2016年11月12日土曜日

ブログ再開のご挨拶



個人的な事情により、長いあいだ投稿を中止していましたが、このたびドナルド•トランプ氏が次期大統領に決まったことを機に、ブログ執筆から私を遠ざけていたいろいろな思いを振り切って、再びこのブログを再開することにしました。

トランプの勝利が確定したときには、あまりの衝撃で蒼ざめたまま椅子から立ち上がれない状態がしばらく続きました。政治の展開で自分がこれほど精神的な打撃を受けたことはありません。2000年も2004年も結果に憤怒はしましたが、今回のように涙はしませんでした。

人生の半分をアメリカで過ごし 、いろんなアメリカの姿を見てきて、こうした展開も予想できたはずなのに、なぜ自分がこれだけ衝撃を受けるのだろう。その理由はおもにふたつ考えられます。

ひとつは、アメリカとかかわるようになってからの37年間、私がアメリカについて信じてきたことを、今回ほど根底から否定されたことはなかった、ということ。アメリカの歴史は、虐殺や略奪や追放や排斥や搾取といった、あらゆる暴力に満ちた歴史であり、その社会経済は、人種や国籍や性や階層や性的志向などのさまざまな不均衡のもとに成り立っている、ということは、じゅうぶん認識していたつもりです。それでも、自分があえてアメリカを生活の場として選び、アメリカを理解することを仕事にしているのは、 アメリカという社会 が、自由や平等といった理念を尊び、異なるものを受け入れる包容力を持ち、多様性に価値をおく社会である、と信じてきたからです。そして、多くの人たちがさまざまな社会運動を通じて、社会の不平等や不均衡を少しずつ克服するよう闘ってきたその歴史と姿に、感銘を受けてきたからです。政府やさまざまな制度はともかくとして、アメリカを構成する人々のほとんどは、そうした価値観こそを国のプライドとしている、大らかな人々だと、信じてきました。その信念は、今まで自分が体験してきたことと、身につけてきた知識の両方から培われたものでした。それが、今回のトランプ当選で、根本的に否定されてしまった。少なくともそう思えるほど、トランプ氏が選挙キャンペーン中に公表してきた政策案やこれまでの言動は、そうしたアメリカの価値観の対極にあるものでした。

もうひとつは、アメリカ研究者として、これほど自らの無能と非力を感じたことはなかった、ということ。僅差になる可能性はあっても、いくらなんでもトランプが当選することはあるまい、と確信していました。いや、正直なところを言えば、かなりの大差でクリントンが当選するだろうと思っていました。私自身は、クリントンを熱心に応援していたわけではまったくありません。サンダースを支持していた人たちの多くと同じで、クリントンの背景や政策は支持できないことが多いけれども、いくらなんでもトランプに大統領になられては世界全体が大変なことになるので、妥協候補としてクリントンに投票する、という立場でした。そして、私の周りにはトランプ支持者はひとりもいません。友達の親などで、普段は共和党支持だという人はいても、今回ばかりはいくらなんでもトランプには入れない、と言っていました。もちろん、そもそもトランプが共和党候補として選ばれているのだから、アメリカ全体を見回せば相当数がトランプを支持していることはわかっていたけれど、一連の予想統計をみても、まさかトランプが当選するとは想像しませんでした。予想がまったく外れただけではなく、結果が出てからも、そうなった理由を説明することが自分にはまったくできない。アメリカ研究者を名乗りながら、自分がアメリカの現実から乖離したバブルの中で生きていただけでなく、アメリカの社会をまるで理解していなかった、という事実を、今回ほど残酷に突きつけられたことはなかった。自分はいったいここで何をしているんだろう、私はこれから何をしていけばよいのだろうと、根源的な問いが今も頭のなかを大きく占めています。

選挙翌日のホノルルの様子は、2011.3.11の東日本大震災の翌日の東京と少し似ていました。もちろん、震災は誰も望んでいなかった自然災害であるのに対して、大統領選は国民の約半数が参加した民主的なプロセスで、投票者数の半数近く(絶対得票数ではクリントンが過半数を占めた)が、それが国にとってよいことだと信じて自主的にトランプに投票したのですから、状況としてはまったく比較にならないのはもちろんです。ただ、その事態に直面しての世の中の空気という点では、私がこれまで経験してきたことのなかでは震災翌日の東京がもっとも近い。なにかとんでもない大事態が起こったけれど、それがいったい何を意味しているのかをまだじゅうぶんに把握できず、ただ衝撃と悲しみとパニックが渦巻いているのが、人々の表情に滲み出ているのです。とくにハワイは民主党支持者が圧倒的なので、トランプ当選を祝福している人たちの姿をそのあたりで見かけるわけではなく、呆然とした空気の共有感はさらに大きい。

選挙の翌朝大学に行くと、教員も学生も、顔を合わせると何も言わずに抱擁して泣いている場面を何度もみました。私自身、大学院のゼミの授業では、口にした一文目の途中で泣き出してしまい、それを受けて、学生たちも老若男女を問わず(6人しかいない授業なのですが、イギリスから最近アメリカに帰化した58歳の男性から、30代の先住ハワイアンの男性、父親が軍人でアメリカ各地を転々として育った20代の白人女性、トロント大学を卒業してすぐハワイ大学にやってきたフィリピン系カナダ人女性など、顔ぶれはかなり多様)、みなポロポロと涙を流しながら、思うところを1時間半ほど話し合ってから、予定していた授業の内容に移りました。

しかし、蒼くなって呆然としている、という状態はそう長くは続きませんでした。トランプ政権の誕生によって現実となりうるさまざまな政策案は、ムスリムや移民、LGBTQ、アフリカ系アメリカ人、女性など、さまざまな人たちの権利や安全を脅かすもので、多くの人たちが、その恐怖をすでにとてもリアルに感じている。自分の家族は国外に強制追放されるんだろうかとの恐怖を話しにくる学生、自分は学位取得までアメリカに残れるんだろうかと心配する留学生、やっと 同性のパートナーと結婚したのにそれが無効になるんだろうかと不安を口にする学生。自分が信じてきたアメリカはこんなものではないはずだ、という悲しみは、恐怖と怒りと混ざり合って、一大危機に面した国の空気となっています。学生たちの悲しみや恐怖や怒りを、どのように受け止めれば良いのか。また、少数でも確実に存在するトランプ支持者の学生や、怒りの対象となって自分たちのほうが被害者になったかのように感じる白人学生の思いに、どのように向き合うのが教育者として正しいのか。といった話が、私の同僚たちのあいだでここ数日間ずっとなされています。

多くの人たちが感じている恐怖や不安は、決して想像や思い込みによるものではありません。すでに全国各地で、スワスティカの落書きや、ムスリムの人への暴力行為や、LGBTQへの嫌がらせなどが起こっています。本当に悲しいことに、ハワイ大学のキャンパスのトイレにも、#BlackLivesDon’tMatterという落書きが昨日発見されました。マイノリティや女性への蔑視を堂々と公表した人物が大統領に選ばれたことで、自らの差別意識を正当化された人たちが、暴力的な言動に出る勇気を得ているのです。そして、こうした事件はこれからどんどん増えていくだろうと思わます。

アメリカはこんな国ではないはずだ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか、との思いが募るばかりですが、そのいっぽうで、「やはりこれがアメリカだ」と希望を抱かせてくれることもたくさんあります。あえて大雑把な表現をすれば、なにしろアメリカ人は行動力と組織力のある人たちです。選挙の翌日から、各種団体はもちろん、実に多くの人たちが、トランプが綱領に挙げてきた政策の実現を阻止し、トランプ政権によって立場を脅かされる人々を守るための、具体的な行動を開始しています。それは例えば、国外追放される危険のある学生やその家族たちを守るために、大学のキャンパスを警察や移民管理官が大学の許可なしには入ることのできない保護地域に指定するための署名運動であったり、堕胎の自由が脅かされるであろう状況をふまえてのPlanned Parenthoodなどの団体への寄付強化キャンペーンであったり、暴言暴力や嫌がらせにあった人たちのためのホットラインの設置であったり、ローカルなものから全国的そして国境を超えたものまでさまざまです。
 
また、メディアでも報道されているように、多くの都市で、トランプ当選に抗議する集会や行進が、自然発生的に起こっており、時間が経つにつれて、 運動は組織化されてますます拡大していくでしょう。こうやって、納得のいかない状況を黙って受け入れず、すぐに声をあげ行動に移すアメリカの人たちの態度と組織力を見ると、「そうだ、これこそがアメリカだ」と確認させられます。そしてとくに、高校生や大学生を含む若い人たちが、立ち上がって、雄弁に発言し果敢に行動している姿に、感動と勇気と希望を感じます。

私も昨日、ホノルルのアラモアナ公園前の沿道でのサインホールディングに参加してきました。参加者は百数十人と、大都市の抗議集会と比べれば小規模ではあったものの、選挙からほんの3日後のホノルルでの運動にすれば、決して悪くはないし(明日日曜日にはより大きな行進が予定されています)、20代の若い人たちが中心になって企画された催しであったことも、そして、私が指導している日本からの留学生が一番乗りで来ていたのも、とても嬉しかったです。彼女は博士課程の資格試験を来学期に控えて、私に言われて次から次へと何十冊もの研究書を読みまくっている最中。それでも、アメリカ社会を学ぶためには、書物を読むだけではなく、こうした現場に足を運んで自ら発言することも大事なのだ、ということを、私から言われなくてもきちんと学んでくれていて、涙が出そうでした。


アメリカ研究者としての自分の立場や役割をどう考えるべきなのか、という問いは、これからじっくりと考え直していかなければいけないと思っています。自分がこれまで情報や知識を得ていたソースや方法、自分が関心を向けてきた対象などを見直す必要があるかもしれません。そして、もっと根本的に、自分はいったい何をしようとしているんだろうか、何をするのが私の仕事なんだろうか、ということを、深い反省を含めて真剣に考えていこうと思います。

簡単に答が出るような問いではないのはわかっていますが、ただ、今の段階で自分が出したひとつの答。それは、私は、「考える」ことで生計を立てさせていただいている、このご時世において実に優遇された立場の人間である。学生の授業料や国民の税金の一部は、私がアメリカの歴史や社会や文化について「考える」ことに使われている。そんな特権的な立場におかせていただいている以上は、深く精緻に多面的に「考える」作業を、徹底的に続けていくことこそが、私の義務なのだ、ということです。

選挙結果を振り返って、メディアでもアカデミアでも、反省を含むさまざまな分析や評論が飛び回っています。 多くの人々にとってあまりにも衝撃的な結果だったために、この展開をわかりやすく説明するような論を目にするとすぐ、「そうだ、これだ!」と飛びつきたくなるのも自然でしょう。私自身も、そうした説明にすがりつきたくなるのが正直なところです。そして、いろいろな説明には、それぞれ正当な部分があるでしょう。

しかし、今回のような社会の動きは、「低学歴層白人男性の反撃」だの「変化を求める民衆」だの「エスタブリッシュメントの拒絶」だのといった単純な説明で捉えきれるものでは到底ないだろうと思います。そして、レイシズムやセクシズムが大きな要素であったことは間違いないにしても、「レイシズム」や「セクシズム」というのは、アフリカ系アメリカ人への差別やメキシコ移民の排斥や、女性が大統領になることの拒否といった形だけで表れるものではない。アメリカ社会においては、「人種」「性」「階層」といったカテゴリーは、相互に作用しながら形成されてきているものですから、トランプを支持した人たちは「経済問題」を「人種問題」よりも「重視」して投票した、という説明ではとうてい不十分なのです。曲がりなりにもアメリカ研究を本職としている人間としては、一見納得がいきそうな明確な説明の誘惑を極力退け、これまでよりさらに真剣に、丁寧に、じっくりと、考えていく覚悟をしています。

真剣に、丁寧に、じっくりと考えるためには、タイムリーな話題を簡潔で明快な文章で一般の読者に提供していくブログという形式は不適切かもしれません。これまでしばらくブログを中断していたのも、そういった考えがあったのも理由の一つです。ただそれと同時に、ハワイという個性的な場所に長年住み、仕事や生活をしているアメリカ研究者だからこそ、私がこの視座から提供できるものもあるのではないかと信じたい。ので、自分が納得のいくペースで、投稿をしていくつもりです。政治の話題だけでなく、音楽や本やもっと軽く楽しい話題についても書くつもりですので、読んでくださる皆さま、またどうぞよろしくお願いいたします。