2010年2月2日火曜日

小川洋子 & 藤原正彦

ここ1週間、風邪でダウンしていたので、自分の原稿書きはちょっとお休みして、ソファや布団のなかで本を読んでばかりいました。まずは、遅ればせながら(刊行当時かなり話題になったそうですが、ふだん日本に住んでいない私はそういうことに疎く、だいぶ時流に遅れている)小川洋子さんの『博士の愛した数式 』を読み、たいへんたいへん気に入りました。このブログで何度かすでに言及しているように、私は中学高校のとき数学がとても苦手だったのですが、この「博士」のような人物に出会っていれば(「博士」ほど奇妙な人物でなくてもいいのですが、要は数学の美しさを面白く説明してくれて、学校で習うことの「意味」を教えてくれる人であればよいのです)、数学が好きになったかもしれないと思いました。いろいろな意味でごく普通の人間である主人公が、「博士」との出会いを通じて、なんだか訳もわからず数学の面白さにだんだんはまっていく、その過程がリアル。たとえば、こんな描写からは読みながら思わず笑みがこぼれます。
 私も博士を見習い、エプロンのポケットに鉛筆とメモ用紙を入れておくようにした。そうすれば、思いついた時いつでも計算ができた。例えば税理士宅の台所で、冷蔵庫の掃除をしている時、扉の内側に刻印された製造番号2311が目に入った。これはなかなか、おもしろそうな数字ではないか?という予感が走り、メモ用紙を取り出し、取り敢えず洗剤と布巾は脇に置いて割算を試してみた。まず最初に3、次に7、その次11。駄目だった。どれも1余った。引き続き13、17、19。やはり割り切れなかった。しかもその割り切れなさが実に巧妙だった。正体をつかんだと思わせた瞬間、するりとすり抜け、新たな展開を予感させながら、またしても微妙な徒労感を残す。それは常に、素数が使ってくる手だった。
 私は2311を素数と認定し、メモ用紙をポケットに仕舞い、掃除を再開した。素数を製造番号に持っているというだけで、その冷蔵庫がいとおしく思えた。潔く、妥協せず、孤高を守り通している冷蔵庫。そんな感じだった。
 事務所の床を磨いている時に出会ったのは、341だった。デスクの下にNo.341の青色申告決算書が落ちていた。
 素数かもしれない。咄嗟に私はモップを動かす手を止めた。長くそこに落ちていたらしい書類で、埃をかぶっていたが、それでもNo.341が放つサインは生気を失っていなかった。いかにも博士の寵愛を受けるにふさわしい魅力を備えていた。(中略)
 341は素数ではなかった。
 「まあ、何ということ...」
 私はもう一度、341÷11を計算した。

 341÷11=31

 見事な割算の完成だった。
 もちろん素数を見つけた時は気分がいい。ならば素数でなかった時、落胆するかと言えば、決してそうではない。素数の予想が外れた場合は、またそれなりの収穫がある。11と31を掛け合わせると、かくも紛らわしい偽素数が誕生するのかということは新鮮な発見であり、素数に最も似た偽素数を作り出す法則はないのだろうか、という思いがけない方向性を示してくれる。
 私は決算書をデスクに置き、モップをバケツの濁った水で洗い、固く絞った。素数を見つけたからと言って、あるいは、素数でないことが判明したからと言って、何も変わらない。私の前には、やらなければいけない仕事が、相変わらず山積みになっている。製造番号がいくらであろうと、冷蔵庫はただ自分の役目を果たすだけだし、No.341の決算書を提出した人は、今も税金問題に頭を悩ませている。メリットがないばかりか、実害さえ生じている。冷蔵庫のアイスクリームは溶け、床磨きははかどらず、税理士さんのイライラを募らせる。それでも尚、2311が素数で、341が合成数であるという真実は、色褪せない。
 「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」
 と、博士が言っていたのを思い出す。
数学の面白さに引き込まれて行く主人公の他にも、主人公の「博士」に対する態度、「博士」と「ルート」の独特の愛情関係、そして主人公と「ルート」の親子関係が、とてもリアルでかつ暖かく描かれている。たとえば、
 博士はいつどんな場合にも、ルートを守ろうとした。どんなに自分が困難な立場にあろうと、ルートは常にずっと多くの助けを必要としているのであり、自分にはそれを与える義務があると考えていた。そして義務が果たせることを、最上の喜びとした。
 博士の思いは必ずしも行動によってのみ表されるとは限らず、目に見えない形で伝わってくることも多かった。しかしルートはそのすべてを漏らさず感じ取っていた。当然な顔で受け流したり、気付けないままにやり過ごしたりせず、自分が博士から与えられているのは、尊くありがたいものだと分かっていた。いつの間にかルートがそのような力を備えていたことに、私は驚く。
 自分のおかずがルートよりも多いと、博士は顔を曇らせ、私に注意した。魚の切り身でもステーキでも西瓜でも、最上の部位は最年少の者へ、という信念を貫いた。懸賞問題の考察が佳境に入っている時でさえ、ルートのためにはいつでも無制限の時間が用意されていた。何であれ彼から質問されるのを喜んだ。子供は大人よりずっと難しい問題で悩んでいると信じていた。ただ単に正確な答えを示すだけでなく、質問した相手に誇りを与えることができた。ルートは導き出された答えを前に、その答えの見事さだけでなく、ああ、自分は何と立派な質問をしたのだろう、という思いに酔った。博士はまた、ルートの身体を観察する天才でもあった。逆睫毛を見つけたのも、耳の付根にできたおできを見つけたのも、私より早かった。じろじろ眺めたり触ったりしなくても、目の前に子供がいるだけで、注意を払うべき場所を一瞬にして察知した。しかも本人に不安を与えないよう、発見した異変は私だけにこっそり教えた。
なんの血のつながりもない赤の他人であるばかりか、翌日になればルートが誰だか覚えてもいない「博士」が、子供に接する大人としてのあるべき姿を体現しているというところに、おおげさな言い方をすれば人間としての希望を感じさせてくれます。この小説の設定自体はなんとも突拍子もない設定でありながら、そのなかできわめて現実味のある状況や心理描写が展開されるところが作家としての技量のすごさであります。そして、小川洋子さんはとてもいい母親であるに違いない、と思わせてくれます。

その思いをさらに強くしてくれるのが、『ミーナの行進 』。こちらは女の子の成長の物語ですが、子供から思春期への移行する過程で、ひとつひとつは実に小さなことでも、自分の目で状況を観察し、自分の頭でものごとを考え、選択したり決断したり行動したりすることで、だんだんと自立した一個の人間に成長し、そして大人の世界のことを少しずつ理解するようになる、そのプロセスが、これまた実に愛情こめて描かれています。子供のことゆえ、決死の思いでした選択や決断が、きわめて滑稽であることもあるのですが、そのあたりも実にリアルです。子供を中心にした物語だからといって、状況や心理の複雑さに関して妥協していないところがとてもよいです。

『博士の愛した数式』執筆にあたって小川洋子さんが数学者の藤原正彦さんを取材したらしいので(藤原正彦さんが『博士の愛した数式』に寄せている解説もとてもよいです)、この二人の対談を本にしたという『世にも美しい数学入門 』を読もうと思ったのですが、書店に行ったときに置いてなかったので、代わりに藤原正彦さんの『祖国とは国語 』を読んだのですが、うーむ、これは、「そうだそうだ、確かにその通り」と深く頷く箇所もあれば、「そんな無茶苦茶な!」と言いたくなる箇所もたくさん。国語教育が重要であるという主張には大いに共感しますが、「国語」というものの歴史性や政治性について、触れられているようで(ドーデの『最後の授業』について言及がある)、実はまったくきちんとした議論がない。それに、「英語では、自国の国益ばかりを追求する主義はナショナリズムといい、ここでいう祖国愛、パトリオティズムと峻別されている。ナショナリズムは邪であり祖国愛は善である」などというのはあきらかな間違いであるし、そうした前提のもとに「一般国民にとって、ナショナリズムは不必要であり危険でもあるが、祖国愛は絶対不可欠である」などという議論にもっていくのは、そちらのほうがよっぽど危険なのではないでしょうか。パトリオティズムを「祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りをもち、またそれらをこよなく愛する精神」と定義して、「家族愛、郷土愛の延長にあるもの」とするのも、愛する対象となる単位が「国家」となった経緯、そしてその過程において「国語」形成が果たした役割というものを、まったく考慮に入れていない。アメリカに関する記述があまりにも浅薄なのも気になる。まあ、この本は、新聞や雑誌に掲載された短い文章を集めたものなので、歴史的な視野も含めた深い議論ができないのは仕方ないにしても、うーむ、数学者にしては議論が破綻している箇所があるのが気になります。この本を読むなら、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』を読んだほうが一万倍くらいためになります。当然、藤原正彦さんは『日本語が亡びるとき』を読んでいるはずですから、それをふまえてもう一度この本を書いていただきたい。あ、水村美苗さんと岩井克人さんと藤原正彦さんの三者対談をやっていただきたいですね。文学者、経済学者、数学者の三人で、なかなか面白い話になるんじゃないでしょうか。