2010年6月28日月曜日

アメリカのセックスレスは社会階層の問題?

日本でしきりにセックスレスがとりあげられています(そして、私の印象によると、たしかにセックスレスは日本に蔓延しているようです)が、アメリカでは、最近、食品医薬品局が、性欲が低下した女性のための薬品の市販を現時点では許可せず、しかしそうした薬品開発のためのさらなる研究は促進する、という決断をしました。それを受けて、1990年に刊行されベストセラーとなったSexual Personaeという著作で一大センセーションを巻き起こした評論家のカミーユ・パリアが、ニューヨーク・タイムズに論説を寄稿しています。

その主な論旨は、現代アメリカにおける性文化の停滞(「セックスレス」とは限定されていませんが、要は性に対する関心の低下)は、神経質で競争心に満ちた白人のアッパー・ミドル・クラスの文化に起因するのではないか、という仮説。1950年代にも、女性の「不感症」がしきりに話題にされたけれども、それはおおむね社会規範への同化を求める文化や性をめぐる宗教観が原因と考えられていた。それに対して、1960年代の性革命以来、アメリカ文化は圧倒的に世俗的なものとなり、メディアの表象は性に溢れるものとなってきたので、1950年代と同じような要因が現代も働いているとは考えにくい。現代アメリカにおける性の停滞の真の原因は、「行儀の良さ」とか「きちんとしていること」に重きを置くミドルクラスの文化だ、というのです。

ミドルクラスのテクノクラシー社会では、身体性は抑圧され、男性も女性も、無機質なオフィスで声をひそめ身体を動かさずに、頭脳中心の似たような仕事をする。男性はその男性性を抑え、女性は出産を遅らせる。そうした社会にあって、性文化が停滞し退屈なものになっていくのは自然なことである、と。19世紀には互いに見えない部分があるからこそ神秘に満ちてた男性と女性が、社会的にも文化的にも同じ領域を占めるようになり、ミステリアスなものがなくなってしまった。また、幼少の頃から中年にいたるまで、男性はだっぽりしたTシャツ、短パン、スニーカーという少年のようないでたちをし、豊満さよりも引き締まった身体が尊ばれるようになった女性たちも、無性的な格好を好んでするようになった。現代アメリカにおいて、セクシーな下着を熱心に買い求めるのは、下層部のミドルクラスまたは労働者階級であって、そうした性文化は、音楽などのポピュラー・カルチャーにも表れている、とのこと。

まあたしかに、と納得する部分もありますが、ここ1年間近く日本で生活している私には、現代アメリカ文化もじゅうぶん性的であるように思えますがねえ(笑)。私の印象では、日本では、じっさいに男女がどれだけ性行為をしているか(いないか)ということはともかくとして、なんだか世の中全体にまったく色気が感じられない。それはいったいどこから来るのだろうと、ずっと考えているのですが、この話をしたときのある人の発言によると、今の日本では、男性と女性云々という以前に、他人とのかかわりというもの全般にとても関心が薄い。それが実際に性的な行為に発展するかどうかは別として、社会の空気に「色気」を生む緊張感というものは、他人への関心とか出会いの可能性とかいったものから自然発生するものであって、混雑した電車でもエレベーターの中でも人々がいっさい目を合わせることなく、もちろん見知らぬ相手と会話することなどなく、極力他人との関わりを避けて日々暮らしているようななかでは、そりゃあ色気は生まれないだろう、と。これはとても納得がいく説明でした。

今、桜美林大学でハワイ大学からの留学生を相手に教えているAmerican Travel Writingという授業で、日系アメリカ人作家のKyoko MoriのPolite Liesという作品を読んでいます。私は彼女の書くものには「日本=封建社会、アメリカ=自由と解放の国」といった構図が流れていてなんとなくうんざりすることが多いのですが、この作品で彼女が記述している日本観察には強い共感を覚える部分も多いです。最近ではさすがにだいぶ慣れてきたものの、私は一年ほど前に日本で生活をし始めたころ、電車でもバスでも、どんなにたくさん人がいても、ひたすらしーんとしているので、とてつもない違和感を覚えました。『性愛英語の基礎知識 』で説明するような、"Have I seen you somewhere?"なんてセリフが、東京の駅や喫茶店で発話されるなんて状況は、とうてい想像できないですからねえ。

2010年6月24日木曜日

『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールーー市民が育む芸術イヴェント』本日発売!




このブログを以前から読んでいただいているかたは、コンクールの期間中の私の投稿をごらんになったかと思いますが、私は昨年5月から6月にかけて開催された第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールを、予選開始前から本選終了までの約1ヶ月間にわたり、テキサス州フォート・ワースで見学する機会に恵まれました。その取材をもとに、世界トップレベルの若手ピアニストたちの演奏や人間性はもちろん、クライバーン・コンクールの成り立ちや、このコンクールがニューヨークやボストンやロスアンジェルスでなくテキサスの一地方都市で開催されていることの意味、コンクールの運営スタッフの理念や仕事ぶり、審査員たちの考え、聴衆の思いなど、多角的な視点からこのイヴェントをドキュメントした本です。日本では、クライバーン・コンクールの報道は辻井伸行さんの話題一色の傾向が強いですが、この本で、このコンクールについてより総合的に理解していただけるのではないかと思っています。クラシック音楽ファンにはもちろん、ピアノやクラシック音楽にはあまり詳しくないというかたにも、地域社会と芸術イヴェントの関係や、芸術とメディア・経済などといった視点から、興味をもって読んでいただけるのではないかと思います。

『性愛英語の基礎知識』と違って、「宣教師の体位」といった単語は出てきませんが(笑)、まったく別の刺激や興奮に満ちた本だと思いますので、合わせてお楽しみください。

2010年6月22日火曜日

「男と女のミッドライフ・クライシス」シリーズ、日経ビジネスオンラインに本日より掲載

「男と女のミッドライフ・クライシス」という記事を、数回に分けて日経ビジネスオンラインに書かせていただいているのですが、その第一弾が今日掲載されました。一回目のタイトルは、ちょっと刺激的(?)に、「浮気や不倫は中年男性の懸命なあがき——では『セックス・アンド・ザ・シティ2』は女性の危機を描けたか?」といいます。今朝チェックしてみたら、いきなり記事ランキング1位になっているのでびっくりしました。やはり、日経ビジネスオンラインの読者層には響くトピックだったのかしらん(笑)。

「自分の人生はこれでいいのだろうか」という問いが頭をもたげ、いてもたってもいられなくなる中年の「ミッドライフ・クライシス」については、『性愛英語の基礎知識 』の終わりのほうで解説してありますが、この記事ではより具体的に、男性と女性それぞれにとって、ミッドライフ・クライシスがどのように表出しやすいか、ということを、恋愛や家庭生活・性などに焦点を当てて解明(?)しております。第二弾では仕事上のミッドライフ・クライシス、第三弾では友情編をお送りする予定です。どうぞよろしく。

2010年6月21日月曜日

仕事と家事の両立に悩むアメリカの新世代パパたち

父の日にちなんで、現代アメリカにおける父親の役割にまつわる記事がいろいろなところで掲載されていますが、ニューヨーク・タイムズに載ったのが、「ママと同じくらいストレスを感じている現代のパパ」という記事

私が憤慨した『セックス・アンド・ザ・シティ2』では、ミランダが弁護士としてのキャリアと子育ての両立に悩んでいますが、この記事によると、現代のアメリカにおいて、仕事と家庭の両立に悩んでいるのは女性ばかりではない、とのこと。いくつかの調査によると、現代の父親たちは、職場だけでなく家庭においても女性と同じくらい、ときには女性よりも多くの責任を果たしている。しかし、子育てをしている女性には勤務時間などについてある程度の柔軟な対応をする職場も、男性の家事や子育てにはおおむね非協力的であるため、フレックスタイムや育児休暇などが整備されている職場でも、女性と比べると男性はそうした制度を利用しないことが多い、とのことです。85%の男性が育児休暇をとるスウェーデンとはかなり事情が違います。共働きの夫婦のうち、ワーク・ライフ・バランス上の問題を感じているという女性が45%なのに対して、同じ問題を感じているという男性は59%という数字もあるらしい。

興味深いことに、男性が仕事と家庭の両立に悩むのは、職場の理解が欠けているというばかりではなく、自分の家事への貢献を妻がじゅうぶんに評価してくれない、という理由もあるようです。たしかに、一世代前の男性と比べると、今の男性は掃除や皿洗いなどをする時間は増えてはいるものの、共働きの男女が家事にかける時間全体を比較してみると、女性は週に28時間、男性は週16時間と、依然としてかなりの差がある。また、自分と相手が家事にかけている時間についての認識も、男女でかなりの差がある、というのが面白い。2008年のある調査によると、49%の男性が、妻と同じくらい、あるいは自分のほうが多く、育児にかかわっていると申告したのに対し、夫が自分と同じくらい、あるいは自分よりも多く、育児にかかわっていると申告した女性はわずか31%。料理や掃除についてもそうした認識の差はあきらかで、50%以上の男性が、自分が少なくとも半分の家事を担当していると申告したのに対し、70%の女性が、自分がすべての家事をやっていると申告している。なんだか笑ってしまいますね。

ただし、この背景には、男女それぞれ、自分のやっていることを誇張して認識しがち、という側面もあるのと同時に、相手がやっていることをじゅうぶんに認識していない、という部分もあるだろう、とのことです。たとえば、男性が子どものお弁当を用意する場合、その仕事は自分がやっている、と思うだろうけれども、妻がそのお弁当の材料を買ってきたりお弁当箱を洗ったりする時間や手間については思いが至っていないことがある。逆に、男性が三輪車の修理をしたり、子どもと一緒にビデオゲームをしたり、庭のおもちゃを片づけたりしても、妻はそれを「家事」と認識していない場合がある、など。なるほどねえ。

男性・女性ともに、ワーク・ライフ・バランスを達成するには、仕事と家庭を両立させやすい職場環境の整備も大事だけれども、それと同時に、共働きの夫婦が、互いの貢献や苦労を認識し、感謝し、気遣い合う、ということも大事だ、ということですね。共働きのみなさん、頑張ってください。

2010年6月17日木曜日

無責離婚の功罪

40年前にカリフォルニア州で初めて無責離婚が制度化されて以来、全米の各州で次々と無責離婚が可能になったにもかかわらず、唯一それをはばんでいたのがニューヨーク州。そのニューヨークがついに無責離婚の制度化に踏み切るというニュースを受けて、アメリカの婚姻や家族の歴史を専門とする著名な社会史家のStephanie Coontzが、ニューヨーク・タイムズに論説を寄せています。

無責離婚が制度化される以前は、別離を決めた夫婦は、ふたりのうちどちらかいっぽうに責があるということを証明できなければいけなかった。不倫や暴力などの事実がある場合はそれを証明しやすかったけれども、より精神的・感情的なものが理由の場合は、ことはややこしい。そして、たとえ離婚を双方が希望していて、片方が責を認めるという合意がある場合でも、もう片方がその責に加担するようなことをしてこなかったことを証明できなければいけなかった。たとえば、夫が威圧的で妻や子どもが恐怖のうちに日々を送っていた、という場合でも、妻が口うるさく喧嘩を売るような言動をしていた、と判断されると、裁判官は離婚を認めなかった、といったケースもあったそうです。つまり、どんな状況が離婚を認めるにじゅうぶんな理由かという判断が、司法の手中にあり、当人たちが結婚に求めるものや感情の変化などは二次的なものと考えられていたわけです。こうした制度のもとでは、双方が別離に合意している「友好的」なケースであればあるほど、二人が協力してひとりの責をでっちあげる、などといった傾向も見られたそうです。

本来は結婚制度を守るために離婚の手続きが複雑となっていたにもかかわらず、それによってかえってその制度の穴をくぐったり操作したりする夫婦が増えてきたために、州は次々と、どちらかの責を証明しなくても、双方または片方が望めば離婚できるように法律を変えていきました。当初は、そうした無責離婚は、夫婦両方が離婚に合意したケースのみ認められる、と規定していた州もあったのですが、それだと、高額の慰謝料を手に入れようとして片方がなかなか離婚に同意しなかったり、相手に責をかぶせようとして探偵を雇ったりなどと、不快で対立的な係争が増えたために、徐々にすべての州では、片方がその結婚を継続できないと主張すれば、離婚の手続きができる(ただし、その手続きにかかる期間や、義務づけられている熟慮期間は州によってまちまち)ようになりました。そのなかで唯一、ニューヨーク州では、双方が離婚に合意し、最低一年間別居していなければ、無責離婚はできない、(それに当てはまらない場合は、離婚を希望するほうが、相手の責を証明できなければ離婚はできない)という厳しいシステムをとっていました。私の友達でも、この制度のために、ふたりの心はとうに離れていたのになかなか離婚ができなかったという人がいます。(とくに住居費の高いニューヨーク市では、別れることになったからといってそう簡単に引越先を見つけられるわけでもなく、別れた後でも一つ屋根の下でしばらく暮らすカップルがけっこういるので、この制度はかなり厳しい。)

どの州でも、無責離婚が可能になった直後の約5年間は、離婚率が上昇したものの、その後は離婚率は安定し、どこでも無責離婚が当たり前になってからは、離婚率が1979年の1000組に23から2005年の1000組に17と下降していているそうです。また、無責離婚を制度化した州では、妻の自殺率や家庭内暴力の発生率が急速に下がっている、という統計もあるそうです。

もちろん、比較的簡単に無責離婚が成立するようになると、それまで結婚生活を守ろうとしてさまざまな投資をしたり犠牲を払ったりしてきたほうが、経済的にも精神的にも大きなダメージを受けやすい(たとえば、相手が学位をとるために大学に通うあいだ、ひとりで家計を支えていた人が、相手に一方的に離婚を言い渡される場合など)、というデメリットはあります。そのいっぽうで、いざとなれば離婚をしてもいいと考える人にとっては、結婚生活の諸問題に真剣に向き合おうとしない相手に対して、「カウンセリングに行くなり、他の形なりで、問題解決にきちんと取り組まないならば、離婚する」と言うことで、相手にプレッシャーをかけることができ、夫婦間での交渉力が高まる、という側面もある、とのこと。(アメリカでよくある、カップルズ・セラピーとよばれるカウンセリングは、結婚を継続させていくのにそれなりの効果があるとのデータが出ているらしいです。)

皮肉というべきか、カウンセリングや友好的な調停を経て離婚に至った夫婦のほうが、対立的な裁判を経て離婚に至った夫婦よりも、離婚後後悔の念が強いのだそうです。でもまあ、それはそうでしょう。ふたりのあいだに愛情や思いやりがあって、別れることは仕方ないにしても双方のダメージを極力小さくしようと努力したふたりは、終わってしまった結婚生活についてもいい思い出もあるでしょうし、複雑な気持ちがあるでしょうが、家具ひとつをめぐって壮絶な争いを法廷でするようになってしまったふたりは、結婚生活が終わってせいせいするでしょうからねえ。でも、離婚が避けられないならば、そのどちらがいいかと言えば、前者のほうがいいだろうという、著者の意見に、私も賛成です。

2010年6月16日水曜日

『性愛英語の基礎知識』本日発売!


蒸し暑さを吹き飛ばすような私の新著、『性愛英語の基礎知識 』が本日6/17、新潮新書より発売です。

恋愛や性をめぐる英語表現の解説をとおして、現代アメリカの社会通念や風俗などを紹介した、楽しい新書です。恋愛や性のありかたは、世界共通であるようで、それぞれの社会や文化のかたちを色濃く反映しているのも事実。異性に声をかけるときは、どんなセリフを使うのか?「デート」とはなにを指しているのか?関係がもつれたり破綻していったりする過程ではどんなやりとりが交わされるのか?ベッドのなかではどんな言葉が発せられるのか?微笑ましかったり、滑稽だったり、そしてとってもエッチだったりするアメリカ英語表現をご紹介しています。たとえば、こんな表現、なんのことだかわかりますか?

-make out
-hook up
-fear of commitment
-high maintenance
-on-again, off-again
-currently separated
-friends with benefits

また、こんなセリフ、どういう状況で使われるか想像できますか?

-Have I seen you somewhere?
-We need to talk.
-It's not you; it's me.
-I met someone.
-I love you, but I'm not in love with you.

わかる人にも、わからない人にも、面白くかつ勉強になる読みものとしてお楽しみいただけると思います。文化批評としても、そしてもちろん実用書としても有益な一冊です。ぜひどうぞ。読んだら感想をお聞かせください。

なお、本書の発売に合わせて、新しく私のウェブサイトを立ち上げました。こちらでは、研究や授業を含めた私の仕事全般を知っていただけるようになっています。どうぞよろしく。
http://www.mariyoshihara.com

2010年6月14日月曜日

移民の結婚テスト

外国籍の人がアメリカ市民と結婚してアメリカ永住権を取得しようとするためには、その結婚が「本物」であることを移民局に証明するための面接を受けなくてはいけません。1990年のコメディ映画『グリーン・カード』が描いたように、永住権を取るために便宜的に結婚の手続きをする、つまり偽装結婚をする人が存在するのは事実で、2001年のテロ事件以来、そうした偽装結婚を取り締まる動きは一段と厳しくなっています。それでも、永住権の申請をする移民の結婚の大多数は「本物」で、結婚が偽のものであるとして永住権の申請が拒否されたケースは、昨年度は0.2%だということです。では、結婚が本物か偽物かということを、移民局の役人はどうやって判定するのか、という記事がニューヨーク・タイムズに載っていて、なかなか興味深い。

移民局の審査官によると、審査に使われる大きな基準は、(1)結婚の合法性(過去に別の相手と結婚していた人は、その離婚が成立しているということを証明できなければいけない)、(2)資産・財産の共有(共同名義の銀行口座や不動産など)、(3)精神的・感情的な結びつき、だということです。混乱した社会情勢の母国から移民してきた人や、資産や財産をほとんど持たない移民にとっては、はじめのふたつは結構ハードルが高いことが多い。そして当然ながら、「精神的・感情的な結びつき」は、審査するのも証明するのも難しい。ゆえに、まったく正当な結婚をしている夫婦でも、その正当性を証明しようと頑張り過ぎて、面接で奇妙な言動をとってしまい、かえって疑惑をよぶ、などということもあるらしいです。たとえば、面接官はそんなことを質問しているわけではないのに、性生活をやたらと具体的に描写する人や、なんと性行為の写真まで持参で面接にやってくる人までいるとか。

結婚が「本物」か、本当に生活を共にしているのかを試す質問としては、こんなものがよく使われるらしいです。(面接では夫婦がそれぞれ別々の部屋に入れられ、同じ質問をされ、答が一致しないと、偽装結婚を疑われる、という仕組み。)

−結婚式の日の朝、あなたはどこで目を覚ましましたか。あなたの夫/妻はどこで目を覚ましましたか。
−結婚式の会場には、どうやって行きましたか。
−あなたの家賃または住宅ローンは月々いくらですか。
−自宅の台所で、流しに向かって立つと、電子レンジはどちら側にありますか。
−寝室のクローゼットの中はどんなふうに分かれていますか。
−洗った下着はどこにしまってありますか。
−あなたの身体には入れ墨がありますか。あるとすれば、どこにどんな模様の入れ墨がありますか。あなたの夫/妻には入れ墨がありますか。
−夜寝るときには、あなたはベッドの左右どちら側に寝ますか。
−避妊はしていますか。しているとすれば、なんの方法を使っていますか。

なにかと滑稽な展開になりがちな質問もあるのですが、結婚が偽装と判定されれば強制国外退去になってしまう移民たちにとっては、笑いごとではありません。弁護士の指導のもと、面接に向けて一生懸命勉強しすぎて、答があまりにもわざとらしくなって、かえって怪しまれる、ということもあるらしいです。ウーム...

では、これからカメルーン戦を観ます。私はとくにサッカーが好きというわけではないのですが、いとこがカメルーンに移住することになって、急にカメルーンに興味が湧いてきたので、昨日NHKでやっていたサミュエル・エトーについての番組も観て予習しました。どきどき。

2010年6月12日土曜日

英語の発音は母音とアクセントが9割勝負である

今年がアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの生誕百周年であることには以前の投稿で言及しましたが、その投稿にいただいたコメントで教えていただいた、サントリーホール小ホールでのコンサートに昨晩行ってきました。私は今回はじめて知ったのですが、サントリーホールが主催している「レインボウ21 サントリーホール デビューコンサート」というシリーズは、「次代を担う音楽家や、音楽業界をめざす学生たちがキャリアを築くスタートポイントの場となることを願い開催している」とのこと。音楽専攻の学生による企画を大学単位で公募し、(1)学生ならではのチャレンジ精神にあふれたクオリティの高い内容のもの、(2)コンセプトが明快でテーマの切り口に独創性が高く認められるもの、(3)サントリーホール ブルーローズ(小ホール)の空間にふさわしい音響となる編成、の3点をポイントにして選考・採用されるそうです。企画が採用された学生たちは、出演者、大学およびホールと連携して、チラシ、プログラムの政策、PR活動、チケット販売、舞台構成など、公演政策の現場に参加して実地体験を重ねることができるとのこと。とてもいい企画じゃあありませんか!

で、今回のバーバーのコンサートをプロデュースしたのは、東京音楽大学の学生たち。「弦楽のためのアダージョ」以外にはあまり作品が演奏されることがなく、日本の聴衆には馴染みが薄いバーバーの作品、それも、合唱や木管室内楽、オペラ、金管室内楽、室内オーケストラ、ピアノ独奏など多様な編成のいろいろなタイプの曲を集めた、とてもいいプログラムだと思いました。演奏そのものは、いいと思ったものもそうでもないと思ったものもありますが、それはまあそういうものでしょう。とにかく若い音楽家たちが頑張ってこういう企画をするということに拍手。また、私の後ろの列に座っていたのは、同じ東京音楽大学の在学生たちだったようなのですが、休憩時間の彼女たちの会話を盗み聞きしていると、とても真剣に純粋に演奏や作品について議論していて、嬉しくなりました。若い人たちが(などということを思う年齢になりました)、芸術であれ学問であれなんであれ、真剣に考えて意見を交わしている姿には、私はそれだけで感動します。

しかし、やたらと気になったのが、歌曲での英語の発音。音楽の演奏を聴いて、言葉の発音などにこだわるのも申し訳ないのですが、せっかく声はとてもよく、表現力もあるのに、発音がおかしいために演奏の全体的な質が下がっているのはもったいない。イタリア語やドイツ語の歌ならこちらもわからないので気になりませんが、英語だとどうしても発音が気になって集中できず、思わずコーチを申し出たくなるくらいでした。いろんなところで何度か言っていますが、もう一度声を大にして言います。英語の発音は、母音とアクセントでほぼ決まりです。日本人は、RとLをやたらと気にして、訳もわからず変なところで下を丸めたりします(RもLもないところでなぜか舌を丸めていたりすることがある)が、実際は、RとLなんていうのは、ちょっとくらい発音が違ったって、単語の選択が正しく、きちんとした文法構造の文に入っていれば、言おうとしていることは文脈からわかるものです。そんな子音の心配よりも、英語をきちんと話したいと思う日本人がもっと真剣に取り組むべきは、母音の発音とアクセントの位置です。どんなに美しく舌が丸められたって、母音の発音とアクセントの位置が間違っていたら、ほぼ絶対に通じません。歌の場合は、アクセントはまあ音符に従うわけですが、母音は正しく発音しなければ致命的です。日本語には母音がアイウエオの5つしかありませんが、英語は文字としてはAEIOUの5つでも、発音はずっとたくさんあるわけで、同じAでも、「エイ」と発音すべきところを「ア」と発音したら通じないし、同じO
でも、「ON」のOと「PIANO」のOではまったく別物です。それらがいかに違うものであるかということを、ちゃんと認識した上で発話しないと、せっせと勉強しても通じるようになりません。難しいようでいて、これは発音の基本さえ理解すれば、じっさいはそんなに難しいことではありません。ましてや、音楽の学生は、耳はとても発達しているわけですから、きちんと教えればすぐできるようになるはずですし、海外のオペラのオーディションなどに出るときに、英語どころかドイツ語やフランス語やイタリア語が正しく発音できなければ役はもらえないのですから、もうちょっとちゃんと身につけるべきでしょう。

というわけで、みなさんも、RとLは忘れて、母音とアクセント、これをじっくり学んでください。

2010年6月10日木曜日

スウェーデンの育児休暇

今日のニューヨーク・タイムズで、「もっともメールされている記事」の上位に挙がっているのが、スウェーデンの育児休暇についての長文記事。

日本でも、一昔前と比べると、保育園の送迎をお父さんがしていたり、休日に街で小さな子供を連れている男性の姿を見ることが増えました(私の印象では、私が住んでいる郊外よりも都心でのほうがそうした姿を見ることが多いような気がしますが、これは都心のほうが共働きの夫婦が多いからでしょうか)。それでも、日常的な育児にかかわる時間は男女のあいだに非常に大きな差があるのは明らかですし、法律は整備されていても育児休暇をとったという男性は私の周りにはひとりもいません。アメリカでは、家族形態も労働形態もジェンダーにかんする意識もかなり違うので、ごくおおまかに比べれば、職種や立場が同類の男性同士を比べると、アメリカのほうがずいぶんと育児にかかわる度合いが高いですが、産休や育児休暇などの法制化や公的な保育施設の整備などにおいては、むしろ日本より遅れているくらいなので、私の周りでも、出産した翌週には教壇に立つ女性などもいます。なにしろ、この記事がこれだけ注目を浴びているということ自体が、「スウェーデンはこんなに進んでいる」というアメリカ読者の驚きを表しているのではないでしょうか。

この記事によると、人口900万人のスウェーデンでは、経済が急成長した1960年代に労働市場に女性を送り込むためのさまざまな政策をとり、ヨーロッパのなかでもとくに女性が働きやすい仕組みが整備されてきたものの、1991年までは、法的には育児休暇が整備されていたにもかかわらず、実際に育児休暇を取る男性は全体の6%にとどまっていた。社会における男女の平等は、まず家庭のなかでの男女の平等がなければ実現しないとして、父親がより育児にかかわり、また母親が働きやすくするよう、1995年には、子どもひとりにつき一夫婦に13ヶ月与えられる育児休暇のうち1ヶ月は男性が使わなければそのぶんは取り上げられる、という仕組みにしたそうです。つまり、男性が育児休暇を取ることを義務づけられているわけではないけれども、取らなければ夫婦が損をする、ということになったわけです。その後、この父親専用にあてがわれた1ヶ月の育児休暇は2ヶ月にまで延ばされ、その結果、現在では父親の85%が育児休暇を取っている、とのことです。現行制度では、収入や職場復帰が保証された390日間の育児休暇は、子どもが8歳になるまで、夫婦がどのように分散させてとってもよく、1日や1週間単位、ときには時間単位でとることもできるそうです。こうして子どもが幼い時期に父親が長時間育児にかかわることによって、とうぜん親子関係や夫婦関係、「男らしさ」観にもかなりの変化があらわれ、そして、男女ともに働きやすい社会づくりが進む、というのは納得がいきます。スウェーデンのような、人口が小さく税率の高い社会福祉国家だからこそ可能な仕組み、ということもできますが、この記事によると、ドイツでも同様のモデルを使って、14ヶ月の育児休暇のうち2ヶ月は男性専用としたところ、育児休暇を取る男性は3%から20%に増加しtそうです。

私は子どもも夫もいませんが、日本でもハワイでも周りは子育てをしている男女ばかりですし、ハワイの女性の友達はみな専門職につきながら複数の子どもを育てているので、家庭と仕事の両立や子育てについてはいろいろ考えます。日本でも最近はライフワークバランスなどという言葉をよく聞くようになったものの、職場では平気で夕方の6時とか7時とかから会議が始まったり、どう考えても家族(子どもに限らず、要介護の親など)の存在を無視した前提で職場の日常が作られていることが多いようです(私は今も正規に「日本の職場」に所属していないので、人から聞く話での印象です)し、政権変われど相変わらず女性閣僚は2人しかいないしで、この点においては前途は長いなあと感じます。とにもかくにも男性がみな数カ月家にいて育児に専念してみれば、それが実際にどういうことを意味するのかわかるので、職場復帰したときにも家庭と仕事の両立をしやすい意思決定をすることになると思うのですがねえ。

2010年6月5日土曜日

アメリカの中年・熟年離婚の現実

『セックス・アンド・ザ・シティ2』が40代の女性をばかにしていると私が憤慨している(昨日はブログを書いて間もなく寝たので、それについて夢まで見てしまいました)矢先に、ニューヨーク・タイムズに、アメリカの中年・熟年離婚についての記事が載りました。

この記事の著者は、熟年離婚についての本を書いた人なのですが、記事のきっかけとなったのは、最近発表された、アル・ゴア元副大統領とティッパー夫人の離婚のニュース。政治の表舞台でもそれ以外でも、お互いへの尊敬と理解と愛情に満ちた理想的な夫婦だというイメージが強かったので、離婚にいたったいきさつについていろいろな憶測が巻いていますが、本人たちは、プライベートな決断だとして余計なコメントなどは一切せず、威厳と品格を保っています。

離婚をするのは、訳もわからないうちに勢いで結婚してしまった若者が、数年以内に「こりゃいかん」と思って別れるか、あるいは中年や熟年になってからの離婚については、男性のほうが若い女性とくっついたことが原因で、残された妻は孤独で惨めな余生を送るようになる、というイメージが強いけれども、この記事によると、じっさいには、離婚率がもっとも上がっているのは中年・熟年層だそうです。そして、40代から60代で離婚を決めるカップルのうちの過半数は、女性のほうから離婚を言い出している。さらに、そうして離婚した中高年の女性が、再婚したいと希望すれば、たいていの場合は新しいパートナーを見つけることに成功している、とのことです。

そして、この著者の調査によると、20年間から60年間も続いた結婚生活に終止符を打った中高年男女は、離婚とは失敗・落胆・恥ではなく、自由とコントロールを取り戻す機会と捉えているそうです。子育てが一段落した女性は家族の面倒をみることが中心の生活からの自由を求める。男性は、じゅうぶんに自分に尊敬や感謝の気持ちを示してくれない妻や子供を養う生活から解放を求める。そして男性も女性も、自分に向き合う時間を求める。人生が無限に続くわけではないということを実感する年齢になった男女は、結婚生活に疑問を感じ始めたら今なんとかしなければ残りの人生が見えている、という気持ちもあって、離婚に踏み切り、そして離婚したことについては後悔していない。そして、新たなパートナーを見つけたいと思っている人は、男性も女性も、離婚からほどなくしてそれを実現している、とのことです。

なかなか考えさせられることが多いですねえ。『セックス・アンド・ザ・シティ2』も、こうした中年の現実に、もうちょっと深みとニュアンスをもって取り組んでほしかった。

『セックス・アンド・ザ・シティ2』はこれまでの『セックス・アンド・ザ・シティ』に対する冒涜である

恥ずかしげもなく、日本公開初日に、『セックス・アンド・ザ・シティ2』(以下SATC2)を観に劇場に出かけました。初日だから混雑するかしらんと、わざわざ友達と事前にネットで予約までして、さらには、この映画にかんしては記事を書くことになるかもしれないからと、画面の光を使ってメモをとれるように、前から4列目中央に張り切って陣取ったのですが、さすがに金曜午後の映画館はかなりがらがらで拍子抜けでした。

この映画は、アメリカでは日本より1週間早く公開されました。いろいろなところでレビューが載っていますが、すべてけっちょんけっちょんな酷評で、その評者たちの怒り心頭の様子のほうが映画そのものよりも面白そうなくらいだったので、私はあまり期待はしていませんでした。それでも、もとのSATCのテレビ番組のほうはかなりはまった(私が観たのは、じっさいのテレビ放送が終わってから、アメリカのケーブルチャンネルでしきりに再放送されるようになってからですが)し、2年前の映画版は、なんと2回も劇場に観に行って2回とも隣の友達が呆れるほどおいおいと泣いたくらいなので、今回の映画は多少出来が悪くても、お参りのような気分で行こうと思ったわけです。私は、アメリカでいわゆるchick flickとよばれる、女性向けの恋愛コメディーやドラマについては、かなりのくだらなさを許容できる能力をもっているのであります。

しかし、結論から言うと、SATC2は、いくらなんでもひどすぎる。これは、もとのSATCシリーズ、そして2年前のSATCの映画に対する冒涜ともいえるくらいひどい映画である!これまでのSATCを観てきた人たちには、「その後いったいなにがどうなるのか」という思いがあるでしょうから、コワいもの見たさで観に行くのも悪くはないかも知れませんが、これまでのシリーズを知らず、それぞれの登場人物のキャラクターやこれまでの遍歴を知らない人にとっては、単独で楽しめるだけの物語性や面白さはないので、1800円をもっといいこと(それこそ、女友達とブランチに行くとか)に使ったほうがいいです。

そんなくだらない映画について私がこれほどまでにむきになってそのくだらなさを説くのは、これまでのSATCの魅力を今回の映画がことごとく裏切っていて、主人公のキャリーと同い年である私なぞは、妙に感情移入して、「これは、これまでのSATCだけでなく、40代の女性をばかにした映画である!」などと思ってしまうからです。

アメリカの映画やテレビにももちろん非常に浅薄でくだらないものも掃いて捨てるほどありますが、ごく一般的に言えば、日本のテレビなどと比べると、アメリカのメディアでは、描かれる女性像の幅がずーっと広く、とくに最近では中高年の女性にも深みと魅力のある役がいろいろ与えられるようになっています。それに対して、何度かこのブログでも書いているように、日本のメディアでは、「可愛い」ことが女性の最重要な要素とされたような役作りが圧倒的に多く、その浅薄さに私は絶望すら覚えます。そういった意味で、SATCの4人の女性登場人物は、もちろん、全員白人で、じっさいに仕事をしているシーンはほとんどないにもかかわらずどこから湧いてくるのかわからないけれどもなぜかニューヨークの素敵なアパートに住めるだけのお金があり、靴やバッグやドレスに散財しながら、しょっちゅう4人で集まってブランチをしている、という、きわめて現実ばなれした設定ではありながら、それぞれ違ったタイプの魅力をもち、それぞれ違った生き方を選ぶという点で、なかなか面白味があるわけです。そしてまた、仕事での自己達成への野心と身体がとろけるような恋愛の両方を求めることについてなんのためらいもなく、また、セックスへの欲求も当たり前のこととして、ときには大きくつまづきながらも、貪欲に自分の求めるものを探して明るく生きていく登場人物たちの姿に、私の世代の女性たちは共感するのだと思います。そして、そのなかで一番大事な鍵となっているのが、女性同士の友情。ときには喧嘩もし、ときには傷つけ合うこともあるけれども、肝心なときは助けの手をさしのべ、喜怒哀楽をともにする女友達との絆が、このシリーズの第5の主要登場人物であるとも言えるわけです。またさらに、2年前の映画版では、40代を迎える登場人物たちが、その年代だからこそ直面する女性の現実を、このシリーズ特有の率直さとアイロニーとユーモアをもって、「ファンタジーならではのリアリティ」をもって描いていたことに、私はとても好感をもったわけです。(この映画について書いた2年前の投稿を、今読み返してみましたが、「なかなかよく書けた文章じゃないか」と我ながら感心しました。(笑)よかったら読んでください。)

なのに、なのに!いろいろなレビューでも指摘されているように、たしかにSATC2は、中東(物語のかなりの部分はアブダビで展開されます)の文化を、目も当てられないほどひどい描き方をしています。現にアメリカが中東で戦争をしているときに、これだけの予算を使ったハリウッド映画で今どきよくもまあこんな脚本が通用するなと呆れるほど、その扱いはひどい。4人の女性たちとアブダビの女性たちとのやりとりも、イスラム圏のフェミニストたちがデモを起こしたっておかしくないと思うくらい、くだらないものである。(あまりにも腹が立つので、途中から文章がですます調からである調に変わってしまうくらいである。)しかし、それは、あまりにもくだらなくて、真剣に論じるにも値しないくらいようなものである。

そんなことより、私が冒涜だというのは、この映画が、この年代の女性が直面する現実を、愛情とユーモアをもって、かつ真剣に正面から取り組もうとするSATCの本来の姿勢が少しも感じられない、ということです!(なぜかここで「です」に戻る。)結婚生活2年を経て、相手への愛情が減るわけではなくても、日常生活のマンネリ化や刺激の減少は避けられないというキャリーの現実。望んで家庭の主婦の道を選びながらも、2人の子供の子育てのストレスに疲れ果て、また、若いナニーを性的脅威として見てしまうシャーロットの現実。弁護士としての仕事と家庭生活を両立させるべく馬車馬のように動き回りながら、職場では男性に抜かれ、子供は自分から離れていって、すべてが指と指のあいだからこぼれ落ちてしまうような気持ちになるミランダの現実。そして、独身を通し、50を迎えてもなんの恥じらいもなく性を謳歌するサマンサを容赦なく襲う、更年期障害という身体的現実。物語がアブダビに移るまでは、そういった現実を、それなりのリアリティをもって描いているので、いい映画にするポテンシャルはあったにもかかわらず、なにを血迷ってか脚本家が舞台をアブダビに移してしまったために、話はまったくのドタバタ茶劇以外のなにものでもなくなってしまうのであります。

この映画において、4人の女性がそれぞれの抱える問題の「解決」への道筋には、なんの格闘も深みもない。論理も説得力もまるでない。なにしろ、キャリーの一時の気の迷いは、夫のまったくもって不可思議な理解と寛容(妻が他の男とキスをして、その妻にダイアの指輪をプレゼントする夫がどこにいるのじゃ?)によって解決し、夫に告白することによって自分の罪悪感をはらすといういう以外に、キャリー自身が自分の気の迷いについて真剣に悩み苦しんだ様子は見られない。子育てに疲れたシャーロットの解決策は、ナニーに子供をまかせてときには友達がもっているマンションでひとりの贅沢な時間を過ごすという、現実に子育てでてんてこまいしている庶民の女性が見たら画面にトマトでも投げつけたくなるのではないかと思うような答。男中心の職場に腹を立て仕事を辞めてしまう(現実的なことを言えば、大手弁護士事務所でも次々に弁護士を解雇しているような状況のなか、この選択は無謀としか言いようがない)ミランダは、やはり子育てだけでは満足できないことに気づき、どうやって見つけたのだか知らないが、自分のやりがいと周囲の評価がともに手に入るすてきな仕事を見つける。そしてサマンサは、女性そして性を抑圧する中東から自由の国アメリカに戻って、思う存分セックスをする。これが、これまでのSATC、そしてこの年代の女性に対する冒涜でなくてなんなのだ〜!!!ユーモアたっぷりの面白可笑しいファンタジーでありながら、中年女性の現実を率直にかつ深みをもって描くことは、可能なはずだ〜!!!

書いているうちに、ますます怒りが増大してきました。

2010年6月2日水曜日

靖国神社の絵馬

新宿で道を歩いているときに、号外で鳩山氏辞任を知りました。なんともあっけなかったですねえ。せっかく私が日本に滞在しているあいだに政権をとったのだから、もうちょっといろいろな成果が見られるまで続いてほしかったけれど、普天間については目も当てられない状態になってしまったし、しかたがないでしょう。

さて、「歴史と記憶」の授業の一環で数週間後に学生を靖国神社に連れて行くことになっているので、今日その下見に行ってきました。靖国に行ったのはひさしぶりでしたが、平日昼間で人が少なかったのでいろいろ観察ができて面白かったです。掲示板に展示されている遺書、敷地内に建っているいろいろな銅像(戦争で死んだ軍馬や軍犬をたたえる銅像がある)、遊就館(今日は展示のなかには入りませんでしたが)の売店で売っている本やDVDのセレクションなどなど。そして、これは人が少なかったからこそできたことですが、人々が絵馬に書いた願いごとが、とても興味深かったので、いくつか写真を撮ってきました。名前が書いてあるものが多いのでプライバシーのため写真は掲載しませんが、以下の文章は原文のままです。個人名が書かれている部分はXYとしました。

「崩壊寸前の国防・治安・教育を見護りください。XYさんの禁煙が成功致しますように。」
「日本大スキ!変な外国人から守ってください。民主党から日本をお守りください。」
「日本国がこれからも日本国であります様に。日本国を愛する者として」
「XYさんと共に仕事出来ますように。600万以上の彼氏ができますように。ハワイに行けますように!!」
「陸曹候補合格 祖国の為に身を尽くします。 陸上自衛隊中央部応連帯 XY」
「靖国の神々よ、願わくは現政権の手より日本国を御護りください。今年も桜に会えました。おじいさん、いつもありがとう。」
「しあわせな恋愛をへて、しあわせな結婚ができますように。全身のはだがキレイになって『カワイイ』とたくさん言われますように」
「今年は日本の製造業の発展に貢献することで、日本に貢献する人間になります。御見守りください。中小企業診断士 XY」
「祖国のために何かできることが見つかりますように。大学一年 XY」
「日本が繁栄しますように。二人の息子がどちらも医学部に合格しますように。」

何百枚とある絵馬のなかから目に留まったものを撮影しただけなので、サンプリングには私の好奇心以外になんの意味もありません。どこの神社でもありそうな願いごとも多く、「就職が決まりますように」というものが多かったのに胸が詰まる思いがしますし、私なぞは、「そうかー、人はこういう場所で幸せな結婚についてお願いするのかー」などと感心してしまいました。600万というのは年収のことでしょうが、神様へのお願いに含まれるその具体性・現実性から切実さが感じられます。それと同時に、やはり靖国神社ならではというものがかなり多いのが興味深かったです。これらの願いごとを書いた人それぞれにとって、「日本」とはなにを意味しているのか、とても知りたいです。また、憂国や愛国の思いと一緒に、禁煙とか受験とかといったきわめて目前の具体的な願いが綴られているところに、人間的なリアリティがあって面白い。神社の協力を得て、こうした絵馬に書かれた願いごとをデータ分析したらさぞかし面白い結果になることでしょう。ちなみに、せっかくなので私も一枚書いてきました。

「日本が自国の歴史にきちんと向き合い、アジア諸国と共存できる民主国家として発展しますように」

次の首相が、この願いを少しでもかなえてくれますように。