さて、トロントからのフライトはサンフランシスコ経由だったのですが、トロント−サンフランシスコ間の飛行機では、Kindleにダウンロードした、Battle Hymn of the Tiger Motherを読みました。5時間のフライトが到着するときにきっちり読み終わるという、見事にちょうどいい長さ。邦訳も出ているようですが、英語はきわめて平易なので、ごく普通の英語力のある人なら原著でOKのはずです。この本、昨年出版されて以来、全米のメディアでたいへんなセンセーションを巻き起こし、ベストセラーになりいくつもの言語に翻訳もされています。私はその噂を聞いたことがあるだけだったのですが、数日後に、あるフォーラムでDeconstrcting the Asian American Model Minority Mythというタイトルのレクチャーをすることになっているので、その参考に読んでみようと思ってダウンロードしました。「中国式」の子育て理念に基づいて凄まじい勢いでスパルタ教育をする教育ママの話、ということしか知らなかったのですが、読んでみると、その「スパルタ教育」の中心が、二人の娘のピアノとヴァイオリン教育なので、「タイガーよ、おまえもか」という気持ちになりました。
子供に学業成績を初めとしてつねに最高のものを要求し、「子供にとって最良のものは子供よりも親のほうがわかっている」という信念のもとに、著者が「西洋式」と対比させて「中国式」とよぶ徹底したスパルタ教育を、子供がよちよち歩きの頃から大学に入学するまで施す。アメリカの一般のミドルクラスの子供たちが普通にやるようなこと(playdateやsleepover)は一切させず、鈴木メソッドで習い始めたピアノとヴァイオリンを、旅行中も含め決して休むことなく、毎日6時間も練習させる。毎週のレッスンに加えて、コンクールやオーディションの前には、日々の練習の指導のためにも別の先生を雇い、なんと一日数回もお金を払って家に来てもらうほか、数日間のオーディション旅行にも、その先生とボーイフレンドのぶんまでお金を払って付き添ってもらう。旅行に出かけるときには、子供がピアノの練習ができるよう、ホテルにあるピアノを使わせてもらったり、ピアノを使わせてくれる街の施設を探して、毎日観光の前に数時間練習に通う。娘にいいヴァイオリンを買い与えるために、著者は自分の年金を解除してしまう。などなど。その苦労実って、娘はカーネギーホールでリサイタルをするまでに至り、また、ブタペストで姉妹のコンサートも開催させる。けれど、とくに下の娘が反抗期に入ると、母娘のあいだに激しい葛藤があり、それまで積もってきた娘の憤懣は、モスクワ旅行中に爆発する...
私も子供のとき、ここまでではないけれどもかなり熱心にピアノをやっていたこともあり、またクラシック音楽についての研究もしてきているので、この様子はじゅうぶん想像できるのですが、ここでは、イェール大学ロースクールの教授である両親の財力と人脈が、普通の教育ママに一回りも二回りも輪をかけた凄まじさを可能にしているといえます。ある程度のレベルまで楽器を習う子供はたくさんいるなかで、子供自身が音楽の深みや楽しみを理解し、「お稽古」の次元から「音楽」の次元へ移行するところまでいけるかどうかの多くは、そうした理解の手助けをしてくれ、しかも必要な技術をきちんと身に付けさせてくれる先生に出会えるかにかかっている。そして、そうした先生に習うには、単純にお金がかかる。この二人の娘が、すぐれた音楽的感性と、目的に向かって集中力と持続力をもって修行する能力をもっているのは確かだけれども、この家庭にこれだけの財力と、いわゆる「文化資本」がなければ、二人の音楽はここまで伸びなかった可能性はじゅうぶんあるでしょう。
著者が「中国式」と「西洋式」と二項対立的に描写する子育ての記述には、あまりにも単純なステレオタイプがあちこちに見られ(著者は「中国」と「西洋」というのは必ずしも土地や人種を指しているのではなく、「中国式」の子育てをするアメリカ人もたくさんいるし、「西洋式」の子育てをしている中国人もたくさんいると指摘してはいますが)、また、教育方針についても、共感する部分もあるけれど異を唱えたくなる箇所もいろいろあるのですが、私が個人的に興味を覚えたのは、二人の娘だけでなく、母親である著者が、音楽というものを理解し鑑賞するようになる、その過程。著者は、自らの親も大学教授という家庭で育ち、ユダヤ系の夫も法学者で、文化資本が豊かな環境であることは確かですが、この本を読むと、著者自身にはクラシック音楽についての深い知識や理解がもともとあったわけではないことが明らか。むしろ、子供に音楽をやらせようとするアジア人・アジア系アメリカ人の親の多くと同様に、子供にピアノやヴァイオリンをやらせようというその動機の根底には、クラシック音楽は洗練された西洋文化を象徴しており、それを身につけることは社会的・文化的上昇を意味している、という信念がある。たいていの親は、そうした動機からせっせと子供に音楽をやらせるというところで終わるのでしょうが、そこはさすが教育程度の高い著者だけあって、子供のレッスンや練習の監督をしながら、子供と並行して自分も、それぞれの楽曲の表す精神や情感、そしてそうした精神や情感を表現するために使われている具体的な音楽的要素とそれが要求する演奏技術を、徐々に理解し、音楽を自分の人生の一部としていく。これは、この本の主なポイントではないのだけれども、その過程に私は素直な感動を覚えました。
先の投稿で言及したミシガン旅行中に、友達数人と話していたときに、「自分が子供のときに一生懸命ピアノをやっていたことは、自分の仕事や人生にどんな影響を与えたと思うか」という質問をされました。これについては、前からいろいろと考えてきたのですが、私の答は、「音楽を真剣に勉強することで、ひとつのことについてある程度の力を身につけるのがいかに大変なことかを年少の頃から理解した。それによって、他のことについても、それをきちんとやるのはとても大変なことで、長年の真剣な努力が必要に違いない、という前提のもとに取り組むようになり、謙虚さと努力の姿勢が身に付いたと思う」というものです。私は、子供にあれやこれやと習い事をさせることを必ずしもよいことだとは思わないのですが、この点においては、なんであれ、ひとつのことを(それも、ある程度のレベルまで行くには十年も二十年もかかるような難しいことを)真剣に子供にやらせる、それも、単に「楽しんでやる」というのではなく、真剣にやらせるのは、よいことだとも思います。この本に登場する下の娘は、そこまで一生懸命やっていたヴァイオリンを途中でやめてしまうのですが、「その後」についての記述を読むと、あれだけ真剣にヴァイオリンをやったからこそ、さまざまな能力や感性が身に付き、彼女の人生が豊かになったのも明らか。そうした意味で、「音楽教育」とはなにか、「文化資本を身につける」とはどういうことか、「子供に最大限の可能性を与える」とはどういうことか、考えさせられました。
それにしても、著者がこの本を書いていたときには、Musicians from a Different Shoreはもう刊行されていたのだから、学者ならもうちょっと調べて脚注に入れておいてくれてもよさそうなものなのに(苦笑)。