2009年8月23日日曜日

「ヴァギナ・モノローグス」

8月13日の投稿で紹介した、「ヴァギナ・モノローグス」の公演を俳優座劇場で観てきました。いろいろな意味で考えさせられること、感じることが多く、行ってとてもよかったと思いました。内容については前の投稿で説明したので繰り返しませんが、今回の公演は、大橋ひろえさんが設立したサインアートプロジェクト・アジアンという、手話を芸術的パフォーマンスとして発展させるグループが主催したもので、6人の役者さんが手話と朗読でモノローグを演じるという、非常に面白い企画でした。私は、もともと英語で作られたこの作品(といっても、イヴ・エンスラーがインタビューをした女性は英語圏の人ばかりではないですが)がどのように日本語に翻訳されるのか、その翻訳の過程でなにが失われなにが新たに生まれるのか、ということにとても興味ばありました。初めの数分間は、とくにユーモアの感覚が効果的に伝わっていないようで、「うーむ、やっぱりこれを日本語でやるのには無理があるのかしらん」などと思っていましたが、そうした印象は少しするとまったく消え、脚本の翻訳(英語を日本語にするということだけでなく、日本や日本語という文脈のなかでこの作品がとりあげるテーマを扱うためにオリジナルに書き足された部分も含めて)も、役者さんたちの演技も、とても素晴らしかったと思いました。また、私は手話のパフォーマンスというものを観たのは初めてだったので、それもとても興味深く、感動的なものでした。この作品のテーマのひとつは、言葉のもつパワー。身体の一部を指す「ヴァギナ」という単語が、女性たちによって中立的で描写的な単語として「普通に」使われることは少なく、さまざまなニックネームや隠語を使って表現されるという状況のもつ抑圧性(そして自由)が、いろいろなモノローグで表現されているのですが、そうした健常者の言語文化は、耳の聞こえない人たちの文化や手話の世界ではどのようになっているのだろうか、同じような恥じらいやためらいがあるのだろうか、あるとすればそれはどのように表現されるのだろうか、といったことに興味をもちました。(知っている人がいたら教えてください。)

それにしても、パフォーマンスそのもの以外で私がとても印象的だったのは、日本の観客のおとなしいこと!初めから終わりまで相当な刺激と衝撃に満ちた作品であるにもかかわらず、聴衆はしーんとして観ていて、声をあげて笑っているのは場内で私だけ、みたいな状況も何度もあって、びっくりしました。もちろん、観客にはろうのかたも少なくなかったので、声をあげたり音を出したりというのとは別の形で自分たちの反応を表現していた人たちもいたのですが、おそらく観客のマジョリティは耳の聞こえる人たちだったでしょうから、それを考えるとやはり相当静かな聴衆だったと思います。アメリカでこの作品が上演されるときには、聴衆が笑ったり泣いたり緊張したりといった反応がとても直に伝わってくるのですが、こうした反応の違いも面白いものです。

女性にとってはいろいろな意味で感動が大きい作品ですが、男性にこそ観てほしい作品でもあるので、けっこう男性の観客が多かったのには、好印象を受けました。放送禁止用語のために公演の宣伝が制約されたということですが、これは高校や大学のキャンパスとか公民館とか老人ホームとかといった、いろんな場所で公演されるといい作品です。日本語の公演もDVDになるといいのになと思います。

2009年8月21日金曜日

ハワイ州50周年

今日からちょうど50年前に、ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。50周年を記念して、ホノルルのコンベンション・センターでは州の公式イベントが行われ、ハワイの主要メディアでも、「ハワイ州50年間の歩み」といったような企画がたくさんなされています。

ハワイを州にしようという動きは、そのずっと前からありましたが、第二次大戦でのハワイ出身の兵士たちの功績(442部隊とよばれる主に日系人兵士たち)や戦後の人口増加と経済成長などによってその動きに加速がかかり、1959年に実現しました。州になることによって、アメリカ市民としてのハワイ住民の法的・政治的権利が拡大し、本土の人々と対等な「アメリカ人」として扱われるようになったことを歓迎する人々は多く、日系人をはじめとする地元リーダーたちが州議会を支配するようになったいわゆる「民主党革命」とも平行して、ハワイ州の到来を肯定的にとらえる人々はもちろん多数います。しかし、そのいっぽうで、そもそも欧米勢力によるハワイの植民地化からハワイ王朝が1893年に不法に転覆された歴史に強い異議を唱える人々も現在でも少なくありません。先住ハワイ人を中心とするそうした人々は、米国帝国主義の歴史を掘り起こし、また1959年にハワイが州となることにも異議を唱えた人々が多数いたという事実を明らかにし、50周年を無批判に祝うことに抗議の意を示してきています。50周年の日に向けて一年ほど前からこうした声はさまざまな場であがっていましたが(ハワイ大学でも、statehoodの歴史を批判的に検討する、といったイベントがあちこちで行われてきました)、今日の公式記念式典に合わせて、反対派は抗議集会・行進を行い、300人ほどの人が集まりました(ただし、この300人という数字は、Honolulu Advertiserの記事によるもので、こうした数字は、記者の見方によって、実際よりも大きくなったり小さくなったりするということを認識しておかなくてはいけません)。

現在のハワイでこうした動きがあるということは、アメリカの主要メディアでも報道されることがまずありません。今日のニューヨーク・タイムズには、こともあろうにPaul Therouxによるハワイの歴史についての論説が掲載されています。Paul Therouxは、太平洋諸島やアジアなどを題材にした紀行文や冒険小説で知られた作家で、ここ20年間はハワイ在住ですが、彼の視点や語りは滑稽なほど典型的にコロニアリスト的なもので、この文章にもそうしたトーンが顕われています。ニューヨーク・タイムズも、どうせハワイ州50周年についての論説を載せるのなら、先住ハワイ人あるいはそうでなくてもハワイ出身の知識人(Therouxは「ハワイにはpublic intellectualが存在しない」などと書いていますが、そんなことはありません)の声を載せればよいのに、Therouxがハワイの専門家であるかのようにとりあげられてしまうあたりが、全国メディアの限界です。でも、この論説に多くの人がよせているコメントも面白いので、それも合わせて読んでみてください。

2009年8月19日水曜日

岡田暁生『音楽の聴き方』

岡田暁生『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 』を読みました。読んでとても興奮し、「この人の書いたものを全部読まなくちゃ」という気持ちになったので、今日これから書店に行ってきます。たいへん読み応えがあり、勉強になり、考えさせられ、同時に楽しませてくれる本です。

本のタイトルからして、音楽を楽しみより深く理解するためにはどんなふうに聴いたらいいかというマニュアルのような印象を受けますが、本の主眼はそういうことよりも(そういう具体的なアイデアもたくさん書かれているのですが)むしろ、「音楽を聴くということはそもそもどういうことか」「我々はどのように音楽を聴いているのか」「我々はなぜある種の音楽に感動をおぼえ、別の種の音楽には反応しないのか」「音楽とはどのように聴かれるべきか」「音楽を語るとはどういうことか」といったテーマのほうが中心です。音楽が人生の意味ある一部となるためには、有無を言わせぬ絶対的・超越的な音楽を体験することが重要だ。しかしだからと言って、「いいものはいいんだ、音楽はごちゃごちゃと理屈で説明したり議論したりするようなものではない」と言って知的・分析的に音楽を「語る」行為を放棄してしまうのは、リスナーとしても人間としても怠慢である。音楽への身体的・生理的・直感的な反応を大切にしながらも、「聴く」「反応する」「感動する」といった行為により意識的になってみることで、音楽的経験がより豊かになる、との前提が本全体を貫いています。この基本的な姿勢に私はとても共感します。著者の専門である西洋音楽史や、文化史、批評理論や哲学などの分野の研究をふまえた上で、そういった学術理論には必ずしも興味も知識もない一般読者にむけて、音楽を聴く上でなぜ歴史的理解が必要なのかとか、芸術の審美眼を培うとはどういうことなのか、といったことを、とてもわかりやすくエレガントな文章で説明してくれます。題材として使っているのはおもに西洋クラシック音楽ですが、論のポイントは他のジャンルの音楽にはもちろん、美術や文学や演劇などの芸術形態や、文化理解全般、そしておおげさなようですが、人生一般に応用できます。「心地よいところで、なんとなく気分のいいものを受け入れて満足しているんじゃなくて、意識的に考えて積極的に関わっていかなくちゃ」「人生は真面目に生きなきゃいかん」と襟を正すような気持ちにさせられるのです。以下、一部抜粋。

音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。(xi)

近年、ポストモダン的な「自由な聴取」をことさらもてはやすような風潮があって、最新の録音/再生メディアが可能にしたところの、聴き手が元の音源を好き勝手に切ったり貼ったり、重ねたり反復したりする聴き方によって、まるで音楽体験の新しい地平が切り開かれるかのような論調を目にすることも、稀ではない。だが . . .私は、「時間の一回性/不可分性/不可逆性の共有」. . . こそが、音楽が音楽であり続けるための最後の砦だと信じている。この一線を越えてしまったら、それこそ音楽は...「パブロフの反射反応」=「シグナル」に堕してしまうだけではないか。確かに音楽は生理的な次元に大きく左右される。だが音楽体験のすべてが単なる刺激/反応に還元されてしまったら、それはもはや音楽ではない。別の言い方をすれば、もし何らかの演奏会やCDを中座/中断しても何の痛痒も感じなかったとすれば、その人にとってそれは音楽=生命ではなく、ただのシグナル=モノだったということだ。」(31)

音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように文節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言葉でもある(87)

もちろんどういう音楽の聴き方をするかは自由だ。しかしあえて言わせてもらうなら、サウンド型聴取がはらんでいるある種の危うさに、私はどうにも強い危惧を覚えずにはおれない。それは「音楽を聴く」という、人がおのれのすべてを賭けて行なうに値する行為を、純粋なパブロフ的「刺激と反応」に還元してしまうような気がしてならないのである。私にとって音楽とは、人が人に向けて発する何かである。それは他者、つまり私以外の誰かがこの世に存在している(いた)、つまり私は一人ではないということの証ではないか。対するに眼を閉じてサウンドに聴き入るとき、外界は姿を消して何やらさまざまな音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆくーーこのことがどうにも私を不安にするのである。(132)

少なくとも私にとって、「音楽を聴く」とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことなのだ。. . . 「意味がある」とは「言葉である」ということだろう。それは他者とのコミュニケーションの存在を前提にしている。他者がいなければ意味がない/他者がいるからこそ意味は生まれる。また音楽が言葉であればこそ、それについて言葉で語り合う場も生まれよう。音楽を分かり合う/分かち合うということが出来るのである。そして、「分かる」からこそ、「分け合おうと思う」からこそ、身体が動く。スイングが、人と人の共振が生まれるのである。思うに言語性こそはヒューマンなコミュニケーションとしての音楽の生命線である。(135)

いずれにせよ私たちは、音楽についての生産的な対話をしようと思う限り、常に何らかの歴史的文化的審級を参照せざるをえない。別に「本来の」文脈を金科玉条のように守る必要はない。だが人は歴史文脈なしで音楽を聴くことは出来ない。「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう?これからはこう見えるものを、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう?一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことができるだろう?ーー音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。(167-168)

であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈の中で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を、「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことではなく、「これは何を言いたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいいーーそれも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみを知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化を知り、それに参入するということにほかならない。
. . . 初めは理解出来ずとも、まずはそれに従ってみることによって、徐々にさまざまな陰影が見えてくることもある。それらの背後には何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶がある。このことへのリスペクトを忘れたくはない。「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴き方があってもいい。歴史と文化の遠近法の中で音楽を聴くとは、未知なる他者を知ろうとする営みである。(172-173)

大きな論点に関わる部分だけしか挙げませんでしたが、本の中身では具体的な音楽の話がたくさんで、楽しめると同時に勉強になります。もちろん、シューマンの「子供の情景」第一曲やショパンの「黒鍵のエチュード」がどんな曲だか知らない人、聴いたことはあっても思い出せない人、かといってわざわざ楽譜を見たり録音を聴いたりしようとまでは思わない人にとっては、理解も楽しみも少ないでしょう。音楽そのものにまったく触れずに、音楽についての本を読んで、音楽を理解しようと思っても無理があります。本書のメッセージを真剣に受け止めるなら、本のなかで例に挙げられている曲をちょっと聴いてみるくらいの積極性・主体性をもたないといけません!

読者としても素晴らしい本だと思いますが、研究者・著者としても、「私もこういうふうに本を書けるようにならなくちゃ」と思いました。この本からは、著者の音楽に対する愛情が明らかなのと同時に、読者への素直で真摯な気持ちも伝わってきます。読者を馬鹿にしない。でも深い思考の結果自分が至った考えを、読者に理解してもらいたい。未知なる他者である音楽を知りたいという思いと平行して、未知なる他者である読者とコミュニケーションをとりたい、という気持ちが伝わってくるのです。基本的なレベルで、この人は人間に強い興味とリスペクトがある人なんだな、と感じます。「この人と飲みに行ったら、表面的な世間話だけでなくて、実のある会話ができるだろうな」と思わせてくれます。

というわけで、たいへんおススメです。私はこれから書店に行って岡田さんの他の著書を買ってきます。

2009年8月17日月曜日

藤原聖子『現代アメリカ宗教地図』

蝉の声をきき、おそうめんを食べ、甲子園野球をテレビで観ながら、中途半端に仕事をする、という日々を送っているのですが、これぞ日本の夏!看板の文字やものに使われている色彩、人々の服装など、視覚的に入ってくるものと、街並や交通のしくみといった空間の感覚について、「ああ、日本だなあ」と思うものが多いのですが、それに加えて、私が「日本だ!」と感じるものには、音の側面も大きいことに最近気づきました。蝉の声。甲子園の応援歌。バスやトラックやゴミの収集車(日本はゴミの収集車も小さくてピカピカ!アメリカのゴミ収集車はは大きくてうるさくて、近くにくると戦争が起こったのかと思うような騒ぎです)が道を曲がるときに「右に曲がります」などといちいち教えてくれる女性の声。駅で電車がくることを知らせるこれまた女性の声。学校で運動部が練習するときのかけ声。どれも、「ああ、ここは日本なんだ!」と実感させてくれる音です。そのいっぽうで、日本では、どんなに混雑しているときでも、バスや電車で人々がやたらとしーんと静かなのが、私にはちょっと異様に映ります。もちろん、家族や知り合い同士で乗っている人たちは話もしますが、見知らぬ人同士が目を合わせたり会話をしたりするということはまずない。どんなに暑くても「暑いですね」の一言を交わすこともなく、おとなしくバスや電車を待って、乗ったら静かに座って(または立って)いる。私の目にはそれがなんとも不思議に映ります。

甲子園について言えば、私は野球そのものには特別興味はないのですが、試合そのものそして応援の、一種の儀式としての側面が私にはとても興味があります。私は出身校が在学中に甲子園出場したこともあって、何度か甲子園で観戦したことがある(高校のときは、なんと応援団の補佐役みたいなものにもなって、こともあろうに、灼熱の甲子園の応援団席の階段を走って上がったり降りたりして、男子の応援団員にお茶を配る役だったのです!)のですが、その頃の思い出と、今テレビで見るものを重ね合わせ、そして私のごくごく限られたアメリカのスポーツ観戦経験(私は正直言ってスポーツにほとんどまるっきり興味がないので、ニューヨークで数回野球を観に行ったことがあるのと、『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェフ」に教えられてテレビでバスケをしばらく観たくらいです)を比べてみると、甲子園野球(日本のプロ野球観戦はまた違った意味で独特だろうと思います)の「儀式」には、なんだか心打たれるものがあります。試合の最初と最後にはお辞儀をする。校歌を歌う。応援団はエールの交換をし、相手のチームにエールまで送る。相手チームからエールを送られているあいだは、静かに頭を下げてそれを受ける。なんと美しい日本文化!と私は思います。選手たちの姿にも、思春期の日本男子特有のいろんな思いが感じ取れて微笑ましいし、勝っても負けてもこの経験を通じてこの若者たちはたくさんのことを学んで大人に一歩近づいていくんだなあと思うと、素直に応援したくなります。

まるで関係ないですが、藤原聖子『現代アメリカ宗教地図 』という本を読みました。アメリカの社会や文化を理解するのには、宗教のことをある程度わかっていることがとても重要です。私自身、宗教のことをあまりにも知らないことが、アメリカ研究者としての大きな弱点だと思っています。これから日本でアメリカのことを研究しようとする人は、宗教を専門にすることを真剣に検討すべきだと思います。とはいえ、宗教を専門にするというのは生半可な気持ちでできるものではないので、相当の覚悟があって、とても優秀で、感性のすぐれた人でないと務まらないでしょう。とにかく、宗教というものに対する感覚が日米ではかなり違うので、日本の読者のためにアメリカの宗教の全体像を見渡すようなすぐれた入門書があるといいと思っていたのですが、この本はかなりの程度までその目的を果たしています。特定の宗教や宗派に焦点を当てるのではなく、現代のアメリカの宗教模様の全体を概観して、さまざまな宗教の相関関係や、それぞれの宗教や宗派が政治・経済における「保守 vs. リベラル」といった軸とどのような位置づけにあるのかといったことが、わかりやすく書かれています。また、YouTubeのさまざまな動画を資料として引用することで、教義や組織についての理論的な説明だけでなく、信者の顔ぶれや礼拝や儀式の様子をエスノグラフィック(民族誌的)に伝え、宗教を「生の」実践として描いているところがなかなか画期的です。新書という形式上、紹介できる内容は限られているので、「あれも書いてほしかった、これも書いてほしかった」と言い出せばきりばキリがないですが、あえて数点だけ言うならば、(1)カトリックについての説明があまりにも少ないのはちょっとおかしい、(2)宗教と人種の関係についてもうちょっと説明がほしい(最終章では「マイノリティと宗教」というトピックが扱われていますが、宗教的マイノリティということだけでなく、さまざまなキリスト教会におけるアフリカ系アメリカ人の位置とか、モルモン教における太平洋諸島先住民の位置とか)、ということです。でも、入門書としてはなかなかよいので、よかったらどうぞ。

2009年8月16日日曜日

山田詠美『学問』単行本化

山田詠美『学問』が単行本化されて発売になりました。この作品については、『新潮』に連載されていたときにこのブログでも言及しましたが、文芸誌に連載されているものをわざわざ読む人の数はおそらくとても限られているのに対して、単行本になって手に入れやすくなったら読む人も増えると思うので、ここでもう一度紹介しておきます。以下文章が以前の投稿と一部重複しますが、ご了承ください。

これは、内容においても、形式においても、きらきらした宝物のような小説です。実にさまざまな感情を呼び起こし、いろいろなことに思いを巡らせてくれると同時に、小説の構成とか文章の技巧にも拍手を送りたくなる作品なのです。子供期から思春期にはいっていく四人(五人?)の男女の、複雑で素直で滑稽な感情や行動や関係が、とても優しく描かれています。自分が好きなことや人を発見して、スポンジのような勢いで旺盛に知識を吸収していく道筋と、恋心や性欲や友情や愛情といったものを、回り道してケガや傷を作りながら少しずつ育んでいく、その過程の物語が、とても愛おしいです。無垢な子供の心を美化して描くというような生易しいものではありません。周りに認めてもらったり仲間に入れてもらったりしたい気持ちと、周りへの優越感や競争心や支配意欲がないまぜになった、思春期ならではの心理もとてもよく捉えられています。そして、物語の後のそれぞれの人生について読者の想像のかきたてかたが、またとてもよいです。

私は、登場人物のそれぞれに、自分の一部を見るような気持ちがします。自分の子供時代・思春期のいろんなことが思い出されて、気恥ずかしくもなるし、切なくもなるし、その頃の自分に会って「よしよし」と頭をなでてあげたくもなります。また、それからの人生のなかで手に入れたり失ったりしてきたものを、その頃の時間を共有した友達と一緒に、裏山に穴を掘ってしまいに行きたい気持ちにもなります。私は、同世代の友達の子供が中学受験の前後だったりするので、今の日本の(これは都心特有の現象なのでしょうか?)私にはちょっと異様に思える受験事情について聞くにつけ、「そんなに受験受験っていうより、子供の成長過程にとってはもっと大事なことがあるんじゃないのかなあ」と、おそらく自分が日本で子供を育てていないからこそ呑気に思っているのですが、この小説は、そうした、「子供の成長過程にとって大事なこと」を伝えてくれます。自分に子供がいたら、この小説の登場人物たちのような子供時代や思春期を送ってほしいと思います。

山田詠美というと、「官能」とかいった単語がよく使われて、ちょっと誤ったイメージを抱いている人が多いような気がします。『学問』についても、宣伝には「この上なく官能的な言葉で紡がれた」などという文句が使われていますが、うーん、宣伝文句とはいえ、なんだかちょっと違うと思います。たしかに「性への目覚め」はひとつのテーマではあるけれど、それはとてもまっすぐで懸命で健全なものです。性欲と知識欲、性への目覚めと学問への目覚めが重なり合って描かれているところに、私は強い共感を覚えました。

ちなみに、山田詠美さんが選考委員のひとりでもある芥川賞を受賞した磯崎憲一郎『終の住処』を読んで見たのですが、うーむ、正直言ってこれはそんな立派な賞をとるような作品には思えませんでした。文章についてはとくに悪いとは思いませんが、私には、語り手の視点やら言動やらにあまりにも共感できなくて、「もー、こんな奴の話につきあってらんないわ」というイライラした感情が邪魔をして、文学作品としてこの小説を味わうことができなかったのです。(私は村上春樹の小説を読むときにも似たような感情を抱くことが多いです。)『新潮45』の「恋愛単語で知るアメリカ」の連載の一番最後の号で、midlife crisisという表現を説明しましたが、まさにこの小説は、midlife crisisのさなかの男性がみた時間の流れやものごとの展開を描いたものです。自分がとっている行動がいかに陳腐なものであるかということを、主人公が気づいていなければそれはコメディですが、この作品では、語り手がそのことを自省的に意識しているからこそ、なんだかさらに自己陶酔というか自己正当化のモノローグという感じで、イライラしてくるのです。実に文学性のない感想であるのは百も承知で、「こういう男性、私の知り合いにもいるけど、そんなにごちょごちょ言ってるんだったら、さっさとなんとかすればいいのに、なにもしないで家族のもとにいることがいかにも責任ある男性のとるべき正しい選択で、そういう立派な選択をした自分を誰かに褒めてほしいと思っている(とくに女性に褒めてほしいと思っている)、そんな奴にはつきあってられん!」と思ってしまうのです。女性の読者は、私と似たような感想を抱く人が多いんじゃないでしょうか?でも、山田詠美さんを含め、芥川賞選考委員のうち四人は女性だしなあ。。。

2009年8月13日木曜日

Vagina Monologues日本公演

来週いっぱい、俳優座劇場で「ヴァギナ・モノローグス」の日本公演があります。Vagina Monologuesについては、『現代アメリカのキーワード 』で一項目を費やして説明しているので、そちらを読んでいただけると内容や文脈がわかりますが、ここでも簡単に説明をしておきます。これは、Eve Enslerというアメリカの脚本家・役者・フェミニスト活動家によって書かれた、女性の性や身体をテーマにしたお芝居です。女性のセクシュアリティのありかたや、性暴力といった問題に興味をもっていたEnslerが、自分の周りの女性たちとの気軽な会話をきっかけに、さまざまな人種・階層・文化的背景・年齢の200人以上の女性たちにインタビューをし、ヴァギナについてもっているイメージ、経験、気持ちなどを語ってもらい、それらのインタビューをもとに脚本を書いたものです。1996年にオフ・ブロードウェイで初演したときは、Ensler自身がすべてのモノローグをそれぞれの語り手を真似て演じる一人芝居でしたが、この公演が話題になって全米各地で上演されるようになると、複数の女性が交代でモノローグを朗読するという形をとる場合も多くなりました。語りの内容は、初めての性体験や、男性あるいは女性との性関係、性器についてのイメージ、オーガズム体験、そして性的虐待や戦争中の兵士たちによるレイプ、また産婦人科での検査についての批判や妊娠・出産の喜びなど、テーマもトーンもさまざま。

1990年代後期からこの作品はアメリカでたいへん話題になり、各地でいろいろなバージョンが上演されています。私もハワイでしばらく前に観に行きました。大学のキャンパスなどでも上演され、公演の後での学生や教員がディスカッションをして教材として使われたりもしています。女性が性や身体について恥ずかしがらずに率直に語ることで、健全なセクシュアリティを謳歌すると同時に、性をめぐるさまざまな暴力や無知にも対抗していくという意味で、フェミニズムの重要な流れの一部としてこの作品は位置づけられます。しかし、フェミニストたちのあいだでもこの作品が必ずしも全面的に称賛されているわけではありません。女性の性を語るにあたってヴァギナに焦点をあてるのはちょっとおかしい(女性の性的快楽の中心はクリトリスにあるのであって、ヴァギナにこだわるのは男性期挿入に固執するフロイト的誤認を再強化するものである)とか、未成年の女子に酒を飲ませて性的行為をする年上の女性についてのモノローグは、性的虐待を肯定しているようであるとか、いろいろな批判もあります。また、保守的なキリスト教系の大学などでは、上演が禁止になったり、上演があっても学生や教員がボイコットしたりといったこともあります。

と、たいへん話題性の高い作品なのですが、深く考えさせられると同時にユーモアもあって楽しく、また感動的でもある作品です。HBOによる映画版もあって、私はそれを先月の東大駒場の集中講義で使ったのですが、学生たちはなかなかいい感想やコメントをたくさん提供してくれました。(今回の日本公演について教えてくれたのは、その学生のひとりです。どうもありがとう。)日本語での上演がどんなものかたいへん興味があるので、私は最終日の8/23(日)に観に行きます。まだチケットの残りがあるようですので、興味のあるかたは是非どうぞ。女性はいろいろな意味で勇気づけられる作品ですが、とくに男性にこそ観てもらいたい作品です。観たら感想を聞かせてください。

ちなみに、『新潮45』の「恋愛単語で知るアメリカ」連載のセックスの号でも書きましたが、vaginaという単語は日本語では「ヴァギナ」と表記されますが、英語の発音では「ヴァジャイナ」が正しいです。

2009年8月11日火曜日

アメリカの健康保険制度をめぐる議論

昨日の投稿で、日本の国民健康保険について言及しましたが、現在アメリカでは医療制度改革をめぐる議論が政治の前面で行われています。高齢者や低所得者のためのMedicareやMedicaidをのぞいて政府が運営する健康保険制度が存在しないアメリカでは、雇用者を通じて加入する保険に入れない人は、個人で高額な民間の健康保険に加入するしかありません。また、そうした民間保険の多くは、pre-existing conditionこと既往症つまり既になんらかの疾患のある人は加入できない仕組みになっています。つまり、もっとも医療へのアクセスを必要としている人に保険が手に入らないという、先進国とは思えない野蛮な社会なのです。オバマ大統領は選挙キャンペーン中から、この医療制度を抜本的に改革し、すべての国民に基本的な医療が受けられるような皆保険制度を作る、と公約し、現在その議論が進行中です。

アメリカで政府運営の皆保険制度が実現しにくい背景には、保険会社、医薬品会社、医療業界などの多大なる利害と、従業員のための保険料を負担できないと懸念する中小企業の経営者などからの抵抗といった要因がありますが、なんといっても驚くのが、政府運営の健康保険制度は「社会主義である」「非アメリカ的である」といったレトリック。今の時代にこうした用語を真顔で使う人がいるのには実に驚きます。また、健康保険を政府が運営するようになったら、医師や患者の自由が制限される、行政コストが莫大に増加する、事務作業がかさんで医療行為にかかる時間や労力が削られる、ひいては老人が安楽死を選ぶというプレッシャーを受けるなど、訳のわからない理屈(?)を持ち出して議論をセンセーショナリズムに引っ張る政治家やメディアの言論人がいるので、オバマ政権はとうとうホワイトハウスのウェブサイトに、政府案を明解に説明するためのセクションまで作りました。この一連の議論についてのニューヨーク・タイムズの記事はこちら。この記事に付録としてついているInteractive Featureにみるアメリカの医療改革の歴史はとても興味深いです。内容そのものも興味深いですが、日本のジャーナリズムの(物理的にも内容的にも)薄っぺらいことに悲しみをおぼえている私は、インターネットという媒体を活かして、イベントを追った単なる年表だけでなくさまざまな一次資料を読者に提供するというその企画自体に感心してしまいます。是非見てみてください。

2009年8月10日月曜日

逆カルチャー・ショック・レポート

日本に到着して三週間が過ぎたところです。例年帰国するときは、ちょうどこのあたりで滞在を終えてハワイでの日常に戻るところなのですが、今回はこれからが腰を据えての日本での生活になります。数週間訪ねてくるのと、一年間生活するのでは、日本で経験することや感じることがずいぶん違うだろうとは想像していましたが、やはりその通りで、「住民」となるからこそ気づくこと、考えさせられることがいろいろあります。

まず、日本の戸籍や住民票制度。どちらもアメリカには存在しない制度です。戸籍制度については、若い頃からいろいろ疑問を感じていて、しばらく前に「分籍」という手続きができることを知って早速その手続きをとったという経緯があります。そのときも、けっこう憤る経験をしましたが、それについてはまた別のときに書きます。今回は、町田市に一年間住むので、町田市役所で住民票登録をしたのですが、そのときに聞かれたいろんな質問からして、日本の役所制度というのは、ひとの人生や生活にのすべてを説明できる連続性があることを前提にしてできているのだなあということを実感しました。引越をしたらいちいちもとの場所と新しい場所で転出・転入手続きをして、何年何月何日から何年何月何日まではどこにいた、ということを説明できなければ、とてもややこしいことになる。私のように、もう20年間近く日本に住んでいない人間でも、最後に住民票があったのはどこか、と聞かれ、答えると実際にそこの役所の記録と照合される。海外から帰ってきたと言えば、パスポートで入国日を確認される。私はまあ一応こうした記録があるからいいものの、なんらかの事情で一定の期間住所が不定だったという人とか(家を引き払って長期の旅に出た人とか、事情によってしばらくいろんなところを点々としていた人とか)、過去のすべてについての証明書が存在しない人とかはいくらでもいるでしょうに、そういう人にとっては日本の行政制度はとてもややこしいことになるのではないかと想像します。

なにしろ、私が国民健康保険に加入するのにも、私が別の保険に加入していないということを証明するための「資格喪失証明書」を提出しなくては加入できないと言われ、「日本で親の会社を通じて保険に入っていたのはもう十年以上も前のことで、親はそれ以来転職も退職もしているので、そんな証明書が手に入るかどうかわかりません」と言っても、「その会社がまだ存在するのなら出してもらえるはずです」と言われ、しかたなくなんとかその証明書を手に入れたのですが、そんなものが手に入らない人はたくさんいるでしょうし、そういう人こそ国民健康保険を必要としているでしょうに、なんとも面倒なシステムです。

しかし、いったん書類を揃えたら、日本の役所というのは対応が実にてきぱきとしていて、こちらの質問にもすべて答えてくれてその場で保険証を発行してくれて、転入届を出した先週ぶんから保険は有効。しかも、保険税も、私がハワイで大学を通じて入っている民間の健康保険と比べたら格段に安い。(私は前年の日本での収入がないのでそのぶんもちろんずっと安いのですが、私のハワイでの年収を前年の収入として計算しても、私がハワイで払う保険料よりも半分くらいです。)保険証をもらったその足で、さっそく耳鼻科に行ってきたのですが(私はよく中耳炎になるのですが、ちょっと前からその症状があって、それもあって早く保険に入りたかったのです)、病院でも薬局でも今さっきもらった保険証でもすべてスムーズにことが運んで、単純に「日本というのは素晴らしい国だなあ」などと思ってしまいました。なぜアメリカ社会が政府による健康保険にあれだけの抵抗を示すのか、まったくもって不可解です。

で、その国民健康保険ですが、驚いたことふたつ。ひとつは、正常分娩は保険でカバーされない、ということ。妊娠・出産は「病気」ではないから、という理屈らしいですが、これはかなり驚きです。アメリカの保険は基本的にみな民間保険ですから、プランによって違うでしょうが、たいていのプランでは出産にかかる費用(出産前の検診も含めて)はカバーされます。健康診断や予防接種が保険でカバーされない、というのも驚きました。予防が医療の一部として考えられていない、ということなのでしょうか。これはたいへんよろしくないシステムのように思います。(ちなみにアメリカでは、カウンセリングやいわゆる「セラピー」も保険でカバーされます。)そのいっぽうで、子供が生まれると政府から「出産育児一時金」などというものが出る、というのも、アメリカの感覚からしたら驚愕的なことです。出産にかかる費用が平均して30万から50万円、出産育児一時金として出るのが35万円ですから、まあ、結果的には自己負担はアメリカとほぼ同じになるのかもしれませんが、なんだかこのあたりの制度の違いに、医療だの政府の役割だのといったことについての社会的概念の違いが顕われているような気がして、とても興味深いです。

別の方面で、びっくりすることは、日本のテレビのくだらなさ。なんだってここまでくだらないものを朝から晩まで流しているのだろうと、驚くやら呆れるやらを通りこして、視聴者をばかにしているのだろうと深い憤りが湧いてきます。今でもテレビ局への就職は倍率も高くて、優秀な人が入っていくはずなのに、どうしてそういう人たちがこんなに馬鹿馬鹿しいものを作っているんでしょうか。どんな時間でも、NHK以外に見る価値のあるものはひとつも見つからない(NHKはNHKで問題もありますが、民放があまりにも目も当てられない状態なので、それと比べると非常に立派に見える)。どうでもいいようなバラエティ番組ばっかりで、とりあげている話題についてなんの知識もアイデアももっていないような「タレント」が無責任なコメントをして時間を埋め、聴覚障害者のためでもなく意味もなくやたらと出演者の発言を文字表示する。あれはいったいなんなんでしょうか???あんなものを作るほうも作るほう、そうした番組にコマーシャルを出す企業も企業ですが、そうしたものを文句も言わずに見ている視聴者も、もうちょっと局に対して発言したらいいんじゃないでしょうか?最近は局も予算削減で各番組に制作費がかけられないのでしょうが、だったらいっそのこと放送時間を減らして、「うちの局は午後5時から12時の局」とかにして、そのぶん各番組にもっと力を入れたほうがいいんじゃないでしょうか。とにかく、こんなにくだらないテレビを一日何時間も見ていたら、日本の人々の頭が腐っていくのは必至だと思います。アメリカにだってもちろん信じられないくらいくだらないテレビ番組は山ほどありますが(ケーブルで局の数が無数にあるぶん、くだらない番組も多い)、さすがに大手の民放がプライムタイムに流すような番組は、報道番組にしてもドラマにしても、お金と頭脳と創造性が多大に投入された、見応えのあるものが多いです。このあたりはやはり、「世界に見られている」という自負と現実がレベルアップにもつながっているのに対して、日本のメディアは基本的に日本のなかのものという感覚が強い、というのもあるのかもしれません。映画『ロスト・イン・トランスレーション』で日本のバラエティ番組が実に奇怪なものとして描かれていますが、その感覚は私にはよくわかります。

あ、あとそれから、デパートやブティックの女性店員の「いらっしゃいませえ」「どうぞごらんくださあい」というあの独特の発声と抑揚は、いったいどこからきたものなのでしょうか?私はあれを聞くたびになんだか背筋に悪寒が走る思いがするのですが、どこに行ってもあの調子で店員さんがしじゅう客に声をかけている(そして、あの声や抑揚は、お店以外には絶対に耳にすることがない)ので、きっと誰かが開発してなにかの手段で業界に普及したのだろうと思うのですが、知っている人がいたら教えてください。

「日本はやっぱり素晴らしい」と思うこともいろいろあります。日本の居酒屋は素晴らしい。デパ地下のお惣菜も素晴らしい。コンビニも素晴らしい。電車やバスや宅急便が見事なまでに時間通りに来るのも素晴らしい。サービス業はおおむねどこでもとてもてきぱきして対応がよい。どこかになにかを問い合わせる電話をしたら、必ずちゃんと人間が出てきて対応してくれるのも素晴らしい。(アメリカではたいてい「xの用の人は1を押してください、yの用の人は2を押してください」といったことが延々と続き、やっと人間が出てきたと思ったら、南アジアとか東ヨーロッパのコールセンターにいる、聞き取れないアクセントの英語を話すスタッフで、用が終わるころにはこちらは疲れ果ててしまう、といったことが普通です。)

などなど。「帰国子女」ならぬ「帰国おばさん」の逆カルチャー・ショックについて、またご報告します。

2009年8月7日金曜日

『「家族計画」への道——近代日本の生殖をめぐる政治』

やっぱり東京の夏は蒸し暑いですねえ。私は東大駒場での集中講義を終えて、これから一年間仕事をする桜美林大学のある町田(からまただいぶ離れている)に移ってきたのですが、バスや電車を乗り継ぐ毎日に徐々に慣れているところです。ハワイでは、車を15分も運転すればたいてい自分が用のあるところには行けてしまうし、自宅のベランダから手を振れば仲良しが見えるような生活をしているので、都心に行くにはバスの時間も合わせると1時間以上、比較的近くに住んでいる友達に会うにも30分以上はかかるという暮らしは、ずいぶんと新鮮です。でも、私のような人間は、都心に近いところにいると、遊んでばっかりで仕事にならないと思うので、落ち着いてものを読んだり書いたりするにはこうした場所での暮らしのほうがいいと思っています。

さて、北九州市男女参画センターというところに書評を依頼されて(依頼されたのは、「2008年または2009年に刊行されたジェンダー関係の洋書または和書」の書評ということで、なにを選んでもよかったのですが、書店でいろいろ手に取った本のうちこれが一番読み応えがありそうだったし、自分の関心とも近かったのでこれを選びました)、荻野美穂著『「家族計画」への道―近代日本の生殖をめぐる政治』という本を読みました。ずいぶん前に紹介した、Gay New Yorkを読んだときに感じたような、社会史研究というものの醍醐味を感じさせてくれる、見事な力作です。

私は、アメリカの歴史や文化を専門にして、普段はアメリカに住んでいることもあって、「生殖をめぐる政治」というとまず連想するのが、現代アメリカにおける中絶をめぐる壮烈な闘いです。アメリカでは、1973年の連邦最高裁判決によって中絶が合法化された後も、キリスト教右派の政治的台頭を背景に、政治・宗教・生命倫理などが複雑に絡み合って、激しい中絶論争が続いています。pro-choiceとよばれる中絶支持派が教育程度が高くおおむね教会に通わないミドルクラス層であるのに対し、pro-lifeとよばれる中絶反対派の多くが宗教心が強く(多くは福音主義キリスト教会に所属している)「伝統的」なライフスタイルの労働者階級であることからも、この問題は社会問題のひとつとなって、とくに選挙の時期には大きな政治議論を巻き起こします。狂信的な中絶反対者のなかには暴力行為も辞さないと公言している人物もいて、ついこのあいだの5月末にはカンザス州でGeorge Tiller医師が殺害されました。

それに対してそれに対し日本では、米国よりはるか前に中絶が事実上自由化されました。女性の政治的・経済的・法的地位において米国にずいぶん劣る日本は、中絶に関してはずっと「進んでいる」ととらえることもできます。中絶そのものが政治的な議論の焦点になることがないということ自体、アメリカの人々にとってはかなり驚くことのようです。でも、この本は、生殖をめぐる日本の「常識」が、実際は明治期からのさまざまな国家政策と、それを推進あるいは批判してきた運動家たち、そして妊娠という現実に直面して自分なりの選択をしてきた女性たちのあいだでの、複雑な衝突や交渉のなかで生まれてきたものだということを明らかにしています。決して国家権力や法のみに焦点を絞らず、それらに対抗したり協力したりした団体や個人たちの声、性や妊娠をめぐる人々の日常を、多角的に鮮やかに描く、エスノグラフィックな視点や記述が新鮮でもあります。平塚らいてうなどの明治の知識人による避妊反対論、優生学に色濃く特徴づけられた避妊・中絶論争、戦後に村や企業体をベースに普及した家族計画指導、優生学思想に挑戦をつきつける障害者たちの運動、生長の家などの宗教団体による「いのちを大切にする運動」、避妊ピルをめぐる論争、水子供養「ブーム」という現象に顕われる命の言説など、私はまるで知らなかった事実がとてもたくさんあり、とても勉強になりました。アメリカとの比較という点でもとても興味深いです。著者は、ジェンダーや生殖、身体について数多くの著作がある研究者で、大阪大学を退任したばかり。20年以上にわたる研究をまとめた、厚みがあって明晰な力作で、おススメです。

2009年8月1日土曜日

ハワイ大学フットボール・コーチの問題発言の処分

東大駒場キャンパスでの集中講義が先週いっぱいで終了し、金曜日の期末試験が終わった後には学生たちと打ち上げに行きました。ちなみに、期末試験の問題はこちら。

第一部  以下の項目のうち四つを選び、それぞれについてそれがなんであるかを説明し、その歴史的文脈とアメリカ女性史における意義を論じなさい。(各10点x4=40点)
Rosie the Riveter
The Kinsey Report
The Hyde Amendment
Our Bodies, Ourselves
This Bridge Called My Back


第二部 以下の両方の問いに答えなさい。(各15点x2=30点)

1.運動の起源、リーダーや参加者、運動の目標、運動の方法などにおいて、 女性参政権運動と第二次フェミニズムのあいだの類似点と相違点を説明しなさい。

2.いわゆる「第三次フェミニズム」とよばれる運動の活動家たちは、性(ジェンダーおよびセクシュアリティ)、人種、社会階層などの社会的カテゴリーによって規定されるアイデンティティを、加算的に考察するだけでなく、それらのintersectionalityを分析することの必要性を説いてきた。「性、人種、社会階層が相互的に構築されている」とは実際にどういうことか、具体的な例を挙げて説明しなさい。

第三部  以下の二問のうちひとつを選んで答えなさい。(30点)

1. Betty Friedan, Anne Koedt, およびAngela Davisの三人が、Vagina Monologuesの公演を観たあと対談をしたとする。それぞれが作品についてどのような感想、意見、批評を述べるか、またお互いのコメントについてどのような反応をするかを想像して、その対話を脚本形式で書きなさい。

2.映画Far from Heavenの物語は1950年代コネチカットに舞台が設定されている。25年後に舞台を設定してこの映画の続編を作るとしたら、どのような物語にするか。登場人物の状況、物語の筋などを説明しなさい。オリジナルには存在しない登場人物を導入してもよいが、Cathy, Frank, Raymond, Eleanorの四人は必ず物語に入れること。また、場所は変更してもよいが、その場合は具体的な場所を設定し、その設定が物語になんらかの意味をもつようにすること。


2週間の授業は教える私にとってとても有意義で楽しい経験でした。今の日本の若者が(などという表現を使ってしまうところに自分のオバサン度が感じられれます)きちんと自分の頭でものを考え他国の歴史や文化を真剣に学ぼうという姿勢をもっているということが、私にはとても心強く感じられました。また、この授業にはゲイとしてカム・アウトしている学生もいたのですが、彼らはとりわけ優秀でした。もともと学力はとても高い学生たちですし、そうした中で性的マイノリティであるということで、普段から嫌でも真剣に自分のアイデンティティや社会規範について深く考えざるをえないからなのでしょうが、とにかく彼らの意識や生き方に、私はとても勇気づけられました。私が学生だった頃と比べると、LGBTの学生がカム・アウトして普通に他の学生に受け入れられたり、授業などでもセクシュアリティ分析がきちんとなされたりするような環境になってきたのかしらん、とかなり嬉しくなっていたのですが、学生の話を聞いてみるとなかなかそう簡単に大学の環境というのは変わらないようで、長い道のりがありそうです。でも、辛くても面倒でも、ひとりひとりの学生や教員が、いろいろな場面で声をあげていくことが、少しずつ変化につながっていくはずなので、彼らには大きなサポートを送りたいと思います。がんばれー!

LGBTをめぐる大学の環境というトピックでいえば、ちょうど、私の普段の拠点であるハワイ大学のフットボール・コーチが、ゲイに対して差別的な発言をし、停職そして減給の処分を受けることが決まりました。フットボールのようなメジャーなスポーツは大学の知名度や収入と密接に結びついているので、フットボール・コーチというのは、大学のなかでも教員はもちろんのことたいていの運営者と比べてもたいへんな高給取りで、地元コミュニティのなかでも相当な地位を占めている人物です。そうした人物が差別的な発言をしそれを大学側が黙認するということは、大学におけるLGBTの学生や教員・スタッフにとって安全な環境づくりにならず、また、コミュニティすべての人々を尊重するという点においてそうした発言や行為について厳しい措置をとる必要があるとの判断から、大学側がこうした処分を命じ、コーチもそれを受け入れたわけです。アメリカの大学がすべてにおいて日本の大学より優れているとはまるで思いませんが、LGBTに関する意識という点においては、こうした発言がこれだけのおおごとに発展するアメリカの大学と、LGBTに関して信じられないような無知で差別的な発言を教員が授業でする日本の大学では、たいへん大きな差があるのは明らかです。