2012年1月28日土曜日

『マイ・アーキテクト』ふたたび

ご無沙汰いたしました。新学期とともに突然大学の仕事が増え、たいへん面倒だけれどもたいへん重要なことなので手を抜く訳にもいかない、というタイプの仕事が一段落するところまで行ったところです。それにしても本当に、自分のことを棚に上げて言いますが、大学というのは民間企業では絶対にやっていけない種類の人間がたくさん集まっているところです。基本的な指示に従えない、あるいはルールを覚えていられない、というオジサンがやたらと多い。これをオジサンに特定するのは性差別・年齢差別ととられそうですが、実際にこういう人たちはたいていオジサンです。そして、自分のミスが生んだ面倒や、そもそも自分がするべきことを、他の人にさせておいて平然としているのもたいていオジサン。


という疲れた一週間のお口直しに、昨晩は友達と食事に行ったのですが、そのときに話題に上ったのが、私がこよなく愛する映画『マイ・アーキテクト』。一緒に食事をした友達は、もともとバングラデッシュ出身で、ペンシルヴァニア大学で学んだ建築学の研究者なのですが、建築にもバングラデッシュにもペンシルヴァニア大学にもつながりのある『マイ・アーキテクト』についての彼の意見を知りたくて、「私はあの映画がとっても好きなんだけど、建築家としてはどう思う?」と聞いてみたところ、なんと彼は監督(そして脚本と主演)のナサニエル・カーンと友達で、この映画の製作にもかかわり、映画最後のクレジットに彼の名前も出てくるとのこと!私にとってはこれはとてつもない興奮。この映画について私が思うところを話してみると、彼はすべてに同意してくれました。そのうちナサニエル・カーンに紹介してもらえるかも!あまりに嬉しかったので、食事から帰って家でふたたびDVD(最初は映画館で観たのですが、あまりにもよかったのでDVDを買い、今回観たのは五回目くらい)を観てしまいました。たしかに友達の名前も最後に発見。


とにかく好きな映画なので、もしかしたらこのブログでも以前に紹介したことがあったかもしれませんが、せっかくなので再び紹介しておきます。この映画の監督・脚本・主演をしているナサニエル・カーンという人物は、世界的に著名な建築家ルイス・カーンの息子。ただし、ルイス・カーンは三人の女性と子供を作り同時進行的に三つの家庭をもっており、彼はいわゆる「私生児」として、父親(彼が生まれたのは父親が六十一歳のとき)とはときどきの週末にしか時間を過ごしたことがなかった。自分が十一歳のときに死んだ父親が、どんな人物であったのか、父親の人生のなかで自分や母親はどんな位置づけであったのかを少しでも知ろうと、父親と一緒に仕事をした建築家や、ほかのふたつの「家族」、そして父親の設計した建物を訪ねてまわる。その過程で、エストニアからのユダヤ系移民として育ったルイス・カーンの生い立ち、建築家としてのビジョンや葛藤、仕事への姿勢などがモザイクのように少しずつ見えてくる。そして、ふたりの「姉」、その「姉」の母親のひとり、そして自分の母親との会話を通して、建築家としてではなく一人の男性そして人間としてのルイス・カーンも理解しようとする。


なにより素晴らしいのが、こうした複雑な立場と視点からルイス・カーンの人間像を組み立てていながら、けっして彼を全面的に賞賛したり非難したりすることなく、縮まるようで縮まらない父親との距離を見事に表現していること。出演する数多くの建築家の言葉や表情から、建築家としてのルイス・カーンの偉大さと限界の両方を伝えていること。カーンの建築が自分の人生や仕事や生活の一部になっている人たちの姿を通じて、「建築とはなにか」を深く考えさせてくれること。建築家や芸術家、またそれらの分野に限らず大きな仕事をする人について、仕事人としての偉大さと、私生活を含むひとりの人間としての生き方の関係を、どのように理解すべきか、安易な結論を出さずにじっくり考えさせてくれること。ルイス・カーンが正妻のもとを去ることはないと承知の上で、客観的にみればきわめて屈辱的な状況のなかで、シングルマザーとして子供を育てたふたりの女性の、カーンに対する畏敬と愛情のありかたを、価値判断なく描いていること。水上でオーケストラが演奏するクレイジー・ボート、三人の「きょうだい」の会話、自分の母親との会話、そしてなんといっても、バングラデッシュの議事堂を訪ねる最後のシーンで、「この建物を通じて、カーンは私たちに民主主義をもたらしてくれた」「家庭人や父親としては欠陥のある人だったかもしれないし、自分にもっとも近い人にはふさわしい形の愛情を十分に注げなかった人だったかもしれないけど、カーンはバングラデッシュの国民に限りない愛情を与えてくれた」と語る建築家の言葉と表情。あらゆる次元で静かな感動を与えてくれる映画です。私はフォートワースでカーン設計のキンベル美術館に行くことができてとてもラッキーでしたが、いつかはぜひバングラデッシュに行って議事堂を見てみたいと思っています。


とにかく、この映画、ぜひどうぞ。

2012年1月10日火曜日

Jeffrey Eugenides, _The Marriage Plot_

年が明けてから10日間もたってしまいましたが、遅ればせながら明けましておめでとうございます。2011年は、前半を日本で過ごしたこと、そしてそのあいだに震災が起きたことで、自分と日本社会との関係を考え直すことになりました。また、5月のアマチュア・ピアノコンクールでの経験は、いろいろな意味で自分の世界を広げ深めてくれました。私の身近にはとても悲しいこともあったけれど、素敵な出会いもたくさんあり、また、以前からの友達や知人と新たな関係を築くこともできて、とてもいい1年でした。研究者としても教育者としても執筆者としても、そしてピアノにおいても人間関係においても、より高きを目指す2012年にしたいと思っています。


さて、しばらくブログからご無沙汰していた理由は主にふたつ。ひとつめは年末年始の10日間をプライベートに徹して楽しく過ごしていたこと。詳細はヒミツ。(ムフフ)


ふたつめは、その10日間が終わってから新学期が始まるまでのあいだに、買ってあったJeffrey Eugenidesの新しい小説、The Marriage Plotを読んでしまいたくて、それに没頭していたこと。つい先ほど読み終わったところです(ちなみに新学期は昨日始まりました)。最後の部分はしゃくりあげながら読みましたが、読み終わってしばらくは、ひとりでじっくり思索にふけりたい気分になりました。物語として純粋に楽しめ、単純に「次がどうなるのか知りたい」という気持ちでページを次々とめくるような小説でありながら、知的にも情感的にも精神的(英語でいうところのspirituallyを指しているのですが、「精神的」というのはちょっと違うけれど、他によい日本語が思いつかない)にも大きな波に押されているような気持ちになる、傑作です。


この本を読みたいと思ったひとつの理由は、いくつかの書評を読んで、この小説の舞台が私が大学院時代を送ったブラウン大学であり、しかも、英文学を専攻する女性主人公が、自分の知的世界をとりまく脱構築などの批評理論と自分自身の現実の恋愛とのあいだで格闘する話だということを知っていたからです。物語は、アメリカの学界でデリダやバルト、フーコー、ラカンなどのヨーロッパとくにフランスの批評理論が全盛期であった1980年代前半に展開されます。私がブラウンにいたのはそのちょうど10年ほど後ですが、私が受けた教育や大学の文化はそうした理論の影響をおおいに受けたものだったので、まずは批評理論が小説でどのように取り扱われているのかに興味がありました。もちろん、アメリカの大学でのこうした批評理論をめぐる文化や言説を題材にとった小説は他にもたくさんあるのですが、ブラウン大学が舞台となると個人的な関心が増大。ブラウンと関係のない読者にはなんのことだかさっぱりわからないであろう、建物や場所や通りや店の固有名詞が散りばめられていて、私は小説の初めの三分の一くらいは、読みながらすっかりホームシックになりました。小説の初めのほうに、Madeleine's love troubles had begun at a time when the French theory she was reading deconstructed the very notion of love.という一文があるのですが、この文が象徴するように、この小説の脱構築の取り扱いは、ユーモアに満ちていると同時に、真剣で切ない。こむずかしい用語を濫用して訳のわからないことを自己陶酔的に語り続ける学者や学生を揶揄するような描写をした小説はいろいろありますが、この作品では、これらの理論に陶酔する学生たち、そしてそれと格闘し困惑する学生たちの姿を通して、批評理論や文学作品を通してまさに人生の意味を理解しようとする知的な若者たちの真摯な葛藤がとてもリアルに描かれています。


そしてまた、この女性主人公は、小説が文学ジャンルとしての権威を確立した時期でもあり、女性が法的にも経済的にも社会的にも安定した地位を得るのには適切な男性との結婚が必要不可欠であったヴィクトリア期の英米文学における結婚を取り扱った卒論を書きつつ、自分の将来が見えないまま大学を卒業し、まったく違ったタイプのふたりの男性との複雑な三角関係のなかで、自分の恋愛、結婚、勉学、生活を模索していきます。つまり、この主人公を通じてヴィクトリア小説を現代に置き換えることで、作者は、現代においても「小説」は可能か、という文学的な問いにも向き合っているのです。(このあたり、水村美苗さんの本格小説に通じるところも。)


主人公をそれぞれの形で愛するふたりの男性がまたたいへん興味深い。ふたりとも、「ブラウン大学みたいなところには、こういう人たちがいるんだよなあ」というような、とてつもない頭脳の持ち主でありながら、賢いがゆえに何事にも簡単に答を出そうとはせず、自分の生きる道についても不安や疑問を抱えて世に出る。ひとりは生物学の研究助手として立派な第一歩を踏み出しながらも、重度の躁鬱病を患い、この病が自分自身にも恋人との関係にも深く影を落とす。もうひとりは大学で宗教を専攻し、卒業後世界を旅し、カルカッタでマザーテレサのもとでしばしボランティアをしたりしながら、宗教について真剣に悩み、自分の精神性を模索する。このふたりの男性を通して精神病と宗教が対の構造に置かれているのですが、だからといってこの小説は、宗教とは単なる妄想だとかイデオロギーだとかいった乱暴なメッセージを提示しているのではありません。物語の終盤、ふたりの男性が思いがけずあるパーティで顔を合わせ真剣に議論をする場面があるのですが、それからさらにしばらくしてこの議論の内容が明かされる部分から小説の最後にかけては、私はもうそれこそ、知的にも情感的にも精神的にも圧倒されっぱなしでした。


他にも言いたいことはたくさんあるのですが、こんなすごい作品を前にしては、なにをどう言葉にしてよいものやら、自分がとても小さく思えてしまいます。ピュリツアー賞を受賞したEugenidesの前作品Middlesexは、私はどうも入り込めずに終わったのですが、もう一度読み返してみようと思いました。ソフィア・コッポラによって映画化された初小説The Virgin Suicidesもぜひ読もうっと。


あまりにも面白かったので、ネットでEugenidesのビデオをいくつか見てみましたが、こちらの講演がとくによかったです。私は小説の一部を朗読されてもじゅうぶんに味わえないことが多いのですが、後半の質疑応答はとてもよいですので見てみてください。


とにもかくにも、2012年の最初に読んだ小説がかくも素晴らしい作品であったということは、この先がよい1年になることを暗示しているような気が勝手にしています。