2009年7月24日金曜日

ゲイツ教授の逮捕が示唆するもの

日本に到着して一週間たち、東大駒場キャンパスでの集中講義の前半が終わりました。今のところは、毎年日本に帰ってくるときとあまり変わらない生活をしているので、これから一年間日本に住むのだという実感がまだあまりありません。街を歩いていて感じることのひとつは、いる人のほとんどが日本人(に見える)という点ではきわめて同質的であるものの、もうちょっと注意してみると、アメリカでは見られない実にいろんな「種類」の人たちがいるなあということです。そして、今回特に感じるのが、日本の男性のスタイル(服装や髪型、身のこなしなど含めて全般)が、なんとも特有だということ。さすがに渋谷近辺を歩いているような男性はとても都会的にお洒落でカッコいい人が多いのですが、彼らがアメリカにいたらおそらくゲイだと思われるだろうな、という種類のスタイルが私の目には目立って映ります。もちろん実際にゲイの人もいるのでしょうが、そうでない人のほうが多いでしょうから、これはカッコよいとされる男性のイメージの文化的な差でしょう。なかなか面白いです。

東大駒場キャンパスでの集中講義は、とても楽しくやっています。日本語で授業をするのも初めてだし、おもに男性ばかりの東大の学生が「現代アメリカ女性史」というものにどういう興味や態度をもってやってくるのかわからず、始めるときは多少不安がなくもなかったのですが、そんな不安は二日目にしてきれいさっぱり消えました。まあ、せっかくの夏休みの二週間、毎日沢山の英語のリーディングをさせられ、試験もあればレポートも書かされるような授業をわざわざ履修しようなんていう物好きな学生は、かなり特別な学生なのかもしれません。とにかく、学生はみなかなり洗練された政治的・社会的・文化的感性をもっているし、積極的によく勉強するし、疑問を感じることや納得のいかないことがあったらきちんと発言するし、他の人の言うこともよく聞くしで、私としてはとてもいい授業になっています。こんな調子で授業ができるんだったら、毎年集中講義をやらせてもらおうかと思うくらいです。(学生のほうは、「なんだかしょーもない授業だなー」と思っているかもしれませんが。)

さて、アメリカでここ数日話題になっているのが、アフリカ系アメリカ文学・歴史研究の第一人者であるハーヴァード大学のHenry Louis Gates, Jr.教授が、ケンブリッジ市の自宅で逮捕されたという事件です。泥棒が入ったかもしれないという通告を受けてやってきた警官に対してゲイツ教授が声をあげたり捜査に非協力的な態度を示したとして逮捕され、じきに釈放されたのですが、アメリカ各地で警察による黒人に対する差別や暴力、racial profilingが相次ぎ、そうした事件が暴動を引き起こしたりする状況のなかで、ゲイツ教授のようにエリートの最高峰に位置している著名な人物がこうした扱いを受けたということは、やはりアメリカにおける人種関係はまだまだ長い道のりがあるということを示しています。オバマ大統領もこの事件について発言し、記者会見で自分の立場や発言の意味を説明するほどに、この事件が示唆するものは大きいと言えます。しかし、黒人のオバマ大統領がこのような形で正面切ってこの事件を取り上げ、アメリカにおける人種という問題の深刻さ・複雑さについて世界にむけて発言するということには、残念な状況のなかにも一抹の希望を感じます。この事件が示唆する人種関係についての「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、こちら

2009年7月14日火曜日

女性と連邦最高裁

連邦最高裁判事としてオバマ大統領に指名されたソニア・ソトマイヨール氏の承認公聴会が始まりました。承認されれば、プエルトリコ系としては初めて、女性としてはSandra O'Connor, Ruth Ginsburgに次いで3人めの連邦最高裁判事となります。今のところ、公聴会での質問は、彼女のそうしたアイデンティティと彼女の判決・司法観の関係に集中しており、とくに共和党の議員からは、個人のアイデンティティに根ざした価値観や経験を司法判決にもちこむことに懐疑の念を示す声があがっています。ソトマイヨール氏本人が、過去に「ラテン系の女性は、白人男性とは違った人生経験をもっているがゆえに、そのぶん賢明な判断をする」という主旨の発言をしたことがあり、それが大きな注目・批判の対象となっているのですが、こうしたことが、アメリカ社会のアイデンティティ・ポリティクスのありかたをよく表しています。

ソトマイヨール氏の承認公聴会に先駆けて、この日曜日のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、現連邦最高裁判事であるRuth Ginsburg氏のインタビュー記事が載っています。記事のタイトルはまさに、「裁判所における女性の位置」。「連邦最高裁に女性がいるということを国民が知ることは大事だ」と言って、ギンズバーグ氏は再発したがんの手術の数週間後にオバマ大統領の議会演説に出席しています。女性としての最高裁判事であるということはどういう意味をもっているのか、また、女性がいろいろな方面で活躍を遂げるようになった現在、司法の世界、そしてアメリカ社会全体で女性はどういう位置にあるのか、ということを垣間みさせてくれるインタビューです。とくに、来週からの私の駒場での「現代アメリカ女性史」の講義に興味のあるかたは、読んでみてください。

ただいま、日本へ出発へむけて掃除や荷造りでてんてこまいの最中なので、短いですが今日はこれにて。

2009年7月10日金曜日

『中央公論』8月号

10日発売の『中央公論』 8月号に、私の書いた「『盲目のピアニスト』から世界的芸術家へーー辻井伸行さん クライバーン・コンクールのもつ意味」という記事が載っています。このブログを読んでくださっているかたには既にお伝えしていることと内容が重なる部分も多いですが、よかったら是非読んでみてください。

ところで、私は今月21日から31日まで、東京大学教養学部で集中講義を担当します。「現代アメリカ女性史」です。9日間しかない授業なので、カバーできる内容はとても限られているのですが、1960年代後半からのいわゆる「第二次フェミニズム」から現在までの、アメリカ合衆国における女性史・ジェンダー関係史を概説します。扱うトピックは、(1)第二次フェミニズムの誕生の背景となった冷戦期アメリカの社会経済状況およびジェンダー・セクシュアリティの規範、(2)公民権運動などの社会運動とフェミニズムの関係、(3)第二次フェミニズムの理念・実践方法・リーダーたちの背景・功績、(4)第二次フェミニズムの一般アメリカ女性へのインパクト、(5)第二次フェミニズムへの批判と「第三次フェミニズム」「ポスト・フェミニズム」の台頭など。授業を通して、現代アメリカ女性の地位・意識・生活の全体像をとらえると同時に、ジェンダーやセクシュアリティが、人種や社会階層といった社会的カテゴリーとどのように絡み合っているかを考える、というのが目的です。私は日本で講演や学会発表をしたことはありますが、日本の大学で日本語で授業をするのは初めてなので、ちょっとどきどきです。このブログの読者に東大の在校生がいるかどうかわかりませんが、もし興味のある人がいたらどうぞ受講してください。ただし、「アメリカ式」に、毎日数十頁から百頁ほどの英語のリーディングを課し、学生には全員ディスカッションに積極的に参加することを要求しますので、そのつもりで来てください。履修者と同じ条件で参加するのであれば、聴講・「もぐり」も歓迎します。

なお、この集中講義の後、私は一年間日本に滞在します。ハワイ大学から日本に留学する学部生の引率で、桜美林大学を拠点にして仕事をします。日本には毎年一度は帰っているものの、長期生活するのは実に18年ぶりです。カルチャー・ショックを体験する学生の面倒をみるのが仕事なのですが、自分のほうが逆カルチャー・ショックにかかるのではないかと、これまたどきどきです。でも、私は現時点でちょうど人生の半分を日米のそれぞれで過ごしたことになるので、ここでちょっと日本に戻るのもバランスを保つのにいいかと思っています。また、ハワイの学生の目には日本がどう映るのだろうと、とても興味があります。日本滞在中、新しい仕事にもとりかかれるだろうと楽しみにしています。

2009年7月7日火曜日

ロバート・マクナマラ氏逝去

ヴェトナム戦争期に国防長官を務めたロバート・マクナマラ氏が月曜日に亡くなりました。ケネディ、ジョンソン政権下で軍の総指揮者であったマクナマラ氏は、20世紀最大の影響力をもった国防長官と考えられています。米軍側にも何万人もの死者を出しながらヴェトナム北軍・ヴェトコンの動きを止めることができず、戦争がどんどんと泥沼にはまっていくなかで、マクナマラ氏は在任中すでに戦争の無益さを認識するようになっていたものの、その認識をスタッフおよび世間に公開したのは戦争が終わって20年たってからのことでした。国防省を離れてからもマクナマラ氏はヴェトナム戦争の影にとりつかれ、1995年刊行の自伝や、ドキュメンタリー映画『フォッグ・オブ・ウォー 』で戦争・軍政策についての悔恨の念を表しています。ヴェトナム戦争は、軍事的にも政治的にも社会的にも、20世紀アメリカの最大の汚点となって大きな影を落とし、アフガニスタン・イラクでの戦争を第二のヴェトナムとしないようにという警鐘も多方面から鳴らされています。マクナマラ氏の遺したものを深く考えるのに、今はとくに重要な時期だと思います。

ニューヨーク・タイムズに載ったマクナマラ氏の死亡記事は、なかなか迫力があり、マクナマラ氏本人だけでなくヴェトナム戦争そのものへの追悼記事とも言えます。これだけの紙面を割いて、歴史・政治的文脈と分析のある死亡記事を掲載するのは、さすがにニューヨーク・タイムズだと感心します。

2009年7月4日土曜日

米国独立宣言

今日7月4日は、アメリカは独立記念日の休日です。この日の典型的な過ごしかたは、自宅の庭や公演、ビーチなどに家族や友達と集まってバーベキューをし、夜は花火を見る、というものです。私ももうちょっとしてから、友達のマンションのベランダでワイキキの花火を見るために集まります。

前に言及したHBOの『ジョン・アダムス』を最近観たこともあって、ふと思い立って、1776年の今日宣言された(といっても、実際のこの文書の作成や署名の過程は、そんなにすっきりとキレイなものではなかったことが、このシリーズを見るとわかりますが)米国独立宣言を、再び読み返してみました。アメリカ研究を仕事にしている身としては恥ずかしながら、この文書をじっくり最初から最後まで読んだのは実にひさしぶりで、驚く発見も多く、こうした歴史の基本的文書はときおりこうしてじっくり読み返すことが重要であるということを改めて認識しました。私は小5から中1(アメリカでいえば6年生から8年生)までをアメリカで過ごしたので、アメリカの中学校の歴史の授業で、We hold these truths to be self-evidentで始まる2段落めと最終段落を暗唱させられたことは覚えていますが、そのあいだに列挙してある英国王への苦情の数々は、よくよく読んでみるとなんとも興味深いものが多いです。He has called together legislative bodies at places unusual, uncomfortable, and distant from the depository of their public Records, for the sole purpose of fatiguing them into compliance with his measures. とかHe has endeavoured to prevent the population of these States; for that purpose obstructing the Laws for Naturalization of Foreigners; refusing to pass others to encourage their migrations hither, and raising the conditions of new Appropriations of Lands.とかHe has erected a multitude of New Offices, and sent hither swarms of Officers to harrass our people, and eat out their substance.とか、最後のHe has excited domestic insurrections amongst us, and has endeavoured to bring on the inhabitants of our frontiers, the merciless Indian Savages, whose known rule of warfare, is an undistinguished destruction of all ages, sexes and conditions.とか。

もちろん、独立宣言が署名、発表されてめでたしめでたしとなったわけではまるでなく、独立革命は以後何年も続き、連邦制度を整えるのにはさらにずっと時間がかかり、イギリスやフランスとの関係も難しく、共和国設立の道のりは複雑で血にまみれたものでした。また、苦情の最後でIndian Savagesと表現されている先住民との戦いや殺戮、建国後百年近く続く奴隷制、選択的に与えられた帰化権や参政権など、アメリカ建国の歴史にはたくさんの汚点もあります。でも、この独立宣言にこめられたアメリカ建国の理念は、アメリカ国民も、そうでない世界中の人々も、ときおり熟読してみる価値があると、あらためて思いました。というわけで、時間のあるかたはぜひどうぞ。

2009年7月1日水曜日

不況と労働運動



昨日ホノルルでは、知事が州職員に通告した強制休暇やさまざまな経費削減策に抗議する、Unity Rallyという集会が、州議事堂前で行われ、私も行ってきました。私が予想していたよりもかなりたくさんの人が集まり(数千人)、ハワイ大学の教授から公立学校教員、役所の事務員から清掃員まで、あらゆる階層・職種の人々が、それぞれの労働組合のTシャツを着て、さまざまなプラカードを掲げて抗議の意を表しました。以前のいくつかの投稿でも言及したように、アメリカの社会運動は往々にして、人種や社会階層、宗教、性的アイデンティティなどの「アイデンティティ・ポリティクス」によって分断されてしまうがためにじゅうぶんな効果をもたないことが多いのですが、そうした意味で、こうした集会で大学教授がキャンパスの清掃をする移民のおじさんたちと肩を並べている光景にはなかなか感動するものがあります。

と思っていたら、ちょうど昨日のニューヨーク・タイムズに、不況下、政府の経済政策に抗議するため、普段は政治に関心をもたないような日本の若者たちが社会運動に関わるようになってきている、という記事が載っていました。こうした比較もなかなか興味深いところです。