2016年11月21日月曜日

選挙直後のAmerican Studies Association 年次大会をふりかえって

コロラド州デンヴァーで4日間にわたって開催された、American Studies Associationの年次大会から帰ってきたところです。大学院生の頃からほぼ毎年参加してきたこの学会は、私にとっては知的な故郷ともいえる集まりです。アメリカにおけるAmerican Studiesという分野は、1930年代頃に書かれた包括的なアメリカ思想史や、「ニュー•クリティシズム」とよばれる文学批評のありかたへの批判から生まれた新たな文学•文化史研究にその起源がありますが、とくに1960年代からは、さまざまな社会運動に深くかかわってきた人たちがリーダーとなって、エスニック•スタディーズやジェンダー•スタディーズなどと密接につながりながら発展してきました。政治•思想的には、いわゆる「左」の人たちが圧倒的。リベラリズムの批判分析は大いになされますが、それは保守からではなくリベラリズムよりさらに左の視点からなされる、というのがこの学会の特徴です。学会の運営に携わる役員や年次大会のプログラム委員などの顔ぶれを見ても、白人男性はむしろ少数派で、学会での研究報告者や参加者たちも、人種やジェンダー、セクシュアリティなどにおいて実に多様。こういった集団ですから、トランプが大統領に選ばれた直後の年次大会は、例年にまして切迫感があるものでした。年次大会のプログラムをさっと見ると、いったいどんな学会なのか雰囲気が少しわかると思うので、興味のあるかたはこちらをご覧ください。

私は2年半前から、この学会の学術誌であるAmericanQuarterlyというジャーナルの編集長を務めています。この仕事についてはまた別の機会に投稿するつもりですが、編集長の任務中、年次大会では、編集会議だの学会の役員会議だのジャーナル主催のパネルの司会だのといった仕事がいっぱいで、何百とあるパネルを見学する時間がほとんどない、といった状態なのが無念。今回の年次大会では、 今年度の学会長であるRobert Warrior氏(彼はオサージ族のネイティヴ•アメリカンです)とプログラム委員のイニシアティヴで、選挙結果を受けて緊急に企画されたパネルもいくつもありました( 強制送還される可能性のある移民の学生を保護するための大学サンクチュアリ運動についてのセッションや、ダコタ•アクセス•パイプライン問題についてのセッションなど)。選挙の結果にショックを受けながらも、人種やジェンダーなどにかんする専門知識と長年の社会運動の蓄積、そして行動力と組織力を武器に、学会そして社会全体にとってのこれからの課題を活発に議論する人々のエネルギーに、力をもらいました。

見学することのできたもののなかでとくに印象的だったのが、政治•政策部会によって企画されたセッションで、部会のメンバー4人が今回の選挙結果について議論したパネル。American Studiesは学際的な手法に重きをおく分野なので、年次大会での報告やジャーナルに掲載される論文は、従来のディシプリンの枠を超えた分析手法を使ったものが多く、選挙のような狭義の「政治」を扱う場合にも、正統的な政治学で使われる手法とはずいぶん違った議論になるのですが、このセッションでは、American Studiesとかかわりをもちながらも政治学部に籍を置く研究者たち4人による報告だったのが特徴的。政治学の専門家が正面から選挙を分析することの有用性を感じると同時に、「う〜む」と思わされることも多いセッションでした。

その「う〜む」は、American Studiesと政治学との間にある明らかなギャップからくるものでした。4人の報告は、1970年代頃からのアメリカ政治における南部の流れ、今回の選挙での人種意識の動員のされかたや「セクシズム」の再構築のありかた、テレビなどの従来のメディアとソーシャル•メディアのかかわりなど、それぞれ学ぶところが多く、選挙以来いろいろ読んできた記事で得た情報を深めてくれるものでした。が、私がなにより気になったのは、いわゆる「インターセクショナリティ」(intersectionality)の分析の欠如。

ブログ投稿で「インターセクショナリティ」を簡潔に説明するのは無理があるのですが、あえてするなら、人種•民族•国籍•ジェンダー•性的指向•階級などといった社会的カテゴリー は、それぞれが別個に存在しているのではなく、相互に作用しながら形成されている、という考えかたのもとに、そうしたカテゴリーを軸にした力の不均衡のありかたを分析するものです。「インターセクショナリティ」という単語は、キンバリー•クレンショー(Kimberlé Crenshaw)という人種理論を専門とする法学者が1989年に発表した論文の影響によって一般化してきましたが、その考えかた自体は、1960〜1970年代のフェミニズム運動、とくに白人ミドルクラス女性の視点や経験を中心にしたフェミニズムを批判する第3次フェミニズムのなかで、さまざまな形で実践されてきたものです。

たとえば、労働者階級の黒人女性の経験や位置づけは、(「労働者階級」の搾取)+(「黒人」に対する差別)+(「女性」の抑圧)によってできているという、「足し算」方式の理解では不十分で、そもそも「労働者」という概念がどのような人種的•性的意味づけをもって構築されてきたか、「黒人」としてのアイデンティティにはどのような性的意味づけが社会によってなされ、黒人コミュニティのなかでどのような性的規範が機能しているか、「女性」としての尊厳や理想にはどのような人種的•階級的意味付けが伴うか、といった、カテゴリーの「交差」を考えなければ、「労働者階級の黒人女性の経験や位置づけ」は理解できない。「カテゴリーの相互構築」を少し具体化していえば、19世紀の産業化のなかで、白人男性の労働者たちは、自分たちは「(黒人)奴隷ではない」「(中国人)苦力ではない」などと、人種的意味付けをされた他の労働形態と自らを差別化して階級意識を形成してきた。20世紀、とくに第二次大戦後から1970年代までには、工場などで身体を使って作業するなかで培われた 男性同士のつながりが、多くの場合労働組合によって組織化され、「家族を養う」という立場や能力が「労働者階級男性」としてのアイデンティティの中核をなすようになった。その中で、「男性不在の家庭」とレッテルを貼られた黒人や、女性の社会進出によって共働き家庭が一般化した白人ミドルクラスとの区別が、現実においても意識においても強化された。といった具合に、「労働者階級」というカテゴリー自体に、人種的•ジェンダー的刻印がなされているわけです。

ここ数十年における南部や中西部の保守化、とくに今回の選挙の流れは、このような人種•階層•ジェンダーなどの相互構築の様相をきちんと分析しなければ理解できないはずなのですが、メディアに出てくる記事などで、個々の分析はとても納得のいくものであっても、この「インターセクショナリティ」を満足のいく形でとらえたものはほとんど目にしません。そして、そうした記事を書いているのは、多くの場合政治学者。政治学者をひとまとめにして批判するつもりはありませんが、なぜAmerican Studiesでは常識となっているインターセクショナル分析が、政治学には応用されにくいのか、というのが素朴な疑問で、質疑応答の時間に質問してみました。すると、4人のパネリストは深く頷きながら、「その指摘の通り、政治学という分野はインターセクショナリティを扱う道具をもっていない。数量的分析を主な手法とする正統的な政治学では、統計をとったり分析したりするにあたって、人種•性•学歴などの変数を互いに分解して扱わなければいけないと同時に、人種意識やセクシズムなどを『測量』する方法も、American Studiesの視点から見れば馬鹿げているとしか思えないような手法しかもっていない。歴史的視点と質的分析をもってインターセクショナリティのありかたを深く扱ってきたAmerican Studiesから、政治学は学ぶべきことが多い」との回答でした。それと同時に、真に学際的な研究が、これからの社会にますます必要とされている。だからこそ、数量的なことは従来あまり扱ってこなかったAmerican Studiesのほうも、政治学から学ぶべきことが多いのだということを、今回の選挙は感じさせてくれました。

ホノルルからデンヴァー(ちなみに、私が到着してからの最初の2日間はハワイとそれほど変わらない気温だったのですが、一晩のあいだになんと気温が20C以上下がり、木曜日はなんと雪でした!)の往復の飛行機のなかで読んだのが、社会学者Arlie HoschildのStrangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right。9月に刊行されたばかりの新刊ですが、この選挙結果により本書のレレバンスはさらに高まり、ベストセラーになっています。選挙の前に読んでいれば、少しはトランプ当選に直面する心と頭の準備ができていたかもしれない。

社会科学的視点(とはいっても、この著者は社会学の中でも質的分析を主な研究手法としているので、大きな「社会科学」のなかではメインストリームではないのでしょうが)とエスノグラフィックな深い質的分析を合わせて、「ティー•パーティ」層といわれる保守派の人々の意識や生活を描いたものです。著者は、アメリカのアカデミアの中でも左で定評のあるカリフォルニア大学バークレー校の社会学者で、これまでにジェンダーや労働や市場を扱った多くの著者がある人物。本書では、5年間にわたって「ティー•パーティ」の牙城のひとつであるルイジアナ州の湿地帯のコミュニティに入り込み、保守派を自負する人々と親しい交友関係を築きながら、彼らの生活や意識を密接に取材し分析しています。とくに、地元に雇用と発展をもたらすとの触れ込みで誘致された石油産業が、地域の環境や経済におよぼしている影響に焦点をあてながら、公害の影響をより受けている地域の人々のほうがそれ以外の地域の人々よりも産業規制に反対するのはなぜか。大企業の利益を優先する政策が彼らの生活をさらに苦しくするにもかかわらず、彼らが自由市場主義を賛美し、共和党を支持し、トランプのような人物に投票するのはなぜか。人々が自らの経済的利害に反する政治的選択をするのはなぜか。といった問いを丁寧に探索していきます。

著者自身はあきらかなリベラルで、研究対象としている人々とは世界観や意識がまるで違い、取材対象の人々もそのことは百も承知。そのうえで、彼らのコミュニティに入り込み、インタビューやフォーカス•グループで率直な話を聞き、一緒に教会やタウン•ミーティングに通い、彼らの見るテレビ番組を見、ひとりひとりの人間として彼らについての理解を深めていきながら、自分自身のなかにある「共感の壁」をなんとか崩そうとする、著者のその真摯な姿勢が、研究者としても人間としても素晴らしい。最終的には「ティー•パーティ」の世界観や政治意識を是認するわけではなく、彼らがもっている考えが事実とどうずれているかをきちんと指摘しているのですが、彼らについて価値判断を下すのではなく、なぜ彼らがそのような意識をもつにいたったのか、彼らにはアメリカ社会や世界がどう見えているのか、をきわめて誠実に描いていて、説得力があります。自分にこういう研究ができるだろうかと考えると、(この著者は白人女性であるのに対して自分は日本人女性である、ということが意味することは別にしても、)私は人格的器量が不十分なような気がします。本書は人種問題については分析が薄く、選挙以後すでに各地で起こっているマイノリティへの攻撃やムスリム「登録制」をめぐる問題についてはこの本の枠組みでは説明できない、という印象ですが(このような質的研究においても、本当に深いインターセクショナル分析を完徹するのはとても難しいのだ、ということを再認識します)、トランプ政権を前に、リベラル•保守の両方の人々に広く読まれるべき一冊だと思います。また、 リベラル•保守にかかわらず、日本の読者にとっては、アメリカの社会の一面を知るうえでとても参考になると思うので、じきに和訳が出版されるのではないでしょうか。

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2016年11月12日土曜日

ブログ再開のご挨拶



個人的な事情により、長いあいだ投稿を中止していましたが、このたびドナルド•トランプ氏が次期大統領に決まったことを機に、ブログ執筆から私を遠ざけていたいろいろな思いを振り切って、再びこのブログを再開することにしました。

トランプの勝利が確定したときには、あまりの衝撃で蒼ざめたまま椅子から立ち上がれない状態がしばらく続きました。政治の展開で自分がこれほど精神的な打撃を受けたことはありません。2000年も2004年も結果に憤怒はしましたが、今回のように涙はしませんでした。

人生の半分をアメリカで過ごし 、いろんなアメリカの姿を見てきて、こうした展開も予想できたはずなのに、なぜ自分がこれだけ衝撃を受けるのだろう。その理由はおもにふたつ考えられます。

ひとつは、アメリカとかかわるようになってからの37年間、私がアメリカについて信じてきたことを、今回ほど根底から否定されたことはなかった、ということ。アメリカの歴史は、虐殺や略奪や追放や排斥や搾取といった、あらゆる暴力に満ちた歴史であり、その社会経済は、人種や国籍や性や階層や性的志向などのさまざまな不均衡のもとに成り立っている、ということは、じゅうぶん認識していたつもりです。それでも、自分があえてアメリカを生活の場として選び、アメリカを理解することを仕事にしているのは、 アメリカという社会 が、自由や平等といった理念を尊び、異なるものを受け入れる包容力を持ち、多様性に価値をおく社会である、と信じてきたからです。そして、多くの人たちがさまざまな社会運動を通じて、社会の不平等や不均衡を少しずつ克服するよう闘ってきたその歴史と姿に、感銘を受けてきたからです。政府やさまざまな制度はともかくとして、アメリカを構成する人々のほとんどは、そうした価値観こそを国のプライドとしている、大らかな人々だと、信じてきました。その信念は、今まで自分が体験してきたことと、身につけてきた知識の両方から培われたものでした。それが、今回のトランプ当選で、根本的に否定されてしまった。少なくともそう思えるほど、トランプ氏が選挙キャンペーン中に公表してきた政策案やこれまでの言動は、そうしたアメリカの価値観の対極にあるものでした。

もうひとつは、アメリカ研究者として、これほど自らの無能と非力を感じたことはなかった、ということ。僅差になる可能性はあっても、いくらなんでもトランプが当選することはあるまい、と確信していました。いや、正直なところを言えば、かなりの大差でクリントンが当選するだろうと思っていました。私自身は、クリントンを熱心に応援していたわけではまったくありません。サンダースを支持していた人たちの多くと同じで、クリントンの背景や政策は支持できないことが多いけれども、いくらなんでもトランプに大統領になられては世界全体が大変なことになるので、妥協候補としてクリントンに投票する、という立場でした。そして、私の周りにはトランプ支持者はひとりもいません。友達の親などで、普段は共和党支持だという人はいても、今回ばかりはいくらなんでもトランプには入れない、と言っていました。もちろん、そもそもトランプが共和党候補として選ばれているのだから、アメリカ全体を見回せば相当数がトランプを支持していることはわかっていたけれど、一連の予想統計をみても、まさかトランプが当選するとは想像しませんでした。予想がまったく外れただけではなく、結果が出てからも、そうなった理由を説明することが自分にはまったくできない。アメリカ研究者を名乗りながら、自分がアメリカの現実から乖離したバブルの中で生きていただけでなく、アメリカの社会をまるで理解していなかった、という事実を、今回ほど残酷に突きつけられたことはなかった。自分はいったいここで何をしているんだろう、私はこれから何をしていけばよいのだろうと、根源的な問いが今も頭のなかを大きく占めています。

選挙翌日のホノルルの様子は、2011.3.11の東日本大震災の翌日の東京と少し似ていました。もちろん、震災は誰も望んでいなかった自然災害であるのに対して、大統領選は国民の約半数が参加した民主的なプロセスで、投票者数の半数近く(絶対得票数ではクリントンが過半数を占めた)が、それが国にとってよいことだと信じて自主的にトランプに投票したのですから、状況としてはまったく比較にならないのはもちろんです。ただ、その事態に直面しての世の中の空気という点では、私がこれまで経験してきたことのなかでは震災翌日の東京がもっとも近い。なにかとんでもない大事態が起こったけれど、それがいったい何を意味しているのかをまだじゅうぶんに把握できず、ただ衝撃と悲しみとパニックが渦巻いているのが、人々の表情に滲み出ているのです。とくにハワイは民主党支持者が圧倒的なので、トランプ当選を祝福している人たちの姿をそのあたりで見かけるわけではなく、呆然とした空気の共有感はさらに大きい。

選挙の翌朝大学に行くと、教員も学生も、顔を合わせると何も言わずに抱擁して泣いている場面を何度もみました。私自身、大学院のゼミの授業では、口にした一文目の途中で泣き出してしまい、それを受けて、学生たちも老若男女を問わず(6人しかいない授業なのですが、イギリスから最近アメリカに帰化した58歳の男性から、30代の先住ハワイアンの男性、父親が軍人でアメリカ各地を転々として育った20代の白人女性、トロント大学を卒業してすぐハワイ大学にやってきたフィリピン系カナダ人女性など、顔ぶれはかなり多様)、みなポロポロと涙を流しながら、思うところを1時間半ほど話し合ってから、予定していた授業の内容に移りました。

しかし、蒼くなって呆然としている、という状態はそう長くは続きませんでした。トランプ政権の誕生によって現実となりうるさまざまな政策案は、ムスリムや移民、LGBTQ、アフリカ系アメリカ人、女性など、さまざまな人たちの権利や安全を脅かすもので、多くの人たちが、その恐怖をすでにとてもリアルに感じている。自分の家族は国外に強制追放されるんだろうかとの恐怖を話しにくる学生、自分は学位取得までアメリカに残れるんだろうかと心配する留学生、やっと 同性のパートナーと結婚したのにそれが無効になるんだろうかと不安を口にする学生。自分が信じてきたアメリカはこんなものではないはずだ、という悲しみは、恐怖と怒りと混ざり合って、一大危機に面した国の空気となっています。学生たちの悲しみや恐怖や怒りを、どのように受け止めれば良いのか。また、少数でも確実に存在するトランプ支持者の学生や、怒りの対象となって自分たちのほうが被害者になったかのように感じる白人学生の思いに、どのように向き合うのが教育者として正しいのか。といった話が、私の同僚たちのあいだでここ数日間ずっとなされています。

多くの人たちが感じている恐怖や不安は、決して想像や思い込みによるものではありません。すでに全国各地で、スワスティカの落書きや、ムスリムの人への暴力行為や、LGBTQへの嫌がらせなどが起こっています。本当に悲しいことに、ハワイ大学のキャンパスのトイレにも、#BlackLivesDon’tMatterという落書きが昨日発見されました。マイノリティや女性への蔑視を堂々と公表した人物が大統領に選ばれたことで、自らの差別意識を正当化された人たちが、暴力的な言動に出る勇気を得ているのです。そして、こうした事件はこれからどんどん増えていくだろうと思わます。

アメリカはこんな国ではないはずだ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか、との思いが募るばかりですが、そのいっぽうで、「やはりこれがアメリカだ」と希望を抱かせてくれることもたくさんあります。あえて大雑把な表現をすれば、なにしろアメリカ人は行動力と組織力のある人たちです。選挙の翌日から、各種団体はもちろん、実に多くの人たちが、トランプが綱領に挙げてきた政策の実現を阻止し、トランプ政権によって立場を脅かされる人々を守るための、具体的な行動を開始しています。それは例えば、国外追放される危険のある学生やその家族たちを守るために、大学のキャンパスを警察や移民管理官が大学の許可なしには入ることのできない保護地域に指定するための署名運動であったり、堕胎の自由が脅かされるであろう状況をふまえてのPlanned Parenthoodなどの団体への寄付強化キャンペーンであったり、暴言暴力や嫌がらせにあった人たちのためのホットラインの設置であったり、ローカルなものから全国的そして国境を超えたものまでさまざまです。
 
また、メディアでも報道されているように、多くの都市で、トランプ当選に抗議する集会や行進が、自然発生的に起こっており、時間が経つにつれて、 運動は組織化されてますます拡大していくでしょう。こうやって、納得のいかない状況を黙って受け入れず、すぐに声をあげ行動に移すアメリカの人たちの態度と組織力を見ると、「そうだ、これこそがアメリカだ」と確認させられます。そしてとくに、高校生や大学生を含む若い人たちが、立ち上がって、雄弁に発言し果敢に行動している姿に、感動と勇気と希望を感じます。

私も昨日、ホノルルのアラモアナ公園前の沿道でのサインホールディングに参加してきました。参加者は百数十人と、大都市の抗議集会と比べれば小規模ではあったものの、選挙からほんの3日後のホノルルでの運動にすれば、決して悪くはないし(明日日曜日にはより大きな行進が予定されています)、20代の若い人たちが中心になって企画された催しであったことも、そして、私が指導している日本からの留学生が一番乗りで来ていたのも、とても嬉しかったです。彼女は博士課程の資格試験を来学期に控えて、私に言われて次から次へと何十冊もの研究書を読みまくっている最中。それでも、アメリカ社会を学ぶためには、書物を読むだけではなく、こうした現場に足を運んで自ら発言することも大事なのだ、ということを、私から言われなくてもきちんと学んでくれていて、涙が出そうでした。


アメリカ研究者としての自分の立場や役割をどう考えるべきなのか、という問いは、これからじっくりと考え直していかなければいけないと思っています。自分がこれまで情報や知識を得ていたソースや方法、自分が関心を向けてきた対象などを見直す必要があるかもしれません。そして、もっと根本的に、自分はいったい何をしようとしているんだろうか、何をするのが私の仕事なんだろうか、ということを、深い反省を含めて真剣に考えていこうと思います。

簡単に答が出るような問いではないのはわかっていますが、ただ、今の段階で自分が出したひとつの答。それは、私は、「考える」ことで生計を立てさせていただいている、このご時世において実に優遇された立場の人間である。学生の授業料や国民の税金の一部は、私がアメリカの歴史や社会や文化について「考える」ことに使われている。そんな特権的な立場におかせていただいている以上は、深く精緻に多面的に「考える」作業を、徹底的に続けていくことこそが、私の義務なのだ、ということです。

選挙結果を振り返って、メディアでもアカデミアでも、反省を含むさまざまな分析や評論が飛び回っています。 多くの人々にとってあまりにも衝撃的な結果だったために、この展開をわかりやすく説明するような論を目にするとすぐ、「そうだ、これだ!」と飛びつきたくなるのも自然でしょう。私自身も、そうした説明にすがりつきたくなるのが正直なところです。そして、いろいろな説明には、それぞれ正当な部分があるでしょう。

しかし、今回のような社会の動きは、「低学歴層白人男性の反撃」だの「変化を求める民衆」だの「エスタブリッシュメントの拒絶」だのといった単純な説明で捉えきれるものでは到底ないだろうと思います。そして、レイシズムやセクシズムが大きな要素であったことは間違いないにしても、「レイシズム」や「セクシズム」というのは、アフリカ系アメリカ人への差別やメキシコ移民の排斥や、女性が大統領になることの拒否といった形だけで表れるものではない。アメリカ社会においては、「人種」「性」「階層」といったカテゴリーは、相互に作用しながら形成されてきているものですから、トランプを支持した人たちは「経済問題」を「人種問題」よりも「重視」して投票した、という説明ではとうてい不十分なのです。曲がりなりにもアメリカ研究を本職としている人間としては、一見納得がいきそうな明確な説明の誘惑を極力退け、これまでよりさらに真剣に、丁寧に、じっくりと、考えていく覚悟をしています。

真剣に、丁寧に、じっくりと考えるためには、タイムリーな話題を簡潔で明快な文章で一般の読者に提供していくブログという形式は不適切かもしれません。これまでしばらくブログを中断していたのも、そういった考えがあったのも理由の一つです。ただそれと同時に、ハワイという個性的な場所に長年住み、仕事や生活をしているアメリカ研究者だからこそ、私がこの視座から提供できるものもあるのではないかと信じたい。ので、自分が納得のいくペースで、投稿をしていくつもりです。政治の話題だけでなく、音楽や本やもっと軽く楽しい話題についても書くつもりですので、読んでくださる皆さま、またどうぞよろしくお願いいたします。

2014年4月11日金曜日

書評・感想文コンクール結果発表!『ドット・コム・ラヴァーズ』部門

諸々の事情によりご無沙汰いたしました。書評・感想文コンクール、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門だけ発表しておいて、『ドット・コム・ラヴァーズ』部門を放ったらかしにしてしまって申し訳ありませんでした。遅ればせながら選考結果発表です。

『ドット・コム・ラヴァーズ』は2008年に刊行になった本で、本書で描いたオンライン・デーティングの経験はもう10年も前のことになるのですが、読者のかたがたの文章を読むことで、自分自身しばらく離れていた話題について改めて振り返る機会ができました。本の刊行当時、多くのかたから感想やコメントをいただき、とても興味深く読んだのですが、当時送っていただいた感想文やネットなどの媒体で発表された書評は選考の対象外とし(ただし、当時書いていただいた文章をあらためてコンクールのために送っていただいた場合は選考に入れさせていただきました)、今回のコンクールにあたって送っていただいた文章のみから選ばせていただきました。

最優秀賞 該当作なし
佳作 (同点2点) 
 坂本秀雄さん 坂本さんの文章は、本ブログの最後に添付いたします。
 yukacanoさん yukacanoさんの文章は、こちらでご覧いただけます。

著者が書評・感想文コンクールを主催しておいて、せっかく送っていただいた文章のなかから最優秀賞該当作なし、とするのはきわめて傲慢だ、と言われればまったくその通りなのですが、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門の最優秀賞作品のレベルがあまりにも高かったので、それに匹敵する文章がこちらの部門ではなかった、という次第です。もちろん、2冊の本はまったく性質を異にする本ですので、寄せられる文章もその性格が違うのは当然で、『「アジア人」...』部門と同じような分析的な感想文を期待していたわけでは必ずしもありません。また、『ドット・コム・ラヴァーズ』は私の個人的な体験が素材となっているぶん、読者も、本全体の意図を把握することよりも、読者自身の経験や立場から独自のものを読み取り、パーソナルな感想を抱くことが多い、ということも、本の刊行以来わかってきました。そうやって読者のみなさんが、それぞれのものを感じ取ったり考えたりしてくださることは、それが著者の意図と合致していようがいまいが、とてもありがたいことです。

さて、『「アジア人」...』部門と違って、本部門の佳作2点となった文章を送ってくださったおふたりは、どちらも私は面識のないかたです。

坂本さんの感想文は、オンライン・デーティングに見られるアメリカの「交際」のありかたに焦点が当てられています。クッキングヒーターのたとえも面白いし、また、本書でちらりと言及しているベンヤミンの文化論をデーティングに応用するのも意外で新鮮な視点でした。

「交際慣れ」ということについて書いていらっしゃいますが、オンライン・デーティングに限らず、アメリカと日本では日常的な社交生活のありかたがずいぶん違います。もちろん、どんな分野でどんな人たちに囲まれてどんな暮らしを送っているかによって差はあるものの、一般的にアメリカでは、縁もゆかりもない見知らぬ人と会って会話をする、という状況の頻度が日本よりずっと高いのです。いわゆる「パーティ」では、何十人もの知らない人たち同士がワイワイと集まるなかで、初めて会う人と会話をする、そうした出会いを楽しむために行くようなものです。私は、長年のアメリカ生活でずいぶんと慣れてはきたものの、実はもともとそういう状況はとても苦手なのです。なにかのきっかけがあって話をするようになる相手とはたいてい興味深く話をする(人との会話の内容を友達に説明していると、「なんで初対面の相手とそんな込み入った会話をすることになったの?」と驚かれることがよくある)のですが、縁もゆかりもない相手に自分から積極的に話しかけていくようなタイプではないのです。そんな私でも、オンライン・デーティングをしばらく続けることで、新しい人物との出会いを楽しむ術、というものがある程度身に付いたことは確かだと思います。どんなに有望と思われる相手でも、会ってみたら「ケミストリー」が合わなかったとか、なにか決定的なことが欠けているとか、そんな可能性はいくらでもある。それが会って最初の10分くらいで明らかになることもある。それでも、せっかく「デート」にやってきたのだから、せめて一緒にいるその数時間は楽しく会話をしたいとお互いが思うのは当然。そして、オンラインのプロフィールやメールである程度の必要条件をクリアした相手であれば、こちらが興味をもって会話にのぞめば、いろいろと面白い話が聞けるのもほぼ確実。ほんの数時間のあいだでも、自分とはまったく違う人物の、仕事や趣味や生い立ちや人間関係や人となりに触れ、今まで知らなかった世界を少しでも垣間みるのが、面白くないわけはない。その「デート」がその先なにも展開しなかったとしても、数時間そうやって新しい人物と楽しく会話ができるのであれば、じゅうぶんじゃないか。オンライン・デーティングにはそういう姿勢で臨むのが正しい、と思うようになりました。

私は現在はオンライン・デーティングとはまったく関係ない方法で出会った相手と交際中なので、もう何年間もいわゆる「デート」はしていません。(本書でも「デート」という単語のややこしさを説明しましたが、言うまでもなくここでいう「デート」とは、恋人との交際という意味ではなく、恋愛相手になる可能性のある相手と、その可能性を探索する過程の付き合い、という意味で、日本にはこれに相当する概念がありません。)していなくてまったく結構なのですが、正直なところ、ときどきふと、「デート」をしている状況が懐かしくなることがあります。今の交際相手との関係にはまったくなんの不満もなく幸せに暮らしていて、別の人との可能性を考えるということはゼロ。それとは関係なく、「デート」をしているときの独特なエネルギーがちょっと懐かしいのです。なにかの可能性への期待をもって新しい相手と出会い、その人のことを少しずつ知っていく、その過程で、自分のなかでも新しいものが開けていったりする、そうした状況では、一種のハイともいえる、緊張と興奮と不安の混じった精神状態になります。もちろんそれはどっと疲れをもたらすこともあるけれど、他では得られないエネルギーの源になることもある。そうしたエネルギーを楽しむことが「デート」の鍵だと思います。

yukacanoさんは、オンライン・デーティングを超えて、「選択することの大切さ」を読み取ってくださっています。このような視点からの感想文は、本の刊行当時かなりたくさんいただきました。そして、こうした感想を寄せてくださるかたの大多数は、女性の読者であるというのが興味深かったです。たしかに、オンライン・デーティングでは無数とも思えるほどたくさんの男女が潜在的な「デート」の相手としてネット上に存在しているので、そのなかから自分にとって有望な相手のプールに絞り込んでいくためには、自分が交際相手に求めるもの、自分が恋愛に求めるもの、ひいては自分が人生に求めるものを、自分のプロフィールにおいても自分の選択プロセスにおいても明確にしなくてはいけません。私の知り合いのなかには、オンライン・デーティングで何人もの相手と「デート」してみたけど、ろくな経験をしたことがない、という人もいますが(たいていそういうことを言うのは男性)、話を聞いてみると、それはその人が「デート」に行く相手をじゅうぶんに選んでいない場合が多い。自分のプロフィールを丁寧に書いて、相手のプロフィールを丁寧に読んで、お互いに求めているものがある程度は合致しているかどうかを確認してから「デート」にのぞめば、上にも書いたように、たとえ「ケミストリー」は感じなくても、数時間が退屈でたまらない、といった思いはまずすることはないのです。「自分が求めるものをあれこれと挙げていると、他人あるいは自分の内なる声に『何様だと思っているんだ』とか『そんなにないものねだりばかりしているから相手が見つからないんだ』などと言われて、あまり自分の希望を言わないようにしていたのですが、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで、そうか、自分が求めるものがあってもいいんだ、自分が選択してもいいんだ、と背中を押される気分でした」というコメントを送ってくださったかたもいたのですが、私にとってはそういうコメント自体がとても驚きで新鮮でした。

私自身は、仕事をまず選択してから恋愛相手を選択しているという意識はまるでない(やりたい仕事をさせてもらえている、そして仕事をしなければ生活ができない状況のなかで、今の仕事を続けるのは当たり前すぎて、自分にとっては「選択」というカテゴリーにも入らない)のですが、仕事・恋愛ということに限らず、自分が好きなことを選び取って追求することが、幸せの基本だと思います。自分が好きなことを選んで追求できる、という状況がいかに恵まれたことかも、オンライン・デーティングの日々から10年が経った今、実感しています。

コンクールに応募してくださった読者のみなさま、どうもありがとうございました。佳作のおふたりとは、都合が合えば、来月に一時帰国する際に「デート」をご一緒させていただきます。その「デート」の感想文も書いていただこうかしらん(笑)。

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           坂本秀雄さんの書評・感想文

数日前に久しぶりにこちらのサイトを開いて感想文募集を知りました。急いで読み返しましたが、吉原さんの屈託のなさは爽快ですね。フィールドワークや潜入ルポルタージュといった言い訳なしに恋愛事情を披露してくださって、ことさら気負いっているふうもない。世の中には妬みまじりにへんなことを言う人間がいるでしょうに、そんなものには頓着しない潔さに、あらためて脱帽です。

以前読んだときは、終盤の失恋体験から立ち直るために書いたのかな、といった邪推をした覚えがありますが、今回はすこし異なった感想をもちました。次のサバティカルではしばらく日本に滞在してmatch.com Japanの体験記を書いてもらえたら「読みたい!」そこまでしなくても『ドット・コム・ラヴァーズ』の感想文の寄稿者全員と、そこまでは無理なら何人かとデートしてブログに書いていただけませんか。けっして私をそのなかに加えいただきたいとか、のぞき趣味とかではありません。オンライン・デーティングの日米比較から見えてくるものがある気がします。

本書に触れる前はオンライン・デーティングを必要としているのは、出会いに困っている人、もっといえば人間関係の構築が得意ではない人という漠然とした印象をもっていましたが『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで、すっかり考えが変わりました。吉原さんをふくめて、むしろ交際慣れしている人が多いのに驚きました。オンライン・デーティングをしているうちにそうなったのか、もともとなのか、どちらかといえば後者のような気がします。「それってアメリカ人だから?」 そういう疑問をもったわけです。「だったら自分で試してみたら」とおっしゃられるかもしれませんが、既婚者なので残念ながら登録できませんでした。

この「交際慣れ」しているという印象は、穏便な別れ方に由来するものです。あなたといるのは楽しいけれど、これ以上深入りするつもりはない、という趣旨の決まり文句が存在していて、メッセージを受け取った相手は納得できなくても相手の意図を尊重して、身を引いてくれます。そこで思い浮かべたのは「IHクッキングヒーター」です。熱効率(火力)はガスコンロに劣らないのに火事になる危険性は低い、つまりけっして修羅場にならない、というところからの類推です。鍋のなかの恋愛感情を沸騰させる力はあります。失恋の辛さが素早く収まるわけでもありません。しかし別れ際にすったもんだして互いに傷つけあうことにはならない。ストーカー男ですら執拗であっても境界線を越えることはなく、最後は撤退します。

吉原さんやそのお相手だからこそかもしれませんが「リセットボタン」が押されたら「ゲームオーバー」を受け入れられる分別は見事です。もしかするとオンライン・デーティングの参加者には「ダメなら次の相手に期待しよう」というゲーム感覚のようなものが潜在意識に組み込まれてしまっているではないか、そんな感じをうけました。

くり返すうちに、デーティングファイルが積みあがる。それはコピーとまでは言えなくても、人の感覚になにか影響をおよぼすに違いありません。読み手にその作用を予感させるという意味において本書は、変成しながらもくり返される複製としての恋愛=デーティングがアウラの消滅によってより多くの人のものとなったKunstであることを、高らかに告げている書物です。などとつぶやいて、オリエンタルパサージュにでも出かけましょう。

2014年3月5日水曜日

書評・感想文コンクール結果発表!『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門

書評・感想文コンクールに応募してくださった読者のみなさま、どうもありがとうございました。書評・感想文を書くのに必要な注意をもって丁寧に熟読し、読みながらいろいろなことを考え、考えたことをきちんとした文章にまとめて著者本人に送るというのは、多大な時間と思考力と労力を要するものです。しかも、受賞したらこのブログで文章が世間に公開されるし、そのいっぽうで受賞しなかったらそれだけ頑張って書いた文章がなんの日の目もみないことになる。そうした条件下で、わざわざ多くのかたが文章を送ってくださったということに、涙が出るほど感謝しております。書評・感想文はみなそれぞれ独自の視点をもっていて、そうした視点には私の著述がどのように映るのかが感じ取られて、とても興味深く、勉強になりました。なるほどね〜、と意外な発見をしたり新鮮な思いを抱くこともありました。

さて、本日はまず『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門の受賞者を発表いたします。ジャジャーン!

最優秀賞(同点二点)
 川上桃子さん  川上さんの文章はこちらでお読みいただけます。
 大八木崇史さん 大八木さんの文章は、本ブログの最後に添付いたします。
佳作
 安西洋之さん  安西さんの文章はこちらでお読みいただけます。

はからずも、最優秀賞受賞者二名は私の友人ですが、友人だからゲタをはかせたわけではありません。この二人が受賞する理由は、書評・感想文を読んでいただければわかるはずですが、まずはこの二人の文章に共通する素晴らしさを挙げておきます。

ひとつは、その精緻で正確な読解力。一般の読者にもなるべく読みやすいようにと心がけたものの、アメリカ文化研究の学術書として英文で書いた原作を日本語に訳したこの本は、専門外の読者には、寝っころがってスラスラ楽しく読める、という類いの本ではありません。(その点、『ドット・コム・ラヴァーズ』や『性愛英語の基礎知識』とは、問題意識としてのある程度の共通点はあるものの、とても種類の異なる本ですし、同じくクラシック音楽を題材にしている『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール 』ともかなり違っています。)それぞれ専門性の高い分野で活躍しているとはいえ、私と異分野・異業種に属するだけでなく、クラシック音楽そのものについてとくべつな知識があるわけではない二人には、決して読みやすい本ではない(じっさい、文章のなかで二人ともその点を指摘しています)はずですが、そうしたハードルを超えて、私がこの本において意図したことの意義をきちんと理解し、私が分析を丁寧に追い、私が伝えようとした論を正確に把握している。(ごく基本的なことのようでありながら、この点をクリアしていない書評や感想文というのはかなり多いのです。)

そして、このプロジェクトのどういった点が新しく、どういった点が難しいのか、ということもちゃんと捉えている。「アジア人」および「アジア系アメリカ人」を対象としていながら、そもそもそのカテゴリー自体が様々な問題をはらんでいて、それらを既存のカテゴリーとして描写的に使うのではなく、そのカテゴリーを問題化することを目的のひとつとしているのだということをちゃんと理解している。そして、特定の問題意識をもってこのプロジェクトにのぞむ研究者としての私の視点と、「アジア人」「アジア系アメリカ人」音楽家たちの意識や経験は、多くの場合まるで違うものだという困難についても、シンパシーを示してくださっている。「そうなんです、そこが難しかったんです、わかってくれてありがとう」と二人の手を握りしめたい気分。(笑)

そしてなにより嬉しかったのが、二人とも、クラシック音楽における「真正性」の問題を扱った第五章にとりわけ反応していること。本全体のなかでも、この章は書くのに一番苦労した章であると同時に、一番重要だと思っている章なのです。「クラシック音楽における『真正性』とはなにか」、「クラシック音楽において『正統性』という概念のもつ意義はなにか」、といった問いに明確な答があるわけはもちろんなく、私は研究の初期の段階でこれらの問いを、「アジア系・アジア系アメリカ人の音楽家たちは、クラシック音楽における『真正性』『正統性』といった概念をどのように理解し、自らと音楽との関係をどのように捉えているのか」という問いに定義し直したのですが、このあらたな問いに対しても、答はまったく一筋縄にはいかない。音楽の普遍性を信奉し、クラシック音楽において「アジア人」云々を問題にするのは人種差別である、という立場の人たちから、音楽という行為の文化的固有性をとらえた上で西洋に起源をもつクラシック音楽に自らの形で取り組む人たちまで、音楽家自身の考えは実にさまざまで、そうしたアイデアをきれいに整理するのも難しいし、整理したところでなにか意味のある結論に結びつくわけでもない。また、文化批評の立場からいえば、そうした普遍主義や固有主義どちらにも、いろいろな問題はあり、そうした論点を説明するのにはどうしても文章が学術的になってしまい、一般読者にどれだけ伝わっているかが不安。そしてまた、研究者としても音楽にかかわる人間としても、私自身がどちらの見方により共感するかといえば、それも答えにくい。そうしたなかで、クラシック音楽の伝統と現代における音楽活動の両方に「真正」であろうとして音楽に向き合う「アジア人」たちの意識や行為について論じた点が、二人にきちんと伝わってホッ。

次に、二人の文章で挙げられているいくつかの具体点についてコメント。

川上さんは、この本が「アジア人音楽家という存在に映るアメリカ社会」、具体的には「人種とジェンダーと経済(報酬のメカニズム、出身階層、階層帰属意識といった広義の"経済")の絡まり合いを見事に描きだしている」、と書いてくださっています。アメリカ研究そしてアメリカにおける人文科学や社会科学の多くの分野においては唱え文句のようになっているrace, gender, classといった概念が、アジア人音楽家にとって実際にはどのような意味をもち、彼らの人生やキャリアにどのような作用をもたらしているのか、といったことを伝えるのが本書の大きなミッションのひとつだったので、この点をちゃんと理解してくださったのは嬉しい。後から考えると、一般の日本の読者に向けては、そもそもアメリカにおいて「アジア人」「アジア系アメリカ人」というものがどのような位置づけにあって、そのカテゴリーに含まれるのはいったいどういう人たちで、彼らはどんな意識をもってアメリカで暮らしているのか、というごく基本的なことをもう少し本書で説明しておけばよかったかなという気もしている(長年アメリカで生活し、アメリカ研究を専門としている私にとっては、「人種」をめぐる議論のなかに日常的に身を置いている私には、自明のことすぎて、この点が説明要ということに思い至らなかったのです)のですが、この点がちゃんと伝わったのならば、アメリカ研究としての本書の一目的は達成したと思えます。

そして、音楽好きの親の方針で幼い頃からピアノの英才教育を受けたものの、クラシック音楽の演奏や「ピアノのおけいこ」の世界に長いこと違和感を感じていたという川上さんが、第五章における「真正性」をめぐるああでもないこうでもないという分析を読みながら、クラシック音楽の演奏というものについての「不可解さ」への違和感が少しずつほぐれていったというくだりは、「ああ、この本を書いてよかった、とくに苦労して第五章を書いてよかった〜」と思わせてくれます。この本の読者は、クラシック音楽は好きだけれども学術研究にはあまり縁がないという人、あるいはアメリカ社会や人種といったトピックには興味はあるけれどもクラシック音楽にはあまり馴染みがないという人が多いのではないかと思っています。この本を通じて、前者タイプの読者には、社会学的・文化人類学的・文化批評的視点からクラシック音楽という世界をみるとどんな問いが立てられ、どんなことが見えてくるのかを垣間みていただき、後者タイプの読者には、クラシック音楽という世界はどんな論理で動いていて、音楽家たちはどんな意識をもってどんな暮らしをしてどんなふうに音楽創造という営みをしているのかを少しでも知っていただけたら、と思っているので、川上さんのような読者に、こう感じてもらえて本当によかった。

みずから日本語・中国語・英語を駆使して研究に携わり、とくに研究や執筆のプロセスといったことについて私と関心を共有している川上さんは、「英語と日本語の学術書のスタイルの違い」についても鋭い指摘をし、本の最初で西洋帝国主義や近代化といった生硬な用語が本の最初からがんがん出てくるのには結構面食らった、と正直に書いています。第二章以降ではがぜん叙述が生き生きしたものになるので、冒頭部で挫折しないように、と読者に指示と応援までしてくださっているのですが、二章以降のほうが読みやすい、というのは私にはちょっと意外でした。第一章は西洋音楽が東アジアに受容され、それがまた西洋へと「逆輸出」されていく歴史的経緯を扱ったもので、たしかに帝国主義や近代化といった用語は出てくるものの(こうした用語なしにこの歴史を語ることはまず不可能)、話自体は時系列的な歴史著述なのに対して、二章以降は「人種」「ジェンダー」「階層」といった分析カテゴリーを軸にした記述になっているので、二章以降のほうが読者にはむしろ難しいかな、そして五章が一番難しいだろうな、と思っていたのです。まあこれは、読者によって感じ方は違うことでしょう。

「クラシック音楽の世界でのアメリカの位置づけはもっと丁寧に論じるべきだった」という指摘、まったくおっしゃる通りでございます!(佳作の安西さんも同じ指摘をなさっています。)アメリカが研究の対象とはいえ、ヨーロッパを起源とする音楽なのですから、その世界におけるヨーロッパとアメリカの関係はもっと詳しく論じるべきでした。

Chineseを「中国人」でなく「華人」と訳したほうがよかった、という指摘も、おっしゃる通り。原書の研究と執筆が英語を中心としたものだったので、この点に思い至りませんでした。

次に、大八木さんの文章について。

経済・金融を専門とする大八木さんが、階層としての音楽家、そして経済活動としてのクラシック音楽を扱っている第四章を「消化不良」と感じ、「『古典的なマルクス主義理論』という枠組みから分析を始めること自体、時代錯誤も甚だしい」と述べているのは、ある意味納得がいきます。私がこの章で意図していたのは、「経済学」としてクラシック音楽を分析することよりも(そうであれば、古典的マルクス主義理論から話を始めるのはたしかに時代錯誤でしょう)、「クラシック音楽家」をアメリカの社会経済のなかに位置づけ、職業・産業としてのクラシック音楽の状況を描きながら、音楽家自身の階層帰属意識や文化資本としてのクラシック音楽のありかたを分析することにありました。(それに必要な文化・社会批評理論の潮流は、さまざまに形を変えつつもマルクス主義に源がありますが、ここで「マルクス主義」というのは、厳密な意味での経済分析としてのマルクスよりも、経済とイデオロギーや文化の相関関係の分析としてのマルクスです。原書はそうした前提を共有するアカデミックな読者を主に想定していたので、そうした点は説明せず、経済活動や社会階層にしぼって枠組みを背景説明をしたのですが、日本語版ではもっと説明をしておけばよかったかと反省。)実は、私はこのプロジェクトを初めに構想したときは、このトピックでまるごと一冊本を書くつもりでいたのです。つまり、この研究を始めるにあたって、私はブルデューの一連の研究をふまえた上でアジア人にとっての「文化資本としてのクラシック音楽」のありかたを社会学的に分析することに主眼をおいていたのです。けれども、実際に研究を始めてみると、そうしたトピックの他に、「音楽そのもの」をめぐる問いがだんだんと大きくなってきて、結局この文化資本分析は五章のうちの一章となったのです。なので、大八木さんは「章としてそもそも蛇足なのかもしれない」と述べていますが、私にとってはこの章は蛇足どころかキリンの首(例えが変か?)のような存在なのです。この章をもっと最初のほうにもってきてもよかったくらいなのですが、そうすると、「人種」やアイデンティティといった枠組みが薄れてしまいそうだったので、第四章という位置づけになりました。

日本語のタイトルが、本書の一番大切なメッセージを正確に伝えられなくなったきらいがある、という指摘(「歴史的な経緯を強調するようなこの日本語タイトル〜これは東アジアにおけるクラシック音楽の歴史的経緯と、著者がインタビューした演奏家のそれぞれがクラシック音楽家になった個人的な歴史・文化・社会的経緯の両方を含意しているのだろう」というのはまさにその通りです)は、まあおっしゃる通りなのですが... 本を何冊も出すうちにわかってきましたが、本のタイトルというのは、とても難しいのです。本書のタイトルについても、出版社のスタッフとああでもないこうでもないとのやりとりがさんざん続いた後でやっとこのタイトルに落ち着いたのです。原書は研究書なので、とにもかくにも内容が正確に伝わることが大事ですが、なるべく一般の読者、とくにクラシック音楽自体にそれほど興味がない読者にも手に取ってもらうことを心がけた日本語版では、「とにかく興味をもってもらう」タイトルであることが正確さと同じくらい重要。日本語だと「アジア人とアジア系アメリカ人」という用語をタイトルまたはサブタイトルに入れるのはあまりプラクティカルではないので「アジア人」に「 」をつけることでその問題に対応しましたが、『クラシック音楽と「アジア人」』(これも私自身が当初候補として挙げていたタイトルのひとつです)ではちょっとアカデミックな印象を与え、クラシック音楽に興味がある人以外にはアピールが低いのでは、という意見からボツになりました。

さて、この本では二カ所で、何人かの音楽家とのインタビュー内容をそのまま掲載していますが、大八木さんはこのインタビューが、「単に彩りを添えるということだけではなくて、本書に歴史的な資料価値を与えている」、つまり、21世紀初頭のアメリカ、特にニューヨークを中心としてクラシック音楽の世界におけるアジア人の生の声を記録することで、ここで語られていることの時代性を浮き彫りにし、「後になってその言葉から、現時点では見えない様々な要素を帰納的に導きだすことが可能になるかもしれない」と書いています。この点、とてもオモシロイ!インタビューをした時点、そしてインタビューの抜粋をそのまま本に入れようと決めた時点では、そうした時代性ということは考えていませんでしたが、言われてみるとその通りです。そして実際、私はこれらのインタビューを含むフィールドワークをおもに行った2003〜2004年からちょうど十年が経ったのを機に、「音楽家たちの十年」を調べてみたら面白いのではないかと思い、当時インタビューし今でも親交のある音楽家たちの数人に、あらたなインタビューをし始めているところなのです。音楽家個人の人生やキャリアにおけるさまざまな変化は、クラシック音楽業界や社会全体の変化といろいろな形で結びついています。この十年では、ラン・ランやユジャ・ワンといった「華人」音楽家がスーパースター的地位を占めるようになり、「アジア人」クラシック音楽家の台頭はさらに加速しています。また、インターネットによる音楽配信の急速な普及が、音楽業界に大きな様変わりをもたらしています。さらに、オバマ政権が実現し、アメリカにおける人種力学も、変化した部分もありそうでない部分もあります。そうしたなかで、「アジア人」音楽家たちの意識や音楽が、どのように変化しているかしていないか、前回と同じ音楽家たちそして新たな音楽家たちの両方をインタビューしてみたら、とても面白いと思うのです。なにかの形でこれをまとめて発表できますように。

最後に、私のことを、「優れたインタビューアであり、また、非常にテンポの良い文章を書く」と形容してから、「本書はそもそもが学術論文であるため、様々な制約下で、筆者のそのような才能が十分反映されていないと思う」という大八木さんの指摘。本のなかでも書いたように、この本を英語から日本語へ、そして学術書から一般書へと「翻訳」するのは、実に大変な作業で、こういう過程はもう二度とふむまい、と固く決意しているくらいなのです。同じ内容でも、原書を訳すのではなく、日本語は別物として書き下ろしていたら、議論展開も文章ももっと滑らかなものになったはずですし、学術的分析は副次的なものとして読み物としての面白さを主眼においた本づくりにすることも、しようと思えばもちろんできたのですが、新たなトピックでの研究をすでに始めているなかで、この同じ素材を別の形に書き換えるという作業もしたくなかったので、原書の翻訳という形になりました。まあ、『性愛英語の基礎知識』の著者は、こういう本も書くのだということを世の中の人に知っていただくという点では意味があったと思いたいです(笑)。

安西さんの文章は、みずから音楽家ではないけれどもクラシック音楽の世界をよく知っている、イタリア在住のビジネスプランナーという立場ならではの、独自の視点から、本書の論点に興味深い反応を示してくださっています。考えてみると、今回の受賞者が全員、クラシック音楽にかかわる人たちではないということ、そして(少なくとも現時点では)日本の外で生活している人たちである、というのは興味深いです。これが偶然なのか、それとも日本の外で暮らしているからこそ「アジア人」ということの複雑な意味を理解しやすいのか、そしてクラシック音楽と直接関係がないからこそその世界の特有性をめぐる議論に反応しやすいのかは不明です。

受賞者のみなさんと相談の上で、副賞の内容を決めさせていただきます。応募していただいたみなさま、本当にどうもありがとうございました。また、コンクールは終了いたしましたが、本への感想やコメントはもちろんいつでも大歓迎ですので、今後もどうぞよろしくお願いいたします。『ドット・コム・ラヴァーズ』部門の選考結果は、追って発表いたします。

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           大八木崇史さんの書評・感想文


「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?-人種・ジェンダー・文化資本(吉原真里・著)を読んで。

力作である。

自身がアマチュアとして相当なピアノ奏者である著者が本書の執筆を始めたきっかけは、小澤征爾が指揮し、日本人観客が聴衆に混じるウィーン・フィルハーモニーの2001年の新年コンサートを目の当たりにした著者が、「アジアの中産階級が西洋クラシック音楽へ傾倒してきたという独特な歴史的・文化的現象を、私の個人的な体験と学問的知識の両方をもって分析できるのではないか、ということに突然思い至った」(はじめにp6)ことであった。これを受けて、主として東アジアにおけるクラシック音楽受容とその後の歴史的な経緯を説明した第1章が書かれている。第1章はそれ自体が一つのコンパクトに纏まった小論文である。

本書はこれに、「2003年から2004年にかけての1年余り、ニューヨーク周辺の音楽家たち約70名」(序章)へのインタビュー取材というフィールドワークをベースとした考察である第2章~第5章が続き、「アジア人とアジア系アメリカ人という特定の集団に焦点をあてることで、音楽家や聴衆の生活を構成するこのような『非音楽的』な要素が、どのように『音楽そのもの』と交差しあって、クラシック音楽特有の強く深い意味を生み出すのかを検討する」(おわりにp276)ことを執筆の目的としている。

ところで、この論文の執筆が苦労の連続であったであろうことは想像に難くない。著者が述べているように、そもそも「フィールドワークが進むにつれ、たいていのクラシック音楽家の日常生活や仕事は、アジア人としてのアイデンティティや東西関係の力学などといった問題を中心にまわっているのではないということに嫌でも気づかされた」(おわりにp280)うえに、「『アジア人』という単語は、固定したひとつの意味をもつものではなく、特定の歴史社会的・文化的な文脈のなかで具体的な意味を獲得するアイデンティティの印なのである。」(第5章p279)という説明に象徴されているが、「アジア人」という多義的なコンテクストを包含しうる言葉は、分析の切り口として使うにはそもそも無理があるというか、控えめに言っても歯切れが悪い。そういうツールでは論理的に一つの明確な結論が出てこないからである。

つまり、本書が取り組んだ題材も枠組みも、はっきりした結論を出すことが「論文」にとっては本質的に重要であるという観点からすると、とても「筋の悪い」ものに見えるのだ。私が「力作である」といったのは、そういう勝ち目のなさそうな戦いに挑んだ著者の蛮勇と、しかしながらにして、結果としては、特に音楽の「真正性authenticity」という概念について、鋭い洞察を導くことに成功しているからである。

例えば、「『戦略的な本質主義』―つまり、自らの歴史・文化・アイデンティティの特定の要素を意図的に喚起すること―は、共通の政治的目的のために連帯を組もうとするマイノリティにとっては、有効な手段なのである。クラシック音楽を、ヨーロッパに固有の伝統ととらえ、アジア人をその領域の他者と位置づける人々も、同様の論理で真正性という概念を使い、クラシック音楽という芸術形態の歴史的・文化的な固有性を重視すべきだと主張しているのだ」(第5章p235)という逆説的な視点は、新鮮である。また、「音楽家たちの実に多様な経験や考えをみると、音楽という行為の現実をふまえることなく理論的な次元でそうした批評をすることの欠陥が明らかとなる。アジア人音楽家たちの経験や活動は、音楽の原作および現代それに携わる音楽家自身の両方―つまり、クラシック音楽の伝統と現代における音楽活動の両方―に忠実な『真正性』の概念を提示しているのだ。」(第5章p236)という指摘は本書の真骨頂であると思う。

いくつか難を言えば、ないことはない。例えば、第4章は、著者自身が「クラシック音楽家を経済関係における階層的主体として分析することは非常に困難である」と述べているように、消化不良の感は否めない。結論として否定はしているものの、「古典的なマルクス主義理論」という枠組みから分析を始めること自体、時代錯誤も甚だしい。ただし、仮に効用関数が云々といったような近代的な経済分析を施したところで、これまた何かしら有意な結論を導くことが出来るとも思えない。章としてそもそも蛇足なのかもしれない。

また、日本語のタイトル「『アジア人』はいかにしてクラシック音楽家になったのか?」もしっくり来ない。原題のAsians and Asian Americans in Classical Musicが本書の主たる内容をストレートに伝えるものであった。これが「学問言語から一般言語への翻訳」(あとがきp287)をするなかで、歴史的な経緯を強調するようなこの日本語タイトル~これは東アジアにおけるクラシック音楽の歴史的経緯と、著者がインタビューした演奏家のそれぞれがクラシック音楽家になった個人的な歴史・文化・社会的経緯の両方を含意しているのだろう~にしたことによって、本書の一番大切なメッセージをタイトルが正確に伝えられなくなった嫌いがある。

最後に、著者は、「私はこの本をあくまで学者として書いている。自分が見聞きしたことを、批評分析したりより大きな文脈に位置づけたりすることなく、そのまま受け入れたのでは、学者としての知的な役割を放棄することになる。」(はじめにp9)と言っているが、一方で、何人かの音楽家たちのインタビュー内容をそのまま掲載もしている。この試みは成功していると思う。これらのインタビューは、単に彩りを添えるということだけではなくて、本書に歴史的な資料価値を与えている。本書は「21世紀初頭のアメリカ、特にニューヨークを中心とした、アジア系音楽家へのインタビュー」 が主なベースになった研究である。私は、インターネットで情報が軽々と国境を越えるようになった現在において、時代性そのものが地域性よりも人々の考え方により大きな影響を与えるようになってきており、また均質化の速度も上がっているのではないかという仮説を持っている。こうした文脈の中で、本書は、著者の意図に拘らず、歴史的にみると、あくまで21世紀初頭という特定の時代の社会的断面を切り取った研究として位置付けられていくのではないかと思えるのである。インタビューそのものを掲載しておくことにより、後になってその言葉から、現時点では見えない様々な要素を帰納的に導き出すことが可能となるかもしれない(例えば時代性。定義として、同時代にいる人間には見えない)。このインタビューのお陰で、ある程度の時間を経て、本書の面白みが増すかもしれないのである。ちょうど、良いワインが時間を経て熟成するかのように。今から30年後の世代の音楽家に同様のインタビューをして、その答えと本書のインタビュー対象者の回答がどう違ってくるかを想像するだけでも楽しい。その際は「アジア人」という題材・切り口での分析が一層困難になっていると思料するが、どうだろうか。

著者はそのキャリアの冒頭で学者ではなく新聞記者になることも考えていたという経歴の持ち主で、優れたインタビューアであり、また、非常にテンポの良い文章を書く。本書はそもそもが学術論文であるため、様々な制約下で、筆者のそのような才能が十分反映されていないと思う。少々乱暴ではあるが、筆者が仮に学者としての矜持を捨てて、インタビューを中心に綴った本として本書を再構成していたら、読者としてはこれまた違った面白さが味わえたかもしれないと思う。まあ、こういうことを、ない物ねだりというのだが。