2009年6月25日木曜日

Don't Cry for Me, Argentina

ここ数日、アメリカではサウスカロライナ州知事マーク・サンフォード氏の不倫発覚事件で話題もちきりです。共和党はなんだか踏んだり蹴ったりで、ほとんど気の毒になってくるくらいですが、今回の事件はあまりにも訳がわからなくて、呆れるやら笑ってしまうやらです。サンフォード氏が不倫を告白した記者会見での弁舌は、最初から最後まで支離滅裂で、演説や討議が政治文化の中心にあるアメリカでもこんなに無茶苦茶な会見をする政治家がいるということに、なんだか新鮮な驚きすら覚えてしまいます。「(恋人に会いに行っていた)アルゼンチンでは何日間も泣き続けていた」などというくだりは、ウケを狙って言っているとしか思えず(でもどうやらそうでないらしいところがオソロしい)、今後Don't Cry for Me, Argentinaの歌は真顔では聴いたり歌ったりできなくなるでしょう。『新潮45』の「恋愛単語で知るアメリカ」の連載の5月号でmidlife crisisという用語について説明しましたが、これはまさにmidlife crisisの典型ですね。

ニューヨーク・タイムズのコラムニストのGail Collinsがこの件について面白可笑しい論説を書いていますが、景気対策のために連邦政府から州へ与えられる7億ドルをサンフォード氏が辞退したというのは、なにか筋の通った政治・経済的な立場によるものではなくて、彼が単に頭がおかしくなっていることの印だったのではという彼女の説は、この記者会見を見た後ではなんだか説得力があります。

しかし、これだけ訳のわからない弁舌でも、アメリカ文化・社会という視点からすればやはり興味深い点はあるもので、この支離滅裂な10数分の会見のあいだに、「父親」「妻」「息子たち」「信仰」「神」「親友」「許し」「心」といった単語が何回出て来るか、ということだけでも学ぶところはあります。また、アパラチア山脈という地域が一般のアメリカ人に喚起するイメージが、この事件でずいぶん変わるような気もします。

と、この投稿を書いている最中に、マイケル・ジャクソンが亡くなったというニュースが出ました!わー、びっくり!彼こそ数奇な人生を送った人ですが、彼が大スターとなった時期と、私があの種類の音楽を聴いていた時期が重なっていただけに、いっそう時代の流れを感じます。

2009年6月22日月曜日

ジョン・アダムス

ゴールデン・グローブ賞などを受賞したHBOのミニ・テレビシリーズ、『ジョン・アダムス』をDVDで観ました。(『現代アメリカのキーワード 』に出てくる現代作曲家のジョン・アダムスではなくて、アメリカ第二代大統領のジョン・アダムスです。)私はLaura Linneyがもっとも好きな女優のひとりなので、彼女が出ているというのが主な理由でこれをレンタルしたのですが、著名な歴史家David McCulloughによるピュリッツァー受賞作である同タイトルの伝記をもとにしたシリーズなので、歴史の表象という点でもとても面白く、よくできた作品だと思いました。

アメリカの独立宣言や憲法の制定、州の権限と連邦制度をめぐる議論、イギリスやフランスとの関係など、革命と建国をめぐる複雑な歴史を効果的に伝え、建国の父を英雄として讃えるだけの単純な物語には決してなっていないところが見応えがあります。ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファソン、アレクサンダー・ハミルトンなどと比較してジョン・アダムスは現代の一般人には影の薄い存在だと思いますが、アダムスの倫理観、政治観、そして決してバラ色とは言えない私生活などがなかなか奥深く描かれていて勉強になります。妻アビゲイル・アダムスとの関係は感動的で、Laura Linneyの演技がまた素晴らしいです。というわけで、おすすめです。

2009年6月21日日曜日

同性愛者運動にはなぜ全国的リーダーが存在しないか

今日のニューヨーク・タイムズに、「同性愛者運動にはなぜ全国的リーダーが存在しないか」という論説が載っています。奴隷解放運動にはフレデリック・ダグラス、公民権運動にはマーティン・ルーサー・キングJr.、フェミニズム運動にはベティ・フリーダンやグローリア・スタイナムがいたように、法律や政治、社会意識を大きく揺るがすような社会運動にはたいていカリスマ性のあるリーダーが存在する。にもかかわらず、ストーンウオール暴動(『ドット・コム・ラヴァーズ』96−97頁参照)から50年間がたって同性愛者の権利という点ではさまざまな功績を遂げた今でも、同性愛者運動には同様の全国的リーダーが存在しない。このブログで以前言及したハーヴィ・ミルク(今ちょうど日本で『ミルク』公開中ですので是非どうぞ)は運動全体に大きなインスピレーションと役割モデルを与えはしたものの、彼自身の活動はサンフランシスコ市のローカルなコミュニティに根ざしたものだった。なぜ同性愛者運動は、公民権運動やフェミニズム運動と同類のリーダーが現れないのだろうか?というわけです。

この記事の分析によると、まずひとつに、同性愛者運動は、性的アイデンティティを基盤にした運動であるがために、一般市民が彼らの問題を公的で道徳的な問題としてとらえにくい、ということ。人種差別や性差別が道徳的にも社会的にも間違っているということを理解するのは比較的たやすくても、セックスにまつわることを同じような憤りをもって考え、社会運動に結びつけることは、多くの人にとって障壁がある。さらに、同性愛者運動が取り組んできた問題の多くは、きわめてローカルな性質なものである、ということ。職場における差別の禁止、憎悪犯罪などをめぐる法律の多くは、市や州レヴェルの立法によるものですし、また、州によって結婚をめぐる法律や手続きが違うアメリカでは、このブログで何度も言及しているように、同性婚やシヴィル・ユニオン、ドメスティック・パートナーシップをめぐる権利のための闘いは州レヴェルで行われます。ゆえに、連邦政府の立法や連邦最高裁の判決によって全国的に直接影響をもたらす大きな進歩をとげていった公民権運動などとは違い、同性愛者運動はより拡散したローカルな動きをする、とのことです。

同性愛者の権利に関するオバマ大統領の政策が生温いとの批判があがっていると同時に、州レヴェルでは同性婚が徐々に認められるようになっているなかで、今後のこの運動の流れが注目されます。

2009年6月19日金曜日

不況下のアメリカの大学の経費削減対策

先週なかばにハワイに戻る予定だったのが、ダラス周辺に大嵐がやってきてフライトがキャンセルになり、テキサス滞在が数日間延長になり、週末にハワイに到着しました。まる4週間テキサスにいたあとでハワイに戻ってくると、自分が普段住んでいる場所であるにもかかわらず、自然・人口の風景から人の種類、車の運転のペースまで、なんだか戸惑うことが多いです。アメリカというのは場所によっていかに多様な国であるかということをあらためて実感します。

我が家に帰ってみると、なんとダイニングテーブルにはきれいなユリの花束が活けてあり、Welcome home, Mari!と書いたカードと一緒においてありました。道向かいに住んでいる仲良しのゲイ友(『ドット・コム・ラヴァーズ』の「マイク」)がわざわざ用意してくれたのです(留守中に緊急事態や用事があるときのためにお互いの家の鍵をもっているのです)。やっぱり持つべきものはゲイ友。テキサスでも刺激的なときを過ごしましたが、ここに帰ってきてよかったなあという気持ちになりました。といっても、その「マイク」自身は、私と入れ替わりに、ミシガンの音楽学校での夏季講習を教えるためにハワイを去ってしまったのですが。

さて、依然として暗い不況のニュースがアメリカでも続いていますが、ハワイでは州知事が赤字削減のため、州の職員1万5600人に今後2年間にわたって月に3日間の無給与「休暇」を言い渡しました。これによって事実上、就職員は13.8%の給与削減となり、州は6億8800万ドルを節約できるということとなります。ハワイ大学も州立大学なので理論的にはこれが適応されるのですが、労働組合の契約により大学および公立学校教員には知事が「休暇」を強制的に与えることはできないので、代わりの経費削減策を大学側が提供することが期待されています。しかし、給与削減なしで現在の経済状況に対応できるほどの経費削減をするためには、かなり大幅な人員削減、つまり各種のプログラムをまるごとカットしなくてはならず、それには当然たいへんな抵抗が予想されます。

そんななかで、今日のニューヨーク・タイムズに、全国各地の大学がどのようにして経費削減にのぞんでいるか、という記事があります。教員のオフィスの電話を取り除くとか、清掃の頻度を減らすとか、新入生のためのオリエンテーション期間を短縮するとか、はてには水泳部の他大学との試合を「ヴァーチャル化」(実際に試合の会場に出かけていくのではなく、それぞれのチームが自分の大学のプールで泳いでタイムを計ってくらべる。それって「試合」なのかしらん?)するなど、やれやれと溜息の出るような策も多いですが、なかにはカットされたもののなかで「今まではそんなことしていたのかいな」と思うようなものもあります。たとえば、ノースカロライナ大学チャペルヒル校(全国の州立大学のなかでも屈指の名門研究大学です)では、新任教員のための州のバスツアーがカットされたとか。不況のさなかに大学教授100人が旅行をしてホテルに泊まるのはよろしくない、とのこと。まあたしかにそりゃそうだろうとも思いますが、でも考えてみれば、大学の教員はたいていまるで違う場所(外国の場合も多い)からやってくるので、とくに地元の学生が多い州立大学に長く腰を下ろして仕事をすることになる教員がその土地の文化を理解するためには、このツアーはなかなかいいアイデアだと思います。ハワイのように、他のどんな場所ともまるで違う文化・社会構成をもった土地では、こうしたツアー、オリエンテーションはかなり有益なんじゃないか、と思います。ふーむ。ディッキンソン大学では、学生のための無料ランドリー・サービスがなくなったとか。学生のための無料ランドリー・サービス???

こうして、不況が、ふだんは知られることのない(あるいは、知られていてもあまり表面に出ない)大学間の格差を明るみに出す、というのも興味深いものです。

2009年6月10日水曜日

不況下のアメリカ大学の入学審査事情

まる三週間、クライバーン・コンペティションにどっぷりと浸かり、素晴らしい音楽を毎日聴き、このイヴェントを支える沢山の人々に会い、とても刺激的なときを過ごしました。おまけに、数多くのピアニストたちの中でも私がインタヴューをする機会をもった二人が優勝してしまうなんて、びっくりです。これから先は、「私のインタヴューを受けると優勝しますよ」と宣伝しておけば、たくさんの音楽家たちがインタヴューに応じてくれるかもしれません。(笑)

9日(火)の読売新聞に、辻井伸行さんについて書いた私の記事が載りました。優勝が決まった後、写真撮影やら次々に日本のメディアからかかってくる電話取材に、疲れひとつみせず快く対応している辻井さんとその周りの人々に、私もくっついて朝2時過ぎまでいたのですが、その後に「今から2時間以内に原稿送っていただけますか」と頼まれて書いた原稿です。新聞記事は何しろ字数が限られているので、あまり実のあることは書けないのですが、現在、このコンペティションのこと、そして辻井さんのことについて雑誌記事を書いているところですので、刊行になったらまたお知らせします。

このブログの読者には、クラシック音楽にそれほど興味がないかたも多いでしょうが、ここ数週間、コンペティションの話題ばかりにおつき合いいただいてありがとうございました。

気分転換(?)に、今日はまるで違う話題です。不況下、アメリカの大学がたいへんな財政難に面していることは以前にも書きましたが、それが学部生の入学審査にどのような影響を及ぼしているか、という記事が今日のニューヨーク・タイムズに載っています。

アメリカの大学の入学審査は、日本の入試制度とはまるで違います。日本のように大学や学部ごとの「入試」が行われるのではなく、高校の成績、全国共通の学力テストの成績、応募エッセイ、推薦状、課外活動、大学で勉強しようと考えている分野などが総合的に審査されるのですが、それに加えて、「学費を払う能力」という要素が複雑に絡んできます。アメリカの大学の学費は年々上昇していて、私立大学では授業料および寮や食事の費用(こうした私立大学の多くは全寮制)を含めると年間5万ドルを超えるところも少なくありません。ハーヴァードやプリンストンなど、巨額の財産をもっている私立大学などでは、need blind制度(学費を払う能力に関わらず優秀な学生に入学を許可し、払えない学生にはすべてそれぞれの必要に応じて奨学金を提供する)をとっていますが、そうした制度を完全に遂行できるほどの財産のある大学はごく一握りで、いわゆるエリートの私立大学でも多くは、少なくとも部分的にneed aware制度をとっています。こうした制度をとっているところでは、学力など総合的にトップに位置している学生はneed blindで受け入れますが、それらの学生の学費をカバーするために、その下に位置する学生たちについては、学費を払う能力をある程度考慮して入学を決める、ということになります。つまり、ぎりぎりのラインにいる学生たちは、自費で学費を払えるのであれば合格の可能性が高まるのに対し、奨学金がなければ学費が払えないのであれば不合格になる可能性が高くなる、というわけです。実にシビアで、端的に言って、経済力によって教育の機会が規定される、不公平な制度です。もちろん、大学にとっては優秀な学生に入学してもらったほうが長期的にはメリットが大きいので、多くの大学はなるべくこの制度を是正し、優秀な学生には奨学金を提供しようとしていますが、不況によって基本財産が大きく減ってしまった大学は、授業料収入を増やしかつコストを削減するために、一時的に入学審査におけるneed aware度を拡大する方針をとっているところが少なくありません。この記事で取り上げられているのは、オレゴン州にあるエリートのリベラル・アーツ・カレッジであるReed Collegeですが、他の多くの大学でも同様の手段をとっています。

大学教育は経済・社会的地位と密接に結びついていますし、大学によって教育の質(授業の内容といったことだけでなく、大学生活を構成するあらゆる側面を含む)がかなり違うというのは厳然とした事実ですが、このように、経済力によってさらに教育の機会が規定されると、長期的に社会全体のなかでの経済的不均衡がさらに再生産・強化される結果となります。大学教育がすべて公的なものになるとか、入学審査制度が根本的に変えられるとか、アメリカではまず考えられないことが実現されないかぎり、この状況には解決策がないのでしょう。

ところで、ちょっとだけ音楽の話題に戻って、今週13日(土)に、私の仲良しのピアニスト、平田真希子さんのコンサートが現代美術館「カスヤの森」であります。前にここでご紹介した、雑誌『考える人』の「ピアノの時間」特集のアンケートで私がCDを紹介したピアニストです。ちなみにMusicians from a Different Shoreにも、彼女のことが何カ所にも出てきます。今年は私の日本滞在と彼女の日本での演奏が重ならないので、私自身聴きに行けないのがとても残念なのですが、代わりにみなさんに行っていただけたら嬉しいです。どうぞよろしく。

場所:「カスヤの森」現代美術館 (JR横須賀線、衣笠駅より徒歩12分)
http://www.museum-haus-kasuya.com/index00.htm

時間:6時半開演、休憩をはさんで2時間弱のプログラム

曲目:ベートーヴェン、ロンドハ長調、作品51−1、モーツァルト、イ短調のロンド、ドビュッシー「映像一巻」、ラヴェル「優雅で感傷的なワルツ」、スクリャービン、他

ピアニスト:平田真希子、http://makikony.cool.ne.jp/

ティケットのご予約、ご質問: (045)826—2348、またはメール、jhirata@c3-net.ne.jp)

2009年6月7日日曜日

辻井伸行さん優勝!

第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンペティション、今日にてすべて演奏が終了し、授賞式がたった今行われたところです。とにもかくにも結果をお知りになりたいかたが多いでしょうから、ご報告します。

3位 受賞者なし
2位 Yeol Eum Son
1位 辻井伸行 および Haochen Zhang

私が予想していた(そしてそうなるといいなと思っていた)通りの結果になりました。当然ながら、辻井さん本人、お母様のいつ子さん、ホストファミリーのみなさん、辻井さんの所属事務所のみなさん、そして辻井さんを応援していた数えきれないくらいの人々が、大喜び、大騒ぎ中です。今日の辻井さんのリサイタルでは、完璧にコントロールの効いたベートーヴェンの「熱情」ソナタ、本当に溜息が出るように親密で優しく誠実なショパンBerceuse Op. 57、遊び心と情熱の混じったリストのハンガリアン・ラプソディ2番という、ピアノの王道を行くような、しかも辻井さんの演奏の一番よい部分を引き出すようなプログラムで、聴衆にも審査員にも訴えかけました。

Zhangのプロコフィエフ・コンチェルト2番も、技術的にも音楽的にも素晴らしく、ともするとやたらとうるさいばかりになってしまう曲を、めりはりと色彩あふれる演奏で楽しませてくれました。私は予選前から彼をインタビューしていたので、個人的にもひいきにしていたし、毎回彼の演奏はなんだか天才的なものを感じていたので、やはりなるべき結果になった、という感じです。

Sonの、物語性と個性がありながら端正にまとめられた演奏、そして彼女独特のステージ・パーソナリティが私は予選のときからとても気に入っていました。彼女が2位というのも、私の予想通りになりました。

なお、辻井さんは、現代曲賞も受賞しました。

このコンクールをすべて現地で見学し、参加者全員が人生をかけてのぞんだ演奏に3週間近くたっぷりと浸かる機会をもち、素晴らしい音楽にも、私が垣間みることのできた演奏者の人生の一端にも、そしてこのイヴェンとを支えるさまざまな人たちの努力にも、感動すること考えさせられることが本当に多く、私は自分の人生を豊かにしていただいた気持ちでいっぱいです。イベントすべて終わった今、みなさんに伝えたいことがたくさんあるのですが、これから着替えて閉会パーティに出かけるところなので、また後でゆっくり書きます。とりあえず結果ご報告まで。

2009年6月5日金曜日

アメリカのピアノオタク事情

クライバーン・コンクールは今日がファイナルの3日めです。昨日は、辻井伸行さんを含め、私がもっとも気に入っている3人の演奏があり、それぞれとても幸せな気持ちにさせてくれる演奏で、私は至福の思いでした。演奏については、クライバーンコンクールの正式ブログ(なんていうものを私なぞが書いていること自体ちょっと信じられませんが)のほうを見てください。

ここでは、ちょっと違う話題。今回はちょっと違う話題です。すなわち、「アメリカのピアノオタク事情」。

日本には、どんな分野にもそれぞれのオタク文化というものがあります。なかでも、クラシック音楽は、そうしたオタク的趣味を引きつけてやまない分野です。曲や作曲家についての深い知識や、演奏に関する高度な審美耳、そして、誰それの何年の何版のレコーディングが云々といったことに関して、信じられないほどのこだわりをもっている、いわゆる「クラシックオタク」「ピアノオタク」。

私自身は、そのオタクの範疇にはまったく入りません。そもそもどんな分野にしろオタクになれるほどの集中力と持続性がないのです。自分が好きなものにはこだわりがありますし、本職は学者ですからものを知ったり調べたり考えたりすることはもちろん好きでうが、人が知らないことを知りたいといった衝動もないし、ものを集めたりといったことにはとんと興味がないのです。私はかつてかなり真剣にピアノをやっていたのですが、結局音大進学をやめて、東大に行ったのですが、入学当時、サークル(バブルの後期だったのでちゃらちゃらしていたんです)を探しているときに、「東大ピアノの会」というものの存在を知って、一応ちょっとのぞいてみました。しかし、そのあまりにもオタッキーな雰囲気に、私はとてもじゃないけれど入り込めないものを感じ取り、関わらないままで大学生活を終えました。人に聞くところによると、私がそのときに感知した空気というのは、いまだに綿々と受け継がれているらしく(なにしろ、クラシック音楽というオタクを寄せつける分野と、東大生というオタッキーが集まりがちな集団の重なる部分ですからね)、たしかにこの会の演奏会のプログラムなどを見てみると、私は聞いたこともない作曲家の作品ばっかりだったり、有名な作曲家の作品でも、ほとんど演奏されないような曲だったりして、選曲からしてオタッキーなのです。ショパンのノクターンとかを呑気に弾いていたら馬鹿にされるんじゃないかという雰囲気。そして、みんなやたらと上手い。

私は、こうしたオタク文化、とくにクラシック音楽やピアノをめぐるオタク文化というのは、日本独特のものかと思っていました。が、Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicのためのリサーチを始めた頃から私は、アメリカにも「ピアノオタク」という集団がいるんだということを知りました。アメリカのピアノオタクは、日本のそれと共通する特性ももちろんたくさんあります。とにかくピアノ音楽の歴史に無茶苦茶詳しい。私は「それってどの時代のどこの国の人?」って言ってしまうような作曲家をたくさん知っている。大きなレコードやCDのコレクションをもっていて、今でも好んでLPを聴く。ピアノの演奏会やらピアノ音楽に関する講演会やらには必ず現れるし、有名な演奏家だけでなく若手(まだ学生をしているような人たち)のなかにも自分がとくに目をかけているピアニストがいて、彼らのキャリアをおっかけ風にフォローしている。などなど。

でも、アメリカのピアノオタクの面白いところは、彼ら(こういう人はたいてい男性です)の多くは、自分自身はピアノを弾かない、ということです。昔少し習ったことがある、という人はいますが、多くの人は、今は自分では弾かず、もっぱら聴くのと蘊蓄をたれるのが専門。そんなにピアノが好きならちょっとくらいは自分も弾けばいいのに、それだけ聴いていたら弾きたくならないのかな、と端から見ていて思うくらいですが、もしかしたらそれだけ耳が肥えてしまうと、普段から聴き慣れているものと自分が出す音のギャップが激しすぎて耐えられない、というのもあるのかもしれません。

そして、私の友達のピアニスト(彼はブルックリンに住んでいるプロのピアニスト)の観察によると、こうしたピアノオタクのおじさんたちは、「必ずしもゲイではないのだが、独身であることが多く、みんなお母さんと一緒に住んでいる」。これはなんだか大笑いしてしまう観察です。どれだけ統計的に正確か知りませんが、たしかに私の思いつくだけでも、この描写に当てはまる人が何人もいます。アメリカでは、高齢の親の介護が必要だからといった事情でもないかぎり、大人が親と同居するというのはかなり珍しいことなので、それがまたオタッキーな雰囲気を強化します。

もちろん、自分が弾くピアノオタクもいます。かなりの高レベルで弾く人も多く、アマチュアのコンクールに出まくっているような人たちもいます。クライバーン財団は1999年からアマチュアのためのピアノコンクールも主催していて、次回の2011年のコンクールには私もぜひ出たいと企んでいるのですが、これに出場するような人たちは、医者だのエンジニアだのと忙しい仕事をしたり家族生活を送ったりしながら、やたらめったら高レベルの演奏をします。私は、普段住んでいるハワイで、Ivory League(「アイビーリーグ」をもじった名前)という名前のグループに入っているのですが、これはアマチュアのピアノ同好家10人ほどの集まりで、レベルはピンからきりまでまちまちですが、一ヶ月半に一度くらいのペースで、誰かの家に集まって、それぞれが練習している曲をお互いのために弾いたり、連弾をしたり、趣味でバイオリンやクラリネットをやる仲間を連れてきて一緒に弾いたりするのです。アマチュアが趣味でピアノをやる場合、たいていは家で自分ひとりで練習するだけで、人のために弾くという機会がないので、これはとてもいいです。で、このグループの中心となっているふたりは、それこそピアノオタクで、私が聞いたこともない名前の作曲家の曲の楽譜を、どうやって見つけるのか知りませんが手に入れてきて、とても嬉しそうに、そして驚くほど上手に、演奏するのです。そのうちのひとりは、今回のクライバーン・コンクールの様子もネットで逐一フォローしていて、毎日「あの演奏はどうだった」とか「あいつはまったく気に入らん」とか、やたらと細かいコメントを私にメールで送ってきます。

でも、私の印象では、今回のクライバーン・コンクールを見にわざわざ出かけてきている人たちや、熱心にネットで演奏を見聴きしているような人たちの多くは、自分はほとんどピアノを弾かない人たちのように思います。私にしてみれば、自分がピアノを弾きもしないのになぜ人の演奏を聴くことにそこまで熱心になれるのか、そちらのほうに感心するような呆れるような思いですが、彼らの熱意、そしてそうしたピアノオタク同士の連帯感はなかなかスゴいものがあります。私はシーズンチケットで予選からすべて同じ席で聴いているので、近くの席で同じようにずっと聴いている人たちとは、しぜん仲良くなります。私の隣の席の紳士は、趣味でビオラを弾いて、コミュニティ・オーケストラで演奏したりするとはいうものの、ピアノそのものは聴くのが専門。でも彼は、セミファイナルのときから、誰が室内楽はなにを弾いて現代曲はなにを弾く、といったことを整理した表を自分で作って(シーズンチケット購入者には、それぞれの出場者がなにを弾くかはすべて載っているなかなか立派なプログラムがもらえるのですが、ひとりひとりの頁をめくって見るのでは比較が難しい、ということらしい)もってきていたし、もちろん、自分なりの採点表(彼の方式では、室内楽、リサイタル、コンチェルト1、コンチェルト2など各項目が20点満点)を作って、演奏を聴くごとに点を書き込んでいます。演奏と演奏のあいだの休憩時間には、周りの席の人たちどうし、感想を言い合って、もちろん意見が合わずに、「いや、僕はあれは気に入らなかった」とかなんとか、「あの曲はすばらしかったじゃないか」とか言い合っている風景もよく見かけます。なんだかとても微笑ましいです。

その隣の紳士は、私が辻井伸行さんのホストファミリーとしゃべっているときに、辻井さんのラッキーカラーがオレンジだということを聞きつけて、なんと先日、わざわざ私のためにオレンジのスカーフを買ってプレゼントしてくれました。しかも、予選の最中に彼は、「あなたにプレゼントがある」というので、なにを持ってくるのかと思ったら、なんと浴衣のセット。10年ほど前に乳がんで亡くなった彼の奥様は、もとアメリカン航空のスチュワーデスでよく日本にもフライトで出かけて、日本の文化をとても気に入っていた。あるとき、日本の友達が、彼女のために浴衣を仕立てて贈ってくれたのだが、彼女が亡くなって以来それはクローゼットで眠ったままになっていた。どうせだったら使ってくれる人に持っていてもらったほうが彼女もそれをプレゼントしてくれた人も喜ぶはずだから、と言って、まだ会って数日の私にそれをくださったのです。クライバーン・コンクールを見学にテキサスにやってきて、隣のおじさまに浴衣をいただくとは思いませんでした。素晴らしい音楽の生演奏を一緒に経験しているという状況から、こうした交流が生まれるのは、感動的なことです。(この話をすると、「そのオジサンは君に気があるんだろう」とよく言われますが、そういう雰囲気じゃまるでないんです。それに、私は以前からなぜか、10歳以下の男の子と、60歳以上のおじさまと、ゲイの男性にはとても気に入られるのです。肝心の、30代、40代の独身ストレート男性にも、同じように愛されるといいんですが。:))

2009年6月3日水曜日

The Audition

これはクライバーン・コンクールそのものの話題ではないですが、しばらく前にこのブログで紹介した、メトロポリタン・オペラ主催の若手歌手のオーディションについてのドキュメンタリー映画、『The Audition』が、今週末日本でも上映になります。クラシック音楽におけるオーディションやコンクールというものがいったいどういうものなのか、それにむけて音楽家たちはどんな思いでどんな準備をするのか、ということがよく伝わってくる映画で、音楽そのものにもとても感動します。クライバーン・コンクールもプロセスは似た部分が多く、そうした意味でも面白いですので、行けるかたはぜひ観てみてください。観たら感想をお聞かせください。

2009年6月2日火曜日

舞台外のコンクール風景






昨日と今日は、ファイナリストたちがオーケストラとリハーサルをする日なので演奏はなし。私は、いろいろなかたにインタビューをしたり、リハーサルの見学をさせていただいたりして過ごしました。なかでもとても興味深いお話をうかがったのが、審査員の先生がた数人、そして辻井伸行さんのお母さまの辻井いつ子さん、そしてマネージャーの蕪木冬樹さんでした。

審査員は、現在進行中のコンペティションで個々の出場者について具体的コメントはしてはいけないことになっているので(これはメディアなどの外部の人間に対してだけではなく、審査員同士でもそういう話はしないことになっているそうです)、誰のことをどう思うといったことを聞いたわけではなく、むしろ、クライバーンのようなコンクールの意義についてどう考えているか、芸術のように数量化不可能なものをあえて点数で評価しなければいけないことについてどうアプローチしているか、音楽以外の要素(年齢、服装、演奏中の表情など)がどのように評価に影響するかしないかなどについて考えをうかがいました。私にとってとくに面白かったのは、コンクール全般、そしてとくにクライバーンに関していえば、誰がもっとも才能のある音楽家であるかを判断する場では決してない。Xが一番でYが二番といった判断をする場でも決してない。むしろ、どの音楽家がプロの演奏家として世界に出ていく準備がもっともできていて、このように大変なスタミナが要求されプレッシャーの高い状況のなかでもっとも音楽性の高い演奏をするかを見て、そうした資質を備えている若い音楽家を世に送り出すための場である。また、厳しいオーディションを経て参加を許された最高レベルの音楽家たちを、聴衆やメディアに紹介し、今後の仕事につなげる機会を提供するためのものである、とのことでした。

年齢や服装に関しては、審査員それぞれ考えが違うので一口には説明できませんが、基本的には、18歳の人と30歳の人では同じ曲でもアプローチや演奏が違うのは当たり前で、30歳のピアニストには30歳にふさわしい成熟度を期待するのは当然だが、それと同時に、コンペティションという設定のなかでは、年齢や国籍や障害などの要素は一切関係なく、すべての参加者が同じ土俵で審査されるのだ、ということでもありました。まあ当然といえば当然ですが、実際のところ、今回ファイナルに残っている6人はそれぞれとても違うタイプの演奏家なので、それを相対的に評価するのはとても困難なことではないかと思います。

辻井伸行さんのお母さまとマネージャーの蕪木さんのお話からは、辻井さんの音楽家としてそして人間としての長期的な成長を第一に考えていらっしゃることが明らかで、頭が下がりました。どうしても「盲目のピアニスト」ということで話題性が先行してしまいがちな状況のなかで、辻井さん本人も、そして辻井さんを支える周りのかたがたも、センセーショナリズムに巻き込まれずにきちんとした音楽家としての発展をしていくことを考えているということが、とても立派です。お母さまいつ子さんの著書『今日の風、なに色?―全盲で生まれたわが子が「天才少年ピアニスト」と呼ばれるまで』そして『のぶカンタービレ! 全盲で生まれた息子・伸行がプロのピアニストになるまで』に、辻井さん親子がこれまでに辿ってきた道、そしてこれから先への思いが綴られています。

今日は、フォートワースの動物園で、コンクールのパーティがありました。「ウェスタンまたはカジュアル」というドレスコードだったので、地元の人たちはみなカウボーイハットやブーツ姿で現れ、参加者にはクライバーンコンクールのマークが入ったバンダナが配られました。審査員の先生がたもみなリラックスした雰囲気で、ファイナルに残らなかった出場者ととてもフレンドリーに会話をして励ましの言葉をかけているあたりが、とても心温まりました。ヴァン・クライバーン氏本人も現れ、辻井さんを含め参加者たちと楽しげに会話をしていました。こうしたアレンジのしかたが、アメリカ的というかテキサス的というか、クライバーン・コンクールならではだと思います。