2009年2月25日水曜日

ハワイ州シヴィル・ユニオン法案をめぐる議論

昨日のオバマ大統領の議会演説や、ルイジアナ州知事による共和党の返答演説など、書きたいことはたくさんあるのですが、それについては日本でも報道があるでしょうから、それよりハワイで今たいへんな騒ぎになっているトピックについて書きます。

しばらく前に映画『ミルク』にも登場するクリーヴ・ジョーンズ氏について投稿したときに、今期のハワイ州議会でシヴィル・ユニオンを設定する立法が提出される、ということを書きましたが、HB444 HD1というこの法案は今月前半に無事下院を通過し、現在上院で審議中。昨日上院の委員会で公聴会が開かれました。この公聴会に先立って、今週日曜日には州議事堂前で数千人を動員した集会が行われ、この法案に反対する人々の多くが抗議の意を表明しました。事前に陳述書をメールで提出した人は誰でも公聴会で証言できます。(私も、ホノルル・シンフォニーの支援に関する法案について公聴会で証言したことがあります。)公聴会は平日の昼間に行われるので、陳述書を提出した人のほとんどは実際に公聴会で証言することはできないのですが、昨日の公聴会では1400人の人が証言の申し込みをし、朝からぶっつづけで15時間にわたって陳情が続きました。私は昼間は仕事なので朝9時に始まる公聴会には行けないと思っていたのですが、夜家に帰ってテレビをつけてみるとなんとまだやっているのに仰天し、私の友達や知り合いの姿も見えるので、夜中の1時まで4時間ほど公聴会の様子をテレビで見ました。一部がこの新聞記事のサイトからも見れるので、ぜひ見てみてください。

えんえんと続く陳情は、もちろんさまざまな団体の代表や弁護士や学者などによるものもありますが、ほとんどはいわゆる「一般市民」によるものです。人前でスピーチをすることなどまったくない人も多いので、、必ずしも雄弁で理路整然としたものではない陳述も多いのですが、ローカルな政治の文化や社会問題に関する人々の感覚を知るには、こうした公聴会は本当に格好の材料です。ハワイでは労働運動や先住ハワイ人の独立運動などの活発な社会運動の歴史もあるいっぽうで、『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたハワイの「ローカル文化」においては、表立った議論などを回避する文化もあり、地元の人々が政治議論をかわすといったことは珍しいとも言えます。そうしたなかで、このシヴィル・ユニオンの問題がこれだけの人々を動員し、それぞれの立場の人が熱のこもった陳情をするということは、この問題がコミュニティにとってもつ社会的・文化的意味の大きさを示しています。

シヴィル・ユニオンとは、異性愛者の夫婦と同様の「権利、特典、保護、責任」を同性同士のカップルに適用するというものです。教会や社会一般による認知を伴わない純粋に法的な関係であること、また、シヴィル・ユニオンや同性婚を認めない他州では認知されない、といった点で、「結婚」とは法的にも社会文化的にも位置がかなり違います。もちろん、同性愛者の人々の多くは、社会的認知や宗教的儀式を含む結婚をも求めていますが、一般市民の多くがそれを受け入れられるようになるためにはまた時間が必要だろうという認識から、とりあえずは異性愛者と同じ法的な権利を手に入れることを目指しているわけです。同性愛者同士のパートナーシップが認められていないことにより、同性愛者のカップルは、健康保険の加入、税金、相続などにおいて、夫婦が得られる扱いを受けることができません。同性愛者であるがゆえに、他の国民がもっている権利や特典を得ることができないというのは、公民権法に反する不平等である、というのが、シヴィル・ユニオンをサポートする人たちの基本的な立場です。

公聴会で証言した人々は、中学生から看護婦、教師、弁護士、大学教授までさまざまでしたが、法案に反対する人のほとんどが教会関係の人々であるのが証言からあきらかでした。教会はかなりの組織力をもっているので、多数の人々を動員してこうした場に姿を現すことができます。自分たちの立場を示す赤の洋服を身にまとった人々の数の力は強く、彼らの証言には聖書からの引用や、イエス・キリストや神、道徳、罪、「伝統的な結婚」といった言葉を何度も出てきました。それに対し、法案支持の立場をとる人たちは、これは「結婚」の問題でも、男女の性的役割分担の問題でも、性的行為やライフスタイルの問題でもなく、法的な平等の問題であるということを中心の証言をしていました。最近カム・アウトした高校生から何十年ものあいだパートナーと同居生活を送っている高年者まで、ゲイ・レズビアンの人々も多く証言し、「私たちは特別な恩恵を求めているのではない、他の人がみな持っているのと同じ権利を求めているだけだ」というメッセージを繰り返していました。また、こうした問題は議会で立法されるのではなく、住民投票を通してコミュニティの人々自身の声によって決められるべきだ、という立場(これは法案反対派の人々が使う議論のひとつ)に対しては、「社会的少数派の人々の権利や安全を守るのは、選挙によってえらばれた政治家の仕事であって、一般市民の仕事ではない。1954年に、公立学校における人種隔離をなくすかどうかが一般市民の投票によって決められていたら、どうなっていただろうか。1943年に、アジア人に差別的な移民法を撤回するかどうかが一般市民の投票によって決められていたら、どうなっていただろうか。少数派の基本的な公民権を守ることに関しては、一般市民の投票に頼ることは多数による圧政につながりかねない」という意見を、ハワイ大学ロー・スクールの教授が雄弁に発言していました。

この公聴会があきらかにしたのは、この問題はいわゆる「リベラル」派と教会に属する「保守」派の対立というだけではなく、社会階層そして人種・民族の軸が密接にからんだ対立である、ということです。賛成の証言をした人々のほとんどは白人で、大学教授や弁護士などの専門職につく人や大学生、そしてそのほとんどは自身が同性愛者。反対の証言をした人々の多くは、先住ハワイ人やサモア人、ローカルのアジア人。証言に使われる言葉や論理、話しかたや身のこなしからも、この境界が階層の差異とも結びついていることがあきらかでした。以前の投稿でも書いたカリフォルニア州のProposition 8についても同様のことが言えますが、シヴィル・ユニオンへの支持を広げるには、この運動を、同性愛者という少数派が自分たちの権利を求める運動から、社会におけるすべての人の平等を目指してさまざまな階層や文化的背景の人々が連帯する運動にしていかなければいけないということを、強く認識させられました。特に、異性愛者の人々が法案支持を表明することがいかに重要かということが認識され、今後こうした公聴会などがあれば万難を排してでも参加しなければいけないと思いました。

結局、この公聴会直後の委員会の投票は三対三で、今後この法案が上院の全体審議に進むかはまだ未定です。

2009年2月23日月曜日

ある公爵夫人の生涯

ある公爵夫人の生涯(The Duchess)』を観ました。日本では今年4月公開予定らしいですが、こちらでは去年公開で劇場では見損なったのでDVDで観ました。18世紀イギリスに実在したデヴォンシャー公爵夫人の生涯を描いた小説を映画化したものですが、いやー、これはすごい。見終わってぐったりするくらい感情移入してしまいました。主演のキーラ・ナイトリーは『高慢と偏見』などの歴史ものをいろいろ演じていますが、これはそのなかでも一番すばらしい演技だと思います。(ちなみに私は、『つぐない』は全然いいと思いませんでした。イアン・マキューアンの原作はいいのかも知れませんが、映画のつくりとしてはあまりにもリアリティに欠けると思いました。)詳しい話の筋は明かしませんが、溌溂として好奇心と情熱に満ちた若い女性が、18世紀ヨーロッパの貴族社会のしきたりと女性の地位に縛られるなかでいろいろなものを捨て、また、母親としての愛情と役割を選択するうえで自分の大事な一部を犠牲にする、その過程で、諦念というだけでは言い表すことのできない、悲しみや悔いや切なさをすべて受け止めた貫禄のある女性として年老いていく(といっても、年老いるところまでは映画のなかでは出てきませんが)その様子を、見事に演じていて、溜息が出ます。そしてなんとも複雑なのが、エリザベス・フォスターという女性の存在。貴族階級に属していながら女性であるがゆえに根源的な自由をもたないもの同士、彼女はデヴォンシャー公爵夫人と親友関係になるのですが、やがて彼女は自分の子供との面会権を手に入れるために、親友の夫である公爵の愛人となってしまう。その二人の女性のあいだの、なんとも不可解なようでいて考えてみるとすごく納得がいくような、複雑な愛情が見どころのひとつです。前半で男性たちの政治談義に参加して、「適度な自由なんて存在しないと思うわ。自由という概念は絶対的なもので、愛情と同じように、自由はあるかないかのどっちかじゃないかしら」と発言するのですが、その台詞を考えながら残りを観ると、実に考えさせられます。このデヴォンシャー公爵夫人は、故ダイアナ妃の遠い親戚であるらしいことも考えると、ますますうなってしまいます。

2009年2月22日日曜日

アカデミー賞いろいろ

このブログで紹介した映画がたくさんアカデミー賞を受賞して、なんだか嬉しいです。いろんな賞を『スラムドッグ・ミリオネア』が総なめ状態でしたが、私は『おくりびと』が外国語映画部門、『ミルク』のダスティン・ランス・ブラックとショーン・ペンがそれぞれ脚本部門と主演男優部門を受賞したのがとても嬉しいです。ダスティン・ランス・ブラックは、1974年生まれで、テキサスのモルモン教の家庭に育ったゲイの活動家・脚本家・映画監督という、複雑な背景をもつ人物です。モルモンのコミュニティで育ちながらゲイとしてカム・アウトする人たちの苦悶は、トニー・クッシュナーの演劇・映画『エンジェルス・イン・アメリカ 』(これはとても重要な作品ですので、よかったら是非DVDで観てみてください)などでも取り上げられていますが、同性愛者の信仰をどのように扱うかという問題は、モルモン教にかぎらず、さまざまなキリスト教宗派が教会の存続をかけて議論しているところです。受賞スピーチのなかで、ブラックがこう言っているのが感動的でした。

「ハーヴィ・ミルクの話を聞いたとき、僕は希望をもちました。自分がありのままの人間として生きられるという希望、そしていつの日か、自分が恋愛をして結婚することもできるという希望です。周りから僕を愛さないようにというプレッシャーのなかでもいつも僕のことを愛してくれたお母さんに感謝しています。そしてなによりも、もしもハーヴィの命が30年前に奪われていなかったら、おそらく彼は僕に今夜、自分たちが通っている教会や自分の政府や家族にないがしろにされてきた、世界じゅうのゲイやレズビアンの子供たちに、こう伝えろと言ったと思います。君たちは、美しく、かけがえのない素晴らしい人たちなのだ、そして、誰がなんと言おうとも、神様は君たちのことを愛しているのだ。そして必ず、この我々の立派な国じゅうで、連邦政府のもと、対等な権利を君たちも手に入れる日がじきにくる、ということを。ハーヴィ・ミルクを僕たちに与えてくれた皆さん、そして神様、どうもありがとう。」

2009年2月20日金曜日

ニューヨーク・ポストの風刺漫画への抗議


17日(火)にニューヨーク・ポストに掲載された風刺漫画に各方面から抗議の声があがり、同紙は19日に謝罪文を発表しました。問題となったのは、二人の警官のうち一人がチンパンジーを銃で撃ち、傍らにいるもう一人の警官が、「次の景気対策法案を書く他の誰かを探さなきゃいけないってことだな」と言っているシーンを描いた漫画です。同紙は、これは前日にコネチカット州で飼い主の友人を襲ったチンパンジーを警官が銃殺したという事件を背景に、景気対策法案の文章がきわめてぎこちないものであることを風刺した漫画であって、オバマ大統領とはなんの関係もない、と表明しています。しかし、黒人をチンパンジーやサルに喩える差別的な描写が数多くなされてきた歴史を背負うアメリカでは、このチンパンジーがオバマ大統領と結びつけたものだと見られるのは当然のことです。しかも、この漫画が掲載されたのが、オバマ大統領の署名により景気対策法案が成立したその日であるのですからなおのことです。漫画が掲載されてから数時間のうちに、元民主党大統領候補アル・シャープトン牧師などの黒人コミュニティのリーダーを初めとし、全米各地から強い抗議の声があがりました。私のところにも友達から抗議文への署名を求めるメールが即座に送られてきて、私もサインしました。このように即座に抗議の声が広まるのがデジタル時代のすごいところです。その効果あってニューヨーク・ポストは、「この漫画は人種差別を意図したものではない」との立場を崩さないまま、「この画像によって気分を損ねた人々には謝罪します」と発表しました。ただしこの謝罪文は、「抗議の声を挙げた人たちのなかには、以前にポスト紙と意見を異にした人たちで、この一件をポストへの仕返しとして使っている人もいる。そうした人たちへの謝罪は必要ない。便宜主義者たちがなんと言おうとも、ときには漫画は単なる漫画以外のなにものでもないのだ」という文でしめくくられています。

「ときには漫画は単なる漫画以外のなにものでもない」というのは、差別的な表現への抗議に反論する人々が頻繁に使ってきた議論で、大学の授業でこうした問題を議論するときに、似たような意見を述べる学生もいます。しかし、仮に作者やそれを掲載した媒体に差別的な意図がなくても、イメージを構成する要素はそれぞれの歴史を背負っています。その歴史の遺産が厳然と残っている社会のなかで、同じ要素を使いながらそうした意味とまるで切り離された言論は存在しないでしょう。

2009年2月17日火曜日

景気対策法案成立

上下両院を通過した景気対策法案にオバマ大統領が今日署名して、法案が成立しました。7872億ドルが経済のさまざまなセクターに投入されます。ちょうど授業で1930年代のニューディールについて教えたところなので、アメリカ史の文脈からしても今後の動きが興味深いです。現状からして、この額ではアメリカ経済を回復させるにはとても足りないという批判の声もあちこちから上がっていますが、連邦政府がこれだけ大規模で直接的な経済介入をするのは実に異例なことで、議会でさまざまな修正案が議論されながらも、オバマ政権誕生から一ヶ月にして法案が成立したのは、大きな快挙と言えます。党派を超えた政治家達の協力によって成立に至ったとはいっても、実際にはこの法案を支持した共和党議員は上下院合わせてなんとわずか三人ですから、「党派を超えた」とはまるで言えず、上下両院が民主党マジョリティになったからこそ可能になった結果だということはきちんと認識しておくべきでしょう。今後この資金がどのように使われてどのような効果をもたらしているかを、透明性とアカウンタビリティをもって政府が国民に伝えるために作られたサイトはこちら。なんともさすが。

ミドルクラスのための減税や住宅市場対策、そして大量の雇用を生産するはずの道路や鉄道などの建設や環境対策などに注目が集まっていますが、私の職業と興味からして気になるのは、教育と文化芸術への投資です。学校建設などの教育関連項目が法案から削除されたことに強い批判もあがったものの、公立学校や大学への緊急資金として投入される1000億ドルという額は、これまでの連邦政府の教育予算と比べると一気にに倍増となったわけです。アメリカのほとんどの州では、学区ごとの教育予算がその地域の税収入と結びついているために、地域の経済格差によって公立教育の質に大きな差があります。貧しい地域では教師の質も低くなり、教材も時代遅れのもので、校内での犯罪も多く、子供たちは学校でとても勉強どころではない、というのが現実です。先進国アメリカの最大の恥は健康保険制度(の欠如)だと多くの人が考えていますが、本当のアメリカの最大の恥は教育制度だ、という論説が数日前のニューヨーク・タイムズにも載りました。大学レベルでも、裕福な私立大学と貧乏な州立大学では予算の桁がまるで違い、それはどうしても教育の質に結びついてきます。きちんとしたビジョンなしに突然に大量のお金を注ぎ込んでも、教育というのは急によくなるものではない、という声もありますが、アメリカの一般市民の教育レベルが向上することは、アメリカだけでなく世界にとって大事なことなので、この資金投入が短期的にも長期的にもどのような効果をもつかが見どころです。関連記事はこれ

また、今シーズンを生き延びられるかどうかというほどの財政危機に直面しているホノルル・シンフォニーをなんとかして支援しようとしている私に興味があるのは、全米芸術基金(『現代アメリカのキーワード 』223ー227頁参照)にあてられる5千万ドルです。ニューディール政策のひとつに、生活の糧を失った作家や画家や彫刻家や役者をさまざまな公共芸術のために連邦政府が雇ったプログラムがあり、そのなかで生まれた文化・芸術作品は現在でもいろいろなところで見られますが、それと同様に、文化・芸術団体やさまざまなプロジェクトへの資金投入によって、芸術に携わる人々に少しでも経済的安定をもたらすことが目的のひとつとなっています。景気対策法案が議会で審議されている最中に、この項目はもう少しで削除されそうだったのですが、なんとか残りました。芸術というのはその「純粋」な目的の他にも、経済的役割も大きいのだ、という主張を多くの人がしたのが一因です。芸術も経済活動のひとつであるわけですから、銀行員や配水管工や電話オペレーターと同じように、画家や音楽家や脚本家や役者も、仕事がなくなれば生活ができなくなるだけでなく、劇場や美術館や映画祭が盛況であるかどうかは、周辺のレストランや駐車場や売店の景気とも密接に結びついていて、そうした間接的な経済効果も考えると、芸術を支援することは経済回復にとっても重要だ、という議論です。「文化」産業は年間600万人の雇用と1660億ドルの経済効果をもたらしているのだ、というキャンペーンを芸術団体連合がしていました(これはどのような計算で算出された数字なのか私は知りません)。経済的理由を主な理由に掲げて芸術を支援するのはちょっと理屈が違うとは思いますが、現在のような経済状況では、そうした論理を使うのも十分以上理解できます。この関連記事はこちら

この法案のニュースと、なおも引き続く自動車産業救済騒ぎで、クリントン国務長官の来日のニュースは、こちらではほとんど見られません。

ベッドの中のあれこれ

『新潮45』3月号は本日発売です。今回の「恋愛単語で知るアメリカ」は、「ベッドの中のあれこれ」と題した、そのものずばりセックス編です。自分で言うのもなんですが、これはなかなかすごいです。担当編集者も、まさかこんな原稿が送られてくるとは思わなかったらしく、感心するやら呆れるやらでした。(笑)『ドット・コム・ラヴァーズ』について、「赤裸裸」というコメントをする読者がけっこういたのですが、あの本には別に具体的な性行為の描写があるわけでもないのに対して、今回のエッセイは最初から最後までセックスのことばかりです。どうぞお楽しみください。(笑)

中川財務相の辞任の件、当然ながらニューヨーク・タイムズでも記事が出て、アメリカでも話題になっています。こちらは今連休明けの朝9時過ぎですが、オフィスに来てからすでに3人の友達から「あの酔っぱらいはなにごと?」と聞かれました。まったくもってトホホです。今ではYouTubeなどが普及しているのでG7の記者会見の様子なども即時に世界中に行き渡って、過去の中川氏の失態の様子などとも合わせて、何度も繰り返し見られてしまいます。以前の「恋愛単語で知るアメリカ」にも書きましたが、アメリカは酔って失態をさらすことへの社会的制裁が日本よりずっと強い国ですので、このように世界情勢に関わる公の場でああいう姿を見せるのは明らかにアルコール中毒であると判断されます。中川氏がアメリカの政治家だったら、党が即刻彼を無理矢理にでもリハビリ・センターに入所させるでしょう。

2009年2月16日月曜日

ラナイ島





土日にラナイ島に行ってきました。ラナイ島とは、ハワイの主な六島のうち一番小さな島で、現在の人口は三千人強。20世紀のほとんどは、ドール経営のパイナップルのプランテーションで島全体が成り立っており、ラナイ島は世界最大のパイナップルの生産・輸出元だったのですが、生産コストの上昇とともにパイナップル農業の中心は世界の他の場所に移り、ラナイのプランテーションも閉鎖となりました。現在ではそれに代わって、1990年代にオープンしたフォーシーズンス・グループのふたつの高級リゾートホテルが主な産業となっています。ラナイの農業が終わりにさしかかっていることが明らかになったときに、プランテーションの労働者たちを組織していた労働組合International Longshoremen and Warehousemen's Union (ILWU)は、労働者たちが生活基盤を失わないために、従業員用住宅を低価格で従業員に売却すること、そして、プランテーション従業員がリゾートの仕事に就けるように研修するという条件を、開発業者側と交渉して勝ち取ったことで、プランテーション閉鎖が島民の生活に決定的な打撃とならずに済んだ、という歴史があります。

私は12年間のハワイ生活で、ラナイに行ったのは今回が初めてなのですが、それは、なにしろこの超高級リゾートの他には泊まるところがないからです。(あとひとつホテル・ラナイという小さな個人経営があって、庶民はここに泊まるらしいです。)このリゾートは一番安い部屋でも一泊400ドル弱もするので、私なぞにはまるで縁のない世界で、これから先も行くことはないだろうと思っていました。今回行くことになったのは、私の仲良しのクラリネット奏者(『ドット・コム・ラヴァーズ』の「マイク」)が、そのリゾートホテルで室内楽のコンサートをすることになり、彼の同伴ということで行けばタダで一緒にそのホテルに泊まれるので、ピアニストの譜めくり役も兼ねて、くっついて行くことにしたのです。くっついて行くだけなのでなんの下調べもして行かなかった私は、てっきり空港からレンタカーでホテルに行くのかと思っていたのですが、そうではなく、かわいらしい空港に降り立つとそこにはフォーシーズンスのシャトルバスが待機しており(ラナイの空港に降り立つ人のほとんどすべてはフォーシーズンスに泊まるということ)、それに乗ってリゾートに着くと一人一人にレイとおしぼりとパイナップル・ジュースが出されます。チェックインの列に並ぶこともなく、豪勢な山小屋風のデザインのロビーのソファに座って待っていると受付の係の人がこちらにやってきて手続きを済ませてくれます。以後滞在のすべてがすべてその調子で、なにからなにまで至れり尽くせりのサービス、そして隅々のディテールまで配慮の行き届いたアメニティに、目がくらむようでした。チェックインするときに、「ベッドがふたつの部屋をお願いできますか」と聞いたところ、なんて変なことを聞くんだという表情で、「そういうお部屋はありませんが、よろしければ追加の簡易ベッドを部屋にお運びします」という返事をされたので、カップル以外の人はこういうところには泊まらないのでしょう。まあキングサイズのベッドは三人でも寝れるくらいだし、マイクはゲイだし、別にいいです、ということになったのですが、滞在二日間ずっと、ホテルのスタッフはみな私のことをMrs. Anderson(マイクの本名の名字はAndersonという)と呼んでいて可笑しかったです。それにしても、朝食が一人35ドルもするし、もうひとつのリゾート(ふたつのリゾートのあいだを往復するシャトルバスも走っていて、宿泊客は行ったり来たりしてゴルフやビーチや食事を楽しむらしい)のレストランでの夕食は一番安いコースが60ドル、かといって、もっと安く済ませようと思っても町に他のレストランがあるわけでもないので、すべてはそのリゾート内で済ませる仕組みになっています。本物のゴルフやミニチュア・ゴルフ、芝生のボーリング、プールなどに加えて、ビリヤードだの各種ゲームだのが揃っているので退屈しないようになっているのですが(なにしろ室内楽コンサートもあるし)、こういう環境でゆっくりと休むことを楽しめるためには、短期間のうちになるべくたくさんの名所を見るという観光スタイルをきれいさっぱり忘れなければいけません。私と「マイク」は、二日目はハイキングに行きました。途中野生の鹿を二頭目撃しました。残念ながら鹿の写真はとり損ないましたが、何枚か写真を。

2009年2月12日木曜日

不景気になればデーティング産業が儲かる?

今日(日本時間では昨日)はリンカーンとダーウィンの生誕200周年記念日です。当然ながらアメリカではリンカーンにちなんだ様々な式典が行われ、リンカーンの伝記もたくさん出版されています。さんざん研究しつくされてきたリンカーンのような人物について、今さら新しいことが言えるのかと思いますが、伝記というジャンルはアメリカではとても人気があることもあり(書店では必ず「伝記」というコーナーがあります)、200周年にちなんで山ほど新たな伝記が出ています。私は、雑誌「ニューヨーカー」のコラムニストであるAdam Gopnikによる、Angels and Ages: A Short Book About Darwin, Lincoln, and Modern Lifeという本を読み始めたところです。Adam Gopnikのエッセイは視点が温かく分析力があり、「ニューヨーカー」に載るものはすべてそうであるように、なにしろ文章が素晴らしいので、私はとても好きです。読み終わったらまたコメントします。

今日のニューヨーク・タイムズに、「不景気になればデーティング産業が儲かる」という主旨の記事があります。昨秋以来どの産業も暗い数字ばかりですが、オンライン・デーティングや結婚相談所のような産業は、きわめて健全な収益を上げているそうです。たとえば、『ドット・コム・ラヴァーズ』の読者にはおなじみのmatch.comは現四半期はここ7年間で最大の収益をあげており、他のより料金の高いオンライン・デーティング・サービスも、ここ数カ月で入会が50%もの伸びを示しているとのことです。失業したり仕事が減ったりすると人はコンピューターに向かう時間が増えるので、オンライン・サービスは顧客を増やしがち、という説や、使えるお金が限られているときには無闇に「ブラインド・デーティング」のような形で高い食事に出かけるよりは、体系化された検索ができるオンライン・デーティングのほうが効率的だという説、また、日常生活が厳しいときには人は恋愛という絆やいたわりを求めるようになる、という解釈もあるらしいです。不景気のときは、オンラインの「プロフィール」の中で「仕事」に言及する人の割合が高くなる、とのデータもあるそうです。アメリカのオンライン・デーティングの自己プロフィールに頻出する表現のひとつにsuccessfulという単語があることは『新潮45』1月号217−218頁で説明しましたが、不況期には経済的なことよりもより実質的な人間性に重きが置かれるようになって、よいこともあるとか。なるほど。

2009年2月7日土曜日

メトロポリタン・オペラ映画館上映

今シーズンから、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場が、オペラ公演を世界各地の映画館で上映するという企画をやっています。私は先月にマスネの『タイス』を観に行って、今日ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』を観て来たところなのですが、サーカスを観てきた子供のようにすっかり興奮して、すっかり病みつき、シーズン残り必ず全部観に行こうと、堅く心に誓いました。

私はピアノを割と真剣にやっているし、クラシック音楽についての研究もしたので、オペラはまあまあ観ていますが、一番好きな芸術ジャンルではありません。ほんとにクラシック音楽を研究している大学教授かいな、と呆れられそうですが、正直なところ、たいていのオペラはそもそも話の筋があまりにも馬鹿馬鹿しいし、普通に話せばいい台詞をアリアにして何分もかけて大げさに歌いあげるというその形式についていけず、音楽や演技の素晴らしさに感情移入しきれないことが多いのです。おまけに、オペラを観に行くには大枚はたいてチケットを買ったうえに、それなりに着飾って出かけなくてはいけないし、劇場そのものの雰囲気や周りの聴衆で気が散ってしまいがちなのです。テレビやDVDで観ることもありますが、それだと迫力がなくて集中できません。

ところが、この映画館でのオペラ上映は、素晴らしい!まず第一に、生のオペラを観に行くときには、大金を払っても普通はかなり遠くの席なので、舞台で起こっていることはほんの小さくしか見えないのに対して、これだと、普通の映画の二倍くらいの料金で、高画質の大画面でアップですべてが観られる。歌手だけでなく、オーケストラ・ピットの中の指揮者や音楽家も観られる。そして、休憩時間中の舞台装置の入れ替えの様子(これがものすごい!私は半分口を開けて見入ってしまいます)や、楽屋や衣装室の様子も見られるし、歌手やプロダクション・スタッフとのインタビューも見られる。実際に劇場にオペラを観に行ったのでは絶対に見られないものがたくさん見られるのです。舞台裏の様子が見られるおかげで、ひとつのプロダクションにどれだけ莫大なお金と人力がかかっているかということがよくわかるので、なぜオペラのチケットというものがあんなに高いのかも納得がいきます。オペラのが総合芸術たることがとてもよくわかるのです。しかも、画質も音質も文句なし。おかげで私は、生で観るときよりもずっと音楽や演技にも感情的に入り込むことができて、自分でもちょっと信じられないくらいですが、山場では息が詰まったりドキドキしたり涙がこみ上げたりしました。そしてまた(これはアメリカならではかも知れませんが)、映画館で観ている観客も、オペラの始まりや各アリアの後や各幕の終わりなどでは拍手をするし、特に素晴らしいアリアの最中は劇場内が張りつめたような空気になって、メトロポリタン歌劇場で観るのと同じとは言わないまでも似たような緊張と興奮を味わえます。(私としては、どうせなら本物の歌劇場と同じように、休憩時間にはバーでワインやシャンペンが飲めたらいいと思うのですが、それは今のところはなし。)観に来ている人たちは皆明らかにとても興奮して、隣の席に座っていたりトイレの列で前後になった赤の他人と思わず話をしています。

もともとクラシック音楽の世界は経済的にとても厳しいところが、現在の不況でどこのオペラ・カンパニーもオーケストラもとりわけ財政難に陥っており、メトロポリタン・オペラも大変な赤字を出していますが(あんなにお金のかかったプロダクションをしていたら赤字にならないほうがおかしいだろうと、これを観ると納得します)、そうした状況のなかで新しい聴衆層を開拓するための新メディアを使った企画としては、素晴らしいと思います。財政的にこの企画がどういう結果をもたらしているのかは知りませんが、少なくとも、オペラというものをずっと気軽にかつより深く楽しめるものにするという点では、大成功だと思います。というわけで、この企画を考えた人たちに、大拍手!日本でも松竹が提携して、首都圏何カ所かでやっています。是非どうぞ。

2009年2月6日金曜日

子はかすがい . . . ではない?

昨日のニューヨーク・タイムズで、「読者がもっともeメールで人に送った記事」は、アメリカの家族の歴史の研究者による論説でした。20世紀半ばには、多少問題のある夫婦でも子供ができると絆が強まって幸せな家庭生活を送るようになる、と考えられていましたが、ここ20年くらいの研究によると、結婚生活において「子はかすがい」というのは正確ではなく、むしろ、子供ができると結婚生活の質は低下すると、25件の別個の研究が証明しているとのことです。

子供ができると子育てに時間がとられるぶん夫婦だけのコミュニケーションが減少するというのは常識で考えればわかることですが、もちろん、子供ができると夫婦仲が悪くなるという単純な話ではありません。データによると、子供を作るかどうか、作るならばいつ作るか、といったことに関してきちんと話し合いをした上で子供を作った夫婦は、子育て期間も幸せな結婚生活を送るのに対して、そうした話し合いのないまま子供ができてしまった夫婦は、子供の誕生以後不満を募らせがちとのことです。また、多くの家庭においては、子供ができると、女性は仕事を辞めて子育てをし、男性は家族を養うために仕事の時間を増やすことになる。その結果、女性は子育ての負担を共有してくれない夫に不満を募らせ、男性は家族のためにせっせと仕事をしている自分に理解を示さない妻に不満を募らせ、というパターンになりがち。こうした状況に意識的に対処しようとする夫婦は、結婚生活の絆も強まり、子供も学業面でも社交面でも健やかに育っていくけれども、そうでないと、夫婦関係に深刻な危機が訪れるケースが少なくないらしいです。アメリカでは、40年前と比べると、母親・父親ともに子供と過ごす時間はかなり増えた(1965年と2000年を比べると、平均的な母親が子供と過ごす時間は20%増え、父親が子供と過ごす時間は2倍になったそうです)ぶん、夫婦が子供抜きで過ごす時間が減ってきている。人間の生活の営みとしてはそれはある程度は当然のことかもしれないけれども、夫婦の時間やコミュニケーションを犠牲にして子供ばかりにエネルギーを投資するのは、長期的には結婚生活にも子供にもよくない(だいたい子供は、親が思っているほど親と時間を過ごしたいと思っておらず、両親がハッピーで、かつ放っておいてくれるほうが幸せなんだそうです。そう言われると確かにたいへん納得)し、子育てが終わって子供が家を出て行く頃になって急に夫婦だけの関係を再開しようと思っても難しい場合が多い、とのことです。

確かに、私の周りで子育てをしている夫婦を見回しても、子育てと仕事のストレスを抱えながらも夫婦で幸せそうにしている人たちは、子供以外にもなにか大事なもの(仕事とか、政治的コミットメントとか、共通の友人とか、趣味とか)を共有している人たちです。アメリカ以上に日本ではずっと、子育て期間は家庭生活が子供中心になりがちで、子供をおいて夫婦が二人だけの時間を過ごすということは、プラクティカルにも社会的にもなかなかしにくいですが(日本に住んでいなくて、夫も子供もいない私が言ってもまるで権威がないですが、周りを観察するかぎり間違いはなさそうです)、やっぱりせっかく人生を共にしようと思って結婚したのだからその結婚生活は大切に育んでいったほうがいいでしょう。子供を預けて夫婦がどこかに出かけるということが難しければ、平日に親が休みをとって、子供が学校に行っているあいだに夫婦でデートをしたり家の中のことを二人でしたりしたらどうでしょう。夏休みやお正月休みに家族旅行に出かけるというのももちろん楽しいですが、なんでもない普通の日に、学校から帰ってきたら両親が二人で食事を作りながら映画の話をしていた、なんていうことのほうが、子供にとってはとても幸せなんじゃないかと思います。もちろんこういうことは、理屈で言うのは簡単で、日常を構成するたくさんの現実のなかで実践するのは難しいのでしょうが、とにもかくにも、子育て中のご夫婦は、参考にしてくださーい。

2009年2月5日木曜日

Helvetica

友達にすすめられて、『ヘルベチカ 』というドキュメンタリーをDVDで観ました。ヘルベチカという名で知られている書体デザインについての話なのですが、これはとても面白い!視覚デザインについてなにも知らない私は、正直なところ、ひとつの書体について一時間以上もの映画ができるものかと懐疑的だったのですが、観てみると、これまでまるで気に留めたこともなかったことについて、「おー!」と開眼します。モダンでシンプルで「中立的」なヘルベチカは、1950年代にスイスで開発されて、現在では世界でもっとも使用度の高い書体のひとつなんだそうです。そんなこと考えてみたこともなかったですが、そう言われてみると、確かにニューヨークの地下鉄の駅のサインや道路標識、役所のサインや企業のロゴなどではヘルベチカがよく使われているし、このブログの文字もデフォルトでヘルベチカになっています。考えてみると私の博士論文もヘルベチカで書きました。書体のデザインを職業にする人がいるなんてことすら考えたこともなかったですが、このドキュメンタリーを観ると、どんな人たちがどんなことを考えてデザインするのかも垣間見られるし、また、ものすごく微細なことがとても大きな効果をもつということもわかります。そしてやはり、書体のデザインを職業にするような人は、『ドット・コム・ラヴァーズ』181−182頁で説明した「ニューロティック」な人たちであることがわかって笑えます。「ニューロティック」にもいろいろありますが、この人たちは実に愛すべき「ニューロティック」です。とにかく、このドキュメンタリーを一度観たら、街を歩きながらでも建物のなかでも、文字のデザインに注意を払わずにはいられなくなります。面白いので是非どうぞ。

2009年2月4日水曜日

メンデルスゾーン生誕200年

お茶の水のカザルスホールが閉館になるというニュースを読みました。とてもとても残念なことです。本当にいいホールなので、東京近辺のかたは閉館になる前に是非一度コンサートに行ってください。オルガンのコンサートもあるようです。

今年はリンカーンとダーウィン(この二人は同じ誕生日)、そしてメンデルスゾーンの生誕200周年です。それにちなんでコンサートやCDなどのプロジェクトがいろいろなされているようですが、ナショナル・パブリック・ラジオでのバイオリニストのAnne-Sophie Mutterのインタビューはなかなかよかったです。彼女のCDはこちら。

ついでにナショナル・パブリック・ラジオで紹介されているもうひとつのCDは、ピアニストHelene GrimaudバッハのCD。アメリカではCD発売は2月10日なのですが(日本ではもう発売されています)、発売日まではなんとこのナショナル・パブリック・ラジオでCDの中身がまるごと聴けます。私は今ちょうどこのCDの目玉と言えるブゾーニ編曲の「シャコンヌ」をせっせと練習しているところです。バッハの厳粛で高貴で悲しくもありきらびやかでもあるバロックのメロディーが(もともとバイオリンの独奏曲として作曲されたものです)、ブゾーニの手によって信じられないくらい豊かな色彩とドラマに満ちたロマン派的なピアノ曲となっていて、本当にものすごい曲です。私が弾くと、ひたすら気が狂ったような曲に聴こえてしまうところが、グリモーの演奏では、抑制が引き立たせるドラマ性というものが見事に伝わってきます。

私の成長にとても重要な役割を果たした人物の一人が、今は故人となった私の子供時代のピアノの先生です。自らは音大で勉強したこともなく演奏をする人でもない、という意味では「正規の」音楽家とはいえない人で、オーディオ機器についての執筆活動をしたり音響建築をしたりしながら、ピアノを教えているというとても変わった人物だったのですが、先生としては本当にすばらしい人でした。私はとくに大事にしてもらったので、土曜の午後にあったレッスンは毎回3時間を超えました。技術的なことも厳しく訓練されましたが、毎回夕暮れどきになると、「人間の成長のためには、音階や練習曲を弾くことよりもずっと大事なことがある」と言って、西の空を見渡す部屋(先生のおうちは、品川区の丘の上にありました)に二人で椅子を並べて夕日が地平線のかなたに降りてゆく様子をレッスンの最中に15分くらい眺めました。また、バッハのプレリュードやフーガを弾き始めるときは毎回、リヒテル、グルダ、ブレンデル、グールドなどのレコードをレッスンの最中にじっくり聴き比べる、ということもしました。私は子供のときはそれしか知らないので、ピアノのレッスンというものはそういうものなんだろうと思っていましたが、今考えてみると、小学生相手になんと贅沢なレッスンをしてくださっていたのだろうと感動します。

2009年2月1日日曜日

現代のレズビアン・コミューン

今日のニューヨーク・タイムズの「スタイル」セクション(ファッションとか恋愛とか風俗などの「軽め」の話題を集めたセクションですが、さすがニューヨーク・タイムズだけあってこういう欄の記事も相当読み応えがあります)に、とても興味深い記事が二本あります。

一本めは、現代のレズビアン・コミューンについての記事。1960年代末から1970年代にかけてのいわゆる「第二次フェミニズム」の時期に、ラディカル・フェミニズムや分離主義フェミニズムに関わり、自分がレズビアンであると「カム・アウト」した女性の多くが、全米のいろいろな場所でレズビアン女性だけのためのコミューンを作って共同生活を送りましたが、さまざまな問題をめぐってのコミュニティ内での分裂やまた社会全体の変化に伴って、徐々にそうした別個のコミュニティの必要性も吸引力も減少してきました。しかし現在でも、メインストリーム社会とは別の価値観や論理で動く、男性や異性愛者の女性たちとは別個のコミュニティで、自分たちだけの生活を送りたいというレズビアンの女性は存在し、この記事はそうした50代から70代の女性たちが暮らしているフロリダのアラパインというコミュニティを描いたものです。都会から離れた森の中で女性たちは、土地の管理から家の修復、動物の世話までなにもかも自分たちでし、保守的な住民の多い地域でありながら隣人たちともきわめて友好的な関係を保ちながら暮らしています。コミューンの自立性を保つため、コミューンの内と外にははっきりとした物理的・象徴的境界が引かれており、コミューンのメンバーが男性の恋人やパートナーを作った場合には、その人は自分のぶんの土地を売ってコミューンを去らなければいけないという決まりになっています。また、親戚を含め男性による訪問については厳しいルールがあり、異性愛者の女性による訪問をどれだけ許容するかについても、メンバーのあいだで議論がされるということです。都会から離れた森の生活では経済的に自活していくことが困難であることから、若い女性がコミューンに入りにくいという現実問題もあり、また、外界から隔絶された暮らしは現実社会への参加を拒絶しているといった見方もできますが、生活を共にするレズビアン女性たちが自分の「家族」であり、感性を共有する女性同士の暮らしこそが自分たちの「現実」である、という女性たちの姿が心を打ちます。"To me, this is the real world"という一女性の声が感動的です。コミューンの女性たち自身の声や写真がたくさんあるマルチメディアのコーナーもありますので、是非見てみてください。

もう一本は、作家・テレビプロデューサーの女性によるエッセイ。あるきっかけで北京に住むジャーナリストの男性とメールをやりとりするようになり、数カ月のメール交換を続ける過程で相手についていろいろな空想を膨らませ、ついに「北京でフリーランスの仕事ができた」とウソをついて彼に会うために北京まで出かけて行った、という話です。それがどのような結末になったかは敢えて明かしませんので、興味のあるかたは自分で読んでください(とても読みやすい英語ですので、そんなに苦労なく読めることと思います)。オンライン・デーティングに代表される、インターネットやメールを介しての出会いに特有の感情の動きや、大人同士の恋愛や交際のありかたについて、なかなか考えさせられると同時に、笑ったりしんみりしたりしながら楽しめる記事です。