2012年4月29日日曜日

別れの儀式

ニューヨーク・タイムズのサイトで、「あなたにおススメの記事」のナンバー1になっているのが、「別れの儀式」についての記事。この記事、全読者のなかで「もっともメールされている記事」のトップ10にすら入っていないのに、私には一押しでおススメされているというあたりが、なんとも複雑な気分(笑)。それはまあともかくとして、記事の内容は、私はとても共感するものであります。


要は、最近、離婚するカップルがなんらかの別れの儀式を行うことが増えている、ということ。たいていのカップルは、結婚するときには、人生を共にすることを誓う儀礼や式典をする。だったら、離婚をするときにも、その誓いから自らを解放し、結婚生活の過程で共有してきたものを讃え記念し、それに終止符を打ち、人生の新方向の第一歩を踏み出す儀式があってもしかるべし。恨みつらみや怒りをずるずると引きずっているよりも、こうした儀式を行うことで、気持ちに整理をつけることができ、プラスのものをプラスとして捉えることができる。もちろん、別れの悲しみを儀式が減らしてくれるわけではないが、いろいろな意味でひとつの節目をつけることにはなる。


カップルによっては、それぞれが反対側から万里の長城に登り、歩いて中間地点で会い、抱擁しあってから、再び別の道を行く、といった壮大な儀式をする人もいれば、ふたりで暮らしたアパートの真ん中でふたりの思い出を語り合い、お互いの幸せを願いあって別れる、といったシンプルな終止符をつける人もいる。儀式は必ずしもふたりでする必要はない。ある女性の場合は、何年も前に済んだ離婚を今でも引きずっている自分に気づき、気持ちにけりをつけるために、自分で派手な離婚パーティを開催し、ナイトクラブを借りて、親族や友達の見守るなか、ドレスを着て会場の真ん中に歩み出て、旧姓を取り戻す誓いの言葉を述べると、母親が彼女に指輪をはめて、「家族のあなたへの愛情は、いつまでも終わることがないのよ」と言ったという。笑いや涙や拍手や音楽やダンスに満ちた、明るい別れのパーティ。なんとも素晴らしい(なんだかいかにも私がやりそうなことだ〜:))。


別れる本人たちの気持ちの整理にも儀式はプラスの意味をもつけれど、とくに子供がいるカップルにとっては、こうした儀式は重要だという。両親の離婚によって混乱・困惑している子供にとって、こうした儀式を経ることは、両親の歴史や選択を理解し受け入れる機会となる。親は、儀式の場で、離婚後も子供たちはそれぞれの親にとって一番重要な存在だということを改めて子供に伝えることができる。とのこと。


私は以前から、こういう儀式があればいいのにと思っていました。離婚だけでなく、恋人同士が別れる場合でも、(私自身を含め)こういった儀式に救われる男女は多いのではないかと思っていました。もちろん、別れの状況によっては、とてもそんな儀式をする気にはなれない、という人たちも多いでしょうが、きちんとした話し合いを経てお互いの合意のもとで別れる場合には、こうした儀式は、悲しいながらも美しく重要な節目になり、気持ちの整理に役に立つのでは。また、ふたりと親しくしてきた家族や友人たちにとっても、儀式はプラスなような気がします。最近、私が親しいカップルのいくつかが別離をしているのですが、そうした場合、友達にとっては、傷ついている本人たちへの気持ちももちろんですが、カップルとしての二人との関係が消滅してしまう悲しみも大きい。ふたりの結婚を祝い、結婚生活のあれこれを共有してくれた周りの人たちに、感謝と挨拶の気持ちを表すという意味でも、こうした儀式はあってもよい気がします。私に商才があったら、別れの儀式やパーティをコーディネートするビジネスを始めるかも。

2012年4月18日水曜日

文学賞の経済学

今日のニューヨーク・タイムズで「もっともメールされている記事」になっているのが、私が大好きで以前このブログでも言及したことのある小説家Ann Patchettの論説。今年のピュリツアー賞が先日発表になったのですが、フィクション部門で「受賞者なし」となったことに異論を唱えている文章です。


昨年、最新小説State of Wonderを発表したAnn Patchettですが、自分の作品に賞が与えられなかったことに抗議しているわけではありません。この論説のなかでも、昨年刊行された小説のなかで彼女自身がたいへん高く評価している作品がいくつも具体的に挙げられ、彼女が賞の審査員であればそのうちのどれかに喜んで賞をあげたであろうことが示されています。これだけ素晴らしい作品がありながら受賞者なしというのは、審査員たちがコンセンサスに到達できなかったからであろうが、一般の読者はおそらくはそうは解釈せず、「2011年はいい小説が生まれなかった年なのだ」という理解をするだろう。ただでも人々の書籍離れが進み、出版業界や書店業界が苦しい思いをしているなかで、優れた作品が多々あるにもかかわらず賞を出さないというのは、納得がいかない。ピュリツアー賞のような権威のある賞の受賞作はテレビやラジオで取り上げられ、巷の話題となる。小説を読むことで、読者は自分以外の人物の生活や人生を想像することでより広い世界への共感を育み、複雑な物語の筋をずっと追うことで頭を使い、しばらくの時間にわたってひとり静かに思索する。現代の社会においてそうした小説はますます重要であるにもかかわらず、小説が「巷の話題となる」ことが少ない現代、一般の人々の文学への関心を高めるのにこうした賞は重要な役割を果たしているのだから、審査員同士の葛藤などで安易に「受賞者なし」などという結果を出さないでほしい、という主旨。


私は今ちょうど、The Economy of Prestige: Prizes, Awards, and the Circulation of Cultural Valueという本を読んでいる最中なので、この文章はとりわけ興味深いです。この研究は、第二次大戦後、世界中で文学・映画・美術・音楽などでありとあらゆる賞が与えられるようになった現象を分析しているものです。文学者であるJames English氏が、文化史だけでなく、あえて社会学や経済学の視点から文学賞を扱っているのがとても斬新。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の取材以来、音楽の世界におけるコンクールの意味や役割を考えている私にとっては、たいへん面白く、わくわくしながら読んでいます。ピュリツアー賞や影響力のある文学賞も例に取り上げられ、賞の運営者と出版業界、審査員と作家たちといった複雑な関係が綿密に分析されています。文学賞が文学という芸術分野の自律した価値観を反映するためには、賞の審査員や運営者たちは出版業界から独立した立場でなくてはいけないでしょうが、それと同時に、賞には、それが対象とする文化分野そのものを讃えることで地位を高めようとするという目的もある。文学賞(そして文学以外のさまざまな文化賞)というものがもつ経済効果だけでなく象徴資本や文化的役割が、具体的にどのように機能するかを、たくさんの事例にもとづいてさまざまな視点からとらえられていて、とても興味深いです。研究書でありながら文章はきわめて平易で読みやすいのも見事。関心のあるかたはご一読を。



2012年4月17日火曜日

大学キャンパスのセックス週間

昨日のニューヨーク・タイムズの記事のひとつが、「大学生、セックスをめぐる会話を広げる」というタイトルの記事。3月末にハーヴァード大学で、その名もずばり、Sex Week at Harvardというイベントが学生たちの企画・運営で開催され、一週間にわたり性にまつわるあらゆる話題を取り上げる講演やパネルディスカッションが行われた、とのことです。この記事で紹介されているのはハーヴァードのイベントですが、もとは2002年にイェール大学で始まり、以後全国のいろいろな大学で開催されているそうです。避妊や中絶をめぐって政治の舞台ではさまざまな議論が繰り返されていますが、このイベントではそうした政治的な話よりも、学生たちの日常生活により身近なトピックに重点が置かれ、セクシュアリティを扱う授業では取り上げられない実践的な話題が多かったとのこと。ポルノグラフィーの倫理、性と宗教、SM、同性愛のセックスなどといったトピックを扱うパネルに加え、世間で流布している現代の大学生の性生活のイメージと現実のギャップ(今の若い男女は誰とでも気軽にセックスをするというイメージとは裏腹に、実際はひと世代前と比べて今の学生はセックスをそれほどしていない、など)や、楽な気持ちでセックスを楽しみ、自分が欲しているものをきちんと相手に伝える方法などを、学生たちが率直に話し合うことが主眼。

教授や医師、宗教関係者などもイベントには参加したものの、大学そのものはイベントの公式スポンサーにはなっておらず、セックス週間が開催された他の大学でも、大学が性行為をめぐるイベントを公認することに反対する声もあるそうです。

それでも、多くの若者が大学時代にセックスを初体験し、その意識のかなりの部分をセックスが占めるのは現実である以上、オープンに性について語り正確な情報を得る場がキャンパスにあることは大事。ちなみにハワイ大学では、以前にこのブログでも紹介したVagina Monologuesが今週末上演されます。

2012年4月15日日曜日

同棲は幸せな結婚につながらない?

今日のニューヨーク・タイムズで「もっともメールされている記事」になっているのが、「結婚前の同棲の弊害」というタイトルの記事。臨床心理学者が、現代アメリカの結婚にかんするさまざまな研究とみずからの臨床経験をもとに、同棲と結婚の関係について考察したものなのですが、これ、なかなか興味深い。


アメリカでは20世紀後半から、性をめぐる道徳観の変化や避妊の普及、そして経済的要因などから、結婚前に同棲するカップルは急激に増え、現在では20代の未婚カップルの過半数が一度は同棲を経験し、結婚するカップルの過半数はすでに同棲をしている。2001年に行われた調査では、20代の人々の3分の2が、「結婚前に同棲することで、うまく生活を共にすることができるかどうかを試すことができ、結婚した後に別れることを防ぐことができる」と同棲を肯定的に捉えている、とのこと。しかし、こうした見方は、同棲と結婚の現実とは一致していない。結婚前に同棲をしていたカップルは、そうでないカップルと比べて、結婚への満足度が低く、離婚する率が高い、のだそうです。


これまでは、この現象は、同棲を選ぶカップルは結婚にかんする既成概念にとらわれていないぶん、離婚を決断するハードルも低いからだ、と理解されていました。が、同棲そのものがあまりに一般的になって、同棲という選択が宗教観や教育程度や政治観ととくに結びつけられない現在では、そうした説明は不十分。実際に同棲・結婚・離婚を経験した人たちを詳しく調査した最近の研究は、同棲そのものに問題がある場合が多い、との結論を出しているそうです。


まず、多くのカップルは、お互いの意思や動機や将来のビジョンを話し合ってはっきりとした合意やコミットメント(「コミットメント」については『性愛英語の基礎知識』をご参考に:))のもとに同棲を選択するのではなく、「デート」をしているうちに互いの家に泊まるようになり、その頻度が増え、ほとんど毎晩をどちらかの家で共に過ごすようになるにつれ、「だったら一緒に住んだほうが経済的だし」と、要は成り行きで同棲に至るというパターンをたどる。そしてしばしば、同棲がなにを意味しているかについて、男女それぞれで理解が違う場合が多い。意識的であれ無意識にであれ、女性は、同棲は結婚へのステップと考えることが多いのに対して、男性はふたりの関係の試験期間、あるいはコミットメントを先延ばしにする手段ととらえていることが多い。そうした理解の相違が、ふたりの関係への不満を生み、結婚に至った後でも「コミットメント」の低さにつながる、とのこと。


結婚よりも同棲のほうが解消しやすく、試しに一緒に暮らしてみてうまくいかなかったら別れることが可能、というのが常識となっているけれど、実際にはなかなかそうはいかない。恋人と一緒に暮らすのはやはり楽しい。ふたりで家具を選んだり、ペットを飼ったり、友達づきあいや日常の雑事を共にするのも楽しい。けれど、そうやってふたりの生活にかける「投資」が積み重なるほど、なかなか後には引けなくなり、ふたりの関係に不満や疑問が感じられても、それに正面切って向き合うことなく、成り行きで結婚してしまうケースが多い。同棲していなければとうに別れていただろうカップルが、同棲という状況から脱しにくいために、何年間も不毛な関係を続け、結婚そして離婚に至る、というケースがかなりあるのだそうです。


なるほど〜。私の友達にも、10年近く幸せな同棲生活を続けたあと、結婚したと思ったら1年で離婚することになってしまったというカップルがいます。この記事は、同棲そのものをいいとか悪いとか評価しているわけではなく、現代において同棲は急激に減ったりなくなったりはしえない現実としてある以上、同棲をするのならば、お互いの動機やコミットメントをきちんと話し合ってから、意識的な選択としてするのがよし、と提言しているわけですが、それには同感。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、私もボーイフレンドと同居生活をしていたことがあります。彼がいずれマンションを出て行ったのは、私たちが別れたからではなく、彼が遠いところに仕事で引っ越していったからですが(そしてその後しばらくして私たちは別れることになりましたが)、いったん同棲したらそれを解消するのは普通につきあっていて別れるよりもずっと大きな打撃になるので、ちょっとくらい不満や疑問があっても成り行きでそれを続けてしまう、というのは理解ができます。気をつけよっと。

2012年4月12日木曜日

村上春樹 文章とリズム

一昨日、ハワイ大学で村上春樹の講演があり、行ってきました。6年前に同じ会場で村上氏が講演したときの混雑ぶりを覚えていたので、今回は友達と早めの食事をして、開場時間(講演開始の1時間前)まもなく到着するようにしたのですが、我々が行ったときには600人ほど入る会場がすでに4分の3以上いっぱい。講演30分前には立ち見オンリーになっていました。講演が始まる頃には、壁沿いに大勢の人たちが立ったり座ったりしていて、たいへんな熱気。大学関係の人だけでなく、赤ちゃんや小学生の子供を連れてきている人やら、高校生からお年寄りまで、実にいろいろな種類の人たちが聴衆をなしていて、村上ファンの層の厚さに素直に感心。早く行っておいてよかった。


前回の講演のときは、たしか村上氏自身がすべて英語で話をしたような気がする(でもあまり記憶はさだかでない)のですが、今回は、初めに少し英語で話した後、短編を2本日本語で朗読し、文の合間合間に英語の翻訳を別の人が朗読する、という形式でした。朗読されたのは、1980年代の作品である「鏡」と「とんがり焼きの盛衰」。私は、村上氏の作品は小説よりも短編のほうが好きなのですが、この2本は読んだことがありませんでした。その内容もなかなか興味深かったけれど、なにより印象的だったのが、村上氏の朗読家としての魅力。ペースや間のとりかた、抑揚のつけかたなどが、ものすごく上手で、まるでプロの役者さんの朗読を聴いているようでした。たとえば、ふたつの文が「...。そして、...」でつながっているとすると、普通だったら「。」の後に間をおいて読むところが、そこでは敢えて間をとらず「そして」まで行って、その後で息をつく、といったテクニックで、文章の意味的な流れがリズミカルに伝えられるのです。『走ることについて語るときに僕の語ること』『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で、村上氏は文章のリズムということについて触れていて、私はおおいに共感したのですが、今回彼の朗読を聴いて、非常に納得がいきました。一緒に行った友達は、今回読まれた2本の短編は前に読んだことがあったけれど、村上氏の朗読を聴くと、まるで全然違う作品のような印象を受けた、と言っていました。ちなみに、英語の朗読もたいへん上手で、翻訳者、そして朗読者が村上氏の文章のリズムをきちんと意識していることが感じられて、こちらも感心しました。


朗読の後で少しだけ質疑応答の時間があったのですが、私が招待した友達(ハワイ・シンフォニー・オーケストラのヴァイオリニストで、趣味で自分でも小説を書く、とても面白い人物。おおいなる村上ファンなので、この講演のことを教えてあげた)が、「作品を書いたり翻訳をしたりするときに、自分の文章を声に出して読むことがありますか」と訊いていましたが、これはとてもいい質問だと思いました。村上氏の答は、「はい、たいてい声に出してみます。ただし、それをするのは3稿めか4稿めになってからです」というものでしたが、これも非常に納得。


講演の後でサイン会があり、瞬時にして老若男女何百人もの人が列をなしていました。すごい。

2012年4月8日日曜日

現代日本の新聞小説 水村美苗『母の遺産』

こちらはイースターで週末がふだんより一日長いのを機に、著者謹呈で送っていただいた『母の遺産―新聞小説』を一気に読み終えました。読み終わった瞬間になにかを書きたくてたまらない気持ちになると同時に、いったいなにをどう言葉にしていいかわからないという気持ちもあって、とりあえず頭のなかで一晩寝かせてみましたが。。。


とにかく、スゴい。このブログを以前から読んでくださっているかたは、私が水村美苗さんの著作にたいへん思い入れがあることはすでにご存知でしょうが、これまでの作品それぞれが渾身の傑作でしたが、『母の遺産』は、水村さんが文字通り身を削る思いで書いたことが感じられます。もともとは二〇一〇年から一年余にわたって『讀賣新聞』の土曜朝刊に連載されたものですが、単にそれだから副題が「新聞小説」となっているわけではないのは、これまでの水村さんの仕事からも明らか。これまでの『続 明暗』『私小説―from left to right』『本格小説』それぞれにおいて、水村さんは、「西洋の衝撃」を経験した日本の文豪たちが、それまでの長く豊かな日本語や日本文学の歴史と、西洋近代との出会いに果敢に向き合い、日本という固有の現実を描くと同時に、普遍性があり知的にも道徳的にも高みを志すような文学を生み出すべく、言葉や文体や形式の問題に真剣に取り組んできた、その流れを、現代日本で継承しようと、野心的な試みをしてきました。それと同様、この作品では、夏目漱石や尾崎紅葉の新聞小説がひろく市民に読まれた明治日本が我々に残したさまざまな「遺産」を、主人公の祖母、母、そして主人公みずからの人生を通じて描き出す、というもの。『日本語が亡びるとき』で水村さんはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を詳しく論じていますが、そのアンダーソンのおもな論旨のひとつは、新聞という印刷媒体が「近代国家」という意識を生み出すのに決定的な役割を果たした、ということ。それをふまえて、「新聞小説」が、同時代の一般市民にむけて、娯楽としても楽しめながら社会や国が直面する「現実」を描き、願わくば高みを目指すべく読者を啓蒙しようとする、それがどういう意味をもっているかを考えようともする。その小説としての意匠もスゴい(後半、讀賣新聞に連載された『金色夜叉』を読んで人生が変わってしまう祖母の物語のあたりから、歴史的・文学的・理論的な旋律が交響曲のように織り混ざって、それはそれは興奮します)のですが、それよりなにより、読者が「これってひょっとして私のことが書かれているのかしら」と思わざるをえないようなリアリティが壮絶。


『私小説』や『本格小説』と違って、この作品の主人公美津紀は、ごく普通の日本の中年女性。たしかにいろいろな意味でじゅうぶん恵まれた中産階級の人間ではあるものの、その恵まれかたは決して桁外れなものではないし、実際、母の遺産が入ったことによって人生の転機が可能になるといっても、その遺産の額も非常に現実的なもので、その遺産が可能にするであろう美津紀の新しい人生の描かれかたも、哀しいほど現実の匂いに満ちている。離婚を考える美津紀の頭のなかで、きわめて具体的な数字でお金の計算がなされると同時に、「ヘルパーさん」「ケアマネ」「胃瘻」「年金分割」「Gメール」といった単語が織りなす現代日本の現実のありかたを、冷徹に描き分析しながら、その悲喜劇に振り回される自分にもその冷徹な分析を向ける。母の死によって心身ともに消耗しきる介護を終え、それと同時に、いよいよ向き合わなくてはいけなくなった自分の自分の人生の意味を振り返る美津紀の物語なのですが、「母の遺産」とは、金銭的財産のほかに、母がひとりの女性として、妻として、親として、人間として、自分に伝えたもの、背負わせたものを、どのように自分の人生において処理するか、というテーマ。「普通の女性」の「ありがちな話」を通して、本質的で深く大きな問題に向き合う、日本の『ボヴァリー夫人』のような小説。


あんまり書くとネタバレになって、「新聞小説」を読む喜びを減らしてしまうので、あまり具体的なことは書かずにおきますが、美津紀の母親への思いや老いの現実の描写も壮絶ですが、夫の哲夫との関係を振り返る部分は、読んでいて、美津紀と一緒に、蒼白になったり、頭も身体も凍てついたり、突如いろいろなことが理解できたり、なぜかすっと決意ができたり、といった体験をしている気持ちになります。自分が望んでいるようには相手が自分のことを愛していなかったということに気づき、そしてまた、自分も相手に対する愛情や尊敬をもはやもっていないことに気づく、その「ありがちな」衝撃のなかでも、楽しいこともたくさんあった結婚生活を共にした相手には、残りの人生を卑しく哀しい生き方をしてほしくないと、その卑しく哀しい生き方を阻止するための、彼女の瞬時にして冷静で賢明な判断、そして尊い思いやりと人間性に、心打たれます。私自身のこれまでの恋愛にも思いが行って、涙、涙。愛とはなにか、というシンプルにして決定的な問題を、読者に容赦なく突きつけてくれます。


他にもたっくさん言いたいことはあるのですが、物語中の具体的なことに触れずにコメントするのも難しいので、もっと多くの読者がこの作品を読んだ頃に改めてまた文章にしようと思います。とにかくスゴい小説ですので、ぜひご一読を。これを読んで、離婚を決意する日本の女性読者がたくさん現れるのではないかしらん。でも、現実の厳しさもあまりに生々しく描かれているので、自分の状況を振り返ってそれを踏みとどまる決意をする人も多いかも。



2012年4月3日火曜日

哲学者とピアノ

たいへんご無沙汰いたしました。3月終盤は春休みで、ニューヨークに5日間とトロントに4日間行っていました。私が到着する直前までは嘘のような春の気候だったとしきりに言われたのですが、私がニューヨークに着いた日はかなり暖かかったのに、その後一転してまた冬のような気温になり、さらにトロントでは夜には雪までちらつく寒さ。東海岸に住んでいたときはこれよりずーっと厳しい寒さを何年も経験したのですが、人間はやはり環境に適応するもので、長年のハワイ生活で私はすっかり寒さに弱い身体になってしまいました。寒さはともかくとして、ニューヨークはやはり刺激に満ちて楽しい街で、ありとあらゆる人たちがたくさん言いたいことをもっていて、なんだか道を歩いているだけで自分の背筋もすっと伸びる気がします。とくに短期間バケーションで行く身には、街の喧騒や混沌や悪臭までもが愛おしく感じられます。


今回の旅行は基本的にプライベートで、友達と過ごすことがメインだったのですが(ちなみにリンカーン・センターでMurray Perahiaのリサイタルを聴きました。その純粋な音楽性が素晴らしかったです)、唯一の仕事関係のミーティングで、コロンビア大学出版の編集者とランチをしました。コロンビア大学出版のオフィスは、コロンビア大学のキャンパス内にあるのかと思いきや実はそうではなく、なんとリンカーンセンターのすぐ向かいの、一等地(マンハッタンはどこでも一等地ですが)の眺めのいいビル。オフィスの雰囲気からして知性と感性が感じられて、そこにいるだけで賢くなる気持ちがするほど。私が今回会ったのは、人文系、とくにアジア関連の書籍の編集責任者をしているベテランの女性編集者で、私が今手がけているプロジェクト(すでに契約済みなのですが、まだ現在進行中のプロジェクトなため、具体的な出版の予定が立ってから公表いたします)で一緒に仕事をさせていただいている人です。ランチに出かける前に彼女のオフィスでおしゃべりをしながら書棚をじろじろ眺めていると、刊行ほやほやの一冊のカバーに惹かれ、手に取ってみたのですが、その解説をみて、ムムム!「これは絶対読まなくちゃ!」とおおいに興奮してぺらぺらめくっていたら、よほど物欲しげな表情をしていたのか、「じゃあそれ持って行っていいわよ」と言われていただいてしまいました。それが、この本。『The Philosopher's Touch: Sartre, Nietzsche, and Barthes at the Piano』

サルトル、ニーチェ、バルトの3人の哲学者たちは、みながアマチュア・ピアニストであったとのこと(知らなかった!)。クラシック音楽の愛好家として音楽を聴くだけでなく、みずからも熱心にピアノを弾いたこの3人は、ピアノを弾くという行為が、その人間性の重要な一部であったにもかかわらず、彼らの思想とピアノの関係はこれまでほとんど論じられてこなかった。そして、彼らのピアノとのかかわりかたと、著書にあらわれる哲学とには、一筋縄ではいかないなかなか複雑な関係がある。3人の演奏のしかたや、彼らが愛した作曲家や作品を、彼らの思想と照らし合わせて分析し、とくに音楽のリズム、テンポ、時間性といったことに焦点をあて、ピアノを弾くという行為の身体的・感情的・理論的な側面をまさに「哲学」したもの。著者自身もピアノを熱心に弾くフランス哲学者で、原書はフランス語で書かれた哲学者ゆえ、論の運びのスタイルはアメリカの学術書とはずいぶん違っているのですが、その内容ももちろんですが、なにしろ文章の美しさにすっかり魅了されます。翻訳されたものとは思えない。ああ、私も死ぬ前にこういう文章を書いてみたい!あまりに興奮して、旅行中そしてトロントからの帰りの飛行機で読み終えてしまいました。長い本ではないので読むのにそれほど時間はかからないのですが、なにしろ哲学書ではあるので、さらっと読み流しただけではじゅうぶんに理解・堪能できない箇所も多く、これはこれからの人生において何度も手に取ってじっくり味わいたい一冊になることでしょう。プレビューとして、最初のあたりを一部抜粋してご紹介します。どうぞお楽しみください。


The unity of the self is a construction that hides the personal dissonances and rhythms with which we never cease to compose. And playing an instrument, far from expressing who we are, engages us in the experience of an active passivity and a different time. My choice of these three writer-philosophers--Sartre, Nietzsche, and Barthes--comes from my interest in temporality as a window, an opening onto the self as subject to compositions. The piano is assuredly not the only path to free oneself from the collective rhythms of society. Nevertheless, playing the piano is no simple hobby, no mere violin d'Ingres. I believe, through my own long experience with this instrument, that it engages a unique disposition to the world, to past generations, and to the contemporary. Among the signs confirming such an intuition, I note that the musical activity of these thinkers often contravened their public works. The discordances thus revealed allow us to approach this gap and take a step to the side. We can observe the unchaining of the will and the play of the body that result under the constraint of touch and tempo . . . 


How are we to explain such a gap between listening and playing, between public discourse and private pleasure? Is it imposture? contradiction? dissonance? a secret conservatism? The reality is less clear-cut. More interesting for us is to follow this path of escape through which one's synchronous self can become disoriented with unsuspected rhythms. In this gap, in this path of escape, we can see a complex movement develop in the relation of a subject to the intersection of different times: chronological, historical, and singular. These debates cannot be reduced to questions of taste or to some imagined compatibility among musical genres. Instead let us ask what happens when an intellectual like Sartre retreats from the noise of this world to play Chopin. How do those who profess themselves to be abstract thinkers experience emotions, the body, and touch? How do they find themselves implicated and disconcerted by these feelings, these movements, and these durations of time?