2013年4月30日火曜日

56 Up にみる人生とイギリス社会と映画監督の変遷

この週末は、心待ちにしていたドキュメンタリー映画、56 Upを観てきました。感じるところ、考えるところ多く、コメントをまとめにくいくらいです。

7 Up シリーズという名で知られるこの映画は、Michael Apted監督が1964年に始めた企画。初回は、イギリスのさまざまな階層の7歳の子どもたち14人の暮らしを追い、彼らの好き嫌いや夢や考えについてインタビューし、その背景にある社会のありかたを間接的に映し出します。そして、7年後にまた再び同じ子どもたちを集め、ティーンエイジャーとなった彼らの成長や変化をとらえます。さらにまた7年後、成人して間もない彼らが社会のさまざまな場所で自らの場所や生きる道を見つけようとしている姿を追います。そしてさらに7年後、そしてまた7年後、というふうに、同じ人たちの人生を追ってきたシリーズ。映画に自分を偏って描かれたと感じたり、または映画にうつった自分の発言が世間の批判をよんだりしたために、途中で企画から降りた人もいますが、ほとんどの人たちは、複雑な思いを抱えながらも映画に参加し続けています。単発でみてもそれほど面白くないかも知れませんが、第1回から通してシリーズを観ると、本当に考えさせられることが多いです。7年という年月が人間にもたらす変化は、どの7年かによってずいぶん違い、7歳から14歳の変化と、14歳から21歳の変化は種類を異にするものだし、また28歳から35歳の変化と35歳から42歳の変化も違う。登場する人たちの変化に、観客はいやでも自分の人生を重ねて振り返ることになるのです。

この企画はもとは、イギリスの階層社会において、出自や環境がどのように人の人生の岐路をわけるか、といった点に主眼があったであろうことは、初期の映画の構成から明らかです。たしかに、登場人物たちの人生の展開をみると、与えられる機会や環境によって人生の選択の幅が大きく変わる、ということが実感できます。裕福な家庭に育ち、幼少時からエリート教育を受ける子供たちは、子供の頃から自分の夢を具体的に思い描き、それを実現するための道筋も理解しているのに対して、低所得の家庭や施設で育った子供たちは、漠然とした夢はあっても、大人になるまでのあいだにさまざまな現実の壁に直面して、夢がおとぎ話で終わってしまうことが多い。裕福な家庭出身の人たちは、大人になった今も、おおむね「豊か」な生活を送っているし、そうでない出自の人たちは、自分が育った家庭とそれほど変わらない経済状況のなかで生活している。そして、今回の映画では、56歳になった彼らの子供や孫の暮らしぶりからも、階層の再生産という現実が垣間みられます。

それだけでもじゅうぶん考えさせられることが多いのですが、このシリーズが面白いのは、そうした階層決定論では説明しきれない人の人生や社会のありかたにあります。階層によって人生がかなりの程度まで決定づけられるという監督の前提や意識自体に、登場する人たち自身が映画のなかで異議を唱えているシーンも映されます。回を重ねるごとに、人の人生を左右するものは、財力の他にも実に多くのものがある、ということも実感されます。両親の離婚、心身の病気、家庭の経済状況の変化、失業、恋愛・結婚・離婚といった人生の出来事は、階層を問わずみなに降りかかります。そうした出来事に直面した際にどのような乗り切り方をするかは、財力によって左右される部分も少なくないいっぽうで、個人の意思や能力による部分も大きい。映画が回を重ね、登場人物たちが年齢を重ねるにつれて、「人の幸せ」とはなにか、「豊かな人生」とはなにかといった問いは、複雑なものになっていきます。そして、登場人物たちと共に自分も年をとりさまざまな人生経験を経てきたはずの映画監督自身が、そうした問いをよりニュアンスをもって捉えるようになっているのが感じられます。そしてなにより、さまざまな状況で自分の人生を生きている登場人物たちのひとりひとりに、聴衆は強い共感と愛着を抱くようになります。なかでも誰に一番親近感を感じるかは、観る人によって差があることでしょう。

登場人物のひとりは、「この映画を観た人たちから、『私はあなたの思いがすごくよくわかります』なんて手紙をもらうことが多いけど、はっきり言って、そんなことを言ってくる人たちが僕のことを本当にわかっていることなんてありえないんだ」と言っていますが、もちろんそれはその通りでしょう。7年間の自分の人生を数分の映像に断片的にまとめられれば、どんなに好意的であれ偏った描かれたをされるのは避けられないのも当然でしょう。でも、これも登場人物のひとりが言っているように、「この映画は僕たちの人生の描写としてはもちろん正確なものとは言えない。でも、この映画がsomeoneの人生の描写であることはたしかだ。」つまり、特定の個人の人生の全体像を描いてはいないけれども、ここに選ばれた人たちが代表する社会のありかたや人生というものの総合体としては、かなりの真実を突いている、といえるでしょう。

今回の映画でとくに前面に出ているのが、サッチャー首相時代以来のイギリス社会への痛烈な批判。社会のセーフティネットを削り続ける新自由主義政策への批判が、階層を超えたものであることも興味深いです。

シリーズそろってDVD
で観られますので、是非ともどうぞ。



2013年4月26日金曜日

威厳ある職業としてのケアワーカーを組織する活動家、Ai-Jen Poo

今週、ハワイ大学での講演その他の活動のためホノルルを訪れているのが、労働活動家のAi-Jen Poo。彼女は、個人の家でベビーシッターや老人介護や家事に従事する「家事労働者」「家政婦」「ケアワーカー」を労働環境を改善し、正当な賃金に加え残業手当や有給休暇を保証し、被雇用者を差別やハラスメントから守るため、こうしたケア労働者たちを組織し、彼らを守るための立法にむけてロビー運動を行う活動のリーダー。コロンビア大学卒業後(コロンビア大学在学中には、社会の多様性に対応したカリキュラムを要求する学生のハンガーストライキの一員で、この活動の結果として同大学にCenter for the Study of Ethnicity and Raceという研究センターが誕生しました。私が2003〜2004年にニューヨークでサバティカルを過ごしていたときに所属していたのがこのセンターです)、ニューヨークで家政婦として働く女性たちを組織する活動を始めた彼女。2000年に設立したDomestic Workers Unitedという団体の働きかけによって、2010年にニューヨーク州は全国初の「家政婦権利宣言(Domestic Workers Bill of Rights)」が立法化され、同州で働く約20万人の家政婦に基本的な労働基準法が適用されるようになりました。その後ニューヨーク州にならった立法をする州もあらわれ、現在ハワイ州でも同様の立法が州議会で審議されている最中で、委員会の会合にAi-Jen Pooも出席したそうです。2007年には、家政婦を組織する全国団体National Domestic Workers Allianceが設立され、彼女は2010年からそのディレクターを務めています。


『現代アメリカのキーワード』にも「家事労働者」というエントリーがありますが、現代アメリカにおいて、こうした職に従事する圧倒的多数は、非白人の移民女性で、しかも彼女たちの多くが非合法移民。工場や農場、会社など、職場で同じ立場の仲間と日常的に顔を合わせる人々と違い、組織を通さない個人的な雇用関係にあり、毎日個人の家のなかで働く労働者たちを組織するのは、至難のわざで、家政婦を組織する労働組合もない。英語力もじゅうぶんでなく、自分にどんな権利があるのかを知らず、なにか問題を起こせば国外追放になる可能性もある移民たちは、搾取やハラスメントや暴力を受けても訴えるすべをもっていない。しかも、長年にわたって小さな子供や老人の世話をして、ときには雇用者の家庭に同居して、雇用者の家族と親密な関係を築くようになるケアワーカーの人間関係や感情は、単に雇用者と被雇用者というだけでは割り切れない複雑なものがある。そうした状況のなかで、雇用者と家族同様の愛情に満ちたよい関係を築く人たちもいるいっぽうで、奴隷同様の扱いを受けながら助けを求められない人たちも数多くいる。なかには、15年間いっさい賃金を払われないまま、雇用者の家のなかに閉じ込められて子供の面倒や家事全般を強要されていた女性もいるとか。そのケースでは、彼女に世話をしてもらって育った子供が、自分の家で起こっていることを理解できる年齢になったときに、彼女を家から連れ出してAi-Jen Pooの団体に紹介し、団体の助けによって彼女はやがて民事訴訟で勝訴した、とのこと(刑事訴訟を起こすこともできたけれど、彼女のボスが受刑ということになれば、彼女が世話をしてきた子供は親なしで暮らすことになる、ということを彼女が避けたかったため、民事訴訟のみにした、ということで、このあたりも複雑)です。

日本ほどではないけれども、アメリカもこれから人口は高齢化が進み、また家庭の外で働く女性が増えるなかで、こうしたケアワーカーの需要は高まるばかり。とくにニューヨークのような大都市では、すべての家政婦がストライキでもしようものなら、彼女たちにさまざまな形で依存している人たちが困窮し、あらゆるセクターの活動が停止してしまうといっても過言ではないくらい。ケアワーカーが、もっとも急速に拡大する職業のひとつであるなかで、彼らの労働にかんする基本的な法律が存在しないというのは大問題。というなかで、Ai-Jen Pooの率いる団体は全国250万人のケアワーカーを組織し、各地域で地道な活動を展開しています。


私は今回彼女の姿を見るまでは、もっと年長のひとだと思っていたのですが、彼女はまだ30代。専門知識とビジョンと組織力によって、数多くの人々の労働環境や生活や人間関係を改善する着実な成果をあげている活動家。というと、いかにも大声を張り上げてこぶしを振り上げ悪者を糾弾するコワい人、というイメージが浮かびがちですが、彼女は自称「どちらかというとシャイ」な性格で、オーガナイザーとしての活動を始めたときには、街頭で知らない相手に話しかけたりチラシを配ったりするのが恐怖だった、という、「普通の」女性。風貌はいたって可愛らしく、雄弁でありながらソフトで優しく、何百人もの聴衆を前にしても、ひとりを相手に対話をしているようなフレンドリーな話しぶり。こういう人だからこそ、自らがアイビーリーグ大学出身のエリートでありながらも、低賃金で働く移民のケアワーカーたちの信頼を集めるんだろうなあと、深く感心すると同時に、おおいにインスパイアされました。彼女は『タイム』誌の2012年度「最も影響力のある人物100人」のひとりにも選ばれ、ありとあらゆる賞を受賞し、メディアでも多いにとりあげられています。ネット上にビデオなどもいろいろあるので、ぜひ見てみてください。

2013年4月14日日曜日

ピアノのおけいこから学ぶこと

たいへんご無沙汰いたしました。前回の投稿のあと、日本から親族一同がハワイを訪れ一週間案内係をつとめ、そのあと少しして自分の春休み一週間をテキサスで過ごし、戻ってきてからは仕事でここしばらく取り組んでいた大きなプロジェクトのとりまとめに忙しく、目の回るような1ヶ月強を過ごしていました。

さて、今日はピアノの話題です。音楽大学で勉強したことがないにもかかわらず1997年のクライバーン・コンクールに優勝して一世を風靡したジョン・ナカマツは、ハワイに親戚がいることもあって定期的にホノルルで演奏をするのですが、一昨日ハワイ大学で彼のマスタークラスがあったので見学してきました。私はマスタークラスというものを見るのが大好きなのです。自分がレッスンを受けているときは、言われていることをやるのに精一杯で、レッスンが終わって少し時間がたってからでないと、いろいろなことを咀嚼できないことが多いけれど、マスタークラスを見学するぶんには、自分は言われていることをその場で実現する必要がないので、先生が言っていることに全神経を集中することができる。そして、生徒の演奏がみるみるとよくなるのが客観的に見られて面白い。また、教え方のスタイルも実にいろいろで、教師としても学ぶことが多い。というわけで、私は機会があれば生のマスタークラスを見学に行き、時間のあるときはYouTubeでいろんな人のマスタークラスを見たりしています。

ジョン・ナカマツのマスタークラスも、たいへん勉強になり、来月にリサイタルを控えている私は、終わったら家にとんで帰って練習したい、という気分になりました(気分だけでなく、実際にその後3時間ほど練習したんですよ〜)。具体的な指導の内容もきわめてわかりやすい上に、なにしろジョン(私はMusicians from a Different Shoreのリサーチのときに彼をインタビューし、個人的なつながりもちょっとあって知り合いなので馴れ馴れしく「ジョン」と呼んでしまうのです)の誠実で気取らず驕らない人間性がにじみ出ている。音楽に対しても生徒に対しても聴衆に対してもリスペクトがある。演奏した生徒も、見学していた聴衆も、みな大満足のマスタークラスでした。その上、「ふだんマスタークラスをするときには、指導が終わったらさっさと会場を出るので、わざわざ聴きにきてくれたみなさんと知り合いになる機会もないのが残念」と、最後に45分ほど質疑応答の時間を設けてくれ、若い学生たちや見学にきていた聴衆(多くはピアノの先生たち)や私の質問に、丁寧に真摯に答えてくれました。

もしかすると前にも紹介したことがあるかもしれませんが、ジョン・ナカマツが2007年のアマチュア・クライバーン・コンクール(私が参加した2011年のコンクールの前の回のコンクールです)の授賞式でしたスピーチのビデオをご紹介します。これほど素晴らしいスピーチは世の中にめったにない、と私は思っていて、ことあるごとに人に見せ、自分も定期的に見て自分を鼓舞するようにしています。そして見るたびに、涙と笑いと感動を与えてくれるスピーチです。今では国際的なピアニストとしてキャリアを確立しているジョンですが、クライバーン・コンクールで優勝するするまでには、人に自慢するほどの落選・不合格・失敗が重なっていた。そうした経験から、コンクールという舞台に出て、内的・外的なさまざまな要因とたたかいながら自分をさらけだし自分を表現しようとする人たちの勇気に、心からの喝采を送ってくれています。初めてこのビデオを見たとき、あまりにも感動したので、ジョンにメールをして、「私をLosers' Clubのゴールド・メンバーにしてください」と言ったところ、すぐに、「申し訳ありませんが、Losers' Clubにはゴールド・メンバーというカテゴリーはありません。あるのは、プラスチックとブリキだけです」との返事が(笑)。彼の英語はひじょうに聞き取りやすく、英語の勉強にもよいと思うので、ここにアップロードしておきます。

さらにピアノの話題で続けると、「ニューヨーカー」誌の最新号に、ピアニスト・ジェレミー・デンクによるエッセイがあります。(このエッセイは、お金を払わないとまるごとは読めないようになっていますが、お金を払って読む価値はあります。)デンクは、チャールズ・アイヴスの「コンコード・ソナタ」を録音した経験についてのエッセイをしばらく前の「ニューヨーカー」に掲載し、これまたとても興味深かったのですが、今回のエッセイは、自分が子供時代そして学生時代に師事したピアノの先生たちについての回想。高校まで師事していた先生が書き綴ってくれていたレッスン・ノートを発見する、というところから話は始まるのですが、そういえば私も、小学生から大学生のときまでついていたピアノの先生が丁寧な文字で毎週綴ってくださったレッスン・ノートがありました。音楽のレッスンというものは、一般的に、そしてある程度真面目にやっていればなおのこと、生徒は自分の能力や努力のさまをさらけだし、また身体的・精神的・知的なものすべてを先生の評価や判断にゆだねる、きわめて濃密で緊迫したものです。そうした力関係をいろいろな意味で悪用する先生もたくさんいるでしょうし、そのような関係のなかでの学習になじまない生徒もたくさんいるはずです。でも、与える側と受け取る側の姿勢がうまくかみ合ったときには、音楽のレッスンは、音楽そのものを超えた深く重要なことをたくさん生み出すものになります。それと同時に、それだけ濃密な関係であるからこそ、音楽家(に限らないでしょうが)がひとりの先生を絶対的に崇拝し自分のすべてをゆだねることの危険もあります。伝説的なピアニストであり指導者であったジョルジー・セボク(デンクの大学院時代の先生)についてのデンクの回想が、そうしたことを感性豊かに語っています。

ちなみに、ナカマツもデンクも、私と同い年。そのこと自体にも、なんだかいろいろなことを感じさせられます。