2009年9月28日月曜日

しなかった人生の選択に思いを馳せる

ニューヨーク・タイムズの、"Happy Days"というブログに10日ほど前に掲載された、Tim Kreiderという漫画家によるユーモラスでかつとても思慮深いエッセイがあります。たいへんエレガントな美文でもあり、日本の大学の英語の授業に使ったらいいんじゃないかと思うくらいです。

内容は、つまるところは「自分がしなかった人生の選択」をした同年代の友達の生活を眺めるときの複雑な気持ちについて。著者は、42歳で、結婚したことがなく、子供はもつつもりがない男性。同年代の周りの友達はほとんどが結婚して子供をもっていて、ゆえに自分の日常生活も今後の展望も、彼らとはかけ離れたものである。数十年前に比べると、男性にとっても女性にとっても、人生で選択できることの幅は格段に広がり、結婚するか、子供をもつか、といったことの他にも、職業やライフスタイルにおいて大小たくさんの選択を意識的にせよ無意識にせよするようになってきている。そして、40歳前後になると、そうした選択の結果が、日々の生活のありかた、そしてこれからの人生のありかたに、決定的な刻印を残すようになる。若いときは日々同じような暮らしをして同じようなことを考えていた友達も、数々のそうした選択によって、自分とは似ても似つかないような生活を送るようになる。そうしたときに、ふと人の生活や人生を自分のものと見比べて、羨望の念にかられたり、「あー、自分もあのときああしていれば、今頃あの人のような暮らしができていたはずなのに」と後悔したり、あるいは逆に、「あー、自分はあんな風にならなくてよかった」と安堵したりする。「隣の芝生は青い」というように、自分にはないものをもっている(ように見える)人の暮らしを羨むのは人の常であるのと同時に、周りの人たちの選択がどんな結果をもたらしたかを鑑定して、自分の選択を正当化したり、ひそかに優越感に浸ったりするのもありがちな感情である。自分が歩まなかった人生、選ばなかった道、実現しないまま終わった可能性、そうしたものを、それらを手にした友達という形で目の前に見せつけられるのは、辛いこともある。でも、同時に複数の道を追求してみてどれが一番よかったかを比べることはできないし、自分の人生を人の人生と比べてみたところでなにも達成されない。後ろを向いて道を見失うよりも、違う道を選んだ友達の姿を横から見て、自分は直接経験できないものを、より安全なところから見るのが、私たちにできる精一杯のことだ、といった要旨。

著者とほぼ同い年で、「周りの人たちと自分の日常生活がとても違う」という共通性もあって、私にはとても含蓄のある文章です。私がこれまでにしてきた人生の選択の多くは、意識的にしたものよりも、状況やなりゆきによってそうなったものが多いのですが、どのようにしてした選択にせよ、それらがもう修正不可能な結果をもたらしているものも少なくありません。そして、人生半ばになると、これまでにしてきた生き方が、これから残りの人生を規定する部分がかなり大きく、これから先の選択肢が無限にあるわけではありません。人生のそういう地点に立ったときに、自分が勝っているか負けているかといった目で周りを見回していたら、自分がどこにいるにせよ哀しいでしょうが、自分が直接には経験できないものを周りの人たちの人生を通じて垣間みることで、自分の限られた人生を少しでも豊かにできたらいいなあと思います。まあとにかく、なかなか素敵な文章ですので是非読んでみてください。

2009年9月26日土曜日

選択的夫婦別姓実現へ

選択的夫婦別姓を認める民法改正案を政府が早ければ来年の通常国会に提出する方針を固めたとのニュース。これは素晴らしい!夫婦別姓は、私が中学生の頃からたいへんこだわりを持っていた問題で、高校生のときに、夫婦別姓問題についての集会にも出たことがあるくらいで、私のフェミニストとしての意識の発達にかなり重要なポイントとなっていました。一時期議論がけっこう盛り上がったにもかかわらず、その後とんと話題にのぼらなくなった(私が日本を離れてからはそれほど熱心にフォローもしなくなってしまったのが大きいですが)ので、もう実現しないかと悲観していましたが、こうして与党となった民主党が積極的に取り組んでくれるのは、本当にありがたいです。もちろん、自民党の抵抗はかなり強いですから、民主党がよしと言ったからといってそうすんなり通過するとは思えませんが、少なくともこの問題がメインストリームの場で議論され、与党が支持をはっきり表明するということは、国民の意識にだいぶ変化をもたらすのではないでしょうか。夫婦別姓は家族の崩壊をもたらすという議論は、まったくナンセンスだと思います。同姓でも崩壊している家族はすでにたくさん存在するし、あえて別姓を選択しながら結婚し家族生活を営もうという人は、そのぶん「結婚とはなにか」「家族とはなにか」「自分たちはなぜ結婚するのか」といったことを意識的に考えて、お互いへのコミットメントが強い人たちでしょう。アメリカではすでに選択的別姓ですから、私の周りには同姓の人も別姓の人もいますが(著述活動をする学者はやはり別姓の人が多いです)が、日本でも、別姓でいるために事実婚にしている人たちや、法的に結婚して戸籍上は同姓でも通称で別姓にしている人たちは、そうした人たちです。夫婦別姓は「行き過ぎた個人主義」の顕われである、という議論もありますが、はたして「行き過ぎた個人主義」とはいったいなんでしょうか?

ちなみに私は今学期桜美林大学で、「結婚と家族の日米比較」というテーマの授業を担当しています。(おもに留学生を対象にした、英語で行う授業です。)さまざまな理由が重なって受講生が少なく、授業というよりはチュートリアルのような形式になりそうですが、参考までに、以下その授業の内容紹介です。

Course Content

This course takes a comparative look at marriage and family in Japan and the United States. Through historical, sociological, and anthropological analysis, we will discuss the commonalities and differences in the institutions and lived experiences of marriage and family in the two countries. Topics we will cover include: changing arrangements for marriage and family, the government’s role in shaping marriage and family, rituals of marriage and family life, political discourses of “family values,” cultural ideals of marriage and family, and non-traditional marital and family relations. In addition to discussions of readings and films, we will take a field trip to a wedding hall. Students will also conduct interview and participant observation of family life with their host families.


Course Requirements

Class participation 40%
As a seminar with a heavy reading load and intensive discussion, a significant portion of the grade will be based on class participation. Regular attendance is mandatory. Students who miss five or more classes will fail the course unless they make an arrangement with the instructor to make up for the unavoidable absences. Attendance is not synonymous with participation. The class will be conducted in a discussion format, and it is assumed that when you are present, you have done the assigned readings and are ready to participate in discussion of the material. Class participation will be assessed based on: (1) the consistency and thoroughness of your preparation for each session, (2) your active participation in discussions and constructiveness of your ideas, and (3) your ability to build upon other students' ideas and to work collaboratively with others. Occasional mini-writing assignments will also be assessed as part of class participation.

Short paper 20%
Write a 5-page (i.e. approx. 1,250 word) paper analyzing one of the assigned films, discussing how “marriage” and/or “family” are portrayed in the film. Discuss the specific ideals of marriage/family that the characters subscribe to or struggle with, the sources of tension between those ideals and reality, and the ways in which the story resolves (or not) those tensions.

Final paper and presentation 40%
Over the course of the semester, you will be conducting participant observation of the family life of your host family. You will also conduct in-depth (at least two hours each) interviews with at least three of the family members (if three family members are not available for interview, we will make alternative arrangements). Based on your observation and interviews, you will write a 10-12 page (i.e. 2,500-3,000 word) paper that discusses the family relations, incorporating the ideas from the class readings and discussions. Detailed guidelines as to the ethics of research and writing will be provided. For students who do not live with a host family, an alternative assignment will be designed. In the final week, students will give a 15-minute presentation on their paper.

Required Texts

Beth Bailey, From Front Porch to Back Seat: Courtship in Twentieth-Century America
Nancy Cott, Public Vows: A History of Marriage and the Nation
Merry Isaacs White, Perfectly Japanese: Making Families in an Era of Upheaval
Gail Lee Bernstein, Isami's House: Three Centuries of a Japanese Family
Ruth L. Ozeki, My Year of Meats: A Novel


Film Viewings

Students are required to watch the following film prior to the days designated for discussion in the class schedule. Details TBA.

Sex and the City (2008)
Family Game (1983)
If These Walls Could Talk 2 (2000)
Aruitemo Aruitemo (2008)

2009年9月24日木曜日

中学生のカム・アウト

27日発行になるニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載される、Coming Out in Middle Schoolという記事の全文が、既にウェブサイトで読めます。まずは、これだけの長文記事が新聞の付録に載るということに改めて感動。私は日本に来てから、新聞や雑誌の薄っぺらさ、読みごたえのなさに本当に落胆しているので、これだけ調査と執筆に時間と労力がかかった立派な記事を読むと、「あー、調査ジャーナリズムというものはこういうものなんだった」と感動します。日本だって、個々のジャーナリストにはもちろん優秀で意識が高く立派な仕事をしている人もいますが、なにしろそうした人たちが集めたデータや分析した内容を、それなりの紙面を割いて大衆に伝える媒体がなければどうしようもないのです。今の日本の全国紙や月刊誌・週刊誌の五倍くらいの(物理的にも内容的にも)厚みがあるメディアが、二、三はあってこそ、きちんとした言論の場、そしてハバーマスのいう「公共性」が形成されるはずだと思います。

まあそれはともかく、肝心の記事の中身ですが、アメリカのいろいろな場所(それも、いわゆる「リベラル」な風土で知られている場所ではなく、この記事の舞台となっているオクラホマのようなところでも)で、ゲイやレズビアン、あるいはバイセクシュアルとしてカム・アウトする中学生が増えてきている、という話です。自分がゲイであると認識するようになるのは30代や40代になってからという人も多いなかで、高校生や大学生のときならともかく、中学生がそんなに確固とした性的アイデンティティをもつものだろうかと、自らゲイである大人(この記事の著者も含め)のあいだからも懐疑の念もあるものの、最近では12、13歳でゲイとしてのアイデンティティを確信して、家族や友達にカム・アウトする中学生が多い(彼らは平均で10歳のときに初めて自分が同性に惹かれるということに気づいた)、とのことです。一世代前と比べると、同性愛に理解やサポートのある親や教師が多く、カム・アウトはしやすくなってきているとは言っても、ただでも生理的にも情緒的にも揺れ動く年齢で、友達同士のグループが形成されて仲間はずれやいじめも発生しやすい中学校という環境で、ゲイとして堂々と生きるのは今でもとても難しい。全国120の中学校では、Gay Straight Alliance、すなわちゲイとストレートの生徒たちの団結のためのグループが結成されて、ゲイの生徒へのハラスメントなどを防ぐ活動などが行われている、とのことです。そのいっぽうで、思春期に自分がゲイやレズビアンであることに気づきながらも、家族や友達の理解を得られなかったり変態扱いされたりして、あるいはそうなるとの恐怖から、鬱病になったりアルコールや薬物依存症になったり、自殺などの自己破壊的な行動に走ったりする男女も多いのが現実です。

同性愛のことに限らず、性にまつわる話題について、親や子供ときちんと話をするのは、たいていの場合、どちらにとってもとても居心地の悪いものでしょう。私も親とそんな話をしたことはありません。でも、アメリカでも日本でも、今の世の中で子育てをするにおいて、性についてきちんとした会話をするのは、親としてもっとも大事なことのひとつなんじゃないかと思います。思春期の男女が性に好奇心をもつのは当たり前。そのことばっかり考えているような時期があっても当たり前。なんだかよくわからないけどいろいろ試してみるのも当たり前。それをちゃんと受け止めて、性や身体について健全な意識と態度をもつように、そして自分のことも性行為の相手のことも大事にしながら、いい性生活が送れる大人へと成長していくように、きちんと話をすることは、とっても重要だと思います。そして、そのなかで、世の中の人の何パーセントかは同性愛者だったりトランスジェンダーだったりトランスセクシュアルだったりするのであって、それは変なことでも間違ったことでもない、ということ、そして、自分がゲイだと気づいたり、周りにゲイの友達がいたりしたら、恐怖感や疎外感をもったりしないで、そのアイデンティティを明るく温かく受け止めるべき、ということを、きちんと伝えるべきです。そして、子供がゲイだろうがストレートだろうが、親である自分は子供を同じように愛してサポートしていく、ということを子供が親から感じれば、沢山の困難が待ち受けているそれからの人生にも、ある程度の安心感をもってのぞめるはずです。ゲイの若者たちにも頑張ってもらいたいけれど、ゲイの子供をもった親たちにも、ゲイの友達をもった若者たちにも、ゲイの人々が安心して幸せに行きて行ける環境を作るために頑張ってもらいたいです。頑張れー!

2009年9月22日火曜日

目指せ介護大国にっぽん

NHK(私が住んでいる家には、BSもなにも見られないとてーも古いアナログテレビがあるだけで、前の投稿でも書いたように民放は見事になにひとつとして見るものがないので、NHKばかり見ているのです)の「ホリデーにっぽん」で、「僕がそばにいますから・インドネシア人介護奮闘記」という番組を見ました。インドネシアからやってきて、佐賀の介護施設で働きながら、介護福祉士の資格を取ろうと勉強している若者の生活を追ったものです。番組の視点はとても温かく人間的であると同時に、日本の介護の現場の抱える問題にも冷静な目を向けた、とてもよくできた番組だと思いました。社会の高齢化とともに介護の需要がどんどん高まるなか、供給は間に合わず、看護士などの資格と経験をもった労働者をインドネシアなどの国から受け入れるという試みが日本ではなされるようになってきていますが、日本語で介護福祉士の試験に合格するというのはこうした多くの外国人にとっては至難の業で、結局はしばらく労働だけ提供して故郷に帰るというケースも多く出ています。そのいっぽうで、病んだ老人は家族で世話をするのが当たり前で介護施設など存在しない社会からやってきたこうした若者が、日本の施設で暮らす老人と一生懸命コミュニケーションを交わし、心身ともに安らぎを与えようとする、その姿には、深く心打たれるものがあります。

私も、自分の家族の事情もあって、介護の問題は本当にひとごとではなく、自分のことについても、高齢化が進むことは必至の日本の将来についても、最近とてもよく考えます。

高齢化・少子化の流れは、そう簡単には変わらないでしょうし、現代の人々の仕事や生活のありかたからして、在宅介護はしたくてもできない家族が増えるばかりでしょうから、介護施設への需要、そして介護をめぐる福祉全般への需要は、これからどんどん拡大していくはずです。もちろん、移民や外国人労働者を大量に受け入れるという歴史や文化をもっておらず、外国人と接したことがないという人も多い日本では、肌の色も言葉も文化も違う外国人に、下の世話を含むきわめてプライベートな身の回りの面倒をみてもらったり、精神的に頼ったりするようなことには、多くの人が強い抵抗を感じることでしょう。でも、そんなことを言っている場合じゃない、という現実も、多くの老人とその家族に迫ってきています。

そして、短期の遊びやビジネスでさえ海外に行くというのは相当のストレスを伴うことなのに、言葉も文化も違う遠い外国に長期間滞在して、縁もゆかりもない町で、身体も動かず認知症もある、元気に回復することのない老人の介護をしようなどという、奇特な天使のような人々が存在するのだったら、そうした人たちを積極的に受け入れるばかりでなく、手厚い報酬と教育と職業訓練の機会を提供して、その介護士にとっても経済的・職業的に有益な経験になるような環境を整えるべきだと強く思います。

介護や看護といった分野での国際的な人の移動は、今に始まったことではありません。たとえばフィリピンでは、米国植民地化の歴史を背景に、20世紀半ばから、フィリピンで教育を受けた看護婦が大量にアメリカに渡り、現在のアメリカの医療においてフィリピン人の看護婦は欠かせない存在となっています。こうした看護婦の多くは、自分の家族を故郷においたまま何年間も、ときには十年以上もアメリカで暮らし、仕送りを続けています。先進国の収入と生活を手に入れるいっぽうで、搾取や差別を経験する看護婦も多く、労働争議も少なくありません。こうした歴史を考えれば、外国から介護士を受け入れれば介護の問題が解決するなどと単純には決して考えられません。(ちなみに、アメリカに渡ったフィリピン人看護婦の歴史については、『Empire of Care』というとても優れた研究書があります。)

ただ、日本における介護への需要拡大、そして世界における経済的不均衡が少なくとも数十年間は続くという現実があるのですから、だったらいっそのこと、介護のニーズという状況を、「対処しなければいけない問題」としてでなく、より肯定的にとらえて、日本は「介護大国」を目指せばいいのではないかと思います。身体的にも精神的にも弱っていく人々が、尊厳と人間性をもって人生の最後を送ることができるような介護のありかたを徹底的に追求し、家族があたたかくそれを見守ることができるような福祉制度を整備する。それを国の最優先事項のひとつにして、政府も民間も介護の実践や研究に大量の投資をする。国内においても介護にかかわる人々を育てることに投資をする。希望者がいれば外国からも積極的に介護士を受け入れ、資格取得への援助を最大限にし、資格取得後も教育やトレーニングをふんだんに提供して、本人が帰国を希望すれば最前線の介護を故郷に持ち帰ることができるようにする。介護される側にとっても、する側にとっても、介護される人の家族にとっても、人間的で温かい社会だということで世界から注目されるような「介護大国」を目指すことは、国の考え方次第では不可能ではないと思いますが、どうでしょうか。

2009年9月20日日曜日

アメリカ男女の「幸せ」度

今日のニューヨーク・タイムズの記事のなかで読者がもっともたくさん友達などにメールしている記事が、辛口批評で有名なMaureen Dowdによる論説。1972年からアメリカ人の「気分」を追って来た調査によると、1970年代から、アメリカの女性の「幸せ」度は低下してきているのに対して、男性は「幸せ」度が増している、とのデータが出ているそうです。社会階層や子供の有無、民族などにかかわらず(唯一アフリカ系アメリカ人の女性だけは、1972年と比べると今のほうがやや「幸せ」であるものの、アフリカ系アメリカ人の男性と比べるとやはり「幸せ」度が低いそうです)、女性は年齢を重ねるにつれて幸せでなくなるそうです。この説明としては、フェミニズム運動の成果によって、女性は仕事においてより多くの選択肢を手に入れ、エネルギーを注ぎ込む対象も増えたいっぽうで、家事の負担は依然として男性よりも女性のほうが大きく、女性は家庭と仕事の両方においてスーパーウーマンであることを、自分にも周りにも期待される。生活を構成する要素が増えれば増えるほど、それぞれにかけられるエネルギーは減少し、本人の満足度も低下する。また、ホルモンの変化を含む女性の身体の現実もあるいっぽうで、アメリカ文化は若々しい身体美をますます強調するようになり、整形手術などの手段を使ってまで若さを保とうとする女性も増えている。もともと女性は男性にくらべて自分に厳しいことが多いので、期待と選択が増えれば増えるほど、それらを実現しきれない女性は不満度が高まる。それに比べて、男性は、経済的余裕に平行して幸せ度が高まり、また、女性が仕事をするようになって、男性は自分がひとりで家計を支えなければいけないというプレッシャーからも解放されてきている。恋愛においても男性はトシをとってもいろいろと可能性があるのに対して、中高年の女性に世間は厳しい。

「幸せ」かどうかよりも、選択肢があるかどうかのほうが、人間にとっては大事で、仮にそれらの選択肢が結果的に女性を不幸にするとしても、選択肢がないよりは幸せだ、という見方もありますが、とても暗い気分にさせられるデータです。

このデータは、アメリカに限らず、世界のいろいろな国で似たような現象が見られるらしいのですが、私のまったく非科学的な、まったくの個人的な印象によると、これは日本にはあてはまらないように思うのですが、どうでしょうか。世代による差異もあるでしょうが、中高年の日本人を見ていると、男性のほうが女性よりずっと幸せ、という風には見えませんが、どう思いますか?もちろん、「幸せ」観というのはそれぞれの文化に特有のもので、そもそも日本では「幸せである」ということにアメリカほどこだわらないような気もします。

2009年9月17日木曜日

アラン・ギルバート、NYフィル音楽監督デビュー

指揮者のアラン・ギルバート氏が、ローリン・マゼール氏の後任としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督としてのポジションに就き、2009−2010年のコンサート・シーズンの幕開けとともにデビューしました。新曲を含む意欲的な演目のコンサートの評がニューヨーク・タイムズに載っています。アラン・ギルバート氏は、現在42歳。両親ともにニューヨーク交響楽団のヴァイオリニストで(父親は既に引退)、母親はアメリカで活躍する日本人音楽家のパイオニアの一人である建部洋子さんです。私は直接インタビューはしなかったのでちらっと言及しているだけですが、『Musicians from a Different Shore』にも出てきます。ニューヨーク・フィルは、アメリカでもっとも歴史と伝統のある交響楽団であり、バーンスタイン監督のもとでは華麗な演奏や『ヤング・ピープルズ・コンサート』などさまざまな画期的な企画を通じてアメリカのクラシック音楽界をリードしたものの、近年では伝統にとらわれすぎて演奏やプログラミングに面白味が欠けるなどとといった批判もありました。また、これまで常任指揮者・音楽監督のポジションに就いてきたのはほとんどがヨーロッパ出身の音楽家でした。そういったなかで、ギルバート氏のような、アメリカ生まれの若手の指揮者がニューヨーク・フィルの音楽監督のポジションにつき、現代曲を含む新しい時代の音楽を創造していくということには、なかなか画期的な意味があると思います。ニューヨーク・フィルは、昨年の北朝鮮での公演に続いて、今秋はキューバで初公演をすることになっています。最近のアメリカのクラシック音楽界では、ロスアンジェルス・フィルハーモニー(これについては『現代アメリカのキーワード 』になかなかいいエントリーがありますので参照してください)がエサ=ペッカ・サロネン氏の後任としてベネズエラ出身のなんと1981年生まれのグスターヴォ・デュダメル氏を音楽監督に任命したことがたいへん話題になりました。ロスアンジェルス・フィルは、いろいろな意味でとても斬新なことをやっていて、おもに映画などのポップ・カルチャーの中心地として考えられているロスの芸術活動に新しいエネルギーを注いでいるのですが、ニューヨーク・フィルやロスアンジェルス・フィルが音楽監督の座をこれらの若者に委ねるというあたりに、アメリカという社会の前向きな姿勢とエネルギーを感じさせられます。

2009年9月16日水曜日

鳩山政権発足

いよいよ鳩山政権がスタートしました。これから日本の政治がどのように変わっていくのか、実際に日本で観察できるのはとても幸運なことだと思っています。それにしても、この鳩山内閣、いくらなんだって女性が少ないと思いませんか?象徴的な目的のためにとにかく女性を大臣に登用すればいいなどとはもちろん言いません。サラ・ペイリン氏のような女性がリーダーのポストに就くくらいだったら、知識と頭脳と経験をもった男性が就いたほうが、女性にとってもずっといいのは当然です。それでも、いくら女性差別への取り組みや成果が不十分だと国連の委員会に批判された日本だって、さまざまな分野で長年のキャリアを積んだ、有能で見識のある女性がたくさん存在します。私が直接関わることのある、ごく限られた分野でも、「あー、こういう立派な女性が日本にいるんだなあ」と頼もしい気持ちにさせてくれる女性に出会うことが多いのですから、日本全体には、そうした女性が大勢活躍しているはずです。せっかくいろいろな経歴の女性が民主党の新議員として登場したことだし、新しい時代の政治を唱える政権だったら、そうした女性がせめてもう数人、入閣してもいいだろうに、と思います。そして、そうしたことについて、女性団体を初め、国民がもっと声をあげて、指導者たちにプレッシャーをかけていくことが必要だと思います。

ついでに言うと、福田衣里子さんが「『先生』ではなく『福田さん』『えりちゃん』と呼ばれる国民と距離の近い政治家でいたい」と言ったそうです。政治家が「先生」と呼ばれることはおかしいと思うので、「福田さん」はいいですが、「えりちゃん」はちょっと。。。私は彼女のような人が議員となったのはいいことだと思っていますが、国民の声を代弁し、国民をリードするプロの政治家として選ばれたのだから、「えりちゃん」と呼ばれることを目指すようなことはやめて、もっと高い次元で仕事をしてくれることを期待します。だいたい、日本は女性が「かわいい」ことをきわめて高く評価する文化ですが、10代の女の子やポップ・アイドルならともかく、社会に出る大人の女性が、意識的にせよ無意識的にせよ、そうした「かわいい」という女性の理想に沿おうとするのは、正直言って馬鹿馬鹿しいと思います。もちろん、日常的な人間関係においては、男性にも女性にも「かわいい」と思われるほうが「憎たらしい」と思われるよりもいろんな意味で便利だし、目的達成にも効率的なのは間違いないでしょうが、「かわいい」女性像に社会全体がとらわれていることは、男性と対等の尊厳ある存在として女性が扱われることの足かせとなっているとも思います。まあ、男性政治家も「純ちゃん」とか「ユッキー」とかいう呼称を嬉しそうに使っているくらいですから、「えりちゃん」的な存在になることを目指しているのは、女性の政治家だけではないのはわかっていますが、政治家というのは国民に親近感を感じさせればよいというものではないでしょう。そんなことより、国民の尊敬と信頼を集めてインスピレーションを与えるような政治家が、増えていってほしいものだと思います。