2019年8月24日土曜日

Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro 発売! 


2019825日は、20世紀を象徴するアメリカ、そして世界の音楽家、レナード・バーンスタインが生きていれば101歳の誕生日です。これまで1年間にわたり、世界各地でバーンスタイン生誕100周年記念のコンサートやイベントが開催されてきました。その記念すべき年の締めくくりになんとか間に合う形で、私がこれまで6年間取り組んできたプロジェクトが本となって発売になりました!題してDearest Lenny: Letters from Japan and theMaking of the World Maestro

6年前にワシントンの議会図書館の音楽部門にあるバーンスタイン・コレクションをリサーチに行ったとき、私はバーンスタインそのものを研究対象とするつもりはありませんでした。まったく別のプロジェクトのケーススタディのひとつとして、ケネディ・センターについての資料を集めていて、この舞台芸術施設が1971年にオープンした際のこけら落とし作品としてバーンスタインの『ミサ曲』が上演されたので、そのことについて調べていたのです。

ところがこのバーンスタイン・コレクション、一人の芸術家にまつわる資料コレクションとしては世界でも最大級と言われており、1700以上の箱にマニュスクリプトやビジネス書類など40万点以上が所蔵されている、研究者にとっては天国とも地獄とも言えるような膨大なアーカイブなのです。いったいそこに何が入っているのかを漠然と理解するだけでも一苦労。このコレクションの目録に目を通し、バーンスタインに手紙を送った、あるいはバーンスタインから手紙を受け取った人物の名前のリストをざっと見ているとき、私は聞いたことのないふたりの日本人の名前を見つけました。ひとりは、Kazuko Amanoさん。もうひとりは、Kunihiko Hashimotoさん。小澤征爾さんや五嶋みどりさんの名前ならリストされていても当然だけれども、このふたつの名前は聞いたことがない。ケネディ・センターについての研究とは無関係だろうと思いつつも、この二人がいったいどういう人物なのかに興味を引かれて、私はこれらの箱の閲覧請求をしました。そして、その箱が出てきた瞬間、私の研究はまるで方向を変えました。それらの箱との出会いは、研究者人生において一度でもあれば地に平伏して感謝するような、運命的な発見だったのです。

父親の駐在のためパリで育ちパリ音楽院でピアノの勉強をしていた天野(当時の姓は上野)和子さんは、戦争勃発のため一家で帰国します。戦時下の日本では満たすことのできなかった広い世界への好奇心や音楽への思いに駆られて、戦後、占領軍の文化政策の一環として運営されていた東京のCIE図書館(アメリカン・センターの前身)に通って英語の書物を読みあさっていた和子さんは、ある音楽雑誌に掲載されていた、レナード・バーンスタインという指揮者の短いエッセイを読み、深く感銘を受けます。バーンスタインは1943年に臨時のピッチヒッターとしてニューヨーク・フィルを指揮し衝撃的なデビューを飾っていたとはいうものの、まだキャリアとしては駆け出しの段階でした。その、初めて知る若い音楽家の文章に感銘を受けて、18歳の和子さんは、わざわざバーンスタインの誕生日を調べ、ファンレターを送ったのです。その人並み外れた行動力が実を結び、なんと一年ほど経ってから、和子さんはバーンスタインから返信を受け取ります。そこからふたりの書簡のやりとりが始まり、和子さんの最初のファンレターから14年を経た1961年にバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて初来日する時には、和子さんは夫と幼い子供ふたりと一緒に、バーンスタインと初の対面を果たし、その後、天野一家は家族ぐるみで熱烈なレニー・ファンとなっていきます。結婚、子供の誕生と成長、50代になってからの就職、といったさまざまな人生の段階を辿る過程で、和子さんにとって、バーンスタインへの愛情は特別な心のよりどころとなるのです。

いっぽう、橋本邦彦さんがバーンスタインに出会ったのは1979年夏。ニューヨーク・フィルの日本ツアーの最終コンサートの後に知人の紹介でバーンスタインと会った橋本さんは、それまで憧れのアーティストであったマエストロを目の前にして、一瞬にして劇的な恋に落ちます。バーンスタインの東京での最後の夜を共にし、空港で彼を見送った後で、橋本さんは最初の長い長いラブレターを書きます。そしてその後、橋本さんはまるで日記を書くかのような勢いで、バーンスタインへの情熱的で切実で真摯な思いを書き綴り、送り続けるのです。バーンスタイン・コレクションに所蔵されている橋本さんの手紙は、全部でなんと350通以上。

結婚し子供3人と幸せな家庭生活を送ったバーンスタインが同性愛者でもあったことは、多くの人が知っていたことでした。妻となるフェリシアも、結婚前からそのことをじゅうぶん承知の上で、愛情と信頼によって家庭を築こうとバーンスタインに決意を伝えた手紙が残っています。結婚生活中も、フェリシアが1978年に亡くなってからも、バーンスタインには数多くの男性の恋人がいたことも、広く知られていることです。橋本さんは、バーンスタインにとって一人きりの恋人という訳ではなく、そのことも橋本さん自身はよく理解していました。でも、橋本さんはバーンスタインにとって単に行きずりの人物だったかというとそうではなく、きわめて特別な存在であったことは、バーンスタインが二度にわたって橋本さんをヨーロッパに招待し、仕事の合間に親密で素敵な時間を過ごしていることからもわかります。

当初は保険会社に勤めるサラリーマンだった橋本さんは、バーンスタインと出会って数年後に、一大決心をして会社を辞め、もともと情熱を抱いていた舞台芸術の世界に足を踏み入れます。劇団四季のオーディションに合格し、役者として舞台に立ちながら、編集プロダクションの会社を立ち上げ、新しい人生を歩み始めるのです。その過程で、橋本さんがバーンスタインとの関係を自分のキャリアのために利用するようなことは一切ありませんでした。親しいごく一握りの人たちを除いて、バーンスタインとの関係について橋本さんは誰にも話すことがなかったのです。やがて橋本さんは、バーンスタインのマネージメント会社を率いるハリー・クラウトの信頼を得て、なんとバーンスタインの日本代表の役割を担うことになります。そうして、バーンスタインの晩年の仕事の中でももっとも大きな意義を持ったプロジェクトである、1985年の広島平和記念コンサートや、1990年に札幌で開催されたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMFの企画運営に欠かせない人物として奔走するのです。

Dearest Lennyでは、天野さんと橋本さんがバーンスタインに送った、情熱的で誠実で聡明な書簡を読み解きながら、ふたりの愛情の形やバーンスタインとの関係の変遷を辿ります。そして、そのきわめてパーソナルな物語を、第二次大戦後の世界政治経済、アメリカ社会、世界における日本の位置付け、音楽産業の様相などの変化の大きな流れと絡ませて語っています。東京文化会館のオープニングや大阪万博、ソニー、小澤征爾さんなども物語において重要な役割を果たしています。日本に焦点を当てることで、これまでにたくさん論じられてきたバーンスタインの「世界のマエストロ」としてのありかたに、新たな光が当たるのです。

どうですか、面白そうでしょう?(と著者自ら言う)

生身の天野和子さんと橋本邦彦さんとの出会いを含め、この本が完成するまでには、本当にあれこれと紆余曲折がありました。これまでに何冊も本を書いてきましたが、この作品には特別の思い入れがあります。日本を舞台にした内容なので、いずれ日本語版も出版するつもりですが、それまでにはしばらく時間がかかりそうなので、英語を読もうというかたはぜひまずこの本を読んでいただきたいと思います。研究に基づいてはいますが、学者だけではなく広く一般読者のかたがたに読んでいただくことを念頭に置いて書いたので、文章は読みやすいはずだと思っています。

先週末に、英国ガーディアン紙の記事に本の内容を取り上げていただいたおかげで、世界各地でけっこう話題になっているようです。これからいろんなかたたちから本の感想を聞かせていただくのを楽しみにしています。

なお、本の発売に合わせて、私のウェブサイトを更新しました。本に出てくる音楽作品などのリンクを集めたDearest Lenny参考ガイドというページも作成しましたので、是非合わせてお楽しみください。

 


2019年8月5日月曜日

マウナケア山でTMT 建設反対運動が生むハワイアンの共同体




週末3日間、ハワイ島のマウナケア山に行ってきました。ここ3週間、ハワイアンの人々がリーダーとなって展開している、TMTThirty Meter Telescope)建設反対運動の様子を自分の目で見てみたかったからです。

ごく最近までは、この天文台建設をめぐる議論や騒動については、日本ではほとんど知られていなさそうだという印象をもっていましたが、先週朝日新聞のデジタル版に記事が載ったこともあり、だんだんとニュースが広がっているように思います。昨日はマウナケアでNHKの記者にもお会いしました。

まずは、簡単な背景説明から。

ハワイアンにとって神聖な土地であるマウナケア山は、環境保護地区として州に指定されており、開発が規制されています。天文台のような大規模な施設が建設されるためには、通常は、自然環境や先住民文化への影響などをめぐる厳しい審査を経なければいけないところが、天文観測に理想的な環境とされたマウナケア山頂には、そのような審査を経ずに1960年代から次々と望遠鏡が建てられてきました。マウナケア山頂では土地の宗教的・文化的な意味や自然環境に配慮がなされておらず、ずさんな管理で持続的にゴミや汚染の問題が起きていることが指摘されながらも、ハワイ州や州から山頂の土地を借りて管理するハワイ大学は適切な処置を取らず、数十年間にわたって地元住民や環境団体から抗議の声が上がっていました。1990年代後半には、州政府が実施した監査で30年間にわたるマウナケア管理の失態が指摘されたにもかかわらず、新たな望遠鏡が建設され続け、2004年には下水やディーゼル燃料、水銀などの漏洩が山頂で起きていたことも露呈されました。2011年にはすばる天文台で100リットルの冷却剤が漏れ、2週間にわたって天文台が閉鎖されました。

そのような状況の中で、ハワイアンの人々や地元の住民、ハワイ大学の学生団体などからの強い反対にもかかわらず建設計画が進められてきたTMTは、すでにマウナケア山頂に13基ある天文台のどれよりもはるかに大きな規模の、18階建のビルに相当するサイズの施設です。2015年に建設が開始されようとしたときには、マウナケアを守る活動家たちが抗議運動として山頂への道路をふさぎ、一時的に建設は停止されましたが、2018年には州最高裁が建設再開を認める判決を下し、この夏に建設道具などを山頂に運ぶ作業が始められようとしていました。

それを受けて、再びハワイアン・コミュニティのリーダーたちや若い活動家たちが、山頂への道路の入り口で座り込みを開始し、717日にはクプナと呼ばれる長老たちを含む40人近くが逮捕される騒動へと展開しました。平和的直接行動に対して州がこのような強行措置を取ったことに対して、ハワイアンだけでなくハワイの人々やアメリカ本土、海外からも大きな批判の声が上がり、この問題への関心が大きく高まってきました。マウナケア現地だけでなく、オアフ島でも州議事堂やワイキキ、ハワイ大学キャンパスなどで3週間にわたってほぼ連日デモが行われています。私も数回参加しましたが、ハワイアンだけでなく実に多様な人たちが緊急の呼びかけに応じて集まってくるのがとても印象的でした。














マウナケアでは、座り込みに参加する人たちが各地から集まり、これまでに最大で約3千人ほどの人たちが道路の入り口周辺に集まって、その多くはテントや車の中で寝泊りをしています。プロレスラーのThe Rockや俳優のジェイソン・モモアも抗議運動への賛同を表明するため現地を訪れています。私が行った週末には、ハリケーンが接近しているとの予報が前日にあり、小さなテントは撤去され、多くの人たちは安全な場所へ移動したものの、雨や強風のなか百人以上の人たちが現地に残って夜を明かし、翌日にはまた1000人以上の人たちが集まりました。

私はTMTの問題が明らかに悪化してきた数年前からマウナケアでの建設には反対でしたが、現地に行くことを躊躇していたのは、私がそこに出かけて行くという行為が抗議運動への支持の表明として最適な形であるかどうか、ハワイアンでない人間がハワイアンにとって神聖な空間に押し入ることにはならないか、私が行っても観光客のように外から事態を眺めるだけでなんの貢献にもならないのではないか、などという問いが頭をめぐっていたからです。

それでもとにかく出かけて行ってみようという気持ちになったのは、私の学部の博士課程に在籍している、この運動に深くかかわっているハワイ島ヒロ出身のハワイアンの大学院生が、「マウナケアで今起こっていることを、学部のみんなにぜひ経験してもらいたいので、興味のある人は案内する」と呼びかけて23日の訪問を企画してくれたからです。教員・大学院生やその仲間合わせて約10人がこのマウナケア訪問に参加しました。彼がきわめて綿密で考え抜かれた計画を立てて案内してくれたおかげで、単なる傍観者ではなく、ボランティア活動をしたり、マウナケアに行く途中の道路脇で野生の花を摘んで夜にレイを作り神殿に捧げたり、ハワイアンのチャントを習って式典で歌ったりと、ほんの小さな形でもなにかそこで役割を果たす参加者として、マウナケアでの運動を経験することができました。




この3日間で見たこと、経験したことは、ハワイに引っ越してきてから20年以上が経つ私にとって、もっとも意義深いことのひとつとなりました。感じたこと・考えたことがたくさんありすぎて、まだきちんと言葉で整理できない感がありますが、そのときの印象や直後の思いを記録しておくことも意味があると思うので、ここでシェアしておきます。

一番強く感じたことは、今マウナケアで起こっていることは、TMT建設反対という直接的な目的もさることながら、それをはるかに超えた、まさにハワイアンの共同体創生の大きな波になっている、ということです。

警官が活動家たちをを立ち退かせようとしたり、リーダーたちが逮捕されるような状況のときには、非暴力的直接行動の訓練を受けた活動家たちが腕を組んで座り込みをするなどというアクションが取られます(無駄に状況をエスカレートさせないための、非暴力的直接行動のトレーニングが、現地では定期的に開催されていて、そこにいる人すべてに参加を呼びかけられます)が、TMT建設反対の声が強まると同時に、ハリケーン接近により建設工事もすぐには始まらないということで州知事の非常事態宣言が取り消され、エリア周辺にところどころ巡回するほかは警官も撤退した状況では、道路入り口付近に集まった活動家たちが一日中文字通り道路にじっと座っているわけではありません。

ではそこで何が行われているかというと、まさに、ハワイアンの共同体が営まれ、文化が実践されているのです。

毎日3回、朝8時と正午と夕方6時には、長老たちが常駐しているテントを囲んで、式典が行われます。山や太陽などの神々に祈りを捧げるチャントを歌い、何曲かのフラを踊り、そのあとで、遠隔地からマウナケア山とそれを守る長老たちに敬意を払うためにやってきた人たちやグループが、正式な挨拶としてチャントや歌や演説をしながら長老たちの前に進み出て捧げものをします。それに応じて受け取る側もチャントをします。多くの訪問者がある日には、この最後の部分だけで1時間以上もかかることもあります。








私は、宗教心というものがなく、多くの儀式や式典というものには興味がない人間なのですが、この式典は何時間でも立って見ていたいと思うくらい、身体や頭や心のあらゆる方向から強く響くものがあり、深く心を打たれました。ハワイで暮らすようになってからこれまで、もちろん何度もフラを見たりチャントを聴いたりしてきましたが、その多くは、何かのイベントの際にプロトコルとして行われるものであったり、パフォーマンスとして演じられるものでした。それらももちろん重要な意味を持ったものですが、マウナケアの山を前に広い広い空の下でのチャントやフラは、別の次元のパワーを持っています。オリやフラは、まさに祈祷であり、コミュニケーションであり、愛や決意の表現であり、なにより、ハワイアンの人たちの生きた文化なのだ、ということを深く実感しました。この美しくパワフルな式典を、ひとりでも多くの人に経験してもらいたいと強く思いました。

そして、それ以外の時間には、PuʻuhuluhuluUniversityと名付けられた青空教室が開催されています。この場所に集まった人たちが、式典の時間以外に何もせずにそこにいるだけではもったいない、せっかくだからここに集まる人たちのエネルギーを、ハワイアンの共同体の興隆につなげることに使おう、好都合なことに、マウナケアに集まってきている人たちの中には、ハワイ大学の教員や学生だったり、ハワイ語やフラの指導者だったりする人が多く、シェアする知識やスキルをたくさん持っている。ということで、現地に常駐している若い活動家たちが率先して企画したこの「大学」。毎日朝の式典でスケジュールが発表され、たいてい同時進行で複数の、多い時には5つもの「クラス」が開講されます。クラスの内容は、ハワイ語入門やハワイの神話や伝説、宗教や思想に関するものから、チャントや歌、ハワイ・太平洋地域の植民地化や軍事化の歴史、ハワイアンの移動やディアスポラの力学といったものまで、実にさまざま。そこにいる人は、ハワイアンでなくても、大人でも子供でも、ハワイ語やハワイの歴史や文化の知識があってもなくても、誰でも参加できます。途中で一つのクラスから別のクラスに移動してもよい。学位を持った人が権威として上から下に知識を伝授するという性質のものではなく、空の下、マウナケアの麓で、知や文化を共有し育成しよう、という精神の、有機的な教育活動なのです。こういうものが自然発生的に生まれて、毎日絶え間なく開講されているということは、本当にスゴイ。




山の麓の水道も電気もない場所で、日によっては何千人にもなる人たちが集まって、どうやって「生活」しているのか、というと、人々の見事な自律的運営と組織によっているのです。

長老たちの常駐しているテントを挟んで道路の反対側には、Pu’uhonua すなわち「安全な避難場所」として設置されたエリアがあります。そこには、キッチンテント、衣類や生活用品などを常備したテント、簡易トイレ、ゴミ分別テントなどがあり、すべてボランティアによって実に規律正しく運営されています。発電機も、飲食物や衣類や生活用品も簡易トイレも、そこにあるトイレットペーパーや消毒液なども、すべて各地の人々から寄付されたもの。食料は長老たちやそこに常駐している人たちのためのものなので、日帰りでやってくる人たちは自分の食べ物を持参するようにとは言われていますが、毎日集まる人が誰もお腹を空かせないだけの食料はじゅうぶんあり、常に何十人ものボランティアたちがテントで配膳や片付けに当たっています。トイレ掃除やゴミ処理担当のボランティアも絶えず作業しているので、一帯は実にきれい。私は道路のT字路の両側1キロずつくらいのエリアのゴミ拾いをしたのですが、テントや車で寝泊まりしている人たちも日帰りでやってくる人たちも、みな責任ある行動をしているので、ほとんどゴミといえるようなものは見つかりませんでした。

このことからも、マウナケアで「カプ・アロハ」の精神が徹底して実践されていることがわかります。毎日3回の式典では、運動のリーダーたちが繰り返し、この地での戒律についてみなをリマインドします。誰に対してもアロハの精神で接すること、自分たちの行動を自分で律すること、飲酒や喫煙は一切禁止、ゴミを出さないこと、などといった規律を、みながしっかりと守って行動し生活しています。


そういう共同体ゆえ、皆が本当に温かくお互いに接します。すれ違う誰もが目を見合わせてにっこりしてAloha!と挨拶するし、私が「ごみありませんか〜」と言いながらたくさんのテントが張られた道路沿いを歩いていると、ごみのない人(がほとんど)を含めみんながMahalo!と感謝の気持ちを表現してくれるし、誰かが「ちょっとこれを動かすので手伝ってください」などと呼びかけると、瞬時に近くの人が10人も20人も集まってあっという間に作業が終わるのを見て、胸が熱くなりました。

さらに印象的なのは、ここに集まっている人たちの年齢がきわめて幅広い、ということ。長老テントに常駐しているリーダー層は70代や80代。1970年代のハワイアン運動のリーダーの一人であったMililani Traskや、ミュージシャンとして日本でも知られるKealiʻi Reichelもいますが、マウナケアでこのコミュニティを運営している人たちの多くは、1970年代から1980年代にハワイアン運動の一部として開設されたHawaiian immersion school(すべての学科をハワイ語で勉強し、生活でもすべてハワイ語を使用する学校)で教育を受けたり、子供の頃から真剣にフラを勉強したり、さまざまな形でハワイアン運動に携わってきた世代。そうした人たちが、自分たちの子供を連れて、マウナケアの麓に生活の場と共同体を作って、神聖な土地や自然環境を守っているのです。

「抗議運動」というと、血気盛んな若者や中年男性たちがヘルメットにマスクで突進する、などというイメージを持つ人もいるのではないかと思いますが(いないか?)、マウナケアでは、ティーンエイジャーもたくさんいるし、家族ごとこの共同体にコミットしている人たちが多く、抱かれた赤ちゃんやちょこちょこ歩きの幼児、小学生くらいの年齢の子供たちが何百人もいるのに驚きました。そんな子供が割れ目のたくさんあるゴツゴツした溶岩の地面を走り回っていて危なくないのか、と思われそうですが、これだけみながアロハの精神で連帯している場所なら、まったく危なくないだろうということがわかります。

また、Puʻuhuluhulu Universityのクラスをいくつか覗いてそこで交わされている会話を聞いて感じたことは、ここに集まっている「ハワイアン」の人たちは、「ハワイアン」であることについて実に多様な経験や思いを持ちながらも、TMT建設の危機によってものすごい勢いでこの場に吸い寄せられるように集まってきて、「ハワイアン」の意味を考え直し、ハワイの土地や文化へのコミットメントを新たにしている、ということです。ネイティヴ・ハワイアンの血を引く人でも、ハワイで暮らしたことのない人たちはたくさんいますし、ハワイで生まれ育ったハワイアンでも、ハワイ語やハワイの文化をほとんど知らずに成人した人たちも少なくありません。福音派クリスチャンやモルモン教信者のハワイアンもたくさんいますし、LGBTQのハワイアンもいます。ハワイアン運動の活動家の中でも、ハワイ語やハワイの宗教や神話などの文化的知識を重視する人と、より政治的な問題を重視する人がいます。ハワイアン運動にこれまで深く関わってきた人も、これまで無関心だった人もいます。そうした人たちがここに集まって、一緒に生活しながら、ハワイアンの共同体を営んでいるのです。このことは、TMTそのものがどうなるかを超えて、とても大きな意味を持っていると思います。

人々が祈りを捧げフラを踊り、長老たちに敬意を表し、共同キッチンを運営しトイレの掃除をし、青空のもとで教室を開催している、そのマウナケアの麓で2019年の夏を過ごした子供たちが、10年、20年、30年後に成人してリーダーになった時のハワイがどのような社会になっているのか。それを見ることができるのなら、このまま一生ハワイで過ごすのもよいなという気持ちにもなりました。




この投稿を書いている最中に、TMTの代表がマウナケアの代替案として候補に挙がっているスペインのカナリア諸島に、天文台建設の許可申請を提出したというニュースが出ました。TMTは日本の国立天文台を含む複数の国の大学や組織が共同出資して法人化されている複雑な機構なので、土地を提供するハワイ州や管理するハワイ大学がたとえこの事業の進行に躊躇したとしても、そう簡単に中止したり移動したりできるものではないでしょう。どう収束するのかは私には予測できません。

ただ、マウナケアに行ってみて確信したのは、山にテントを張っている長老たちやそのサポーターたちは、何があってもあの場から動かないだろう、ということ。いざとなったらトラックの下敷きになる覚悟があるだろう、ということ。

そして、マウナケアを中心に、ハワイアン運動の大きな波が高まっている、ということ。長い植民地化や軍事化の歴史の中でいろいろな形で脅かされてきたハワイという共同体が、政治的にも文化的にも強化されつつある、ということ。

また、オアフで行われているアクションやメディアでみるニュースからみて確実なのは、活動家たちを支持する声や運動は急速に広がっている、ということです。

ハワイの住人としても、TMTの建設資金の20パーセント以上を出資する日本の人間としても、他人事として傍観してはいられない、と思いました。日本も夏休み。ハワイに旅行に来る人たちも多いでしょう。観光以外にも、ハワイは日本との関わりの深い場所ですので、マウナケアで起こっていることを、少しでも日本の人たちに知ってほしいと思います。

2019年6月25日火曜日

本と歴史と愛と記憶の玉手箱 中島京子『夢見る帝国図書館』

5月後半から3週間日本に帰国し、2週間前にハワイに戻ってきました。盛りだくさんで慌ただしい3週間でしたが、わずかなフリー時間に仕入れてきた本の小さな山を、我慢しきれずに崩しつつあります。今週はこちらでピアノフェスティバルに参加するのでそちらに集中するべきで、「ああ、今これに手を出してはいけない」と思いつつ、つい読み始めてしまい、案の定止まらなくなって、丸一日読み耽って読了してしまったのが、中島京子『夢見る帝国図書館』

掌のなかで品良くキラキラ光る宝物、本と歴史と愛と記憶の玉手箱のような小説!最初っから最後の最後まで、物語や小説というものの愉しみをたっぷりと味わわせてくれます。

舞台というかネタは、上野の国際子ども図書館。私はここに何度か足を運んだことがあり、初回に行った時から大ファン(最初に行った時の感動はこちらでも投稿してありました)。そして、帰国の際にはリサーチのため永田町の国会図書館にもよく行きます。永田町のほうは上野とは外観からしてまるっきり様子が違って、具体的な目的を持って行く人以外(ましてや子ども)を暖かく迎え入れるような空気ではないのだけれど、いったん入ってみると、私のような人間には遊園地みたいに面白いところ。この小説でも、国会図書館に入るには青色の利用証を駅の改札のようにしてかざして、検索用コンピューターの前に座ってその画面の横に利用証を置いて、端末であれこれ検索して資料を請求してコピーを注文して…ということが書いてありますが、(話の流れということは別にして)なぜそういうディテールを書きたくなるのか、私はその気持ちがよくわかる!あまり人間臭さを感じさせないあのいかつい建物のどこかにある、世界に誇る帝国図書館を夢見てきた人たちが恒常的金欠と政治の荒波に翻弄されながらもせっせと蓄積してきた本やら文書やら音源やらその他の資料が、あの青いカード一枚とマウスのクリックであっという間に目の前に出てくる、その魔法のようなシステムは、本当に感動的で、私もそれについてなにか書きたいなあくらいに思っていたのです。そこいらへんに静かに立っているスタッフの人たちもとっても親切だし…(なーんて書くと、私は国会図書館の回し者みたいですが、単なる一利用者です。ソフトクリームが美味しいことは知らなかったので、次回はぜひ試してみようっと。)

というわけで、国際子ども図書館となった帝国図書館の歴史がセッティングとなっている、と書くと、とりわけ図書館に興味のない人は「ふうん、別にいいや」と去って行ってしまいそうですが、いえいえ、どうぞお待ちを。図書館そのものにとくべつな思い入れがない人も、とーっても楽しめることは保証しますし、読み終わったらやっぱり図書館––地元の図書館でも、町の文庫でも、学校図書館でも、そして国際子ども図書館でも国会図書館でも––に足を運びたくなる、そして親や子どもやきょうだいや友達や恋人と、本の話をしたくなる。そういう小説です。

物語を通じて、「普通の人」たちや「ちょっと変わった人」たち、そして明治大正昭和の文豪たちや黒豹や象(なんのこっちゃ、と思うでしょうが、ご心配なく、突拍子もないように聞こえても、ちゃんと話として辻褄が合っているのです)が次々と登場し、ちょっと不思議で優しく切ない出会いやつながりが、一人称の愉快な語り口で語られます。なんといっても物語の中心となる喜和子さんというちょっと変わったおばさんがサイコー。(ちょっとネタバレ)この喜和子さんは物語の中盤、割とあっさりと亡くなってしまうのですが、この喜和子さんにかかわる様々な人たちを通じて、記憶と歴史、血縁と「家族」、生と性、といった大きなテーマが、手に取るような身近さで展開される。登場人物についての語り手の冷静なツッコミも可笑しく、かつ目線が暖かく、彼女と一緒にちょっとした歴史ミステリーを解きながら、笑いあり涙ありの読書体験をさせてもらえます。

話の大部分が、国会図書館や国際子ども図書館になる前の「帝国図書館」だった頃の話であるように、この図書館の歴史は明治日本の近代国家建設、富国強兵の一部であり、これが間違いなく「帝国」図書館であったことの意味も、ちゃんと鋭く描かれています。また、話し言葉やひらがな、句読点の使いかたが絶妙で、日本語の愉しみも存分に味わわせてくれます。そしてこの物語は、戦前・戦中・戦後をたくましく生きた(あるいは生きることができなかった)日本の庶民の社会史でもあり、いろんな境遇の人たちを懐深く受け入れてきた上野という場所への讃歌でもあり、絵本や樋口一葉全集を通して夢をみたりみずからの生を生きたり人とつながったりする人間たちのロマンスでもある。そしてなんといっても、童話から絵本から聯隊史や憲法書に至るまでの本とその文化、そして図書館というものへの、熱烈なラブレター。

小説を書くのはとても大変なことだとはわかっているけれど、この作品を構想して、そのためのリサーチをして、構成や登場人物や筋を考えて、この文章を書いて物語を作るという作業は、中島京子さんにとってとーっても楽しかったのではないか、そして、ジャケットの装幀だけでなく中身のデザインやフォントの選択に至るまで、あれこれアイデアを出しながらこの本を作っていく作業は、著者(編集者でもあったことだし)と編集者にとって実に愉快な仕事だったのではないか、と想像しながら読みました。こんな小説が書けたらいいなあ、こんな本が作れたら幸せだなあ… そしてひたすら「おもしろ〜い、おもしろ〜い!」と陳腐きわまりない単語を連発して思わず跳びはねながら読んでしまう(いえ、実際にはほとんどすべてをソファに寝っ転がって読みました)ような本です。

またすぐにでも読みたい!