2013年10月24日木曜日

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?—人種・ジェンダー・文化資本』本日発売!

拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』が本日発売になりました!

小澤征爾、ヨーヨー・マ、内田光子、チョン・キョンフア、五嶋みどり、ラン・ランをはじめとする数多くの「アジア人」が西洋音楽の分野で世界的な活躍をするようになったのはなぜか。音楽と人種・性・社会階層にはどのような関係があるのか。音楽的・文化的アイデンティティとはなにか。「アジア人」音楽家たちはクラシック音楽をどのように体験しているのか。そうした問いを、歴史史料および民族誌的フィールドワークを通じて分析したものです。

この本は、もとはMusicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicというタイトルで、英文で出版したものを、日本の一般読者に向けて、私自身が翻訳したものです。自分が書いた英語を、自分の母語である日本語に訳すのだから、そんなに難しいことはあるまいと思ってのぞんだのですが、この翻訳の作業は、想像をはるかに超えたチャレンジでした。学術的な英語を一般読者のための日本語に訳すという実際的な問題もたくさんありましたが、もっと本質的な次元で、そもそも自分が設定した問いや議論の枠組みが、いかにアメリカ的なものであるかを、翻訳しながら痛感しました。「アイデンティティ」という単語がやたらと飛び交い、人種やジェンダーといったカテゴリーが軸になっている分析は、日本の読者にはピンとこない部分もあるかもしれません。でも、そうした前提や議論の違いを日本の読者に感じ取っていただくことも、意味のあることだと思っています。なるべく読みやすくわかりやすい文章にするため、日本の読者に向けて説明や修正を加えたり、高度に特化した学術議論は削除したりしました。また、クラシック音楽そのものに興味のある読者以外にも考える素材を提供するような本作りを心がけました。少しでも多くの読者に読んでいただけたら幸いです。

私が心から敬愛する水村美苗さんが、帯にとても素敵な推薦文を書いてくださいました。感謝感激です。



もとの研究を始めた2003年頃から続いてきた多くの音楽家たちとの交流や、私自身のピアノとのかかわりも、いろいろな形でこの本の一部となっています。本書に登場する音楽家たちの一部は、私のウェブサイトリンクページで紹介していますので、興味をもったかたはぜひ彼ら・彼女たちの音楽をのぞいてみてください!

2013年10月22日火曜日

11/9(土)佐藤康子二十五絃箏コンサート

何度かこのブログでも紹介している、私の親友の佐藤康子さんの二十五絃箏コンサートが11月9日(土)にあります。年に一度コンサートも今回ですでに7回目。毎度、私が日本にいない時期なのでみずからコンサートを体験できないのが無念でたまりませんが、彼女を通じて、邦楽にまるで馴染みがなかった私も、二十五絃箏という楽器のスゴさを少し知るようになりました。正直言って、「お箏」というと、お嬢様のたしなみごと、という程度のイメージしか抱いていなかったのですが、彼女の音楽は、そういう先入観を粉みじんに(といった単語がふさわしいくらいの強烈さ)打ち破ってくれます。迫力、鮮やかさ、哀しさ、強さ、優しさ、深み、伸び、などなど、それはそれは多くの音の感覚を体験できます。88の鍵とペダルでも平板な音しか出せずにへこんでいる私としては、たった二十五本の絃でこれだけの多様な世界を生み出す楽器そして演奏者に舌を巻くばかり。まだチケットが若干残っているようですので、みなさまぜひどうぞ。

11月9日(土)18:00開演
自由学園明日館ホール
前売り券 2,500円 当日券 3,000円
お問い合わせメール  contact@satoyasuko-koto.com

私の言葉だけでは伝わらないかもしれないので、演奏の動画をひとつだけご紹介しておきます。

2013年10月20日日曜日

ウェブサイト全面リニューアル

25日の新刊発売(これについては発売日にまた宣伝いたします)に合わせて、ちょっと古ぼけた感じになってきていたワタクシのウェブサイトを、全面的にリニューアルいたしました。コンテンツはこれまでとそれほど変わらないのですが、デザインが変わるとずいぶんと印象が違うものです。全ページで使っている木の年輪の模様は、5月にピアノのリサイタルをしたときに、グラフィックデザイナーの友達が作ってくれたチラシに使われた模様にヒントを得たものです。ぱっと見ると花かと思うけれど花ではなく年輪、というのがミソ。歪んだりヒビが入ったりもするけれど、年を重ねるごとに大きくたくましく成長していることを刻む年輪。その模様に、知的でもありエネルギッシュでもある色合いを重ねました。


これまでのウェブサイトと同様、このサイトをデザイン・制作してくれたのは、私の中学高校時代からの親友。私はこだわりのあることに関してはとにかくしつこく細かくうるさいので(他のことにかんしてはきわめて大雑把なのですが)、親友でなかったらさぞかし嫌がられただろうと思うくらい、連日ああでもないこうでもないと注文のメールを送り続け、別の国に住んでいるとは思えない密な連絡が何週間も続きました。彼女が気持ちよく辛抱強くそうした注文に耳を傾け、こちらの意図することを大小すべて汲み取り実現してくれたおかげで、私自身が隅々まで「これぞ私だ!」いや、少なくとも、「これぞ私が目指す私だ!」と思うようなサイトが出来上がりました。私自身が見ていて「よし、頑張るぞ〜!」という気持ちになるサイトです。どうぞごらんください。



2013年10月19日土曜日

報道スキャンダルから新聞ジャーナリズムの倫理を問う『A Fragile Trust』

昨日も引き続きハワイ国際映画祭(毎年とてもいい作品がたくさん集まる映画祭なのですが、時期的に忙しくて行けないことが多いので、1、2本でも観られると得した気分になります)に出かけ、A Fragile Trustという映画を観てきました。先日のDOCUMENTEDとならんで、こちらもドキュメンタリー。元ニューヨーク・タイムズの記者Jayson Blairが、多くの報道において盗用や捏造を重ねていたということが2003年に発覚し、 Blair本人の辞職にとどまらず、ニューヨーク・タイムズの信頼性を大きく揺るがすことになり、上層部の編集・経営責任者の辞任にも至るという、ジャーナリズム史に残る大スキャンダルがありましたが、その事件を追った作品。スキャンダルを通じて、組織としてのニューヨーク・タイムズ社の体質、2001年のテロ事件後の報道のありかた、紙媒体からデジタル媒体への移行が進むなかでの新聞の役割、ジャーナリズムにおける人種関係(Blairはアフリカ系アメリカ人)、精神疾患やアルコール・薬物依存の取り扱いなど、さまざまな視点から、Blairを悪質な行為に導いた要因を探っています。私は、事件のほとぼりが冷めてからはとくに注目していなかったので、ニューヨーク・タイムズというプレッシャーの高い職場でのストレス、とくに2001年テロ事件以後の、ジャーナリストにとって精神的にも身体的にも非常に大きな負担を課した環境のなかで、もともと躁鬱病の要素をもっていたBlairがどんどんと精神を病み、アルコールやコカインにはまって崩壊していった、ということは知りませんでした。また、このような形の盗用や捏造が生まれる背景には、現代の報道活動の形態、そしてとくにデジタル化がもたらす情報の変化によって、ジャーナリズムのありかたが大きく変わってきている、という文脈があることもよく伝わってきました。

映画のタイトルはA Fragile Trust、つまり、「もろい信頼」。ジャーナリストが記事を書くためには、取材相手の信頼をとりつけなければならず、しかし、取材にあてられるごく限られた時間のなかでは、そうやってできる信頼はごくもろいものでしかない、という意味が込められています。が、映画上映後の質疑応答の時間の監督の話を聞いて、この「もろい信頼」とは、取材相手がジャーナリストに向ける信頼のことだけではないのだ、ということがわかりました。この映画では、Blair本人とも何回もインタビューを重ね、彼自身による事件の説明も重要な一部となっています。が、彼の話を聞いても、聴衆は、彼に対して一種の同情は生まれても、共感を抱くことはほとんどなく、最後まで彼は、「信頼できる語り手」にはならない。自らジャーナリストである監督のSamantha Grantは、取材相手をじゅうぶんに信頼できない、という状況のなかでドキュメンタリー映画を作ることの困難について語っていましたが、そう考えると、この「もろい信頼」とは、ジャーナリストが被取材者に託す信頼のことでもあるわけです。もちろん、Blairはきわめて極端な例ではありますが、どんな報道においても、ジャーナリスト(研究者もそうです)は取材相手がつねに100パーセントの「真実」を語るわけではない、という前提のもとで、データの収集・分析や記事の執筆をしなければいけない。そうした意味で、ジャーナリズムという行為の複雑さを垣間みさせてくれる映画でもありました。

私は、2003年から2004年、つまりこの一連の騒ぎの最中にニューヨークに住んでいたのですが、なんと、ニューヨークの地下鉄で目の前にBlairが座っていたことがあります。ちょうど盗用・捏造が発覚してニューヨーク・タイムズを辞職し、大スキャンダルとなって、テレビなどで連日顔が出ていたときだったので、彼だとすぐわかったのですが、彼はそのとき地下鉄に座って、自分の(事件が発覚してまもなく、彼は自分の立場からこのスキャンダルについて語る本を出版しました)をじーっと読みふけっていました。もちろん、自分が書いたものが物理的な本として出来上がってから、それを新たな目で読み直してみる、ということは著者としてはいくらでもあることですが、彼をめぐるスキャンダルの性質上、「自分の本をそんなに珍しげに読みふけるということは、もしかするとその本も本当は自分で書いたんじゃないのでは?」という疑問が頭に浮かんだのを覚えています。

2013年10月18日金曜日

「非合法移民」の意味を追求する映画、DOCUMENTED

昨晩、現在開催中のハワイ国際映画祭の目玉のひとつとして上映された、DOCUMENTEDという映画を観て、その後この映画の主演・制作をつとめるJosé Antonio Vargasを囲んでのレセプションに参加してきました。たいへん考えさせられることの多い、インパクトの強い映画でした。

この映画は、Vargasみずからの生い立ちや家族の物語を通して、アメリカの移民制度、とくに「非合法移民」の扱いの問題点を追求するとともに、「アメリカ人」とはなにかを問うドキュメンタリー。Vargasは、アメリカに移住した祖父母に呼び寄せられて、非合法な米国入国を斡旋する業者のはからいで、12歳のときに単身フィリピンから渡米。子供ゆえ、自分の渡米の意味や法的な立場を理解するよしもなく、祖父母のもとで暮らしながらカリフォルニアでの生活に順応し、学校では成績優秀であらゆる課外活動で活躍する人気者となっていった。16歳のときに、自分が「非合法移民」であることを知った彼は、彼を応援する周囲の大人たちの支援のもとで、自分の夢を追求しながらアメリカ社会の一員として暮らしていく道を探るようになる。好奇心旺盛でさまざまな相手に「厄介な質問」をするのが好きだった彼は、大学ではジャーナリズムを専攻し、卒業後、ワシントン・ポストなどの一流メディアで報道にあたり、ピュリツアー賞も受賞するエリート記者のひとりとして活躍するようになったものの、それぞれの仕事の雇用の際、国籍・米国滞在資格については「アメリカ市民」と記入しながら、いつ事実が発覚して国外退去処分になるかとハラハラしながら10年以上暮らしていた。

さまざまな州での非合法移民の扱いや、連邦政府の移民法をめぐる議論が高まるなか、彼は2011年に自分が「非合法移民」であることを公開することを決意。高校の授業の最中に自分がゲイであることを告白した彼にとっては、2度目の「カミング・アウト」であったが、今度は、全国ネットのテレビ番組ですでに著名なジャーナリストとなった彼が「非合法移民」であるという事実を公開したことで、非常に大きな反響を呼ぶこととなった。自分の物語を通じて、移民法改正の議論に携わる政治家はもちろん、日常生活のさまざまな側面で非合法移民とかかわる一般の「アメリカ人」たちに、移民法のありかたについて考えてもらうきっかけを作ろうと、Vargasは、その後、自分の生い立ちについての長文記事をニューヨーク・タイムズで発表したり、各種メディアに出演したり、保守派の有力な地域で講演をおこなったりしながら、その様子をみずからドキュメンタリー映画として追っていく。その過程で、現在約1100万人と想定されるアメリカの「非合法移民」たちがその立場におかれるようになった経緯や生活ぶり、現行のアメリカ移民法の複雑さ、アメリカのさまざまな地域における人種をめぐる議論などが、多面的に映し出されます。そして、Vargasがフィリピンを離れてから20年間顔を合わせていない母親(本来は、息子を追って渡米する計画だったのが、移民ビザはもちろん、帰国資金が証明できないため観光ビザすら入手できず、フィリピンに残ったまま20年間が経過。渡米後数年間はVargasは母親と頻繁に文通をしていたものの、自分のアメリカでの立場に向き合うにつれ、そのような形で自分をアメリカに送り出した母親に対して冷たい気持ちを抱くようになった彼は、その後連絡を絶ち、ジャーナリストとして名を成してから母親がフェースブックで友達申請をしてきても拒否していた)とスカイプで対面するシーンには、とりわけ多くのことを考えさせられます。

「非合法移民」としてアメリカに居住する人々は、世界各地から来ているものの、とくにフィリピンは、米国植民地の歴史、マルコス政権期の政治経済体制、現在の経済状況などさまざまな要因で、とくにアメリカへの合法・非合法の移民を非常に多く送り出してきており、夫婦や親子が10年以上も離ればなれで暮らすことも珍しくありません。とくにアメリカや香港などでの家事労働者として働く女性たちは、自分の子供をフィリピンに置いたまま何年間も他人の子供の世話をすることで、フィリピンの家族を養うというケースが非常に多くなっています。こうした家族形態を生むグローバルな経済不均衡のなかで、人々がどのような経緯で、どのような思いで国境を越え、アメリカでどのような暮らしを送り、「アメリカ人」からどのような扱いや視線を受けているのか、「非合法」な人たちが「合法」な立場を手に入れることがなぜできないかが、生身の形で伝わってくる映画です。

上映後のレセプションでは、Vargasおよび司会者の意向で、参加者全員「移民」をめぐる話をtシェアし、さまざまな物語が交わされました。サモアやメキシコから非合法移民として入国して10数年がたつという人たちや、合法的な移民でありながらもアメリカ国籍に帰化する手続きに15年かかっているという原始物理学者を母親にもつという人の話を聞きながら、ハワイという、移民とその子孫が人口の大多数を占めている場所でも、現在移民法によってさまざまな形の差別が存在し、それと同時に合法的にこの土地で暮らしている人たちがそうした非合法な人たちの労働に依存している、という状況を、改めて実感しました。

「移民」とくに「非合法移民」というカテゴリーそのものが身近でない多くの日本の人たちに是非みてもらいたい作品です。

2013年9月29日日曜日

海を渡るキティちゃんの「ピンク・グローバリゼーション」

あるジェンダー研究の学術誌に書評を頼まれて読んだのが、ハワイ大学の同僚Christine R. Yanoによる、Pink Globalization: Hello Kitty's Trek Across the Pacific。その名のとおり、ハロー・キティの世界的な人気の意味を探る、文化人類学そしてカルチュラル・スタディーズの手法を使った研究。私は小学生の頃はキティちゃんを可愛いと思ったけれど、今ではむしろ不気味に感じるし、大のおとながキティちゃんグッズを持っているのを目撃すると、まったく大きなお世話ながら「アホかいな」という気持ちにすらなる。こういう子供向けのキャラクターが、銀行の通帳だの飛行機の機体だのについているのを見ると、腹立たしくすらなる、というのが正直なところ。で、いくら研究書とはいえ、わざわざハロー・キティ(「キティちゃん」とまるで知り合いかのような呼び方をしなければいけないことすら腹立たしい:))について勉強するために自分の貴重な時間を割こうとは思わないのですが、著者のChrisは、なにしろ私が心から尊敬する、知性と感性と文章力がピカイチの人物で、これまでの著書(彼女と私は同じ年にハワイ大学に就職したのですが、私が研究書を2冊出すあいだに彼女はすでに4冊出している)もすべて拍手したくなるほど素晴らしいので、書評を頼まれたのを機に読むことにした次第。

いや〜、さすがChris。この白くて丸くてピンクのリボンをつけたネコから、こんなに多くのことを考えさせられるとは思いませんでした。かといって、この本を読み終わった私が、じゃあこれからキティちゃんグッズを店で買うかといったら答は大きな「ノー」ですが、ハロー・キティのもつ意味をもっと多面的に考える機会になったことは確かです。このネコを通じて、ジェンダー規範や性、人種のステレオタイプ、消費主義と表現の自由、芸術の創造性と企業のマーケティング戦略、政府の文化政策と企業や消費者の論理など、実にさまざまな大きなテーマを考えさせられるのです。

著者がこの本で枠組として使っているのが、「ピンク・グローバリゼーション」という概念。「『カワイイ』とされている商品やイメージが、日本からアメリカなどの先進国へと国境を越えて広がること」と著者は説明します。この独特な形のグローバリゼーションは、いろいろな意味で「典型的」なグローバリゼーションの常識や流れを揺さぶるもの。まずは、ポスト・フェミニズムの時代において、「カワイイものはカッコいい」とするこの独自の美学は、いわゆる「ピンク」なもの—つまり、可愛らしく、女性らしく、性的で、情感に訴えるもの—を、女性の重要な一部として賛美する。そして、女性(また男性も)はその「カワイイもの」を武器として、さまざまな自己表現をしたり社会への問いかけをしたりする。("Pink is the new black"だそうな。)ほほう。そしてまた、白人西洋社会から世界の他の地域へと流れる「グローバリゼーション」と違って、キティちゃんの「ピンク」なグローバリゼーションは、日本を出発点として、アメリカやラテン・アメリカ、アジアの他の地域などへと広がっている。しかし、このピンク・グローバリゼーションが従来の世界力学を覆しているかというと、そういうわけではない。ミッキーマウスやバービー人形、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのおじさんなどのキャラクターが、そのキャラクターを超えてその背景にある「アメリカ」のライフスタイルや経済・文化を象徴するようになっている(そして世界が一面的に「ディズニー化」「マクドナルド化」するのを批判したりおそれたりする人たちがいる)のとは対照的に、キティちゃんがいくら世界で人気だからといって、それを日本による世界制覇の象徴とみて脅威を感じる人は少ない。キティちゃんのグローバリゼーションは、白人西洋中心の文化的ヘゲモニーを揺さぶるものではないのだ。なにしろ、キティちゃんの苗字は「ホワイト」で、キティちゃんとその家族はイギリスに住んでいて、キティちゃんはピアノとテニスが趣味で、ディア・ダニエルという名前のボーイフレンドがいるのだから。

著者は私が感心する名エスノグラファーで、インタビューで人から面白い話を聞き出すのが実に上手なのだが、この本でもそれが明らか。ハロー・キティのファンや収集家、キティちゃんをテーマにした作品を作っている各種メディアのアーティスト、サンリオの日本本社そしてアメリカの支社の代表者などとのインタビューをふんだんに盛り込みながら、ハロー・キティがもつ実に多様な意味を披露すると同時に、キティちゃんのピンク・グローバリゼーションを、より大きな歴史的・政治的・経済的な流れのなかに位置づけます。キティちゃんのファンは、少女たちだけではない。とくにアメリカでは、女性もいれば男性もいる。アジア系アメリカ人もいればヒスパニック系の人もいる。メディア・パーソナリティもいれば会社員もいる。パンク・ロッカーもいればポルノ女優もいる。ゲイの男性もいればレズビアンもいる。そして、みずからも異常と認めるほどキティちゃんグッズにお金や時間をかける人たちもいるいっぽうで、キティちゃん(が象徴するもの)を激しく批判する人たちもいる。キティちゃんの「可愛らしさ」を、幸せ、無垢、親密さなどの象徴とみる人たちがいるいっぽうで、幼稚さ、無力さ、人種や性のステレオタイプ、商品フェティシズム、少女や思春期の女性を消費者として狙い撃ちにする企業文化の象徴とみる人たちもいる。キティちゃん反対論者の多くは、キティちゃんには口がない、という点をとくに問題視する。口がないということは、声を発するすべを持たない、ということであり、アジア女性を無口で従順な存在とするステレオタイプを強調するものだ、という見方である。このように、キティちゃんが内包する「意味」は、実に多様で曖昧で相矛盾するものであり、著者はどの見方に軍配を上げるでもなく、それぞれを丁寧に読み解いていく。

著者の分析においてとくに重要なのが「遊び」と「ウィンク」という概念。ハロー・キティをこよなく愛する人も、痛烈に批判する人も、キティちゃんとのかかわりかたはきわめて意図的なもので、キティちゃんを通じて、消費主義、キッチュの美学、商品フェティシズムなどに対して、遊び心いっぱいに片目でウィンクしながら挑戦を投げかけている。こうした「ウィンク」のもつ先鋭性に、著者はピンク・グローバリゼーションの威力をみる。しかし、それと同時に、著者は、ピンク・グローバリゼーションの限界も見逃さない。消費者やアーティストたちが、キティちゃんを手に取り援用して独自の声を発し、さまざまな挑戦をしかけるいっぽうで、サンリオという企業は、そうした援用をさらに企業のマーケティング戦略に巧みに取り込んでいく。また、小泉首相が提唱した「クール・ジャパン」キャンペーンの一環で、キティちゃんをはじめとする「カワイイ」日本のキャラクターが「ソフト・パワー」外交の親善大使として使われるようになる。このような流れのなかで、創造性とキッチュ、芸術と商業、転覆と収斂、ピンクとブラック、そうした境界はきわめて曖昧なものである、ということを示して、「ピンク」や「ウィンク」のもつ可能性と限界の両方を露呈するのです。

ニューヨークのパーク・アヴェニューの企業オフィスの明かりがほんのりと光るだけの夜の暗闇を背景に、巨大な真っ白のキティちゃんの人形が空を浮いている画像の上に、ピンクの帯がタイトルを縁取っている表紙。「ピンク」と「ブラック」と「ホワイト」が象徴するものの相関関係を探る研究書の表紙としては、なんとも見事なデザインであります。

2013年9月22日日曜日

デジタル時代のリベラル・フェミニスト、シェリル・サンドバーグ

先日のハーバード・ビジネススクールについての投稿のなかで、Facebook社の最高執行責任者(COO)であるシェリル・サンドバーグ(Sheryl Sandberg)の名前をちらっと出しました。ある企画のために、彼女についての文章をちょうど書いたところだったのですが、ワタクシの勝手な事情で、その企画を当面棚上げということにしていただいたので、せっかく書いた文章を発表する場がなくなってしまいました。ボツにするのももったいないので、ちょっと長いですが、ここに掲載いたします。もとの企画というのは、『現代アメリカ女性25人』(仮題)、つまり、現在さまざまな分野で活躍する女性25人にについて、ちょっと突っ込んだ形で紹介する、というものだったので、そういう文脈でサンドバーグについて書いています。
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エリートとしての出発

 20133月に米国で発売され即座にベストセラーになったサンドバーグの著書、『Lean In: Women, Work, and the Will to Lead 』(邦題『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』)は、書店に並ぶ前から各種メディアで 大きな話題を呼んでいた。 サンドバーグは21世紀アメリカ女性のリーダーである、と賞賛する人々がいるいっぽうで、サンドバーグはアンチ・フェミニズムの象徴である、などと痛烈な批判をする論客も多く現れた。そのくらい、サンドバーグという女性の存在は大きい。じっさい、サンドバーグは2012年には『タイム』誌の「世界でもっとも影響力をもつ女性100人」のひとりに選ばれている。
 サンドバーグの「本職」は、とりわけ女性が入り込みにくいIT産業における企業経営であるが、彼女がこの業界に入ったのは2001年のことであり、それ以前は、経済政策に携わっていた。1991年にハーバード大学を経済専攻で卒業し、指導教授であったローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)に引き抜かれ、世界銀行でインドの医療関係のプロジェクトに取り組む、というのが彼女の社会人としての仕事の第一歩であった。ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得したのちは、マッキンゼー・アンド・カンパニーで経営コンサルタントを1年ほど務めたが、その後1996年から5年間にわたり、クリントン政権下で財務長官となったサマーズの首席補佐官となり、アジア諸国の金融危機の際の負債の取り扱いにかかわった。
 このように、サンドバーグの社会人としての出発 において、サマーズが大きな役割を果たしている。サマーズは、ハーバード大学総長就任中に、経済調査局での講演で「科学や工学で女性の功績が少ないのは、男女間に生まれつきの資質の差があるからではないか」との発言をして議論を巻き起こし、その他の騒動も重なって、総長辞任に追い込まれた経験をもつ人物である。サンドバーグは、この騒動にかんして、「サマーズの発言は本人も後で認めているように、たしかに不適切で感性に欠けたものだったが、彼のこれまでの実績からも、彼はつねに女性の地位や経済的自立の向上に献身している人物であることは間違いない」、と擁護している。

シリコン・バレーに乗り出す女性パイオニア

 2000年の選挙で民主党が敗退した後、サンドバーグは「世界の情報を自由に入手可能にする」というミッションに惹かれたサンドバーグは、西海岸のシリコン・バレーに移った 。政府機関や大企業での経歴を積んできた彼女が、西海岸の若者文化と男性優位のIT産業の体質に馴染むことができるかどうか、疑問を呈するものもいたが、サンドバーグは2001年にグーグル社に入社し、同社の広告・出版関連商品の販売やグーグル書籍検索の運営販売を担当し、副社長の地位についた。今でも女性の進出が少ないIT業界でこうしてリーダー的立場に立ったサンドバーグは、2007年のクリスマスパーティでFacebookの創設者であるマーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)と出会い、以後数ヶ月にわたって、連夜遅くまで話し込む関係となった。
 20083月、Facebookはサンドバーグの採用を発表。当時、ワシントン・ポスト社のシニア・エグゼクティブの職を検討していたサンドバーグにとって、グーグル社から2004年に数人の大学生によって創設されたばかりのソーシャル・ネットワーク・サイトであるFacebookに移るのは、大きなリスクを伴うものであった。
 サンドバーグが入社した当時のFacebookは、「いいサイトを作れば利益はしぜんについてくる」という原理で動いており、利益追求についての明確な方針をもっていなかった。そうしたなかで、サンドバーグの指揮のもとFacebookは広告収入拡大の方針をとることで、2010年から収益をあげる企業となった。同社によると、サンドバーグは、販売、マーケティング、ビジネス開発、人材開発、コミュニケーションなどにかかわるビジネス運営を司っている。
 20136月時点で、Facebookは世界で699百万人のユーザーが毎日利用し、そのうちの約80パーセントが北米以外の地域在住という、まさにグローバルなソーシャル・ネットワーク・サイトとなっており、その影響力は友達同士のコミュニケーションを超えて、国際政治にまで及んでいる。しかし、Facebook20125月にNASDAQ証券取引所で新規株式公開をしたものの、その株価は低迷を続け、公開価格と同じ水準まで回復するのに1年以上の期間がかかっている。また、個人情報のセキュリティ管理について批判の声もあがり、「時の人」であるザッカーバーグは何度もFacebookの方針を弁護したり改めたりする立場に立たされてきている。そうしたなかで、経営手腕とともに政府や公的機関での職歴をもつサンドバーグの視点と能力は、Facebookに重要な役割を果たしているといえるだろう。

『リーン・イン』のメッセージ

 サンドバーグが、IT業界を超えて広く注目を集めるようになったのは、女性の社会進出にかんするテーマで講演や執筆活動をするようになってからである。グーグル勤務中の2004年に長年の親友であったデイヴィッド・ゴールドバーグ(David Goldberg IT業界の起業家で、現在はオンライン調査会社のSurveyMonkeyの取締役を務めている)と結婚し、翌年第一子を出産したサンドバーグは、自身のライフワークバランスの問題に直面するようになった。グーグルに勤める周囲の有能な女性が多くの場合出産後に仕事を辞めてしまうのを目の当たりにし、また、採用時には男女が同等に仕事を始めるにもかかわらず、何年かたつと男性のほうが積極的に新しい大きな企画に取り組み昇進していくようになる様子を見て、サンドバーグは働く女性をめぐる問題意識をもつようになり、女性のキャリアやライフワークバランスについての講演や執筆をするようになった。
 とくに、201012月に、多様な分野のリーダーたちの講演会を企画運営するグループTED (Technology, Entertainment, Design)で、「“Why we have too few women leaders”(なぜ世の中には女性のリーダーが少ないのか)」というタイトルの講演をし 、また翌年5月にはバーナード大学の卒業式で同様のテーマの講演をして大きな話題を呼んだ。 両方においてサンドバーグは、後に著書のタイトルとなるlean in、つまり、「前のめりになって一歩を踏み出す」ということの重要性を強調した。
 現代の若い女性が、母親や祖母の世代と比べるとずっと幅広い機会や権利を与えられているにもかかわらず、依然として社会全体においてリーダーシップを握る立場にいる女性が少ない理由の一部は、女性たち自身の姿勢や選択にある、というのがサンドバーグのメッセージの核にある。
 まず、有能で野心のある女性でも、多くの場合 、仕事につく時点ですでに男性に遅れをとる。職をオファーされた男性の57パーセントは、なるべく高い給与で採用されるよう積極的に交渉するのに対して、同様の交渉をする女性は7パーセントしかいない。入社後も、男性が自分の業績や企画をアピールして昇給や昇進を要求することはごく普通のことで、そうした姿勢は能力の一部として評価されるのに対して、同じような行動をする女性は「傲慢だ」「攻撃的だ」と受け取られがちで、女性自身もそうした行動をしないことが多い。結果的に、 仕事を始めてから数年のうちに、同レベルの能力や業績をもつ男女のあいだで、給与や役職に明らかな差が出る。職場の日常的な場面でも、女性は無意識のうちに男性よりも一歩後ろの位置に自分を置きがちである。重要な人物と席を共にする会議のときに、 誰に言われるでもなく、女性は後ろの席に座って「聞く側」に自らを置くのに対して、男性は真ん中のテーブルの席について積極的に発言しようとする。講演会で質疑応答の時間に、質問をしようと手を挙げているときに、「質問はあとひとつだけ受け付けます」と言われると、たいていの女性は挙げていた手を下ろしてしまうのに対して、男性は最後まで手を挙げ続ける。 そうした姿勢が、社会における男女の位置づけに大きな違いをもたらしている、と指摘するサンドバーグは、女性はまず職場において、自分の存在をアピールし、堂々と発言する立場の人間であるということを、周囲に明確にする必要がある、と主張する。
 またサンドバーグは、多くの働く女性は、出産時に一時的に職場を離れるが、実際に産休に入る前から、大きな企画への参加をためらったり、責任ある役割を辞退したりして、自ら一歩後ろの立場に下がってしまう場合が多く、それが業績 に反映され、出産後の職場復帰を困難にする結果になる、とも指摘する。このような傾向が、長期的に女性の活躍を妨げ、社会全体における女性進出を遅らせている、と観察するサンドバーグは、女性は、選択する職種や生き方にかかわらず、社会に出るときからずっと、全力を投球して、前のめりの姿勢で、仕事に向かうべきだ、と唱える。
 女性が社会で重要な役割を果たせるためには、家庭において男女が真に平等に役割分担をする「本物のパートナー」を選ぶ必要がある、というのもサンドバーグの重要なメッセージのひとつである。きわめて恵まれた境遇にある自分と夫にとっても、日々の子供の送り迎えから食事にいたるまで、仕事と子育ての両立は複雑であるというサンドバーグは、家事や子育てを平等に分担し、 仕事の上でも人生全般においても、相談相手かつ親友でいてくれる相手を伴侶としなければ、女性が仕事に全力投球することは難しい、と説く。
 さらに サンドバーグは、「メンター」の重要性 についても強調する。「メンター」とは、自分を指導したり相談にのったりしてくれる先輩で、かつ、自分を応援し後押ししてくれる後見人のような立場の人間を指す。プロフェッショナルな世界で仕事をする男性は、職場の人脈のなかでしぜんにそうしたメンターを何人ももつようになるのに対して、男性多数の環境で働く女性は、自分にとってのロール・モデルとなる人物が少なく、メンターとしての役割を演じてくれる人を見つけるのが難しい。しかし、メンターをもつことが重要だからといって、 忙しい先輩にむやみと「メンターになってもらえますか」などとアプローチするのは見当違いである、というのがサンドバーグの冷静なアドバイスだ。メンターというのは、お願いしてなってもらうものではない。真面目にいい仕事をしていれば、見ている人はちゃんと見ていて、後進を育てるためにすすんでメンターの役割を買って出てくれるものである。自分がお手本としたいような先輩に出会ったら、その人物に認められるようないい仕事をしながら、その人物の時間や労力を無駄にしない効率的な形で、積極的に質問や相談をもちかける。そうしているうちに、しぜんと自分の味方になってくれるメンターができる、という。
 
サンドバーグの「フェミニズム」が呼ぶ批判

 現代アメリカのビジネス界でもっとも成功している女性のひとりであるサンドバーグのこうしたアドバイスは、すべて職場や文化の現実に即していて実際的であり、女性に意欲と勇気を湧かせると同時に、自分自身の意識や行動を振り返させるものである。では、サンドバーグが熱烈なファンを集めるのと同時に、彼女が現代アメリカのフェミニストとして持ち上げられることを痛烈に批判する人たちが多いのはなぜだろうか。
 サンドバーグに向けられる批判は、いくつかの点にまとめられる。
 ひとつは、サンドバーグのような例外的なエリートが論じる「女性解放」は、一般女性の現実に適用できるものではなく、彼女のような人物が女性の「代表」としてフェミニズムを論じるのは問題である、という説。アメリカの政・財・学界でもっとも影響力をもつ人物であるサマーズの愛弟子としてハーバード大学を卒業し、官民ともにおいて強大なコネクションをもち、Facebookの株が公開されてからはアメリカの財界で最大の富をもつ女性のひとりとなった(2013年時点で、サンドバーグのFacebookでの基本給は328千ドル、ボーナスは277千ドル、それに加え、株公開による彼女の収入は846百万ドルと想定されている)サンドバーグが、たいへん恵まれた立場にいることは間違いない。 公的な医療保険制度がじゅうぶんに整備されておらず、育児休暇や保育制度においてほかの先進国よりずっと遅れをとっているアメリカにおいても、サンドバーグのような人物は、財力や人脈によって日常生活の多くの問題を解決することができる。そのような人物は、職にありつけず生活に困窮する女性、解雇をおそれて職場での不当な扱いに抗議することができない女性、子育てや介護をしながら仕事をする女性の現実を理解することができない、という論である。
 また、女性が自らの意識や行動を変える必要がある、と説くサンドバーグは、法的制度の不備や、文化的偏見、差別といった女性にとっての障壁を問題にするのではなく、女性自身を批判している、つまり、「被害者を責める」アプローチをとっている、という批判もある。たしかに、サンドバーグの講演や著書の重点は、制度的な問題よりも、女性自身の態度に置かれており、「女性がじゅうぶんな社会進出を果たしていないのは、女性自身に問題がある」というメッセージを読み取る読者が少なくないのも不思議ではない。そうした論者は、女性が必要としているのは、自身の意識や行動の変革ではなく、雇用の安定、 正当な給与、保育制度、心身の安全などである、と強調する。
 「私はいつも、自分が社会運動を運営する、具体的には非営利団体で仕事をすると思っていました。自分が民間企業で仕事をするようになるとは思っていませんでした」と語るサンドバーグの、「社会運動」や「フェミニズム」のビジョンを疑問視するものも少なくない。社会運動とは、誰かが「運営」しようと思って上から起こすものではなく、人々が草の根から集まって生まれるものである。また、社会運動としてのフェミニズムが目指すものは、女性の個人的充足や幸せではなく、権利の平等、機会の均等、心身の安全と健康、経済活動の健全、福祉制度の整備などといった社会正義を追求することであるはずが、サンドバーグ版のフェミニズムでは、「女性の問題」は、職場における発言力やライフワークバランス、個人の充足感の問題に還元されている、という批判である。
 さらに、「(女性の仕事についての問題を)真剣に取り上げようというのであれば、まずFacebook社で清掃士をしている女性たちが、毎月どれだけの給与を受け取っているのか、彼女たちには年金が与えられるのか、有給休暇はあるのか、どんな保育制度があるのかを、訊いてみるといいだろう」という例にみられるように、サンドバーグの主張と、自身の職場における女性の扱いの矛盾が取り上げられることもある。2013年には、サンドバーグが主催する財団LeanIn.Orgのスタッフが、 ニューヨーク事務所で 無給のインターンをFacebook上で募集したところ、「財団の活動にはおおいに賛同するし、そうした活動にかかわって経験を積みたい女性は数多くいるが、とくにニューヨークのような物価の高い都市で長期間無給で仕事をしながら生活できるような女性は、ごく限られた裕福な人たちだけであって、こうした経験を積む機会を実質的にそうした人たちに限定するのは、女性の社会進出を主旨とするLeanIn.Orgにふさわしくない」という批判がネット上にあふれた。こうした議論に応えて、同財団では、募集した無給インターンは、自由な時間に遠隔地でボランティアとして仕事に携わり、有給スタッフの代替として使われたものではないが、今後LeanIn.Orgで正式なインターンシップ制度を開始するにあたっては、有給制にする、との発表をしている。

2010年代型「リベラル・フェミニズム」

 『LEAN IN』にまとめられている考えやメッセージ、そして、サンドバーグが巻き起こした議論は、さまざまな意味で、1970年代のアメリカのフェミニズム運動の歴史を彷彿とさせるもので、それに向けられる批判も含めてアメリカ2010年代型の「リベラル・フェミニズム」ともいえる。
 1963年に刊行されて大きな旋風を巻き起こしたベティ・フリーダン(Betty Friedan)の『Feminine Mystique(邦題『新しい女性の創造』)は、主婦としての生活に不満を感じながらも、 「女性らしさ」の神話に捉えられて苦悩する女性たちの「わな」を描いたものである。1966年にNational Organization for Women (NOW、全米女性連盟)の初代会長となったフリーダンは、女性の法的権利や政治参加、雇用均等などの諸問題の旗手として多大な影響力を発揮し、いわゆる「第二次フェミニズム(second-wave feminism)」の象徴となった。
 第二次フェミニズムの力は、制度的改革と同時に、女性個人の意識変革による部分が大きかった。フリーダンの著書に触発された女性たちは、アメリカ各地でconsciousness-raising groupと呼ばれる活動をするようになった。女性が小人数のグループで定期的に集まり、自らの日常生活 や人間関係を振り返り、個人的な経験を話し合うことで、各人の意識を覚醒し、家庭生活や恋愛関係をはじめとする「パーソナル」な領域から男女の力学を変革しよう、という主旨 で、とくに1970年代の多くの女性にとって大きなインパクトを与えた活動である。
 アメリカのジェンダー力学に非常に大きな変化をもたらした第二次フェミニズムであるが、やがて運動内部からさまざまな批判・対立や分裂が生まれた。すべての女性のための運動であるはずのフェミニズムは、実際にはミドルクラスの白人女性によって支配されており、ホワイトカラーの職場における男女機会均等などといった問題が運動の中心となってきた。非白人女性や移民女性、労働者階級の女性、レズビアンの女性などが日々直面する問題は、第二次フェミニズムが取り上げるものとは性質を異にするものである。さらに、consciousness-raising groupは、社会制度から「パーソナル」な問題に目をそらし、自己満足やナルシシズムを助長している 。こうした批判から、真の「女性解放運動」は、「女性」をより包括的に理解し、人種や社会階層やセクシュアリティなどとの相関関係において「女性問題」をとりあげる必要がある、と主張する女性たちが、1980年代からいわゆる「第三次フェミニズム」を提唱するようになったのである。
 いろいろな意味で、サンドバーグに向けられる批判は、こうした20世紀後半の フェミニズムの変遷を彷彿とさせるものである。女性の意識や行動を変革し、キャリアに全力で乗り出し、ライフワークバランスを実現しながら女性が職場そして社会のリーダーになっていくことを提唱するサンドバーグの「フェミニズム」は、たしかに、非合法移民であるために搾取的な環境での仕事を強いられながら助けを求められない女性や、家庭で夫や恋人に暴力を受けている女性など、現実に数多く存在する女性の目前の問題に対応するものではない。また、既存社会での女性の進出を目指す「フェミニズム」は、そもそも資本主義経済が内包する不均衡や、異性愛を軸とする家族形態の規範などを根本的に問い直すものではない。  
 巻き起こした旋風、そして火をつけた議論や批判の両方において、サンドバーグは、21世紀版のリベラル・フェミニズムの象徴といえる。実際、サンドバーグは、著書と併行して、 LeanIn.Orgという財団を主催し、10人前後の同年代の女性たちが「サークル」を作り、定期的に集まって、提供されたネット上の講演や ディスカッション・ガイドを使って、夢の実現を促進するという、 まさに、21世紀版のconsciousness-raising group活動を行っている。サンドバーグの21世紀型リベラル・フェミニズムが、この世代の女性たちにどのような遺産を残すかは、数十年後に明らかになるだろう。

参考文献


Maureen Dowd, “PompomGirl for Feminism,” New York Times (February 23, 2013)

Catherine Rottenberg, “Hijacking Feminism,” Al Jazeera English (March 25, 2013)

Sheryl Sandberg, Lean In: Women, Work and the Will to Lead (New York: Knopf, 2013) 邦題『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』川本裕子、村井章子訳 (日本経済新聞出版社、2013年)