2011年4月19日火曜日

鴻上尚史『アンダー・ザ・ロウズ』

昨日は、座・高円寺で鴻上尚史作・演出の『アンダー・ザ・ロウズ』を観てきました。(ちなみに、鴻上尚史さんは『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださったらしく、とあるイベントでその話をしていたと、ある人が教えてくださいました。だからこの舞台を観に行ったというわけではありませんが。)予想を大きく上回るむちゃくちゃな面白さで、たいへん幸せな気持ちになって帰ってきました。いじめをテーマとするこの舞台を観て幸せな気持ちになるというのもおかしいかも知れません。でも、生の役者さんたちと観客が空間と時間を共有する舞台というもののパワーを存分に味わわせてくれ、いろんなことを考えさせられ、またおおいに笑わせてくれるという意味では、たいへんな幸せをもたらしてくれる作品だと思いました。

物語は、中学生のときにいじめを受けた青年榊(アメリカから帰ってきて、皆が一斉に同じことをすることを強いられるのに異を唱えたがためにいじめを受ける、という設定に、中学生のときにアメリカから帰ってきて、よりにもよってアメリカの公立学校の対極にあるような学校に編入しておおいに戸惑った私としては、ひとごととは思えませんでした:))と、その同級生一ノ瀬(ちなみに、私は中2でアメリカから帰ってきてその変てこりんな学校に編入したとき以来の大親友と一緒に私はこの演劇を観に行きました)のふたりが、倍ほど年齢を重ねた社会人となったときの状況が、パラレルワールドというSF的な設定のなかで展開されます。「実際の」世界では、一ノ瀬はいじめを受けている榊を助けることができず、その罪悪感を背負ったまま普通のサラリーマンになっている。物語の中心となる「もうひとつの」世界では、一ノ瀬は榊を助け、そのために自分がいじめの対象となり引きこもりとなった後、自分をいじめた3人を殴り実刑を受けるが、その後、自分をいじめた加害者に復讐をしようと決意する人々の後押しをする空震同盟という集団のリーダーとなって、榊とともにいわゆるアンダーグラウンドな活動を展開している。しかし、あるとき一ノ瀬が姿を消し、空震同盟は危機を迎える。そこに、「実際の」世界の一ノ瀬がやってくる。(一ノ瀬を演じる古河耕史さん、カッコいい!)という、ひとつの空間で線的な時間が展開される演劇という形態でホントにこの物語ができるのかいな、と思ってしまうような突拍子もない設定。おまけに、芥川記念賞を受賞したものの自分が納得のできる次作が書けずに悩む、世間的にはキャピキャピの若い女性作家や、いろいろやってはみたものの自分がなにをすべき人間なのかわからず悩む青森出身の青年、そうした悩める人たちを手玉にとって儲けようとするインチキ宗教の教祖などが、いじめというテーマやSF的設定とはあまりにも相容れないモードのドタバタコメディでのっけから迫ってくる。ので、初めのうちは、「とてもじゃないがついていけないかも」と思ってしまうのだけれど、あっという間に先方の思うつぼにしゅるしゅるすっぽんとはまってしまい、物語の世界に吸い込まれるのであります。

いじめを受けた者が、その加害者に復讐をすることで自分を取り戻し生き直しを図る、というその設定が中心になっていながら、作品は決していじめという問題についてわかりやすい答を出してはいません。そもそも、「もうひとつの世界」のなかで、復讐をしたことによって実際に生き直しに成功している人物はいない(空震同盟のリーダーとなった一ノ瀬も、姿を消している)し、復讐を決意する登場人物たちに対し、観客はある程度までは共感するようになってはいるけれども、バットで相手を殴ったり、ネットで簡単に流れを変えてしまう世間の空気を操作しようとしたりという彼らの手段には、疑問を抱かないわけにはいかないようにもなっている。復讐という行為は、被害者を加害者にすることで、あらたな被害者を生むということも示している。また、空震同盟のメンバーたちは、加害者に復讐して生き直すということが自分のアイデンティティの核となってしまっていることによって、加害者だけでなく他の人間についての理解や想像力が働かなくなってしまうことも示唆している。そしてなんといっても、こうした問題を考え始めた途端に、変てこりんな登場人物たちが舞台に出てきては馬鹿馬鹿しいドタバタ劇を展開する、ということが繰り返されるので、こちらも落ち着いてじっくり考えていられない。でも、それこそがこの作品の意図するところなのだと思います。実際、あのドタバタがなくても、物語はじゅうぶん成立するし、いやむしろ、そのほうがずっとすっきりとしてまとまりのある、一貫性のあるメッセージをもった作品となるはず。でも、いじめがなぜ起こるのか、いじめを目撃した人間はなぜそれを止められないのか、いじめを受けた人間がトラウマから回復し自分や他人を愛しながら生きるためにはなにが必要なのか、といった問題に、2時間弱の舞台を観ながら簡単に答を出して満足して帰ってもらっては困る。「そうか、こういうことが言いたいのか」と思い始めた瞬間、訳のわからないスーパーヒーローたちに無理矢理頭も心も引っ張られ、「いかん、こんな馬鹿馬鹿しい笑いにまどわされている場合ではない」と思いながらまた「現実」の世界に戻ってくる。そして、劇場を去ってからずっと、舞台で観たことを反芻し続け、いろんなことを考え続ける。そういう作品です。

作品では、地下鉄サリン事件や阪神淡路大地震を機に、日本では異なるものへの排除意識が強まり、また、ネット社会によって世間の空気がいとも簡単に動いてしまうようになった、ということへの批判が出てきますが、これらの批判も、それが登場人物や物語の展開を通じてなされることによって、聴衆は、80%くらいは共感しながらも、残りの20%くらいは「ほんとにそうかな?」と思うようにもなっている(と私は思います)。私は、1990年代と2000年代の20年間をほぼまるごと日本の外で過ごしたので、サリン事件や阪神淡路大地震が日本の社会の空気にどれだけインパクトを与えたのかは、実感としてわかりません。また、こうしてブログを書いたり中毒者のようにフェースブックに浸ったりしながらも、私とネットとの関係は多くの日本の人たちとはだいぶ違うような気もするので、日本語ベースのネット社会においては私は異邦人のような気持ちがしています。なので、この作品で投げかけられている疑問について、私は自分の答をもっていません。でも、今の日本で、こういう演劇が上演され、人々がそれに触れていろんなことを考えたり議論したりすることは、とても大事なことだと思います。

今週末まであと数公演、まだチケットは残っているようなので、お時間のあるかたは是非どうぞ。絶対に観て損したとは思わないはず。

1 件のコメント:

Mari Yoshihara 吉原真里 さんのコメント...

もとの投稿に書き忘れたけれどもやっぱり書いておきたい2点を追加します。

ひとつは、カリスマ的なリーダーのもとで、傷を負った人たちを煽動する、という意味では、空震同盟も、悩める人たちを利用して金儲けをするインチキ宗教と同類である、ということが示唆されていること。

もうひとつは、集団の境界線をコントロールし、都合の悪い人間は除外あるいは封印し、世間の空気を操ることで自らの勢力を拡大しようとする、という意味では、空震同盟も、自分たちをいじめたり周縁化したりしてきた社会の他の人間や集団と同類である、ということも示唆されていること。

つまり、一見、空震同盟のメンバーたちに共感を呼ぶように作られているように見えるストーリーも、実際は彼らの行為や精神性についておおいなる疑問を提示している。「じゃあ、いじめのトラウマを抱えた人はどうしたらいいんだ?」という問いについて、観客が主体的・批判的に考えることを促す作品なんだと思います。