでは、「アジア系少数民族の移民」と書かれたものが結構ありますが、ベトナム戦争時の複雑な歴史を背負ってアメリカに移住したモン族は移民ではなくて難民としてアメリカにやってきたので、これは正確な表現ではありません)の家族の関係を描く物語です。

現代アメリカの人種問題をテーマにした映画はたくさんあって、たとえば先日の「映画ランダム15選」にも挙げた『クラッシュ 』は、多様な視点から人種問題の複雑さを描いていますが、『グラン・トリノ』は、ずっとミクロな焦点で人種や社会階層のありかたを捉えています。(といっても、物語の中心は、人種間の対立ではないのですが。)主人公は、自分の腕で身の回りのことをなんでもすることに誇りをもつ、プラクティカルなブルーカラーの感性を体現していると同時に、家と芝生が象徴する「自分の領域」とライフスタイルを、銃を取り出してでも守り、非白人にはあからさまな敵対心を示す、頑固な偏狭さも体現しています。未知と偏見に満ち、現代ではミドル・クラスのあいだではまず聞かなくなったあらゆる人種・民族的差別用語(これは字幕でニュアンスを正確に伝えるのが難しいだろうと思います)がごく普通の日常会話の一部となっている彼の姿は、「政治的公正さ」という点ではまるで公正ではありません。が、物語を通じて明らかになる彼の道徳観や社会観、そして、彼と床屋や土建のオヤジたちとの会話に見える、ブルーカラー独特の「男らしさ」の理想は、リベラルなミドルクラスの論理とはまったく別の形の人間関係のありかたを示していて、差別とはなにか、偏見とはなにかということを改めて考えさせてくれます。『ミルク』と同様、日本ではゴールデンウイーク公開らしいので、それまで覚えていておいて、是非両方観てみてください。

関係ないですが、『新潮45』の最新号は本日発売です。今回の「恋愛単語で知るアメリカ」は「誘い文句・別れ言葉」編です。どうぞよろしく。

2009年1月14日水曜日

未成年にとってのインターネットの安全性

全米各州の司法長官によって組織されたタスク・フォースの調査によると、FacebookやMySpaceを初めとするソーシャル・ネットワーキング・サイトの未成年者にとっての危険性は、世間で考えられているほど高くはない、という結果が出たという記事が、ニューヨーク・タイムズに載っています。

前にも書きましたが、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで、「インターネットを通じて見知らぬ人と会ったりして危険な目に遭ったりしないのか」というような疑問をもつ読者がけっこういるようで、出版以来、インターネット文化をめぐる日米の差についての質問をよく受けるようになりました。私はインターネットを専門に研究しているわけではないので、自分の経験からしかこのことに関してはものを言えませんが、(とくに日本の)人が危惧感を抱くほどには危険なものではない、というのが印象です。今回のこのレポートは、インターネットと社会を専門にするハーバード大学の研究機関によってデータが集計・分析されたものですが、大人がインターネットを媒介にして未成年を性的に誘惑したりいたずらをしかけたりするようなケースは、皆無とは言えないまでもきわめて例外的であり(大人による未成年者へのいたずらよりも、子供同士のインターネット上のイジメや嫌がらせのほうが、危険が高いらしいです)、全体的に見るとソーシャル・ネットワーキング・サイトなどのインターネット・コミュニティは、「実世界」のコミュニティと同様に、大体は善人によって構成されている健全な場である、との結論だそうです。もちろん、こうした楽観的な結論に賛成しない専門家もいて、さまざまなサイトが未成年者を保護するためにもっと積極的な策をとるべきだと主張する人もいますが、専門家による大規模な調査がこのようなデータを出したことには、それなりの意味があると言えると思います。

インターネットの力も一因となって当選したオバマ大統領の就任式は、いよいよ来週に迫りました。私の友達でも、大枚はたいて航空券を買ってハワイからそのためにわざわざワシントンまで出かけて行く人が何人かいます。オバマ氏の義弟がハワイ大学で映画学を教えている(私が去年までディレクターを務めていた、カルチュラル・スタディーズ・プログラムのアシスタントを何年もしていた人です)ので、そのつてもあって、就任式にまつわるさまざまな行事へのチケットを手に入れた人もいるのですが、正式にはなんのイベントにも参加できないけれど、歴史的な瞬間にその場に居合わせたいのでとにかくワシントンでその数日間を過ごす、という人もいます。舞踏会のチケットを手に入れた人は、着ていくタキシードやイヴニング・ドレスをわざわざ買ったりして、大騒ぎです。「オバマに会ったら、ソフトパワーについての研究をしている学者を日本大使にするんだったら、私に声かけてくれればよかったのにって伝えといてね」と言っておきました。(笑)

2009年1月13日火曜日

大学の授業のありかたを考える

つい一昨日言及した『Slumdog Millionaire』がゴールデングローブ賞をとりました。これだけ話題になったら近々日本でも公開になることでしょう。

ハワイ大学では昨日から新学期が始まりました。今学期は私は先学期と同じアメリカ女性史の授業と、アメリカ研究専攻の学部生の必修ゼミを担当していて、今日両方とも最初の授業がありました。必修ゼミのほうは、19世紀後期から現代までのアメリカ史を大雑把に追いながら、「アメリカン・スタディーズ」という分野のアプローチのいろいろを紹介し、一次資料を使ったリサーチの仕方を学生に教えるのが目的なので、リーディングは比較的少なめにして(といっても、一学期でまる3冊研究書を読むので、日本の平均的な大学の授業と比べたらけっこう多いほうだと思いますが)、学期の過程で学生にいろいろな一次資料を手に触れさせて、それらの資料が授業で読む研究書の議論を果たして本当にサポートするかどうか、といった分析をさせます。マイクロフィルムなんて見たこともない学生がほとんどなので、1890年代の雑誌とか1920年代の学生新聞とかを無理矢理読ませて、それぞれの時代の雰囲気をかがせるだけでも意味があると思っています。

女性史の授業のほうは、先学期は25人だったのが今回はその倍近く学生がいるので、授業のやりかたをだいぶ調整しなければいけません。50人前後というのは、大学の授業としてはかなり中途半端でやりにくいサイズです。25人くらいまでだったら、全員が参加するディスカッションが成立するので、講義と課題のリーディングについてのディスカッションを混ぜながらやればいいし、60人を超えたらディスカッションをするのは無理なので、普段の授業では効果的な講義をすることに集中して、あとはティーチング・アシスタントを使ってディスカッションをすればいいですが(アメリカの大学のこうした授業はたいてい、一つの授業につき週に2回の講義と1回のディスカッション・ミーティングがあります)、40−50人というのはそのどちらでもないので、どうもやりにくいんです。私はこういうサイズの授業を教えたことがないので、試行錯誤してやることになります。今日のニューヨーク・タイムズに、マサチューセッツ工科大学が、物理の入門レベルの授業の形式を抜本的に改革して、目に見えた効果をあげている、という記事があります。大教室での講義という伝統的な形式は、もともと物理の得意な学生にはいいけれども、そうでない学生にとっては学習効果が低く、欠席率も落第率も高かったのに対して、新しく導入された、学生がグループで実践的に問題を解いたり実験をしたりする小人数の授業形式では、学生が積極的に関わって習得率も高い、ということです。同様の授業形式が、ハーバードなどでも導入されているそうです。

私の友達にも、ハワイ大学で物理と天文学を教えている人がいるのですが、彼の専門のひとつは「物理教育」、つまり、どうしたら効果的に物理を学生に教えられるか、ということを研究することです。物理そのものを研究するのではなくて物理の教育のしかたを研究するのは、なんとなくランクが下のように考えられがちですが(彼は物理そのものの研究ももちろんやっていますが)、近年理数系の分野で世界のリーダーとしての地位を失いつつあるアメリカでは、こうした教育法にはかなりのリソースが注がれています。理数系に限らず、人文科学や社会科学でも(というか、むしろ全体としては、理数系の学者は「教える」ということにそれほど熱意を注がない人が多いのに対して、文系の分野では、教えるのが好きで大学教授になった人がけっこう多いので、授業への熱心度においては一般的には文系のほうが高いと言えるでしょう)、アメリカの大学では「どのように効果的に授業をするか」という議論がかなりさかんになされ、各種のワークショップが行われたりします。もちろん、そんなことにはまるで興味なく、何十年も同じような講義をし続けている教授もいますが、授業で使う教材や授業のしかたや課題の設定などについていろんな工夫を凝らす教授の割合としては、日本よりアメリカのほうがずっと高いのは間違いないでしょう。とくに、リベラル・アーツ・カレッジと呼ばれる、学部生の教育をミッションの第一に掲げているような私立大学では、学生自身が授業や教授に期待・要求するものも非常に大きいので、教育にかなり熱心な人でなければ、そういう職場では勤まりません。

私は、授業でどんなことをどんなふうに伝えるのが効果的かといったことを考えるのは好きなのですが、実際にそれを実行しようとなるとあまりにも多大な時間と労力がかかるので、学期途中で息切れして面倒くさくなってしまうのがよくあるパターンです。でも、1週間目から息切れしていられないので、頑張って木曜日の授業の準備にとりかかりまーす。

2009年1月11日日曜日

映画ランダム15選

日本では公開予定がない(のかどうかわかりませんが、ちょっとネット検索したところでは出てきませんでした)ようですが、最近アメリカで話題になっている映画『Slumdog Millionaire』を観てきました。インドのムンバイのスラム街で育つ孤児の兄弟の生い立ちと恋愛ストーリーが合わさった物語なのですが、なかなかいい映画だと思いました。

先日、Lorraine Hunt LiebersonのCDを紹介したところ(そういえば、このあいだ検索したときはなぜか出てこなかったのですが、彼女のバッハのカンタータのCDが今日はアマゾンで出てきます。私はこれが一番好きです)、なかなか評判がよく、またCDや映画のおススメを紹介してくれ、という依頼があったので、今日はここ10年間にリリースされた映画のうち私の好きな15本を紹介します。といっても、私はとくに映画通でもなんでもないので、自分の趣味以外の基準はなにもなく、きわめてランダムなセレクションです。恋愛モノから社会問題モノ、芸術モノ、ドキュメンタリーなどジャンルもごちゃごちゃです。でも、日本とアメリカでは、話題になる映画もけっこう違ったりするし、同じ映画でも話題になりかたが違うこともあるので、そうした意味では面白いかもしれません。日本では輸入版でしかDVDが手に入らないものもあるようですが、ほとんどは劇場でも上映されて普通にDVDになっているものばかりですので、よかったらレンタルなり買うなりして観てみてください。観たら感想をお聞かせください。

『ラスト、コーション』(2008)

『The Visitor』(2008)

『善き人のためのソナタ』(2007)

『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)

『ブロークバック・マウンテン』(2006)

『クラッシュ 』(2005)

『ビフォア・サンセット』(2004)ただしこれは、まず『ビフォア・サンライズ 』(1995)を観てからセットで観ることが肝心。

『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)

『マイ・アーキテクト』(2003)

『フリーダ』(2002)

『Bride of the Wind』(2001)

『Divided We Fall』(2000)

『You Can Count on Me』(2000)

『トゥルーマン・ショー』(1999)


なお、日本の映画では私は是枝裕和監督の映画がとても好きです。長編映画はそれぞれまったく違うタイプの作品なのでどうも比べにくいですが、あえて言えば、『誰も知らない』(2004)と『歩いても歩いても』(2008)が一番好きです。

2009年1月10日土曜日

Cleve Jones

今朝、私のqueer familyであるゲイの友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」と「マイク」)にくっついて、Family Equality Coalition Hawai'iという団体が主催する集会に行ってきました。この団体は、ハワイでLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の人々が結婚をめぐって異性愛者と同じ権利を確保するための立法を目指す団体で、1990年代以来ハワイでは下火になっていた運動を再興するべく二年前に結成されました。今日の集会で基調講演をしたのが、クリーヴ・ジョーンズ。ジョーンズ氏は、1954年生まれの活動家で、1970年代にサンフランシスコのカストロ地区でハーヴィ・ミルクと出会って以来、ミルクの選挙キャンペーンの重要な一員となり、ミルク当選後はインターンとして働きました。以前に言及した、ショーン・ペン主演の映画『MILK』にも、若かりし日のジョーンズ氏が出てきます。(ジョーンズの役を演じるのは、エミール・ハーシュ。)その後、カリフォルニア州議員の立法コンサルタントとして仕事をするほか、青少年犯罪や精神医療に関わる活動をしましたが、彼の活動のなかでもっとも注目を浴びたのは、エイズ・メモリアル・キルトです。1985年に、エイズで亡くなった親友を弔い、エイズ問題に関心を呼びかけるために、ジョーンズ氏が一枚のキルト布を作ることから始めたこのプロジェクトは、以後世界中から集まった五万枚の布を縫い合わせた大プロジェクトになり、エイズの危機そしてエイズ患者の権利保護について世間の関心を喚起することに大きなインパクトを与えました。現在、ジョーンズ氏は、ホテルやレストランの従業員のための労働組合であるUNITE HEREの活動家として、LGBTの人々と労働組合の連帯を強めるためのさまざまな活動をしています。

このブログで何度も言及しているカリフォルニア州でProposition 8が通過してしまったのは、選挙前にLGBTが組織だった運動に十分な時間・資金・労力を注がず、また、アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人のコミュニティとの連帯を育む努力をじゅうぶんにしなかったからだ、という反省から、同性婚またはシヴィル・ユニオンのための立法を実現させるためには、労働組合などの組織を通して他の地元コミュニティとのつながりを強化させることが肝要だ、と強調していました。現在、カリフォルニアやハワイなどで労働組合員のベースの多くはカトリックの移民であることから、そうしたコミュニティとの連帯を作るためには労働組合が有効な組織となるためです。また、最近の政治活動・社会運動のキャンペーンは、多額の資金を投入してカリスマ性のある有名人を看板に使ったメディア・アピールや、その資金を集めるための派手なディナーパーティなどに集中しがちだけれど、実際に立法につながる運動を成功させるためには、そういうことの他に、政治活動のスキルと経験のあるフルタイムの活動スタッフを何人も雇えるだけの資金と、多数のボランティアがそれぞれの選挙区で個人の家を一戸一戸たずねて立法の必要性をアピールする、とてつもない時間と労力と忍耐力を必要とする草の根運動が欠かせない、ということを説いていました。とてもダイナミックで、かつユーモアと愛情に溢れる講演でした。

今年度のハワイ州議会下院にこの立法案を提出する州議員もこの集会に参加し、立法実現のためのステップや、支援者がこれからしなければならないことなどについて説明し、具体的・実際的な話もあって効果的な集会だと思いましたが、この先どれだけ運動がもりあがっていくかは不明です。ハワイは、さまざまな法律に関してはかなり進歩的な州なのですが、文化・社会通念的には相当保守的な側面も強く、ローカル(ハワイにおける「ローカル」アイデンティティの意味に関しては、『ドット・コム・ラヴァーズ』159−162頁を参照してください)のゲイ・レズビアンの人々の多くは、家族や同僚には自分がゲイであることを隠している、いわゆるclosetedな人が多く、表立って同性愛者の権利を叫ぶ運動に積極的に参加するような人は限られているのです。また、今日の集会に参加した人は私が見渡した限りでは約100ー120人くらいでしたが、その三分の二以上が白人のゲイ男性で、他のコミュニティとの連帯を作るという課題の大きさをまさに物語っていました。この先どうなるか、支援しながら見守っていきたいと思います。

2009年1月7日水曜日

ガザ攻撃に関するインターネットでの草の根運動

世界各地から抗議の声があがっている、イスラエルのガザ攻撃は、600人以上の被害者を出しながらもすぐには終わりそうにありません。オバマ氏が大統領に就任するまでまだ二週間あり、アメリカの政治的リーダーシップの空洞状態での攻撃なので、アメリカでこの情勢に強く反対している人たちも、国内ではどこに声を向けたらよいのかわからない、という感じです。私は、日本にいるときは、中東情勢についての報道を見たり読んだりしても、正直言ってどうも自分にあまり関係のない遠いところで起こっていることのように感じてしまうのですが、アメリカでは、国益が中東情勢に密接にからんでいるし、(イスラエル国家の政策を支持する人も反対する人も含め)ユダヤ系の住民も多いし、(さまざまな宗教的・政治的アイデンティティをもつ)アラブ系の住民もいるし、イスラエル人もパレスチナ人もいるので(もっとも、ハワイではこれらのどのカテゴリーもとても小さいですが)、ずっと切迫感があります。

オバマ氏を当選に結びつけた大統領選のキャンペーンで、インターネットが非常に重要な役割を果たしたことは前にも書きましたが、今回のガザ攻撃に関するさまざまな議論や運動でも、インターネットが活発に使われています。Facebookにも、ガザ攻撃に反対する人たちのグループがあるし、私のところに送られてくる署名依頼のメールなどだけでも、ガザ攻撃が始まって以来、毎日数通はあるので、私の知らないところではこうした運動がもっともっと沢山各地で行われているのでしょう。そうした運動がどれだけ実際に効果があるのかは不明ですが(インターネットを媒体とするこうした運動については、パソコンをクリックして署名を送っただけで、まるでなにか大事なことをしたかのような錯覚を与えるが、実際にはなんの効力もなく、政治・社会活動について誤った意識を人々に与える、という批判もあります)、起こっていることについて問題意識を喚起するという点では意味はあると思います。参考までに、そうしたウェブサイトやブログの例をあげておきます。私の職業上、大学関係の人たちが組織しているものが多いですが、政治的に活発なアメリカの大学の人たちがどういう言論活動をするのか、という点では興味深いかと思うので、よかったらチェックしてみてください。ちなみに、オバマ氏への公開状の著者、David Lloyd氏は、現在は南カリフォルニア大学に所属している、著名な文学者です。

http://www.teachersagainstoccupation.blogspot.com/

http://www.ffipp.org/

http://www.grassrootsonline.org/gaza

2009年1月2日金曜日

ハワイのお雑煮、Ruth Ozeki, Lorraine Hunt Lieberson

これも景気のせいなのか、ハワイの大晦日の花火は、例年よりずいぶん短時間で終わりました。いつもは、夜中の2時3時まで、寝ようと思っても外がうるさいし窓のすきまから煙が入ってくるしで眠れないくらいの騒ぎなのですが、今年は12時半くらいには大体騒ぎがやんでいました。元旦は、日系人の友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」のボーイフレンド)が作ってくれるお雑煮をご馳走になりに行きました。ハワイは日系人が住民の四分の一を占めるので、日本の伝統・慣習が驚くほど脈々と継承されていて、お正月はその最たる例です。日系人でなくても、ハワイではozoniとかnishime(なぜか「お」が取れて妙に乱暴な言い方なんです。「おむすび」のことも「お」なしでmusubiというのが一般的です。プランテーションに労働移民としてやってきた人々の言葉の名残なんでしょうか。)とかいう単語を知っている人は多いし、お正月前後には玄関に門松が立っている家もけっこうあります。夏にはほうぼうでbon dance、そう櫓を組んで盆踊りをやっています。日本人のほうが面倒くさくてしなくなっている日本の伝統行事を、ディアスポラの日系人たちのほうが熱心に継承しているわけです。私なんかは、なにかにつけ「これにはどんな意味があるのか」と聞かれて、答を知らないことばかりで困ってしまうのですが、日系人の人のほうがよっぽどよく知っています。

さて、以前にRuth Ozekiの『イヤー・オブ・ミート』をご紹介しましたが、この作者のもう一本の小説、『All Over Creation』を読みました。これがまた、『イヤー・オブ・ミート』に劣らず、文句なしに面白い!けっこう長いのですが、お正月から夜更かしをして読み切ってしまいました。『イヤー・オブ・ミート』は日本とアメリカ各地を舞台にした、牛肉産業をテーマにした(というとなんだか小説としては面白くなさそうな、訳のわからない話に聞こえるでしょうが、これが面白いんです)小説ですが、こちらの『All Over Creation』は、アイダホのジャガイモ農家が舞台です。前作と同様、とてつもないユーモアのセンスと、物語としての面白さと、鋭い社会批評と、家族とか青春とか老いとかといったテーマの愛情と哀愁のこもった取り扱いが、実に見事です。『イヤー・オブ・ミート』を読むとベジタリアンになろうかしらんと思わざるをえないし、『All Over Creation』を読むと有機野菜を買うことにしようと思わざるをえないのですが、そういうことをまったく別にしても、とにかく面白いので、おススメです。読んでいて痛快なのと同時に、私は、自分もこんな小説を書きたいなあ、という気持ちになります。こちらはまだ日本語訳が出ていないようですので、興味のあるかたは頑張って英語で読んでください。

まったく関係ないですが、おススメついでにもうひとつ。ホリデーシーズンになると私はバロック音楽が聴きたい気分になるので、最近は、残念ながら数年前に他界してしまったメゾソプラノLorraine Hunt LiebersonのCDを繰り返し聴いています。彼女の録音はたくさんありますが、私が一番好きなバッハのカンタータのCDはなぜかamazon.co.jpでは出てきません。でもヘンデルのアリア集もとてもいいのでおススメです。高貴であると同時に温かく優しい彼女の歌声を聴いていると、自分が人類の一部であってよかったなあという気持ちにさせられます。