2017年11月14日火曜日

3.11、日本語の世界と英語の世界、そして『母の遺産』の二つのエンディング

先週はAmerican Studies Associationの年次大会でシカゴに行ってきました。大きな湖に面し高層ビルの合間をとりわけ冷たい風が吹き抜けるので有名なシカゴは、連日氷点下で雪まで降る始末。 到着して慌ててユニクロに駆けつけヒートテックやらダウンのベストやら毛糸の帽子やら手袋を買い込みましたが、最近はロスでさえ寒いと感じている私は、連日会議やらセッションの司会運営で忙しかったのを口実に、結局5日間ほとんど学会会場のホテルを出ずに終わりました。

さて、しばらく前に依頼されていたエッセイがオンライン媒体に掲載されましたので、ご紹介しておきます。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の英訳をしたことがきっかけで声をかけていただき、「海外(ここでいう「海外」とは「アメリカの外」という意味です)の文学、作家、言語活動などになんらかの形でかかわるものなら内容は問わない」ということだったのですが、依頼を受けてすぐに、3.11のことを書こうと頭の中で決まりました。3.11を日本で体験したことは私にとって決定的なインパクトをもち、また、あの時に感じた日本と世界の関係、とりわけ「日本語の世界」と「英語の世界」の関係については、いずれじっくり考えて文章にしたいと思っているのですが、このエッセイの依頼を受けたことでそれに向けてのごく小さな一歩を踏み出すことができました。

とはいえ、いざ書き出してみると、あの時期に感じたことは今でもほとんど身体的なレベルで思い出すものの、それを整理しようとすると何が言いたいのか自分でもわからなくなってきて、短い文章なのに(いやむしろ「短い文章だから」というべきか)、まとめるのにけっこう苦労しました。でも、私にとって、「『日本語の世界』と『英語の世界』」というテーマは、水村さんの一連の作品と密接に結びついているので、こういう形で自分の体験と水村さんのお仕事を結びつけることができたのは嬉しく思っています。英文ですが、3.11を扱ったもので、学術的な文章ではない(ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』について知っていたほうが後半は理解しやすいですが)ので、日本のみなさんにも読んでいただけたら嬉しいです

さて、このエッセイを書く過程で、とても興味深い事実を発見しました。

水村さんの『母の遺産』の単行本が発売された5年前から今までのあいだに、 私は親しい友達を病気で亡くしたり、自分の遺言その他の手続きをしたりしたこともあって、今回読み直してみると初めて読んだときとは違った感動がありました。とりわけ感じ入るのが結末の部分。主人公美津紀の優しさと高潔さ、勇気ある決断に心打たれ、姉奈津紀との関係に「私にもこんなお姉さんがいたらな〜」と単純に羨ましくなり、母親への交錯する思いに涙し、と、小説の文学的な取り組みとは別次元の個人的感情移入で反応してしまうのですが、幅広い読者にそのような感情移入をさせるところこそが小説の醍醐味でもあります。

そして、この小説が3.11で終わっているところがなんともすごい。美津紀ががんじがらめになっていた困難から 解放され、新しい人生へ踏み出そうという矢先に、3.11の衝撃と混沌が降ってくる。そしてその後の桜の開花をみて、これからの人生への勇気を得、これまでの人生を受け入れ、「自分は幸せだ」という認識に至る、という形で結末を迎える。この小説のもとの讀賣新聞での連載は20114月に終わっており、つまり、水村さんがこの作品を執筆していたときには、東日本大震災が起こるなどということは知る由もなかった。日本があんなことになるとは想像すらしないなかで構築された小説なのに、3.11がきわめて必然的な結末となって完結している。驚くほどのリアリティをもって「日本の今の現実」を描いたこの連載小説が結末を迎えると同時に、その読者も美津紀と同じように、これからの人生、これからの日本に向かって勇気をふりしぼって歩みだしていく。これぞ新聞小説だ〜!

と再度感激していたのですが、なんと!

エッセイを書く過程でこの小説を最近読んだ友達とやりとりしていたら、どうも話がかみ合わない。おかしいなあとお互い思いながら、もしや、と確認してみると、なんと、私が読んだ単行本バージョンと、彼が読んだ文庫本バージョンでは、少しだけ、でも決定的に、エンディングが違っていることが判明!

2012年発売の単行本バージョンでは、上記のように3.11への言及が直接的になされているのに対して、2015年発売の文庫本バージョンでは、3.11への言及はなく、美津紀が引越し先のマンションの窓から桜が咲いたのを見るところで終わっている。

それはそれで感慨深いのですが、3.11のときの自分の思いを美津紀に重ね合わせていた私としては、3.11に言及することないあの小説の終わりかたがあるということ自体が衝撃。エッセイを書いていたときには、小説が3.11で終わるということを前提に書いていたので、Juliet Winters Carpentersさん(「日本語が亡びるとき」を一緒に英訳したかたです)の英訳はどちらのバージョンなのか(英訳もハワイにあるのですが、今いるロスに持ってこなかったのですぐ確認できなかったのです)、なぜ3.11への言及を文庫版で削除したのか、水村さんご本人に問い合わせてみました。すると、

当然のことながら、東北大震災は小説の当初の構想には入っていなかった。それがちょうど連載が終盤を迎える頃に震災が起こり、当時のどのメディアも東北大震災一色だったので、「今」を扱っている新聞小説でそのことを扱わないというのはおかしいように思ってああいう結末にした。だが、時間が経ってみると、3.11への言及はやはり浮いてしまったような印象を持った。美津紀の、控えめながら前向きに生きていこうという認識は、その前に小説内のロジックで達している認識であって、3.11は必要ない。また、3.11以来他の作家がこぞってそれについて書いていたので、それが他人の不幸を搾取しているようにも感じられ、それを避けたいという思いもあった。そう思って文庫版では削ってしまった。

とのことでした。


そう説明されると納得するのですが、さまざまな立場で3.11を経験した日本の読者の多くが、美津紀に身を重ねてあの結末に勇気を得ていただろうと思うと、削られてしまったのは少しもったいないようにも感じられる。3.11への直接の言及があるのとないのとでは、小説全体の示唆するところが微妙に違うようにも感じられる。いずれ、「『母の遺産』のふたつの結末」についてエッセイを書いてみようか、などと思ってしまうのは、研究者・物書きとしての職業病的性質でしょう。『母の遺産』を未読のかたにはちょっとネタバレになってしまいましたが、既読のかたには、自分の読んだバージョンとは違うエンディングがあるということを知って、どう感じられるでしょうか?

2017年10月17日火曜日

日米のエリート大学比較 佐藤仁『教えてみた「米国トップ校」』

前回の投稿から再び長い時間が経ってしまいましたが、その大きな理由は、サバティカルのため8月末からロスアンジェルスでの生活を始めたからです。ロスアンジェルスといっても、住んでいるのはダウタウンから30マイルほど南下したところにある、世界最大の港であるロスアンジェルス港の目の前のサンペドロという町。戦前は日系移民の漁師がアワビを採っていたという歴史のある場所です。ホノルルとロスではありとあらゆることが大きく違って、考えること感じることが多く、時々違う環境で暮らしてみるというのはいいことだなあと、サバティカル制度のありがたみを再認識しています。

サバティカル制度が定着しているのが、研究大学と呼ばれるアメリカの大学の特徴のひとつですが、その関連で、昨晩から今朝にかけて一気に 読んだのが、佐藤仁『教えてみた「米国トップ校」』(角川新書)。この本、友達がフェースブックで勧めていたのですが、タイトルや帯の文句、目次に並んだ小見出しを見て、「うーむ、いろいろと文句をつけたくなりそうな本だなあ」と思っていた。いや、正直に言って、タイトルと帯だけで判断していたら、読まないことにしていただろう。なにしろ帯の文句は、「東大vs. アイビーリーグ 6勝4敗で東大の勝ち!?」。私自身の出版経験からいっても、 読者の目を引くために、帯の文句というのはあえてセンセーショナルに、小見出しというのも、丁寧な議論は差し置いてとにかく面白そうに、編集者や広報部がつけるものだ、というのは わかっているけれど、これはいくらなんだってえげつない。客員教授で授業をいくつか教えた経験と主観的な印象だけで乱暴な一般論を展開して、「やっぱり東大は世界に通用するんだ」などと言って日本の読者の愚かな愛国心を煽る本なんじゃないか、と勝手に想像していた。

でも、本の評価については(いや、本だけでなく映画や演劇や音楽その他人生全般についても)全面的に信頼している友達のオススメなので、タイトルや帯への生理的反応をあえて押し殺して、読んでみる(親切なことにその友達がわざわざ日本からロスに送ってくれたのです)ことにして本当によかった。Do not judge a book by its coverとはまさにこのこと。東大の東洋文化研究所教授である文化人類学者の著者(私と同い年で、同じ時期に駒場の教養学科に在籍していて、おそらく同じ授業を受講したこともあると思うのですが、直接の面識はありません)が、縁あってプリンストンで数年間客員教授として授業を教えた経験をもとに、日米それぞれでトップのエリート校とされている大学を比較したもの。東大を卒業してからアメリカの私立大学で博士号を取り、その後20年間州立大学であるハワイ大学で仕事をしている私としては、「『アメリカの大学』とかって乱暴に言われると困るんだよねえ」とか言いたくなりそうな見出しが目次に並んでいる。 しかし、読んでみると、いやはやそんな先入観をもって臨んだワタクシが悪うございました、と謝りたくなるくらい、著者の個人的な観察だけでなくいろいろなデータに基づいた、きちんとした議論がなされている。私自身が個人的な観察以外のなんの裏付けもなく抱いていた印象を覆すような情報もあり(例えば、東大生の親の平均収入は一般的には確かに高いが、年収750万円を下回る家庭からの出身者が2014年で3割を占めている、など)、勉強になった。入学審査の仕組み、カリキュラムや授業のありかた、学生の勉強への姿勢や時間数、教員の仕事のありかたなどについての、日米の大学比較は、とても丁寧になされていて、経験と観察から私がおおむね知っていたことでも、「そうそう」と頷きながら読んだ。

アメリカの大学のほうが圧倒的に優れている点(例えば、学生が一学期に受講する授業の数が少ないぶん、 要求される予習復習の量が多く、それぞれの授業の内容が質量ともに多いこと。「正解」を出すことだけではなく、提示された情報や議論に食いついて自分なりの議論を展開し、主体的に知を追求しようとする学生が多いこと。図書館司書やライティングセンターなど、 教育活動をサポートするリソースやシステムが充実していること。大学運営にまつわる事務作業の多くが、それを専門とするプロの職員に任されていること、など)については、「その通りでございます!」と拍手したくなる。

そのいっぽうで、プリンストンと比べて東大のほうが優れている点として挙げられていることについても、同感することが多かった。そのひとつが、学生と教員の距離。大学院生、とくに博士課程の学生については、コースワークと呼ばれる授業を超えて何年間にもわたってかなり綿密な個人指導をする(しない教員もかなりいるが)のでそうは思わないが、学部生と教員の関係については、私自身の経験で言えば、日本のほうが密、というか、パーソナルな感じがする。ゼミ合宿や飲み会といったセッティングの中で学生が教員と接する機会が多く(そもそもアメリカでは飲酒にかんする法的規制が強いので、大学教員が学部生と一緒にお酒を飲むということはほとんどない)、授業やオフィスアワーでの関係を超えて、ひとりの人間としての教員に触れることは、日本のほうが多いと思う。前の投稿で著書を紹介した亀井俊介先生は、私の学部時代の恩師で、卒業後25年以上が経過した今でも個人的に親しくしていただいているが、そういう関係はアメリカの教員と学部生のあいだではずっと少ない(教育を主眼においているリベラルアーツ・カレッジでは状況は違うと思う)。もっとも、著者の佐藤さんも私も、東大のなかでもカリキュラムが少人数授業中心となっている教養学科の出身だからとくにそう感じる、という要素はあるかもしれない。(東大でも、研究職に進んだ人は別として、 卒業後も長年にわたって学部時代の教授と個人的な関係をもっている法学部や経済学部の出身者はあまり知らない。)

アメリカの大学の問題点についても、深く共感。例えば、アメリカの大学における給与や報酬体系の理不尽さについては憤慨することが多く、私自身新聞記事で言及したことがある。 なにしろアメリカの大学ではまず、学部や分野によって給与のレベルがまるっきり違う。そして、いわゆる教員の「スター性」で採用時の契約内容がかなり違うし、教員のほうは、他の大学からのオファーをもらうことで昇給の交渉をしたり、研究その他の成果をそのまま給与に反映させようとして画策したりする。つまり、えげつなく徹底した資本主義的市場原理で大学教員の待遇が動いている。そんなのおかしいじゃないか。論文や学術書の執筆というのは、給料が上がるからするものではなくて、研究に情熱を抱いているからするものであって、その成果が形になって学界や世間で評価されればそれでじゅうぶんではないか。権威ある賞を受賞した人に何らかの金銭的な報酬を大学が出すのはある程度は自然なことだとも思うけれど、給与を上げることに画策する時間や労力があったら、肝心の研究に当てたい。そんな姿勢でいると、実際に給与はいつまでたっても低いままで、何年も、下手をすると何十年も後に入ってきた若手の教員のほうが自分より高い給与をもらっていたりする。 そんな状態は、学問の場としておかしいじゃないか。そしてまた、ふだんハワイ大学という、財源貧弱(といっても、回っているところにはどうやら結構回っているらしい、ということもわかってきた)な州立大学でふだん仕事をしていて、裕福な私立大学である南カリフォルニア大学でこの一年間を過ごしている私は、同じ「大学」という名前で呼ぶのもちゃんちゃらおかしいと思うくらいの大学間格差を目の前に突きつけられて、こんな状態は一国の高等教育制度として持続可能であるはずがない、とも強く感じている。というわけで、急速なネオリベラル化によってプリンストンのような極端に潤沢な名門私立大学さえじわじわと浸透しつつある大学の「会社化」を扱った第3章には、「そうそう、そうなんです!」と言いたくなる箇所がたくさんあった。

そして、私がやはり一番嬉しかったのが、本書は、日米の大学のありかたの比較(それ自体も面白いけれども、それだけでは「ふーん、なるほどねえ」で終わってしまう可能性もある)ということだけでなく、第4章では、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の議論をふまえて、言語と学問の関係をしっかりと考察し、研究や教育の本質を考え、大学の「グローバル化」とはなにかという問題提起をしていること。単にアメリカの名門校のやりかたを真似したり、世界ランキングを上げるための表面的な制度改革をしたりするだけでは、日本の大学教育をめぐる根源的な問題は解決しない。日本の大学でだからこそできる学問のありかたを真剣に考えた上で、日本にも世界にも発信し貢献していけるような力をつけるための「心の開国」を促進する場に なるためには、日本の大学は何をしなければいけないか。その問いに、この本は真正面から取り組み、本質的でかつ具体的な提言をしている。著者の手を握りしめて、頭を上下に振りながら、「おっしゃる通りです!さあ、一緒に頑張りましょう!」と言いたくなる。

欲を言えば、もっと突っ込んで書いてほしかった、と思う点もある。とくに、アメリカの大学の入学審査における学生の「多様性」、とくに人種の問題は非常に複雑だ。「多様性」の追求が入学審査において具体的にどういう形をとるのか、そしてそうした入学審査のありかたがどういう議論を巻き起こしているのか、といったことを、歴史的、社会的、法的背景を含めてもう少し説明してほしかった。また、東大の学生そして教員の男女比率の問題についても、もっと議論してほしかった。そもそもなぜ大学が「多様性」を追求する必要があるのか、そもそも「公平」な入学審査とはなにか、そもそも大学のミッションとはなにか、といった議論に直結する問題だからだ。

また、 東大とプリンストンが日米それぞれの高等教育界においてどういう位置づけにあるか、そしてさらに、大学教育そのものがそれぞれの社会においてどういう位置づけにあるか、という文脈をもう少し説明してほしかった。真面目に勉強する「優秀な羊」が多いプリンストンの学生と比べて、東大生のほうが奇妙奇天烈な変わり者が多い、という観察は、一概には否定しない。ただ、なぜ一般的にアメリカの大学生のほうが日本の学生よりも授業の勉強や好成績を収めることに熱心なのかについては、卒業後の進路において大学での勉強がどのように評価されるか、を論じなくては不十分だと思う。(この点に関して、日本の就職活動のありかたについては、強く物申したいことがあるので、別の機会に書こうと思います。)


と、あれもこれもと言い出せばきりがないけれど、この本、なんと言っても、著者の知性や感性に加えて、学問や教育に対する真摯な情熱、 日本の大学そして社会がよいものであってほしいという素直な願望、謙虚で誠実な人格が伝わってきて、ぜひいつか、お食事をしながら日米の大学についてじっくり語り合いたい、という気持ちにさせられる。読むことを勧めてもらって本当によかった、という気持ちを世の中に還元するために、ここで強くオススメしておきます。

2017年8月6日日曜日

『亀井俊介オーラル・ヒストリー 戦後日本における一文学研究者の軌跡』

前投稿からまたしても長い間が空いてしまったおもな理由は、ここ4年間夢中になって取り組んできた研究・執筆の大詰め段階に入っており、それがなかなか大変なことになっているからです。その研究のために、5月には2週間シドニーに出かけ、そのあとで必死になって執筆(というよりも、原稿の全面的な書き直し)作業をし、さらに、つい数日前まではまる1ヶ月間日本に滞在していました。東大駒場キャンパスや上智大学でさせていただいた講演、北海道大学サマーインスティテュートでの集中講義パシフィック・ミュージック・フェスティバルとの協働プロジェクトなどの仕事に加えて、親族会議やらなにやらでたいへん忙しい毎日でした。日本で感じたこと・考えたことで、いろいろと書きたいこともあるのですが、今回の投稿では、私の大学時代の恩師である亀井俊介先生の『亀井俊介オーラル・ヒストリー 戦後日本における一文学研究者の軌跡』の紹介をいたします。

私は亀井先生が30年間教鞭をとっていらした東大教養学部での最後の教え子のひとりで、以来それはそれは温かく見守っていただいています。(私の『性愛英語の基礎知識』は亀井先生に捧げてあります。)今回の帰国中はあまりにも私のスケジュールがいっぱいでお会いできなかったのが心残りですが、代わりにと言っては何ですがこの『オーラル・ヒストリー』を買って持って帰ってきました。ちびりちびりと味わいながら読もうと思って今朝本を開いたところが、あまりにも面白くて一日で一息に読了してしまいました。

先生が東大退官後長年教えていらした岐阜女子大学のデジタル・アーカイブス・プロジェクトのひとつとして、口述形式で語られた学問的な自伝を編集したものなので、亀井先生特有の語りかけ文体になっていて読みやすい、というのも一因ではありますが、それもさることながら、なんと言ってもやっぱり内容にグイグイ引き込まれる。先生の研究の軌跡の概要は知っていたつもりの私にも、新鮮な驚きや感動がたくさんありました。そして、なぜ自分が亀井先生の教え子となったのか(別に先生に選ばれたわけではなく、文学合宿やら飲み会の幹事をやったり、卒論のトピックを選んだりする過程で、自分から勝手に亀井先生の教え子になったのです)を、あらためて振り返るきっかけになりました。

印象深かったことをいくつか挙げると…

小学校卒業の寄せ書きに「見敵必殺」と書いていた岐阜県中津町の軍国少年が、敗戦を経て急転換して文化少年になり、その様子を読んで想像するだけでも鳥肌が立つような勢いで、英語や英文学を勉強するようになる。その大転換について、先生はこう書いている。
「アメリカというものが敵にしろ味方にしろ一つのリアリティであるということを、自分の生ま身でもって感じたことですね。肯定するにしろ否定するにしろ、現実にわれわれの生活を、いや精神までも反転させる力を持った存在であって、決して頭の中でひねくり回せるような抽象的な存在ではないということです。最近のポスト・モダニズムなんていうのは、そういうアメリカを抽象化してしまった議論を展開している傾きがある。それは少なくとも僕の実感とは違う。アメリカはリアリティである、しかもワンダーを持った、正体がよく分からないけれども何かすごいなあという存在、そしてこちらの「生」を突き動かすような存在なんです。だからこそその実態を、本質を知りたいという気持ちをかき立てられるんですね。アメリカの持っているワンダーを追究したいという気持ちが、僕には今までずっと一貫してあったと思います。」(261)そう、だからこそ、亀井先生の語るアメリカは、文学であれ社会であれ性であれ、日本の他の研究者にはめったにない、血の通った人間臭さがある。(なんと言っても、本書の中で川本皓嗣先生も書いていらっしゃるし、私自身何度も目撃したことですが、亀井先生は本当にアメリカのあらゆる街に「アッシー女性」がいるんですから…)

東大英文学科から院の比較文学科(この選択について先生が振り返った部分もとても面白い)を経て、セントルイスのワシントン大学に留学した時の二年間を「僕の生涯で最も充実した二年間であった」(49)と言い切っているのにも一種の感動を覚えました。はじめて実地で体験するアメリカで、文学だけでなく文化を必死になって勉強し、アメリカの人間の息吹を直に感じ取ったその時期が、先生の研究者としての基盤になっているんだなあと、あらためて感じ入りました。

そして、今さらながら、先生の学問への真摯で実直な姿勢にも感銘を受けました。文学や文化への素直な感動を忘れ、抽象的な理論やこむずかしい学術用語を振り回した、学問のための学問を、亀井先生は嫌い、そうした批判をこの本の中でも何度もしています。が、それと同時に、この本のサブタイトルで自分のことを「一文学者」と呼んでいるように、先生はあくまでも自分が研究者、学者であることを、実に真面目に考えている。そして、一般の読者に感動や面白さや「ワンダー」が伝わるような、自由で自分らしい文体で著述することを強調するいっぽうで、「学者の生命は論文だ」(78)「僕の場合はやっぱり勝負の場は論文ですね。学者の役割はいろいろあるけど、しっかり論文を書くのが基本だと思っております。自分で論文を書いていないと、大学院の場合、ちゃんとした指導ができないんじゃないかしら。理屈だけで学生の論文を指導しようとしても、うまく指導はできないだろうと思う。自分が論文書いて、苦労したり、失敗したり、いろいろなことをして、そういう経験を踏まえて論文指導というものが成り立つんじゃないかと、僕は思っております」(88)と、優しい言葉で断言する。そして、学士院賞を受賞した初期の『近代文学におけるホイットマンの運命』から最近の『有島武郎 世間に対して真剣勝負をし続けて』まで、文体は実にやわらかで読みやすい(それはそれは驚くべき数の)著書においても、きわめて地道な、実証的な調査と分析をしている。このあたりでもう、「ははあ〜」とひれ伏したい気分になってきます。

それと同時に、そのやわらかで読みやすい文体が、先生の頭からペンを経て原稿用紙へとサラサラと流れていくわけではけっしてなく、これまたひれ伏したくなるような精力的な努力と緻密な推敲がなされてこそ生まれているのだ、ということも本書は教えてくれます。インタビューの部分で亀井先生の文体について何度も触れられていることからもわかるように、研究者を含む読者にとって、亀井先生の著述の魅力のかなりの部分が、まさにその文章にあるのですが、そこに込められた先生の思いと努力を知るに、「すみませんでした、出直してきます」という気持ちにさせられます。

文学史という研究の営みについての先生の思いもスゴイ。師曰く、「文学史というものは、学者が自分の知性と、感性と、それに自分の「生」を懸けて、一国の文学の精神だとか精神の展開だとかを考察するわけですから、これは一種の思想の営みだと僕は思う。そしてまたその本を執筆した人の生の証言、時代の証言でもあると思うわけです。」(194)こういう覚悟をもってアメリカ文学・文学史に取り組んでこられた先生のもとで、学部時代に「アメリカの文学」の授業をとった自分の幸運をしみじみと噛みしめます。あの頃、それなりに勉強はしていたつもりだけれど、うーむ、やっぱりもっと真面目にやっていればよかった、とも…

そして、個人的には、「本格小説」としての有島武郎についての部分がゾクゾクしました。実は、先生が有島武郎の評伝を執筆中に、『本格小説』をはじめとする水村美苗さんの著作を先生に紹介した(紹介した、というよりは、「先生、これ読まないとダメです」とアマゾンから一箱送りつけた)のは私です。こういう形で水村さんが捉える「本格小説」が亀井先生の有島研究とつながり、さらには「戦後日本における一文学者の軌跡」の一部となる、というのは、私にとっては筆舌に尽くしがたい感動です。

他にも、書きたいことはたくさんあるのですが、この本を読むと、「さあてと、私も負けずにしっかり研究に取り組まねば!」という気持ちになるので、このへんで切り上げて、自分の執筆に向かうことにします。来週、亀井先生は85歳の誕生日を迎えられます。おめでとうございますのラブレターを書く前に、この本が読めて本当によかった。

2017年3月17日金曜日

Arts in Conversation: Immigration コンサート

トランプ政権発足以来、本当に呆れるほど毎日蒼くなるようなニュースばかりで、自分の限られた時間とエネルギーを有意義なアクションに結びつけるにはどうしたらよいのか、明らかに長丁場になることが必至の闘いを前にして、個人としても社会としても持続的な活動をどのようにして展開すればよいのか、頭を悩ませるところです。状況はまるで違うけれども、「この状況において自分は一体なにをすべきなのか」と考えると頭がクラクラするというという点では私にとっては共通する、3.11の震災後の日々もそうでしたが、(1) クラクラする理由はたくさんあるのだから、しばらくはクラクラしている自分をそのまま受け入れるのもよし。(2) ただ、いつまでもクラクラしているのは、自分にとっても社会にとっても役に立たない。(3) どんなに小さなことでもよいから、一日ひとつくらい、自分にとってとくに大事な問題について、具体的なアクションをとろう。(4) 社会全体からみたら小さなこと、周縁的なことに思えるようなことでも、自分が何らかの知識や経験をもっているエリアでアクションを起こすことこそが、世の中の役に立つ。と自分に言い聞かせて毎日を暮らしています。

そのひとつとして、今週火曜日にハワイ大学のコンサートホールで開催された、Arts in Conversation: Immigrationというコンサートに参加しました。現在の政治状況を憂慮する地元の音楽家が中心となって立ち上げたArtists for Social Justiceという集まりの発案で、トランプ政権下とくに熟慮と議論と活動が必要になるとピックについてアーティストの立場から対話を始めよう、という趣旨のもとでのコンサート・シリーズ。その第一弾として、「移民」をテーマにしたコンサートです。私が仲良くしている素晴らしいソプラノ歌手のRachel Schutz(以前の投稿で言及したteach-inで歌ってくれた人です)を中心に、ハワイで活動するプロの音楽家たちに加え、ハワイ大学の学部生や大学院生も混じって、音楽の演奏だけでなく、スポークン・ワードやダンスも含めた多様なプログラムになりました。私は企画段階からかかわり、今回はピアノ演奏ではなく、アメリカ研究者の立場から参加し、プログラムの半ばで、Music and U.S. Immigration/Exclusionというトピックの10分間弱のトークをしました。

このコンサート、私が今までかかわったイベントの中でも群を抜いて素晴らしいコンサートとなりました。フェースブックなどのソーシャルメディアと、ラジオでのインタビューやチラシやハガキなどの従来型のメディアの両方を使っての宣伝をしたのですが、なにがとくに有効だったのかはよくわからないけれど、とにかく驚くほどたくさんの聴衆が集まり、しかも大学でのイベントであるにもかかわらず、大学とは無関係のコミュニティの人たちがとても大勢来てくださり、そして、普通のコンサートではなかなか感じられない、演奏者と聴衆との一体感が感じられました。演奏者がそれぞれ自分のバックグラウンドなどについて話をしてから演奏したことや、演目のそれぞれがなんらかの形で「移民」に関連するものであったことで、親近感や興味が生まれたのがよかったのかと思います。音楽もスポークン・ワードもダンスもすべてがパワフルで美しく、涙が浮かんだり鳥肌が立ったりするようなパフォーマンスでした。




私自身のトークは、どういった内容にするかかなり悩みました。アメリカ研究者相手なら、知識や「知っているべきこと」の認識を共有している(はずな)ので、準備はむしろ楽。でもこういう一般聴衆との対話を目的としたイベントでは相手が果たして何を知っているのか、何を考えているのか、さっぱり見当がつかない。「こんなことくらいは知っているだろう」との前提で話をして通じなければ意味がないし、逆にあまりにベーシックな話をして「そんなことくらい知ってるよ、バカにするな」と思われるともっと困る。「一般のひとたち」は、1882年の中国移民排斥法や、1965年移民法について、どのくらい(少しでも)知っているのか?ユダヤ系アメリカ人と黒人音楽の関係や、ロシア移民の音楽家たちの位置づけなどについて、どのくらい(少しでも)知っているのか?といったことに加えて、そもそも聴衆が、音楽そのものに興味をもってくるのか、移民問題に興味をもってくるのかも、ちょっと見当がつかない。というわけで、ピッチングの加減についてずいぶん悩みながら準備したのですが、結果的には、自分のトークにこんなにポジティブな反応を聴衆からもらったことはないのでは、と思うくらいの大好評でした。

コンサートの模様は、画質音質はあまりよくありませんが、こちらのビデオで見られますので、興味のあるかたはご覧ください。(私のトークは58:00過ぎあたりから始まります。)

コンサート終了後、本当にたくさんの人たちが、「実に素晴らしい、有意義なイベントだった、どうもありがとう」と声をかけてくださり、出演者たちと長い時間「対話」をしていたことからも、このコンサートの開催は意味があったのだと実感しました。音楽やダンスや演劇などの生のパフォーマンスは、その場限りのものだからこそ、その経験を共有する人たちにとって意義深いものなのだと感じることができました。ちょうど、自分の研究・執筆において、広島平和記念コンサートについて書いている最中のことだったので、こうした社会問題をテーマにした音楽イベントの意義を再認識できた、という意味でも、私にとって学ぶことの多い一晩でした。

2017年1月23日月曜日

Women's March を2日後に振り返って

前回の投稿でも書いたように、一昨日のウィメンズ・マーチは、地元で参加している最中も、終わってから世界各地でのマーチの写真や動画をメディアや延々と続くフェースブック友達の投稿で見るにつれ、これまでに感じたことのない感動を覚えました。こんなに世界各地で同時進行した人々の意思表示、連帯活動を、私はこれまでに体験したことがあっただろうか。9.11後のアフガニスタン・イラク戦争への反対運動のときも各地で抗議行動はあったけれども、抗議の対象やメッセージがより絞られていたのに対し、今回のマーチは、トランプ政権というもっとも直接的な対象、そして運動の火付け役となった女性というアイデンティティを広く超えて、環境、軍事、人種、教育、移民、LGBT、性と生殖にかんする権利、労働、科学、刑務所産業複合体、文化芸術などなど、トランプ政権の影響を受けることが確実なありとあらゆる問題について、実に多様な人々が集まって意思表示をする、という大きな行動になったのが特徴的でした。

信じたくないような政治状況のなかで、マーチに参加することで、近くにも遠くにも同志がこんなにたくさんいるんだと実感でき、「じゃあ頑張らなくっちゃ」という気持ちになれた、という意味ではとても意義深いイベントだったと思います。そして、終わった後でも皆が「いや〜、感動的だったね」としみじみ語り合いながら、マーチで味わったエネルギーや連帯感をどうやって具体的で地道なアクションにつなげていくか、フェースブックなどのソーシャルメディアでも実際に顔を合わせての会話でも、みんなでアイデアをシェアしている。それはとてもポジティブなことだと思います。私もこれから、最低でも一日ひとつ、なにか具体的なアクションをしていこう、という決意をしました。

そのいっぽうで、渦中の興奮は少し冷めたところで、振り返ってさらに考えさせられることもあります。

ホノルルのマーチでも、実に多様な人々が参加していたのは素晴らしかったのと同時に、多様であるからこその難しさもなかったわけではありません。たとえば、マーチが終わった後での州議事堂広場での集会で、いろいろな団体や立場を代表する女性たちのスピーチが続きましたが、そのなかでももっともパワフルだったのは、若い(多くは10代)先住ハワイアンの女性のグループ。ハワイアンの権利と尊厳の回復などを求める活動家でもあり、素晴らしいスポークン・ワード・アーティストでもあるJamaica Heolimeleikalani Osorioのリーダーシップのもとで、このグループは、トランプ政権が代表する世界観・価値観に強い異議を唱えると同時に、「今大勢のマーチ参加者が集まっているこの州議事堂は、ハワイアンの人々にとっては、自分たちの王国が非合法に転覆されたことを思い出させる場所であり、アメリカ合衆国とハワイの圧倒的に非均衡な歴史を象徴するものである。今日のマーチはトランプ政権に異議を唱えるものであるが、私たちハワイアンは、1897年以来ずっとアメリカ大統領を相手に闘ってきたのだ。トランプ政権に抗議し、アメリカそして世界における女性の権利を守っていくためには、ここハワイにおけるアメリカ合衆国の暴力の歴史を直視し、ハワイを脱植民地化し、脱軍事化しなければいけない」というメッセージを発し、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが王国転覆に抗議した文章をグループで読み上げ、現代ハワイにおけるもっとも強力な活動家であるハウナニ・ケイ・トラスクの言葉を借りて、拳を振り上げながら「私たちはアメリカ人ではない!私たちはアメリカ人ではない!私たちはアメリカ人ではない!私たちは死ぬまでハワイアンとしてあり続ける!」と声高らかに訴えました。
 












ハワイの歴史やハワイアン運動について知っている人たちにとっては、「その通りだ」という内容で、それを若いハワイアンの女性たちが、こうした舞台で声高に訴えているということが感動を呼ぶものでした。そのいっぽうで、マーチの参加者のごく一部にはこうした発言を快く思わない人もいたようです。彼女たちのパワフルな発言の最中に、「こうして女性の連帯を表明するためのイベントで、白人とハワイアン、アメリカとハワイを分断するような発言はふさわしくない」という意の苦情を口にしていた人たちがいた、というのを後で何人かから聞きました。

女性の連帯を強化すると同時に、「女性」というカテゴリーのなかに含まれる多様なアイデンティティ、「女性」を区別する人種や民族や国籍や階層やセクシュアリティや障害などのきわめてリアルな「差異」にどのように向き合っていくか、という問題は、1970年代からフェミニズム運動が格闘してきた難題です。アメリカの文脈では、そうした「差異」を隠蔽することなく正面から捉え、「女性」としての立場や経験は差異の軸によってまるで違うのだ、という認識が、第三次フェミニズムという流れになって、以前の投稿でも書いたインターセクショナルな思考がだいぶ広まってきたものの、このような場面では、幅広い問題意識を共有した人々のあいだでさえ、差異を直視した上での連帯というのは難しいんだなあということを改めて感じさせられます。

それと多少関連して、アメリカ以外の世界各地であれだけ今回のマーチが人を集めたのだから、東京でもあったはずだ、どんな感じだったんだろうと、ネットで検索してみました。ちょっとネット検索して引っかかったごく選択的な情報をもとに印象や意見を固めてしまうのは危険なのはわかっていながらも、見つけたものにだいぶ違和感を感じたので、感じたことをフェースブックに投稿し、友達に情報や分析や意見を求めたところ、とても参考になるコメントをいろいろともらいました。(コメントや情報くださったみなさま、どうもありがとう!以下、いただいた情報や知恵を拝借して書かせていただいてます。)まだ十分に考えが整理できていないし、情報もまだまだ足りないし、なんといっても現場にいない私は社会の「感じ」をつかめないので、おそらくきわめて不十分な考えなのだろうとは思いますが、上に書いたこととの関連で書いておきます。

もちろん東京でもウィメンズ・マーチは開催され、ごく一部ながら報道もされているけれど、参加者は主催者報告によると680人くらいと、その規模は他の世界の主要都市とは比べることもできないほど小さく(ゆえに英語媒体では世界の他の都市の写真はたくさん出てくるけれど東京の画像はまず出てこない)、しかも画像や動画を見る限り、参加者のほとんど、そして取材されている参加者はすべてが日本在住のアメリカ人あるいはその他の外国人で、日本人(らしき人)の姿はほとんど見えない。(参加した友達の観察だと、日本人らしき人は三割くらいだったとのこと。)参加者が行進しながら唱えるチャントや歌も、掲げているサインもみな英語。これにはかなり違和感を覚えた。

もちろん、私の検索に引っかかる情報が偏っている可能性はじゅうぶんあるけれど、アメリカ各地はもちろんヨーロッパ在住のFB友達のマーチに関する投稿は何百と連なっているのに、私のFB友達で東京のマーチに参加したという人はひとりだけ。とすると、国によってこのイベントへの関心の温度差はやはり現実としてありそうだ。この温度差はいったいどこからくるのだろう?

前回のブログでも書いたように、マーチに参加さえすれば活動家としてのお墨付きになるとか、マーチに参加しないのは社会的意識が低い証拠だとか、思っているわけではありません。マーチというのはあくまでもひとつの象徴的な行為であって、大規模で平和的なこのイベントを成功させた実績を、実際の政策に結びつけることができなければ、マーチの意義はない。そして、マーチという形の意識表明はひとつの文化なので、いくら世界各地でこのマーチが行われたからといって、それが普遍的な社会運動の印だとも言えない。それでも、日本でも集団的自衛権をめぐってはSEALDsをはじめとして若者を含む数多くの人たちが抗議行動に集まったのだから、マーチといった行動自体が今の日本の人たちにとって異質だとか、日本の人々の政治的関心が低いとか、そういうことはないと思う。では今回のマーチにかんするこの温度差はどこからくるのか?

考えられることとしては、

 (1)トランプの行動や発言や掲げている政策には確かに問題点は多いとはいえ、民主的な選挙よってアメリカ国民が選んだ大統領なのだから、その政権に日本の人間が抗議する筋合いはない。実際にトランプ政権が日本に不利益をもたらすようであれば、その時点で日本の政財界リーダーが交渉力を発揮し、それでも不十分であれば日本の人々が抗議行動に出るかもしれないが、今の時点で日本人がマーチをするインセンティブはない、と考えられている。

 (2)トランプ政権がもたらす危機が、日本の人々にじゅうぶんな現実感をもって伝わっていない。医療保険や移民政策において極端な立場を表明している、といったことは報道されていても、それはアメリカの人たちにとっての問題であって、日本にいる人たちには直接の影響はない、少なくともわざわざ寒いなか出かけていって行進するほどの切迫感はない、と捉えられている。

 (3)ウィメンズ・マーチというと、女性の運動として限定的に捉えられやすい。そして、トランプ政権と女性の問題というと、女性の中絶の権利の問題に注目が集中しがちである。中絶の権利が現実の問題として感じられにくい日本では、女性の連帯といってもかなり抽象的な次元でしか感じられない。
 
 (4)東京のウィメンズ・マーチを企画したのはロスアンジェルス出身のアメリカ人女性らしいが、企画チームが、日本の市民団体、女性団体と提携する努力が足りなかったのか、努力はしたけれど日本の団体側からの反応が足りなかったのか、とにかく、このウィメンズ・マーチの趣旨を日本の人々にとっての問題意識にじゅうぶんに結びつけ、広く日本の人々を動員することができなかった。

 (5)カナダやヨーロッパ、オーストラリア・ニュージーランドなど、先住民と入植者の関係や人種問題と格闘してきた歴史、移民の大量流入とその排斥の歴史をもち、現在も移民や難民の流入とそれに対する政府や社会の一部の反応に向き合っている国々では、トランプが象徴するようなファシズム的ナショナリズムのもたらす危機を、自分たちの問題として引きつけて考えやすい。ゆえにそうした国々では、トランプ政権そのものに抗議するということを超えて、自国の政府や社会に対する訴えとしても、多くの人たちが、マーチに参加した。それに対し、日本ではトランプ政権を自分たちにレレバントな問題として捉えるとっかかりが少ない。

 (6)アメリカ国外であれだけマーチに人が集まったのは、大国アメリカが象徴的に担ってきた、そして実際にリードしたり維持に貢献してきた、自由や平等を追求する姿勢や多様性や開放性を尊ぶ価値観が、トランプ政権によって損なわれてしまう、という強い危機感を内発的に抱いた人々が、アメリカでのマーチをきっかけにやむにやまれず自ら行動に出た、という要素が強い。日本はアメリカの同盟国であり人々はおおむね親米的な心情であるとはいえ、社会全体としてはアメリカが象徴するそうした価値観を見習おうという姿勢はそもそもそれほど強くない。ゆえにトランプ政権に抱く危機感もそれほど強くない。あるいは、内発的危機感はあったとしても、人々の多様な危機感を求心的に行動に結びつけるようなリーダーシップや組織力が不在だった。

今の時点で思いつくのはこのくらいです。それぞれの点について「そうはいってもねえ」と言うことはいくらでもできるのですが、それはともかく、上で書いたハワイアンの問題との関連で一番引っかかっているのが(4)。私の知り合いのなかで唯一東京のマーチに参加した友達によると、彼女はマーチの二日前に在仏アメリカ人の友人からの情報でイベントの趣旨を知って参加したものの、東京のマーチに関して日本語での呼びかけは目にしなかった、とのこと。また、「反トランプ」を唱えるのが主な目的ではなく、「人権・多様性・自由・平等」の価値を尊重していることを示すための静かな行動を目指していること、ウィメンズ・マーチといっても性別・ジェンダーに関係なく誰でも参加できる、というマーチの趣旨やイベントの具体的な情報は、日本では広く拡散されていなかった。東京のマーチの共催団体は(アメリカ)在外民主党、ということで、党派性もあった。ということだったようで、そう考えるとやはり企画者が「アメリカの政治に関する抗議マーチ」という以上の訴えかけを日本の人々にしなかったのではないかと推測します。

日本でマーチをするにあたって、日本語で情報を拡散せず、日本の人々の関心を喚起するようにマーチの大きな趣旨をきちんと説明せず、日本の各種団体への働きかけなどをしなかったんだとしたら(本当にしなかったのかどうかは、きちんと調べてみないとわかりません)、それは呆れる姿勢だと思います。日本在住アメリカ人が東京でトランプ政権に抗議するマーチをするのは、それはそれで結構だと思いますが、どうせするんだったら、この危機が日本の人々にどのようにレレバントであるか、なぜこれが「アメリカの問題」を大きく超えた世界の問題であるかを説明し、日本の人々との連帯を育むようなイベントとして企画するべきではなかったのか。日本語で広報する必要を感じなかったのだとしたら、それはあまりにも日本に対する無知・無神経の表れではないか。ある意味コロニアルではないか。インターセクショナルどころか、このマーチの趣旨に相反するものではないか。

などと考えると、これだけ世界の人々を動員したマーチでも、差異を認識した上で深い意味での連帯を築くというのは、実に難しいものなのだなあ、こうした困難がこれから必要なたくさんのアクションでマイナスに表面化しないといいなあ、マーチ大成功万々歳と喜んでばかりいる場合ではないなあ、という気持ちになります。

トランプ政権は「アメリカの問題」を大きく超えて世界の問題である、という現実はトランプ大統領就任三日目の今日にしてすでにいくつもの具体的な形になって表れていますが、それらについてはまた追って書いていくつもりです。

2017年1月21日土曜日

J20 Day of Resistance & Women's March@ホノルル

とうとうトランプ政権が発足しました。もはやこれはトランプ氏というひとりの人間の人格や価値観や政策の問題だけではなくなっています。閣僚に選ばれている人は、見事にひとり残らず、これまでにアメリカの人々が障壁を克服してきたり権利を勝ち取ってきた流れに逆行する立場を公表している人物。大統領就任の当日には早々、ホワイトハウスの公式ウェブサイトから気候変動やLGBTにかんするページが削除される。オバマケアを撤廃しようという動きはすでに始動中。などなど、ニュースの見出しを見るだけで吐き気がするようなことだらけ。

でもそのいっぽうで、昨日と今日は、計25年近くになる私のアメリカ生活の中でもいい意味でもっとも印象に残る2日間に入るものでした。

トランプ大統領就任が象徴するものに抗議する人々がアメリカ全国でさまざまな活動を企画し、とくに各地の大学では、伝統的な講義やセミナーという形式を超えて、開かれた場で活発な議論をするためのteach-inと呼ばれる活動が行われました。ハワイ大学でもJ20 Day of Resistanceという名のもと多様な活動がありました。午前中は、さまざまな学部がその専門に沿った内容のワークショップやディスカッションを開催。アメリカの宗教と政治を専門にしている同僚が開催した「トランプ時代におけるムスリムとの連帯」というセッションを見学しましたが、ハワイ大学を卒業し現在は医学部の学生である、ムスリムの女性をゲストに呼び、世間に蔓延するムスリムにかんする誤解や、ムスリムとしてアメリカそしてハワイで暮らすということの意味を、体験的に語ってもらいながら、参加者の質問やコメントに答える、というもので、とてもいいセッションでした。私自身は、今学期「アメリカの音楽と文化」という学部生用の授業を担当しているため、これを機会にSongs of Protest, Songs of Solidarityという特別セッションを企画し、授業を受講している学生だけでなく誰でも参加してもらえるように公開しました。私がアメリカにおけるプロテストソングの歴史と、We Shall Not Be Moved, We Shall Overcome, Amazing Graceの3曲の背景や普及の経緯(どれもとても有名な曲ですが、それぞれにとても興味深い歴史があるのです)を簡単に説明。その後で、ゲストとして来てもらった素晴らしいソプラノ歌手の友人であるRachel Schutzがリードし、アメリカ研究学部の同僚で趣味で演奏や作曲をするJoyce Marianoがギター、私がキーボードで伴奏して、皆で実際にその3曲を歌う、というセッション。受講生以外の参加者も予想以上に多く、学生だけでなく他学部の教員やアドミン陣、大学外の一般の人たちも参加して、積極的に質問や発言をしてくださったうえに、初めは気恥ずかしそうにボソボソしていた学生たちも最後には元気に声をあげて歌っていました。(テレビの取材も来ていて、後から友達に聞いたところによると夜のニュースにこのセッションの様子が出ていたそうですが、残念ながら動画はアーカイブされていない模様。)




その後キャンパスの中心で行われた全体のteach-inでは、女性の安全、LGBTの権利、移民政策、ハワイ先住民とアメリカ合衆国の関係史など、さまざまなトピックについての専門家・活動家が問題を提起し行動を促すスピーチをし、その合間に私は再び上記の3曲についての背景説明と伴奏をして皆で歌いました。その後、キャンパスからワイキキまでの行進があり、他の3ルートの行進と合流して、トランプタワーの前でデモをしました。


就任式を見てうんざりした気分になるよりもこうやって過ごすほうが有意義だと心から思えた昨日でしたが、一夜明けて今日はさらに感動的でした。全米の何百もの都市だけでなく世界中の各地で企画されたWomen's Marchがホノルルでも行われ、私も参加しました。


私は計17年間ほどになるハワイ生活で、数多くのデモ集会や行進に参加してきましたが、今日のハワイ州議事堂周りの行進は私がこれまでに参加したもののどれよりも規模が大きく、メディアによる推定人数は5000人から8000人ほど(メディアによって推定人数にだいぶ差がありますが、これは各メディアの政治的指向の他にも、どの時点・地点で人数を推定するのかが難しい、という要素があるでしょう)。Women's Marchとはいっても圧倒的に女性が多いということはなく、私が見た感じだと少なくとも四分の一から三分の一くらいは男性だったし、人種や年齢(若い人たちの元気も胸に迫るものがありますが、車椅子や杖で行進している高齢者の人たちの姿にも勇気をもらいました)や、いわゆる「スタイル」が実に多様な人たちが、こうして一堂に集まり、ホノルルにしてはかなり肌寒く強風で雨もあった天候のなか、皆で行進しているということに、言いようのない感動と高揚感をおぼえました。










そして、家に帰ってからフェースブックを見ると、ボストン、プロビデンス、ニューヨーク、アトランタ、シカゴ、マディソン、コロンバス、セントルイス、ヒューストン、オースティン、シアトル、サクラメント、ロスアンジェルスなど、本当にありとあらゆる都市でみなが行進に参加している写真を投稿している。そして、行進に参加するため、何時間も飛行機や電車や車に乗ってワシントンに出かけていった人たちがたくさんいる。みなが、この行進のトレードマークとなったピンクの毛糸の帽子を被ったり、政治的メッセージとユーモアの混じったサインを掲げたりして、何万人もの人たちと一緒に道を歩いている。その様子をフェースブックで見ていると、「そうだ、これこそが私の信じてきたアメリカだ」という思いがこみ上げてきて涙が出そうになります。

もちろん、考えを同じくする何千人、何万人、都市によっては何十万人もの人たちと、時と場所を体験を共有するというのは、否定しようのない高揚感や連帯感があるものです。それと同時に、こうした行進といった活動はあくまで象徴的なものであって、それ自体が具体的な政策につながるものではないのも事実。行進に参加したということで、自分が政治的な活動をした、フェミニストとしての責務を果たした、というような気分になり、その場で写真を撮ってフェースブックやインスタグラムに投稿することで、自分が「ちゃんと活動している」ことを友達に証明したつもりになり、その翌日からは何もしない受動的な位置に落ち着いてしまう、という可能性もあるでしょう。でも、今日の世界各地での行進で参加者が感じ取った、多くの人に共有されている政治的決意や使命感、そして「皆で力を合わせればこれだけのことができるのだ」という実感は、明日からも息の長いさまざまな活動につながっていくのではないか。そう実感できる一日でした。