2008年12月31日水曜日

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。と言っても、ハワイではまだ2008年が5時間近く残っているのですが、日本ではすでに2009年になってからまる一日近くたちますし、アメリカ東海岸でもついさっき年が明けました。2008年は、とにかく金融市場の暴落、失業率の上昇、不動産価格の下落などの経済状況で、アメリカでは将来への不安感が隠せない年となりました。それと同時に、オバマ氏当選にいたるまでの実に長かった大統領選は、これだけ暗い世の中でさえ、というか、これだけ暗い世の中だからこそ、アメリカ国民が政治家に希望と期待をかける様子が本当によくわかるプロセスでした。経済においても国際情勢においても(イスラエルのガザ攻撃に抗議するデモが、先日アメリカの多くの都市で行われ、オバマ氏が休暇を過ごしているハワイでも、ダウンタウンの連邦ビル前でデモがありました。私は参加できなかったのですが、参加した友達の話によると、ホリデーシーズンにもかかわらず、数多くの老若男女が集まってパワフルなデモだったそうです)すぐには改善しないであろう大きな課題が山積している状態でのオバマ大統領就任になるので、なんとも気の毒です。でも、選挙中に国民の多くが示した、「自分もなにかしなくちゃ」という熱意と行動力を、実際のオバマ政権中にも誘発するようなリーダーシップを、オバマ氏が示してくれることを私は期待しています。

アメリカの大晦日と元旦というのは、日本の静かな風情はまるでなく、外に出てパーティをして大騒ぎするときです。夜中パーティをして、夜12時になるとワーッと騒いでシャンペンで乾杯をして近くの人とキスをするわけです。ニューヨークのタイムズ・スクエアの状景をはじめとして、テレビの画面には、それはそれは幸せそうに騒いだりキスしたりしている人たちの姿がたくさんうつります。こうして社会の表がパーティをしているあいだに、貧しい人や病気の人や不幸な人はどうしているんだろうと、自分が貧しくも病気でも不幸でもなくてもこのときばかりは妙にもの悲しい気分になります。

ハワイでは例年、海辺であがる大花火にくわえて、一般市民がそこらへんでものすごい勢いで花火だの爆竹だのをするので、騒音も煙もただごとではありません。ぜんそくの人などは、大晦日はどこかに避難するくらいです。数年前に、名目上は事前に許可を得た人以外は花火をしてはいけない決まりになったのですが、その効果はまるで見られず、今年も、まだ7時半だというのに、すでに外は大騒ぎです。私はこれから、ワイキキにあるハレクラニ・ホテルという高級ホテルでのパーティで、ホノルル・シンフォニーが演奏するので、シンフォニーの音楽家の友達について食事とシャンペンにあやかりに行ってきます。

2009年が、世界にとって、みなさん一人一人にとって、健康と幸せなものでありますように。

2008年12月30日火曜日

Currently Separated: 不動産と離婚

健康保険のために離婚できずに"currently separated"だという人たちがいる、ということについて『新潮45』1月号で書きましたが、最近の不動産下落と住宅ローン危機が、離婚にさらに深刻なインパクトを与えている、という記事が『ニューヨーク・タイムズ』に載っています。共同名義で所有している家の価格が大幅に下落してしまったために、通常であれば離婚に際してその家の取り合いになるところが、残りのローン額よりも価値が下がってしまったその家の処分に関して長く醜い争いが続くというケースが増えているそうです。利益は出なくてもとにかく売ってしまってローン返済は二人で分担する、と合意しても、この不動産市場では家が売れず、仕方がないので法律上は離婚せず、currently separatedの状態のまま、ひとつ屋根の下別々の階に住み続けたり、あるいは一人が家を出てアパートに住んだりして、経済状態が改善するのを待っている、という人たちも少なくないようです。

私の友達にもそういうカップルが一組います。その二人は、最後まで(今でも)友好的な関係だったので弁護士を介した醜い争いにはなりませんでしたが、共同で持っていた家が売れないので、とにかく彼女が家を出てアパートを借り、ローンは彼が一人で負担するようになったものの、それまで彼女が払っていたローンのぶんはどうする、という問題が残り、一年以上currently separated状態を続けていました。最近になって、彼はその家に残り、二人で合意した額を彼が彼女に払って、そのお金を頭金の一部にして彼女が新しい家を買う、ということにまとまりました。この二人の場合は今でも友好的な仲だからよかったものの、そうでなければ、彼が彼女に払う額で相当にもめていたことでしょう。他にも、これは不動産下落以前の話ですが、大学の職員住宅(普通にアパートを借りるよりは家賃がずっと安い)に住んでいた夫婦が離婚することになり、大学職員の夫が家を出て新しいガールフレンド(やがて妻)と新居を構え、前妻はもとの家に残ったものの、彼女はその大学の職員ではないため、離婚してしまったら職員住宅は出なくてはならず、子供と一緒に住む家を探すのにてんてこまい、というケースもありました。こうした話は、結婚している夫婦や、住宅を保有しているケースばかりでのことではありません。ニューヨークのマンハッタンなどでは、賃貸でもいいアパートを手に入れるのは大変なので、一緒に住んでいた恋人同士(もちろんゲイのカップルの場合もある)が別れることになっても、代わりの住処が見つからないとか、今のアパートをどちらも手放したくないとかの理由で、カップルとしては別れながらも一緒に住み続ける、というケースもそう珍しくありません。

経済上の理由で離婚ができないとか、離婚の交渉が長引くとかいったことは、もちろん日本でもいくらでもあるでしょうが、アメリカでは、離婚率の高さと、不動産下落と住宅ローンの崩壊で、事態がいっそう深刻です。

2008年12月27日土曜日

停電の過ごしかた

クリスマス・イヴは友達の家でディナーパーティ、クリスマス当日は友達と島の北側のビーチでピクニックをしに行きました。日本と違って、クリスマスというのはこちらでは家族でゆっくり過ごす休日なので、一部のスーパーなどを除けば店もすべて閉まり、街はひっそりと静かですが、問題はクリスマスにいたるまでのショッピング・シーズン。サンクスギヴィングからクリスマスにかけては、一年のあいだで最大の売り上げがある時期なので、このシーズンの客入りは経済全体にも大きな影響があります。今年は経済危機で、正確な数字は年が明けてから出るでしょうが、例年よりずっと売り上げが低いようです。

昨日の夜は、雷が原因でオアフ島全域、一晩中停電でした。夕食を作ろうとしているときに真っ暗になってしまったので、料理もできず、することもなく、仕方ないので道向かいのマンションに住んでいる友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」)のところに行って、彼のボーイフレンドと、遊びに来ていた友達、階上に住んでいるもう一人の友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「マイク」)と一緒に過ごしました。暗闇のなかろうそくを灯しているだけなので、スナックをかじりワインを飲みながらおしゃべりをする以外にすることもありません。「こういうときに日本の子供はしりとりをするんだよ」と教えてあげて、英語でしりとりというものができるかどうか、みんなで試してみました。単語が音節で成り立っている英語でしりとりをするのはかなり難しいということがわかりました。最後のアルファベットをとるだけでは簡単すぎて面白くないので、最後の音節をとる、という方式にしたのですが、綴りをそのままにするのでは無理がありすぎるので、音が大体合っていれば綴りは違ってもよし、ということにしました。(mister-termite-mighty-teacup, seagull-gullible-blisterなど。)ワインを飲みながらだったので、どんな例があったかもう忘れてしまいましたが、うまく行ってもせいぜい10単語つながればいいほうで、どうも難しすぎるので、しばらくするとこの遊びは放棄しました。

残りの時間は、スティーヴが持っていた、David Sedarisの本からエッセイを朗読(読む人が懐中電灯をもって)したりして過ごしました。David Sedarisとは、National Public Radio(現代アメリカのキーワード (中公新書)
231-235頁参照)などで自分の生い立ちや家族、自分がやってきた奇妙な仕事やアルバイト(クリスマス・シーズンのデパートでの小人の仕事など)などについての自虐的ユーモアいっぱいのエッセイを朗読し人気を博しているユーモア作家・コメディアンです。家族や人間関係をめぐる面白可笑しい話題が多くなるホリデー・シーズンには、彼のエッセイがとりわけ面白いです。彼のエッセイ集のうち一冊は日本語になっていますが、ユーモアというのはとくに翻訳しにくいものです。彼自身の朗読を聞くと一段とその面白味が伝わる(かもしれない)ので、よかったらこちらで聞いてみてください。

2008年12月22日月曜日

日本の高校で英語の授業を英語で行うことの愚かさ

13年度からの日本の高校学習指導要領改訂案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という方針が示された、というニュースを読みました。水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で英語教育と日本語教育について真剣な提言をしているすぐそばから、水村さんが頭を抱えて嘆く姿が目に見えるような馬鹿馬鹿しい案を文科省が提示してくるのですから、「あー、こりゃあダメだ」と思わずにはいられません。

一般の日本人が、目も当てられないほど英語ができないのは、確かに憂えるべき事態です。中学高校で嫌というほど英語の勉強をさせられ、立派な大学で二年間は英語の授業をとった人たちでも、英語の新聞を読んだりテレビのニュースを見たりしてすんなり理解することができるような人は非常に限られているし、それどころか、自分の仕事の内容を簡単に英語で説明ことはもちろん、街で英語で道を聞かれて普通に答えることだってままならない、というのが平均的な日本人の大卒の英語力でしょう。英語圏で生活していると、一般の日本人がいかに英語ができないかということが日常的に認識されて、本当にいたたまれない気持ちになります。私の父親はかつてメーカー系の商社に勤めていた関係で、私も子供の頃にアメリカに住んでいたことがあり、父の仕事関係のオジサン達と接することも多かったのですが、「よく日本のオジサン達は、こんな英語力で、日本経済をここまで成長させてきたものだ。これだけ英語ができなくてもこれだけ日本の製品を世界で売ることに成功しているということは、日本の技術力がよっぽど優れたものであるに違いない」と、子供ながらに思っていたものでした。今でも、大学で言葉を使って仕事する人たちでさえ(そして、英米文学などを専門にしている人でさえ)、日本人は恥ずかしいほど英語ができないのが実態です。

あれだけみんなが英語の勉強に躍起になっていながらこの状況なのですから、日本の英語教育のありかたが根本的に間違っているのは確かです。が、「言葉は使うもので、多用すれば生徒の意識も変わる」だの「まず先生が使うのが第一歩」だのという理屈で、英語で英語の授業を行うことをその解決策にもってくるということは、まったくもって見当違いです。

確かに、言葉というものは音楽と同じように、日常的にたくさん耳にしていれば、音にも慣れるし自然に身についてくるという面はあります。英語圏で生活している子供が「自然に」英語ができるようになるのは、一歩家を出れば学校でも街でもほとんどすべてが英語という環境にいるのですから、当たり前といえば当たり前です。でも、英語を耳から慣らして自然に身につけるという方法を学校教育で行うには、小学校なり中学校なりで初めて英語を学ぶときから、月曜から土曜まで毎日最低一、二時間、きちんとした英語に触れていることが必要です。私立学校ならそうしたことも不可能ではないかもしれませんが、文科省のカリキュラムに沿って限られたリソースで英語の授業をしている公立学校で、そんなことはまず実現不能でしょう。

第一、この案を生み出した人たちは、「英語で英語を教える」ということが、いったいどういうことを意味しているのか、まるでわかっていないのが明らかです。そんなことがきちんとできる高校の英語教師は、全国で百人にも満たないのではないでしょうか。五十人いるかどうかも疑問です。英語の文章を読んで正確に理解し、自分の言いたいことを正確に作文ができるようになるために最低限必要な、基本的な英語の文法や構文を、日本語を母語とする生徒にきちんと説明するということが、日本語でもどれだけ難しいことか、そして、それを英語で行うということがどれだけ非生産的なことか、文科省の役人(なり、この案を作るのに関わった「専門家」なり)はまるでわかっていないようです。それ以前に、外国語を学ぶということがどういうことか、そのごく基本的なことが、まるでわかっていないとしか思えません。

「生きた英語」ができるようになるのを目指すのは結構なことですが、そのために、「和訳と作文偏重」の英語教育を「英会話重視」に変更するなど、愚の骨頂です。最低限の単語の意味とその正しい用法を覚え、構文と文法を理解し、それを使って作文するという作業に時間をかけずに、会話などできるようになるわけはありません。文法や作文重視が悪いのではなくて、むしろ文法や作文をじゅうぶん重視していない、また、文法や作文を教えるときの教え方が間違っているのだ、と私は思っています。構文や文法や単語や句の用法をきちんと身につけるのに一番大事なのは、パズルのように英語の「問題を解く」のではなく、基本的な文例をひたすら丸暗記することだと思います。そうして文例を覚えれば、単語だけ入れ替えればそれに類似の文をすらすらと言えるようになるのです。

ハワイ大学で私が教えている日本人の大学院生のひとりに、実に感心するくらい英語がよくできる学生がいます。読解力をとっても授業での発言をとっても論文で書く文章をとっても、実にしっかりした英語なので、私はてっきり彼女が帰国子女なのだろうと思っていたのですが、話を聞いてみるとそうではなくて、大学院でハワイに来るまではずっと日本で育って、地方の公立学校の授業で英語を勉強した、「普通の日本人」なのです。「どうしてそんなに英語ができるようになったの?」と聞いてみたところ、中学のときに少しアメリカにホームステイをしたときに、あまりにも英語がわからないのにショックを受け、英語ができるようになろうと一念発起して、自分なりの方法を考案してひたすら勉強した、ということです。その方法を聞いてみると、なんときわめて古典的な「丸暗記法」。学校の教科書や自分で買ってきた参考書をひたすら丸暗記することで、構文や単語の使い方を身につけ、リスニングや発音に関しては、教科書についている付属テープを繰り返し聞きながら、自分も同じペースで言えるようにひたすら練習した、ということです。私はこの丸暗記が、語学習得の基本かつもっとも効果的な方法だと強く思います。ただし、なぜある文がそういう構造になっているのか、理屈を理解していなければ、丸暗記しても応用ができないので、その理屈は、生徒がじゅうぶん理解できるように、丁寧に日本語で説明するべきです。

ついでになりますが、日本人は英語の発音コンプレックスがあり、なにかというとRとLの発音に執着しますが、そんなことを心配するのも間違っています。もちろん発音は「正統的」な発音に近ければ近いほど、わかってもらえる確率は高まるので、その基本はきちんと覚えるべきですが、日本人は英語の発音というときに、舌を丸めたり伸ばしたりすることにばかりやたらこだわります。でも実際は、発音がちょっとくらい違っていたって、単語の使い方と文の構造が正しければ、文脈で相手は理解してくれます。発音に関していえば、RやLを初めとする子音の発音なんかよりも、ずっとずっと重要なのは、アクセントの位置と母音の発音です。アクセントの位置と母音の発音が間違っていたら(また、母音のないところに母音を入れて発音したら)、いくらRやLやTHがきれいに言えても、絶対に通じません。

それにしても、この「英語の授業を英語で」案は、あまりにも愚策で、情けなくなります。水村さんと一緒に文科省に抗議に乗り込んで行きたい気持ちです。

2008年12月20日土曜日

映画『ミルク』

期末試験・論文の採点はあと一息で終わります。学生さんには失礼ですが、飛び抜けて優秀な一握りの答案や論文を除いては、採点というのはかなり辛い作業です。こちらは一生懸命準備していろいろ工夫して授業をしたつもりなのに、答案を見てみると、重要なポイントが多くの学生にまるで伝わっていなかったことが判明したりして、がっくりしてしまいます。でも、同じクラスのなかにも、ものすごく見事な答を書く学生も何人かはいるので、一部の学生の出来の悪さは、百パーセント教師の責任でもないだろうと思いたいです。

採点の合間に、『MILK』という映画を観てきました。アメリカでは数週間前に公開になった映画で、ハーヴィー・ミルク(Harvey Milk, 1930-1978)という、アメリカで初めて主要な公職に選挙で選ばれたゲイの政治家についての物語です。ショーン・ペンが演じるミルク氏は、ゲイのメッカとして知られるようになったサンフランシスコのカストロ地区でカメラ屋を営みながら、コミュニティ・オーガナイザー、活動家として、サンフランシスコのゲイ・コミュニティを動員していき、何度もの落選にもめげず、ついに1977年にサンフランシスコの市議会員に当選しました。翌年には同じく市議会員のダン・ホワイトに暗殺されてしまうのですが、比較的短い政治生命のなかで、同性愛者の権利を守る法律を通過させたほか、労働組合や高齢者たちとも絆をむすび、実質的にも象徴的にも非常に大きな功績を残しました。彼が暗殺された日の夜には、3万人の住民たちが自然に集まり、灯したろうそくを手にサンフランシスコの通りを行進して追悼の意を表しました。ミルク氏が活動家・政治家として誕生、そして成長していく様子を、ショーン・ペンが実に素晴らしい演技で表していますが、それと同時に、1970年代アメリカの政治史・社会史としてもとても興味深い映画です。同性愛者たちの存在が次第に社会全体に知られるようになっていき、アメリカの一部の都市では同性愛者の権利保護のための法律なども通過するなかで、それに対する反動、そしてキリスト教右派の台頭が、同性愛者の権利を奪う動きも作っていきました。そうした流れのなかで、ゲイの文化やネットワークが、重要な社会運動へと集結されていった様子が、よくわかります。ゲイの男性たちのあいだの恋愛模様や性関係、また、ゲイとして生きることの苦悩も、率直に描かれています。このブログでも何度も言及してきた、先月の選挙のカリフォルニア州のProposition 8のことや、オバマ氏の政治家としての起源がシカゴのコミュニティ・オーガナイザーとしての仕事にあったことなどを考えると、とくにいろいろなことを教えられる映画です。日本では来年ゴールデンウィークに公開になるようなので、その頃まだ覚えていたら、是非観てみてください。

2008年12月16日火曜日

アメリカ女性史 期末試験問題

今週は、ハワイ大学は期末試験週間です。今朝は、私が教えている「アメリカ女性史」の授業の期末試験がありました。アメリカ文化研究概説の大学院の授業の課題論文は、今日の夕方が締切です。ちなみに、女性史の期末試験の問題は、こんな感じです。1950年代くらいまでは中間試験でカバーしたので、今回の試験では20世紀後半が中心の問題になっています。

第一部 以下より五つの項目を選び、それぞれについて、それが何であるか説明し、歴史的背景とアメリカ女性史における意義を論じなさい。
Women's Christian Temperance Union
Frances Perkins
Reynolds v. the United States
Feminine Mystique

Equal Rights Amendment
Defense of Marriage Act

第二部 以下の両方に答えなさい。
1 フィリピンにおけるアメリカの植民地主義が、フィリピン人看護婦のアメリカへの移民のパターンをどのように形作ったか説明しなさい。

2 第二次フェミニズムの主な功績を三つ説明しなさい。

第三部 以下より一つ選んで答えなさい。
1 南北戦争後の自由黒人局、1930年代のニューディール、そして1990年代の社会福祉政策のあいだに共通していた、支配的なジェンダー観や家族観とはなんであったか説明しなさい。

2 女性参政権運動と第二次フェミニズム運動を、その起源、主なリーダー層、運動組織の方法、運動内での葛藤などの観点から比較しなさい。

3 中絶合法化にいたるまでの運動を説明しなさい。運動の契機となった歴史的背景、運動の中心となった人々、また運動の組織化の方法などを具体的に説明すること。


学生の出来はどんなものか、これから採点にとりかかります。

2008年12月13日土曜日

DatingからHooking Upへ

今日のニューヨーク・タイムズに、「デーティングの終焉(The Demise of Dating)」という論説(?)が載っています。『ドット・コム・ラヴァーズ』や『新潮45』11月号でdateという単語のややこしさを、『新潮45』12月号190頁ではhook upという表現の用法を説明しましたが、まさにそれらの表現の実例です。『新潮45』の連載は、なんて実用的なんでしょう!:)

調査によると、今のアメリカの若者(ここで引用されている調査の対象となっている「若者」は高校3年生)の多くは、もうdateなんかはせず、むしろなんのコミットメントもないカジュアルなセックスをするhook upを楽しむことが主流だとか。一昔前までの男女は、何回か「デート」を重ねてから(この用法での「デート」とは日本語と同じ名詞の「デート」)性的関係に進むかどうか決めていたのに対し、今の若者は、まず何回かhook upをしてから、その相手と「デート」に行きたいかどうか決めるんだそうです。これらの若者は、カジュアルにセックスをするからといって、誰それ構わずやたらとセックスをしまくっているかというと、そういうことではなく、むしろ彼らがセックスをする頻度は少し前の同年代の若者より低く、また、セックスをする相手はたいてい学校の友達などだとのことです。一対一の「デート」(この用法では、名詞の「デート」と動詞の「デート」の両方の意味が含まれています)にしばられるよりも、大勢の友達仲間で交際を楽しむことを今の若者は重視する。そしてそのほうが、「デート」にありつけない人が周りに馬鹿にされたりのけ者にされたりすることが少ない。とのことです。とはいっても、このhook up文化がいいことばかりかというとそんなことはもちろんなく、セックスを重ねるにつれて、女性のほうはより長期的な交際を求めるようになるのに対して、男性はよりフリーな状態を続けたいと思う傾向があり、女性のほうがhook upに飽きてしまうというケースは多いそうです。また、hook upにはアルコールが絡んでいる場合が多いので、性的暴力などの事件も少なくない、とのことです。

それとはまったく無関係ですが、ハワイの現代史においてもっとも重要な人物の一人であるといえる女性、Ah Quon McElrathが亡くなりました。享年92歳。1915年にハワイで中国移民の両親のもとに生まれた彼女は、13歳のときからパイナップル缶詰工場で働き始め、ハワイ大学で社会学と人類学を専攻しました。1930年代に、ハワイのInternational Longshore and Warehouse Union (ILWU)すなわち港湾労働組合の組織化に中心的な役割を果たし、1950年代からは組合のソーシャルワーカーとして、労働者たちに健康保険や年金などについての説明をしたり、日々の生活の手伝いをしたりという仕事をするようになりました。1950年代からのハワイでは、ILWUなどの労働組合が非常に重要な役割を果たしましたが、その運動の鍵となった人物のひとりです。1981年にILWUからは退職したものの、彼女は生涯を通して労働運動をはじめとする各種の社会運動にたいへんなエネルギーをもって参加し、ハワイの労働者や活動家たちのインスピレーションとなってきました。同時に彼女は、音楽や芸術もこよなく愛し、ホノルル・シンフォニーのコンサートには欠かさず通い、シンフォニーの労使争議や財政難にあたっては、音楽家たちのパワフルな味方として支援活動をしました。亡くなる数日前に、親しい友達が家を訪ねていったときには、芸術団体やさまざまなチャリティー団体への募金を入れた28の封筒を彼女に渡して、投函してくれるように頼んだそうです。私も、Ah Quonとは数年前に、労働組合関係の対談のようなもので会ったことがあります。年齢が半分以下の私よりずっとエネルギーがあり、見事な分析力と明晰な言葉で話をすると同時に、どんな人にも温かい優しさをもって接する人でした。彼女についての今日のホノルル・アドヴァタイザーの記事は、こちらをどうぞ。