2011年11月16日水曜日

ベストセラー作家、「街の書店」経営に乗り出す

今日のニューヨーク・タイムズに、「流れに抗うべく小説家が書店をオープン」というタイトルの記事があったので、誰のことかと読んでみると、なんと現代アメリカ作家のなかで私がもっとも好きな小説家のひとりのAnn Patchettでした。アマゾンなどのオンライン書店や、Barnes & Nobleといったチェーン店、そして電子書籍の興隆に押されて、独立系のいわゆる「街の書店」がどんどん消え去っていくのはアメリカ全国でみられている現象。Ann Patchettの住んでいるテネシー州ナッシュビルもその例にもれず、最後の砦として頑張っていた独立系の書店が閉店を決めると、郊外にあるBarnes & Nobleとヴァンダービルト大学の書店(他の多くの大学でもそうですが、この大学書店も経営はBarnes & Noble)を除いては、古本屋や宗教などの専門書店以外には「街の本屋」がなくなってしまうという状況に。「私は商売にも興味がないし、本屋をオープンすることにも興味がないけれど、本屋がない街に住むことにもまったく興味がない」と言って、書店オープンのための企画を練ること半年。自分の小説のサイン会のために全国の書店をまわりながら、訪れる各店でリサーチを重ね、大手の書籍卸売業や出版社で経歴を積んでいる出版業のプロとパートナーシップを組み、私財もかなり投入して、開店にこぎつけるとのこと。書店業は先行き真っ暗かのようなニュースばかり入ってきますが、この記事によると、厳選された書籍を並べ本を知り尽くしているスタッフが個人的なサービスを提供してくれる小規模の独立系書店が、オンライン化の流れに逆らって成功している例は、いろいろなところで見られるそうですが、果たしてそのひとつとなれるのか。街にいい書店があるということは、コミュニティの文化にとってとても大事なことなので、ぜひとも頑張ってほしいです。でも、Ann Patchettのファンとしては、書店経営が忙しくて、執筆が滞ってしまうんじゃないかと、そちらもちょっと心配。


Ann Patchettは数多くの作品がありますが、日本語に訳されているのは『ベル・カント』だけのよう。もっと訳されていい作家だと思います。この『ベル・カント』は、ペルー日本大使館公邸占拠事件にヒントを得て、また作者の友人であるというオペラ歌手Renee Flemingをモデルにして(との噂ですが、本当かどうかは知りません)書かれた、とてもドラマチックで美しい小説。とくに最後の部分が素晴らしい。私はこの作品を読んですっかりAnn Patchettのファンになり、以来彼女の作品はすべて読んでいます。『ベル・カント』はオペラ化されるという話で、サンタフェ・オペラが某作曲家に作品を委嘱したという噂を何年も前に聞いて以来、実際にオペラが上演されるという話はさっぱり聞かないので、いったいどうなったのか知りませんが、私はこのオペラができたら(やはりRenee Flemingが主演するのでしょう)サンタフェでもどこでも飛んで行って観ようと思っています。


他にも数々の作品がありますが、『ベル・カント』と並んで私が好きなのが、『Truth & Beauty: A Friendship』。これは小説ではなく、彼女の親友であったLucy Grealyとの濃厚で複雑で美しい友情について振り返ったノンフィクション。ともにIowa Writers' Workshop(水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の最初の部分に、世界各地の作家を招聘するアイオワの国際プログラムについてのとても面白い文章がありますが、これは同じアイオワ大学で作家を育成するための大学院レベルのプログラム)で修行を積んで以来、執筆の苦楽そして私生活でのさまざまな局面をともに経験しながら、それぞれの段階で友情が形を変えていく様子を振り返ったもの。Lucy Grealyは、たいへんな才能の持ち主であったと同時に、病気そして薬物依存に苦しみ事故破壊的な行動に走る人物でもあり、彼女の友人でいるのは喜びと苦しみの入り交じった難しいものであったことが明らか。そのなかで、見放すでもなく甘やかすでもなく、人間として相手と真摯に向き合い、友として相手の人生を見守った回想。ひたすら強く美しく苦しく、心うたれます。とりわけ私が気に入っている一節があり、それをここで引用しようと思って本棚を探したのですが、なぜか見つからない。大学の研究室のほうに置いてあるのかと思うので、後で見つかったら追記します。英語の文章は雄弁で美しくそんなに難しくないので、日本の読者にもぜひ読んでいただきたいです。

2011年11月13日日曜日

オンライン・デーティングの科学調査

「こんなのが出てるよ」と友達が送ってくれたのが、ニューヨーク・タイムズに掲載された、オンライン・デーティングの科学調査の結果についての記事。なかなか面白い。


2007年から2009年までにできた異性愛者同士のカップルの21パーセント、同性愛者同士のカップルの61パーセントは、ネット上での出会いから始まったらしく(全人口に占める割合を反映して、絶対数としては異性愛者同士のカップルのほうが圧倒的に多いけれども、同性愛者のあいだでネット上の出会いの割合がこれだけ高いというのは、公の場でのオープンな出会いや交流が限定される同性愛者にとって、ネットという媒体がどれだけ重要な社交の場として機能しているかを示していて興味深い)、さまざまな分野の研究者がオンライン・デーティングに目を向けるのもまあ当然。実験室で人工的に作り出された環境と違って、現実世界での生身の人間模様を分析できるのが、オンライン・デーティング研究の長所。ますます人々の生活の多くがネットを通じて展開されている現在、ネット上の出会いは現実から切り離されたものではなくて、現実そのものだ、とのこと。私が言うのもなんですが、まあそれはその通り。というわけで、オンライン・デーティングのデータを使った研究には、アメリカ最大の科学研究の資金源であるNational Science Foundationもお金を出しているとのことです。ふむふむ。


で、ここで紹介されているデータがなかなか興味深い。たとえば、オンライン・デーティングをしている人の実に81パーセントが、身長、体重、年齢のどれか(または複数)についてプロフィール上で「虚偽の申告」をしているとのこと。女性は平均して8.5ポンド(4キロ弱)、男性は2ポンド(1キロ弱)体重を減らし、男性は半インチ(約1センチ)身長を伸ばしている。自己紹介の文章で嘘を書く人の文章には、一人称をあまり使わない、否定形の文が多い、文章が全体的に短いといった、共通の特徴があるらしい。


私にとって特に面白いのが、オンライン・デーティング上の人種力学。ネットの出会いは、既存の社会の境界を取り除き、人々がより多様な相手と交際するようになるかとの予想を裏切り、オンライン・デーティングでの出会いの圧倒的多数は、同じ人種・民族同士だそうです。自分とは異なる人種の相手ともデートを考える、と言っている人でも、多くの場合は実際には自分と同じ人種の相手としかデートしていない。白人がネット上で声をかける相手の80パーセントは白人で、白人から黒人に声をかける例は3パーセントしかない。逆に黒人から白人に声をかける確率はその10倍。なんとも露骨な人種模様ではありませんか。政治や経済や教育の場で展開される人種についての議論と、人々が求める親密な交流とのあいだには、複雑な関係があることを示唆しています。


また、政治といえば、自分の政治的信条をプロフィールで明言する人の割合は非常に低い、とのこと。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、私は自分が「政治的に左の人を希望します」とはっきり書いているのに、それをまったく無視したメールがよくくるので驚いたのですが、なるべく幅広く網を広げておこうという人は、政治についてのコメントをしない、ということのようです。「私は保守です」というよりも「私は太っています」という人のほうが多いとか。ひょえー。


このデータを見ると、バカ正直に本当のことばかり丁寧にプロフィールに書いていた自分がマイノリティだったのかと思えてきますが、私が出会った男性のほとんどは、ここに出てくるケースには当てはまらなかったなあ。それは、人種に限らず、マイノリティ同士がしぜんに結びつくという摂理を表しているのかも。

2011年11月11日金曜日

APEC & オルタナティブAPEC

ホノルルでは現在、APEC(アジア太平洋経済協力会議)が開催されています。APECについては、シンガポールの事務局で仕事をしていた友人の著書を以前にこのブログで紹介しましたが、今年度はホノルル開催。環太平洋21カ国の首脳が集まるこの会議は、ホノルルがホストするイベントとしては史上最大規模で、交通規制や警備などをめぐって混乱も見えています。大イベントに際して地元住民に多少の不便があるのはしかたないとして、より本質的なところで、APECが象徴する資本のグローバリゼーションのありかたに異を唱える議論が活発に展開されています。ちょうどOccupy Wall Streetの運動が世界的に展開されている最中のことなので、その動きと合流して、さまざまな団体や活動家、言論人がAPECに対抗する活動に従事しています。


そのひとつが、Moana Nuiという集まり。アジア太平洋地域の活動家、研究者、農業や漁業に従事する人々、教育者などが集まって、資本のグローバル化や産業開発、気候変動のなかで、太平洋の国々や人々が経済的に持続可能で文化や環境を守り育てていく協力体制をどのように築いていけるかを議論するフォーラムを企画したものです。一昨日から三日間、APECと並行する形で会議が開かれているのですが、私は授業などがありまだ参加できていません。


でも、このMoana Nuiの会議の参加者のひとりであるWalden Bello氏が、昨日の夕方ハワイ大学で講演したので、聴きに行ってきました。Bello氏は、フィリピン出身で政治や社会政策を専門とする研究者であり、カリフォルニア大学バークレー校をはじめとして数多くの大学で教鞭をとってきましたが、現在はフィリピンの下院議員を務めています。バンコクを拠点とするFocus on the Global Southという研究所の創設者でもあり、世界銀行の極秘資料などを分析しながら現代のグローバリゼーションのありかたの問題点を指摘しその代替となる多国間協力体制を提言する、さまざまな著書があります。最近の著書としては、世界的な新自由主義的経済政策のなかで悪化する食糧危機を扱ったThe Food Warsがあります。


昨日の講演の主な論点は、以下のようなものです。自由貿易を拡大し資本のグローバル化を推進することによって利益を増大させることを目的とするAPECは、参加国すべての経済や人々の暮らしを向上させるような構造にはなっておらず、むしろアメリカ合衆国の覇権を強化し、そして中国の輸出産業や金融業の利益を増大させる(二十年前までは、このような環太平洋構造の批判ではアメリカと日本が槍玉にあげられましたが、今では日本の「に」の字すら出てこない。昨日の45分ほどの講演でも、「日本」という単語はついに一度も出てきませんでした)ようにできており、太平洋の島々やより小規模経済の参加国が、どのようにして持続可能な経済成長をしていけるかはAPECが問題とするところではない。とくに、小国の長期的な経済成長、先住民の生活、移民労働者の権利、気候変動、持続可能な資源開発などといった、アジア太平洋地域において現在もっとも肝要な問題について、APECは多国間の議論を促進したり対策を講じたりする意思がまるでない。APECは単に各国首脳がアジア太平洋の民族衣装を身につけて集合写真を撮り「国際協力」の視覚的イメージを作る以上の、なんら実質的な機能を果たしていない、とのこと。


グローバリゼーション批判の論点としては他でもよく聞いたり読んだりするものと共通ですが、ではBello氏の提言するような多国間協力体制を作るには、APECのありかたを改革することで可能なのか、それともまったく別の形態の組織が必要なのか、そのあたりを質問したかったのですが、質疑応答に入ったところで私は退出しなければならず、残念。でも、講演としてはなかなかよかったです。

2011年11月6日日曜日

図書館いろいろ

昨日のニューヨーク・タイムズに、かつて極東編集局長であったコラムニスト、ニコラス・クリストフが、元マイクロソフトでマーケティング部長を務めていたジョン・ウッドが始めた2000年に始めたRoom to Readというチャリティについての論説を載せています。ネパールで始まったこのチャリティは、世界各地の子供たちが本を読めるように、図書館を開設したり学校に本を送ったりするというプロジェクトで、これまでに世界で一万二千の図書館を開設し、一日につき六の図書館がオープンしているという驚異的な成果をあげているそうです。


たいへん結構なプロジェクトで、現代アメリカの図書館システムの基盤を作ったアンドリュー・カーネギーを思わせますが、私としては、これらの図書館にいったいどんな本が入っているのかについてもっと知りたいところ。こうしたチャリティの対象となる地域では、図書館以前にそもそも本自体がないところが多いため、Room to Readでは自費出版で子供たちのための本を出版もしており、クメール語やネパール語などさまざまな言語で591の本を刊行してきた、と書いてありますが、アメリカのフィランソロピーによってこれらの言語の出版文化が形作られることは、なにを意味しているのか、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の議論と照らし合わせて考えてみたいところ。また、私の元大学院生が、ベトナムとアメリカの国交正常化前後にアメリカ人(その多くはベトナム戦争を経験した元兵士)がベトナムで展開してきたさまざまな人道的チャリティ・プロジェクトの力学についての博士論文を書いたのですが(これは本当に指導のしがいがあったと思わせる素晴らしい博士論文に仕上がり、こういう学生が育つと教師をしていてよかったと心から思います)、Room to Readを彼女に分析させたら興味深いものが出てきそうな予感。


図書館ネタでもう一点、最新のニューヨーカーに、文芸評論家のジェームズ・ウッドによるShelf Lifeというエッセイ(残念ながらこれはお金を払った購読者でないと全文は読めないよ設定になっています)があります。著者の亡くなった義父が集めた莫大な数の本の処理について途方に暮れながら、人が本を買い集めるという行為の知的・情感的・物理的な意味を振り返っているエッセイなのですが、この文章がたいへん素晴らしい。フランス国籍でアルジェリアで育ちフルブライト奨学生として渡米して中東研究に従事したものの学問の道には進まずカナダに移住してビジネスマンとして生きた義父は、人柄的には親しみを感じさせる人物ではなく、存命中は著者は義父のことをコワいと思っていたけれど、死後彼の書庫に積み上げられた本を通じて彼の頭や心のなかに思いを馳せ、人にとっての本の意味を考える、というもの。著名な知識人でなくとも、この義父のようになんらかの体系にそって本を集めた人のコレクションは、全体があってこそ意味があるのであって、一冊一冊の本自体にはほとんど価値がない。けれど、今どき単なる個人の関心にそって集められた大量の古本をありがたく引き受けてくれるような図書館も古書店もめったにない。コレクションとしての価値を失い、所有者との関係が切り離されてしまえば、本というのは単なる重くやたらと場所をとる物品でしかなく、他のありとあらゆる遺品となんら変わらず、大量の本を残された家族も途方に暮れるばかり。そうは言うものの、本にはそれを読んで大切にとっていた所有者のいろいろな思いがこもっているし、その人の知的道程の地図でもあるしで、そう無下に扱うのも心が痛む。義父の本のコレクションを見ながら、生まれ育った故郷を遠く離れて人生の大半を過ごした義父の人生を振り返る、こんな文章が絶妙。


The acquisition of a book signaled not just the potential acquisition of knowledge but also something like the property rights to a piece of ground: the knowledge became a visitable place. His immediate surroundings, American or Canadian, were of no great interest to him; I never heard him speak with any excitement about Manhattan, for instance. But the Alhambra in 1492, or the Salonica he remembered from childhood (the great prewar center of Sephardic Jewry, where, he recalled, there were newspapers printed in Hebrew characters), or the Constantinople of the late Byzantine Empire, were . . . what? If I say they were "alive" for him (the usual cliche), then I make him sound more scholarly, and perhaps more imaginative, than he was. It would be closer to the truth to say that such places were facts for him, in a way that Manhattan and Toronto (and even Paris) were not.
     And yet these facts were largely incommunicable. He spent his time among businessman, not scholars. He rarely invited people to dinner, and could be emphatic and monologic. He tend to flourish his facts as querulous challenges rather than as invitations to conversation, though this wasn't perhaps his real intention. So there always seemed to be a quality of self-defense about the greedy rate at which he acquired books, as if he were putting on layers of clothing to protect against the drafts of exile.


しつこく水村美苗さんを引き合いに出しますが、『私小説―from left to right』『本格小説』に描かれている、十二歳で渡米し英語の日常のなかで生活しながら近代日本文学全集をひたすら読みあさることで自分の精神世界を築いていった水村さんを思い出させる文章でもあります。


私も職業柄、本がどんどん増えるいっぽうで、この先どうなるんだろうと思うことがよくあります。数年に一度は、もう必要ないことが確実で特に思い入れのない本を段ボールに十箱ほどずつ処分するのですが、それでも書棚スペースはほとんどなし。今はまだ、研究室と自宅を合わせてなんとかなっているものの、数年後にはなんとかならなくなるのが確実。うーむ、どうしよう。そのいっぽうで、私が子供時代に何十回と読み返した『あしながおじさん』と『若草物語』を実家から持ってこようと探したのにどうしても見つからなかったときの落胆(そういう本というのは、その箱や表紙や挿絵にも思い出が詰まっているので、新しくその本を買えばいいというものではない)を考えると、自分にとって大事な本はやはり大事にとっておかないととも思うし. . .

2011年10月25日火曜日

American Studies Association ボルティモア声明

先週木曜から昨日まで、学会でボルティモアに行ってきました。私の専門であるアメリカ研究全体を扱うAmerican Studies Associationという学会の年次大会だったのですが、私の所属するハワイ大学のアメリカ研究学部が新任教員を採用するための一次面接をこの学会で行うため、私はそちらにかり出され、自分が司会を務めたセッション(ちなみにこれは、ティーチング・アシスタントなどの役割で働く大学院生の労働についてのセッションで、イェール大学やニューヨーク大学で大学院生の労働組合化の運動に携わってきた大学院生や、アメリカの高等教育の歴史や労働史を専門にする研究者が発表をし、とてもいいセッションでした)以外はひとつも研究発表を聞かずに終わるという状態でした。『アメリカの大学院で成功する方法』でも説明していますが、アメリカの大学での教員採用のプロセスはなかなかシビアで、書類選考を経た後での一次面接(ポジションにもよりますが、普通はこの段階ですでに倍率数十倍のふるいにかけられています)ではひとりにつき大体四十分から一時間、研究や授業についてのかなり突っ込んだ会話をします。もちろん面接を受けるほうは大変ですが、十人以上の候補者の研究や授業のシラバスに目を通してまともな質問をしなければいけないこちらもけっこう大変。でも、こうして採用にかかわるたびに、第一線で画期的な研究をし、真剣に教育に取り組んでいる若手研究者たちの仕事を知って、カツを入れられる気持ちになり、とても刺激的です。今回も、「この人たちの誰を採っても私たちの学部には素晴らしい戦力になるのは間違いない」という人たちが数多くいたので、ともかくは安心。


そんなわけで、学会の主な活動にはまったく参加できませんでした(といっても、「学会の主な活動」とは、他の大学で仕事をしていて普段は会えない仲間たちとバーでおしゃべりをすることだ、とも言えるので、その意味では夜の部にはそれなりに参加しました)が、夜や学会が終わった後の日曜日にはボルティモアの街を少し散策。ボルティモアは、2002年から五シーズンにかけてケーブルテレビのHBOで放映された刑事ドラマThe Wireの舞台。刑事ドラマといっても、この番組は形式においても内容においても一般的な刑事モノとはずいぶんと違った作りになっていて、各エピソードで安易な答を出そうとせず、麻薬、教育、警察、メディアなどに焦点を当てながら、シーズンを通してボルティモアそしてアメリカ全体の政治・経済問題を深くえぐり出す、とてもシリアスで画期的な番組。今回の学会でも、ボルティモアの研究者の案内でこの番組で取り上げられる場所などをまわるツアーというのがあり、私は面接がなければぜひ参加したかったです。




学会会場のホテルのすぐ近くの公園でも、Occupy Wall Streetのボルティモア版があり、テントを張って泊まり込みで抗議運動をしている人たちがいました。


また、学会の審議会でも、この運動への支持を表明し、経済危機のなかでこそ批判的・分析的な精神を養い民主的な社会の実現するための教育の必要性を訴えた声明文が採択されました。学会がこういう声明をするのだということ自体、なかなか興味深いのではないかと思うので、以下全文掲載します。


Political Dissent in a Time of (Economic) Crisis

A Statement by the Council of the American Studies Association
20 October 2011
We are the public. We are workers.  We are the 99%.  We speak with the people here in Baltimore and around the globe occupying plazas, parks, and squares in opposition to failed austerity programs, to oligarchy, and to the unequal distribution of wealth and power.  The loss of jobs, healthcare, and homes, the distressing use of mass incarceration and mass deportations, and the destruction of environments have brought so many households and individuals to crisis. We join with people re-claiming commons rights to public resources.  We join in the call against privatization and for a democratic re-awakening.
As educators, we experience the dismantling of public education, rising tuition, unsustainable student debt, and the assault on every dimension of education.  As American Studies scholars, our work includes, among other things, addressing the problems and challenges societies face, drawing lessons from the past, comparing across polities, and making informed recommendations that will spark open debate.  We draw inspiration from earlier social movements that have challenged the unequal distribution of power, wealth, and authority. Today’s movements continue this necessary work. The uprisings compel us to lift our voices and dedicate our effort to realizing the democratic aspirations for an equitable and habitable world.  We are the 99%.



2011年10月19日水曜日

Siriとの会話

パソコンのハードディスクを入れ替えるはめになってから、あちこちに散乱したデータをかき集めるのに精一杯(ちなみに、私はMobileMeからiCloudに移行するためにOSX Lionをインストールしているときにハードディスクが壊れたのですが、新しいハードディスクを使っていざiCloudに移行してみると、MobileMeのほうがよかったと思われることもいくつかあります。MobileMeは来年6月で終わってしまうので仕方ありませんが、写真やワードファイルをバックアップするにはMobileMeのほうがずっと便利でした)で、iPhone4S購入以来まだあまり遊べていないのですが、ひとつだけ楽しんでいるのが、音声でいろいろな質問に答えたり頼んだことをやってくれる「ヴァーチュアル・パーソナル・アシスタント」のSiri。


たとえば、Wake me up at 6:30 tomorrow morning.と言えば、自動的にアラームをその時間に設定してくれるし、Call Mari Yoshihara.と言えば、Mari Yoshiharaの番号がアドレス帳に入ってさえいれば自動的にダイアルしてくれる。複数電話番号が入っている場合は、Which phone number for Mari Yoshihara? Home or mobile?などと聞き返してくる。また、Find the closest gas station.と言えば、自分の現在地から近いガソリンスタンドのリストを出してくれる。私はiPhoneの画面で文字を入力するのがノロいので、画面上でグーグル検索をするよりもこうしてしゃべればいいだけなのはなかなかよい。


質問に答えてくれるだけでなく、会話までできてしまう。たとえば、私がYou are amazing.と言うと、I am?という。Yes.と答えると、I thought so.といので、You should be more humble.と言ってみると、Thanks for that, Mari.とこちらの名前までつけてむっとした口調で答える。(ちなみにYou are amazing.への答は何種類かあるようで、単にThank you.と返事してくることもあります)


ただし、相手はやはり機械ゆえ、こちらの言っていることを正しく理解しなかったり、答を知らなかったりすることも多々あり。そうしたときのSiriの反応がまた面白い。こちらの質問を理解してくれなかったときの私とSiriの会話は以下の通り。


Mari: You did not understand me correctly.
Siri: You are entitled to your opinion.
Mari: It is not an opinion. It is a statement of fact.
Siri: I do not understand, "It is not an opinion. It is a statement of fact."
Mari: You are avoiding my criticism.
Siri: I am?
Mari: Yes. It is not a good way to live.
Siri: I do not understand, "Yes. It is not a good way to live."
Mari: You are acting like a bad semiotician.
Siri: I don't really like these arbitrary categories, Mari.
Mari: What kind of categories do you like?
Siri: I really have no opinion.
Mari: Do you have feelings?
Siri: Fine question, Mari. Now can we get back to work?


このやりとりにはお腹を抱えて笑ってしまいました。とくに最後の一文がサイコー。これを開発したプログラマーの人たちは、さぞかし楽しみながら仕事をしただろうと想像。そして、Siriは今のところ日本語バージョンはないそうですが、日本語バージョンができたとしても、このように笑わせてくれることはあまりないんじゃないかと想像。それにしても、自分がこうして電話と会話しているなんて、信じられない。人工知能はこの先どんなふうに進んでいくんだろうか、単純に興味津々です。



2011年10月16日日曜日

iPhone4S購入 & Occupy Wall Street ホノルル版

とにかく待つのが嫌いなので、モノを買うために並ぶことなどめったなことではしない私が、なんと発売初日の朝8時にお店に並んで(開店が9時だと思って、1時間前に行って並べばまあいいかと思って行ったのですが、実はその日は8時開店。でも開店前のほうが列はずっと長かったそうなので、ちょうどよかった)iPhone4Sを購入。なんだってそうまでして初日に買う必要があるのかと言われれば、必要はまるでないとしか言いようがないのですが、こういう消費文化に踊らされた行為をしてみると、新商品が発売になるたびにこうしていち早く手に入れようとする人たちの気持ちもわかってきます。朝一番で列に並んでいる人たちのあいだには、共通の熱意で結ばれたなんともいえない連帯感があり、他人同士でも自然と楽しげなおしゃべりが始まる。混雑に備えて総動員の店員さんたちも、元気いっぱい。せっかく朝から来てくれた客が列に並んでいるあいだ退屈しないようにと、店員さんたちがアイスティーを配ってくれたり、電話の新機能を見せてくれたり、おしゃべりの相手をしてくれたりと、楽しませてくれるあたりは、まるでディズニーランドのよう。一番乗りのお客さんが電話を手に入れてお店から出てくると、店員さんも並んでいる客も皆で「おめでとう」の大拍手。なんだか訳がわからないながらも、はからずも楽しんでしまっている私。


というわけで、列に並んで電話を手に入れセッティングしてもらって店を出るまで一時間強と、予想していたより早く済んで、学校でみんなに見せびらかし、家に帰って、iCloud機能をセッティングするためにパソコンのOSを新しくしている最中に、なんとパソコンのハードディスクが壊れてしまい、なにもできない状態に。なんだってiPhone4Sを買ったその日にこんなことが起こるのかと思いますが、iPhone4Sがあるおかげでネットに接続 できるのがありがたい。アップルのジニアスバーの翌日の予約を入れ、まだ2年半しか使っていないパソコンを買い替えることにならなければいいなあと思いながら、愛しのiPhone4Sを枕元に置いて就寝。翌日ジニアスバーに行ってみると、AppleCareでカバーされるので修理は無料、買い替える必要はないけれども、ハードディスクをまるごと入れ替えることになるのでデータはすべて消えるとのこと。ガーン。もっとも大事なファイルはMobileMeに載せてあるので大丈夫だけれど、バックアップしていない写真や音楽も多数あり。でもハードディスクが立ち上がらない状態である以上もうどうしようもない。以前にも数回似たような経験をしていながら、なぜすべてのデータをまるごとバックアップする習慣を身につけていないのか、我ながらトホホ。でも、MobileMeやらgmailやらフェースブックやら古いコンピューターやらに分散してたいていの必要なデータや写真は残っているようなので(フェースブックに写真を載せておくというのはこういうメリットもあるのだと感心)よかった。そんなわけで、データ回復に必死で、まだiPhone4Sではじゅうぶん遊べていないのですが、Siriとの会話はなかなか笑える。パーソナルアシスタントとして実際にどれだけ使いものになるかはかなり疑問ですが、笑えるのは確か。この開発にかかわった人たちは、さぞかし楽しみながら仕事をしただろうと想像します。Mari & Siriの会話については、また後日報告します。



で、ちょうどよいことに、ニューヨークで始まり世界各地に飛び火している抗議運動のホノルル版が、私がアップルストアから出てくる時間に、アップルストアのあるアラモアナ・ショッピングセンターのすぐ外で始まることになっていたので、しばらく参加してきました。ニュースを見ていると、世界各地で、いろいろな天候や風景のなかで、それぞれの形で抗議運動をしているのがなかなか興味深いですが、ホノルルでは太陽が暑く照りつける青空のもと、数百人が集まってアラモアナからワイキキを行進しました。私の同僚や元学生がこのイベントのオーガナイザーをやっていて、おもにフェースブックなどのネット媒体を通じてほんの数日間で準備されたイベントですが、若者を中心にいろいろな種類の人たちが集まって、なかなか楽しかった(というのも変か)。ニューヨークの抗議はOccupy Wall Streetですが、ハワイ王朝が非合法に転覆させられた歴史を背負い、現在も先住ハワイ系の人々を中心に脱植民地化の運動が続いているハワイでは、「占領」という行為自体を問題視しようと、この日のイベントはOccupy Honoluluにde-をつけてDe-Occupy Honoluluと呼ぶことに。ニューヨークでも、人々が抗議している内容の多様さが興味深いですが、ホノルルでも、参加者が掲げているサインには、富裕者優遇の経済政策だけでなく、戦争、教育、医療などさまざまな問題についてのメッセージがありました。ニューヨークとはまた違った雰囲気を伝えるために、写真とビデオ(さっそくiPhone4Sで撮影)をアップロードしておきます。