2008年7月28日月曜日

デートの会計 その2、そしてインターネットと読書

昨日、『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」と、もう一人のゲイの友達(ここでは「アンディ」としておきましょう)と一緒に食事と映画に出かけ、先日の投稿に書いた、ゲイの人同士のデートの会計について聞いてみました。「ジェイソン」は、よく知らない相手や、もう二度と会わないかもしれない相手と、貸し借りの関係を作るのは嫌なので、初めてのデートのときにはいつも割り勘にする、と言っています。ただ、しばらく交際するようになってからは、お互い順番におごり合いっこをするそうです。彼は、ここ数年間つき合っているボーイフレンドがいるのですが、彼ともそうしています。私も一緒に三人で出かけるときなどは、私のぶんまで二人のうちのどちらかが払ってくれることもあり、私もときどき彼らのためにおごったり料理を作ったりします。(ただ、「ジェイソン」はヴェジタリアンで、彼が来るときはかなり考えて料理をしなければいけないので、ついつい彼とは外で食事をすることが多くなります。)「アンディ」はシングルなのでよくいろんな人とデートに出かけますが、デートに誘ったほうが払うのが普通、と言っています。

話題は変わって、先日の「ニューヨーク・タイムズ」に、インターネットと読書についてのこんな長文記事が掲載されました。ビデオもあって面白いので、ちょっと見て(読んで?)みてください。インターネット時代に育った十代の若者や大学生の「読書離れ」について、多くの人が危機感を抱いていますが、一日に何時間もインターネットでものを調べたり読んだり、あるいは友人知人とチャットやメールをしたりする若者は、本当に「読書離れ」しているのでしょうか。従来の紙の本の読書と、ネット上での「読書」は、どう違うのでしょうか。莫大な量の情報がネット上でアクセスできるようになったことは、私たちの知識や思考を豊かにしているのでしょうか、それとも貧困にしているのでしょうか。インターネットという媒体に懐疑的な人たちは、静かに座って本をひろげ、線的な叙述と思考に集中する、という伝統的な「読書」が若者の日常生活から姿を消してきていることに強い危惧の念を抱きます。そのいっぽうで、インターネットの可能性をよりポジティヴに評価している人たちは、従来の「読書」とは、本あるいは著者から読者への一方的なコミュニケーションであるのに対して、ネット上での読者は、「読書」の過程で、自分の興味に応じて関連資料を同時に調べたり、コメントを書き込んだり、他の読者と対話したりすることができるぶん、より能動的で積極的だ、という見方をします。こうしたトピックはえてして偏った議論になりがちですが、いろんな視点から話を展開しているあたり、さすが「ニューヨーク・タイムズ」です。私は、かつては本を読みふけって育った文学少女で、内容もそうですが物体としても、紙の本というものをこよなく愛しているし、今では本を書く人間になったので、本という媒体の将来はとても気になります。それと同時に、「デート」はもちろんですが、自分の読書やリサーチ、執筆などが、インターネットという媒体ができたことによって、それまでとは比較にならないくらい可能性が広がったのも確かで、インターネットのない生活はもはや想像できません。ひとくちにインターネットといっても、そこにある情報や、その使いかたは、ほんとうに複雑多様なので、ひとくくりにして乱暴な議論をせずに、その実体をきちんと丁寧に考えていきたいと思います。


追伸 私の高校と大学の同級生だった男友達(普通のお友達です)のお父様が、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださいました。私は、そのお父様が駐在中にロスのお宅にしばらく遊びに行ったことがあるので、ご家族そろって仲良くさせていただいているのですが、そのお父様は、この本を読んで、息子に、「真里ちゃんの男性遍歴が赤裸裸に書いてあって、びっくりした。お前が出てくるんじゃないかと思ってハラハラした」と言っていたそうです。読者はそれぞれ、いろんな読み方をするもんですねえ。(笑)

2008年7月26日土曜日

ホノルル便り--デートの会計、シャワー、そしてFacebook

ホノルルに戻ってきました。私が留守にしていたあいだはかなり蒸し暑かったそうですが、今ではこちらは東京よりずーっと快適な気候です。日本にいるあいだは毎日食べ飲み歩いていたので、ちょっと運動しなくてはと、夕方の海辺の公園でのジョギングも再開しました。ダイアモンドヘッドを見ながら、そよ風の吹くなか、夕暮れ時の海辺をジョギングできるのですから、文句は言えません。東京での数週間はほんとうにいろんな刺激や出会いが多くて楽しかったですが、ハワイでの暮らしも違った意味でよいものです。

さて、私の友達のお母様が『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで感想や質問をくださいました。なかなか面白いので、私の回答を含めて以下にご紹介します。

1 オンライン・デーティングで知り合った相手と会っているときに、過去につき合った人の話をするということに、驚いた。

これは、オンライン・デーティングに限らず、「デート」するようになった相手とはよくあることで、私だけのことではないようです。「過去にどんな相手とどんな恋愛関係をもってきたのか、それらの関係はどんな理由で終わったのか、といったことから、その人の恋愛に対する態度がかなりわかる」という理屈だと思います。30代後半にもなって、真剣な恋愛を一度もしたことがないような人はむしろ危険信号だし、かといって、過去の別離をずっと引きずってそれを今の関係に持ち込むような人も困るし、恋愛において同じようなパターンを繰り返しているとすればそれにはなにかの意味があるだろうし、など、話を聞くほうとしてもいろんな思いがありますが、過去の恋愛にまったく触れないことのほうが不自然だという考えは、一般的なようです。

2 オンライン・デーティングで知り合った人とお洒落なレストランなどに行く場合の会計は、割り勘なのか、それともどちらかが払うのか?そういったことに関する決まりや合意はオンライン・デーティングをする人たちのあいだにあるのか?

デートでは男性のほうが払うのが礼儀、という観念は日本同様アメリカでもかなり一般的です。だから、たいていは、男性のほうが払う意思表示をします。そこで女性のほうが、「いいです、払います」という意思表示をするのも礼儀のひとつです。そこで実際に割り勘にする場合もあれば、女性に少なめの額をもらう場合もあれば、「いいよ、いいよ」と言って男性が払う場合もあります。そのあたりは、男性のお財布状況と感性によるでしょうが、普通は、男性は、自分が相手のぶんも払えないようなお店には初めから連れて行かないでしょう。経済的に自立していて「自分のことは自分でする」という女性が比較的多いアメリカでも、このあたりの感覚は割と伝統的と言えます。ですから、いわゆる「タダ飯ねらい」でデートに出かける女性も存在します。ただし、「デート」からステディな関係に移行してからは、女性のほうが男性よりもずっと収入の多い場合などは、女性がいろいろな支払いを受け持つということは珍しくありません。

私自身は、実際につき合うようになった相手が、愛情表現のひとつとしてときどきプレゼントをくれたりご馳走してくれたりといったことはもちろん大歓迎ですし、私も相手にそうしますが、きちんと収入のある者同士の関係で、恒常的に経済関係が不均衡(つまり、いつも一人が相手のぶんを払う)な状況というのは、ふたりの関係そのものに不健全だと思うし、毎回男性に払ってもらうのは嫌なので、数回以上「デート」するようになる相手とは、たいてい割り勘にするか、あるいはおごり合いっこをするようにします。ただ、初めてのデートで、いちいちそうした交渉をするのも面倒臭いので、男性のほうがぜひ払うと言えば、ありがたくご馳走になるようにしています。

ゲイのカップルのデートの場合は、このへんがどうなっているのか、私にはよくわかりません。デートに誘ったほうが払うのかもしれないし、割り勘にするのかもしれないし、その場の雰囲気によるのかもしれません。近々、「ジェイソン」や「マイク」に聞いて、ご報告します。

3 その場の勢いで、ロマンチックな夜を過ごすことになった場合、シャワーは浴びるのか?

私は、初めはこの質問の意味がよくわからなかったのですが(質問の意味がよくわからないということ自体、こういったことについての私の感覚がかなりアメリカンであることの印なのかも知れません)、要は、セックスの前にシャワーを浴びるのかということだそうです。日本の感覚では、特に初めての相手とそういうことになるときは、汗など落として清潔にして臨みたいし、それが相手に対する礼儀でもある、ということなのでしょう。

こうしたことは、個人の好みによる部分が大きいでしょうが、私の経験では、アメリカでは概して、その場のノリでベッドに入ることになる場合は、やはりその場のノリを維持することが大事なので、普通はそのままベッドに入ります。その途中でシャワーが入ると、自分がシャワーを浴びたり、相手がシャワーから出てくるのを待っていたりするあいだに、「今日セックスをするのはよくないかもしれない」などと冷静な声が頭をよぎったりして、いざという場になってぎこちないことになるようなこともあるんじゃないでしょうか。(もちろん、それならやめておいたほうがいい、ということもあるでしょうが。)セックスが済んだあとには、汗もかくし、シャワーを浴びることは多いですが(二人で一緒にシャワーに入ることもある)、ホットな雰囲気のままそのまま寝てしまうこともあります。アメリカの人はたいてい朝シャワーを浴びるので、夜を一緒に過ごすなら、シャワーは朝浴びることが多いです。

最後の質問は、実に面白い質問ですね。どうでもいいことのようでいて、実は、こうした些細なことに、文化的感覚の違いというものが一番よく顕われるものかもしれません。

ところで、話は変わりますが、ここ数日間、すっかりFacebookにはまっています。これは最近日本語でもできるようになったSNSサイトで、友達数人から「招待」が送られてきたので少し前にアカウントを作ったのですが、初めはほとんど使っていませんでした。ところが、いったん始めると、「友達」の「友達ネットワーク」から、何年も連絡が途絶えていた自分の友達が何人も見つかったりして、けっこう面白いし、多くの人に同時に近況報告などができるので、便利なことも沢山あります。だから、つい次々といろんな友達のプロフィールをチェックしてしまい、メッセージを送ったり写真をアップロードしたりしているうちに、あっという間に何時間もたってしまいます。既にメールを中心に毎日の生活がまわっているような状態で、メールに費やす時間をもっと制限しないとまるで仕事がはかどらない、と思っているそばから、もっと耽溺しやすいFacebookにはまってしまいました。

日本滞在中、『ドット・コム・ラヴァーズ』について講演したときに、日本とアメリカでのネット文化の違いについての質問やコメントを、おもに若い学生さんたちから多く受けました。日本では、ミクシーなどのSNSサイトを使っている人は多いけれども、本名や顔写真を載せている人はまずいないのに対して、Facebookを初めとするアメリカの同類サイトでは、ほとんどの人は本名を使い、顔写真を含む個人情報をたくさん載せている、とのことです。私は日本のSNSサイトを使ったことがないのでわかりませんが、確かにFacebookではたいてい皆、本名を使っています。だからこそ友人知人を検索できるし、また、本名を使わないのであれば、なんのためにネットワーキングをするのかわからない、という理屈だと思います。このあたりの違いは、インターネットという媒体への感覚と態度、そしてネット上の行動規範(ネットに載せるものへのアカウンタビリティを含め)をめぐる文化的な差異によるものが大きいのでしょう。もちろん、アメリカでも、ネット上の個人情報を悪用した犯罪などは存在しますが、一般的には、日本の多くの人が警戒するほどの危険は感じられません。また、たとえば、日本では、大学教授のメールアドレスを調べるのにはかなりの苦労がいりますが、アメリカでは、ごく基本的なネット検索をすれば、大学に教員として所属する人のメールアドレスは数分以内で出てきますし、そうでないと日常的な仕事に大変な支障をきたします。こうしたことからも、ネット文化の違いが感じられますね。

Facebookは、はまると時間がどんどん吸い取られるということの他にも、社会文化現象として特有のものがあると思います。手書きの手紙を郵便で送るという文化から、メール文化に移行して、物理的な距離をへだてたコミュニケーションのありかたはとても大きく変わったことを、外国に住んでいると特に実感しますが、Facebookのような媒体は、そうした短縮コミュニケーションをさらにずっと先の段階に移行させます。こうしたサイトで人が交換するメッセージは、普通のメールの文章よりもずっと短いですし、また、「メッセージ」ですらなく、キスマークとかバラの花束などのいろんなアイコンを送り合うだけの、言葉なしの「コミュニケーション」が、こうしたサイトでは主流のようです。本当にコミュニケーションが促進されているのだか、それとも単に我々を怠慢にしているのかは、大きな疑問だと思います。それに比べて、オンライン・デーティングでは、少なくとも、言葉を使って自分を表現し、相手とコミュニケーションをするということが出会いの核となっているので、同じネット上の交際といってもだいぶ種類が違うように私には思えます。

それでは、また。

2008年7月16日水曜日

恋愛の経済学

京都は、東京にもまして暑く、祇園祭の人混みでいっそう蒸し蒸ししていましたが、同志社での講演はなかなかよかったです。

さて、今日の「ニューヨーク・タイムズ」に、この記事があります。経済学、というか、投資の基本ルールを恋愛に応用したもので、ユーモラスに書いてありますが、なかなか含蓄があります。これも、英語と私生活それぞれの向上のために、ぜひどうぞ。

『ドット・コム・ラヴァーズ』はなかなか好評なようで、読売新聞と日経新聞から取材の依頼を受けました。近々書評かなにか載るかも知れません。

それでは、暑さにめげず、楽しく元気に暮らしましょう。

2008年7月14日月曜日

7月15日(火)同志社大学講演会

今日7月15日(火)、4:45pmより、京都の同志社大学今出川キャンパスのアメリカ研究所で、講演をします。今回は『ドット・コム・ラヴァーズ』についてではなく、去年刊行されたMusicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicをもとにして、『アジア人と西洋クラシック音楽——歴史と文化的アイデンティティ』という題で講演します。京都は祇園祭の真っ最中だそうで、とても混雑していそうですが、私は祇園祭に行ったことがないので、楽しみにしています。また、同志社大学は、新島襄の時代から、アメリカ研究・日米文化交流に重要な役割を果たしてきた学校なので、そうした場所で私の研究について話す機会ができるのも、嬉しく思っています。京都近辺のかたがいらしたら、ぜひどうぞ。

7月15日(火) 4:45pm——
同志社大学今出川キャンパス アメリカ研究所 博遠館内

出版記念パーティ、亀井俊介先生叙勲祝賀会・結婚アドバイス

先日11日(金)に、駒場にて『ドット・コム・ラヴァーズ』出版記念パーティをしました。来てくださったかたがた、どうもありがとうございました。おかげさまで、とても楽しい集まりになりました。アメリカのパーティの様子は『ドット・コム・ラヴァーズ』でも少し書きましたが、アメリカのパーティ式の、知らない者同士が集まって話をするような社交の場は、日本にはほとんどありません。今回のパーティは、私の中・高時代、大学時代、そしてブラウン大学院時代の友達と、そして仕事関係やその他のところで知り合った友達など、いろいろ別な方面の人たちが一緒になり、しかもそのほとんどはアメリカ式のパーティを経験したことがない人たちだったので、はたしてこうした形式の集まりがうまくいくものかどうか、少し心配していたのですが、そこはやはり皆さん大人で、初対面の人同士も仲良く歓談して、楽しいひとときになりました。私がピアノを弾くということを話で聞いたことはあっても、実際に私が弾くのを聴いたことがない人も多かったので、少しピアノ演奏もしました。『ドット・コム・ラヴァーズ』にちなんで、私が勝手に恋愛関係のテーマをつけた小曲を6曲弾きました。ちなみにその6曲とは、シューマン「アラベスク」、ドビュッシー「La Plus que Lente」、バーバー「Souvenirs組曲より Pas de deux」、同じくバーバー組曲より「Hesitation-Tango」、ラフマニノフ「エレジー」、シューベルト 即興曲変ト長調でした。テーマはそれぞれ、「出会い」、「戯れ」、「疑念」、「浮気」、「別れ」、「成長」です。何人かのかたがたに、スピーチもしていただきました。それぞれ、本から読みとれるアメリカ像や恋愛論、吉原真里像などを、とても的確に語ってくださって、とても嬉しかったです。

パーティのさい、『ドット・コム・ラヴァーズ』についての感想やコメントを書いてくださったかたがいますが、その中で、数人のかたが、「そのヘアカットと眼鏡にああいう意味があったとは知らなかった。でも効果は疑問」という主旨のことを書いていました。ガックリ。どうもなめられっぱなしだなあとは以前から感じていましたが、どうせ効果に関係ないのなら、他の人がいいと思うものよりも、自分がセクシーでファンキーだと信じているスタイルを続けます。

昨日、7月13日(日)には、私の大学時代の恩師、亀井俊介先生の叙勲祝賀会が原宿でありました。私は亀井先生の遊び相手代表としてスピーチをしました。なんだかこのスピーチが大ウケだったようで、亀井先生ご本人はもちろん、ほかの長老先生がたに大いに気に入られてしまった私は、2次会3次会まで合わせて計12時間もおつきあいすることとなりました。私は、自分のジェンダー観に反するような媚びた行動をとらない割には、日頃からおじさまたちにはとてもモテるのですが、自分で言うのもなんですが、この日のモテモテぶりは格別で、まるで長老のアイドルでした。このくらい、40代の独身男性にも愛されるといいのですが...それはともかく、亀井俊介先生は、アメリカ文学・文化史・日米文化交流史などの分野での大家で、重厚で画期的な研究書を若いときにお出しになったばかりでなく、平易でかつ読者を引き込む文体でアメリカ文化を語る著書を、ほんとうに数えきれないくらいお出しになっています。現在75歳で、東大退官後は岐阜女子大で教えていらっしゃいます。数年前に私が東京でデートしたとき、「これからじっくり勉強し直してアメリカ近代詩についての本を書く」をおっしゃっるのを聞いて私は恐れ入りました。現在もまったく衰えぬエネルギーでお仕事を続けておられ、アメリカ文化史の本を執筆中です。

ところで、数日前の「ニューヨーク・タイムズ」の論説欄に、この記事が載りました。結婚に関するアドバイスです。この記事を書いたMaureen Dowdは、女性・ジェンダーを初めとして政治・社会問題ひろく一般に、辛口批評をする、「ニューヨーク・タイムズ」の人気論説ライターです。「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、調査の点でも分析の点でも、本当に一流ジャーナリズムの名に値する立派な記事が多く、ファッションや料理などのより「軽い」欄も、実に見事な読み物です。また、「ニューヨーク・タイムズ」の論説を毎日読むだけでも、かなりの勉強になります。英語を読む力をつけるには、自分が興味のある題材についてのきちんとした英文を定期的に読むことが効果的ですので、ふだん英語を読むことに慣れていない人は、「ニューヨーク・タイムズ」のなかで自分の好きな部分を定期的に読むことをおススメします。今は、記事のすべてがネットで無料で読めるほか、紙の新聞にはない、ビデオや写真なども見られます。こうしたサイトの充実ぶりは、日本のほとんどのメディアとはまるで比較になりません。こんなにオンライン版を充実させたら、紙の新聞が売れなくなるだろうと思うのですが、オンライン版を発達させることが、社全体のパワーアップにつながると判断してこうなっているのでしょう。この記事は、「軽い読みもの」の部類ですが、結婚に関するアドバイスということで、『ドット・コム・ラヴァーズ』に興味をもって読んでくださったかたなら誰にでも関心のある話題でしょう。文化・社会を問わず「普遍的」と思えるアドバイスもありますが、アメリカならではと思えるものもあります。それぞれのアドバイスに、自分が賛成するか反対するか、考えてみましょう!


2008年7月8日火曜日

『ドット・コム・ラヴァーズ』への反応 その2

『ドット・コム・ラヴァーズ』についての感想がさらに集まりましたのでご紹介します。

まず第一に、「こんなことまで書いちゃって大丈夫なの?」という種類の反応をする人がとても多いのが、私にとっては興味深いです。コメントのなかで「赤裸裸」という単語を使う人が多いので、「こんなこと」というのは、おもにセックスに関する描写を指しているのだと思います。そして、「こんなものを書いて、今後、学界や仕事仲間から偏見をもたれたり、見当違いの批判を受けたりしないのだろうか」とか、「この先、日本の大学に就職するという可能性はまるで考えていないのか」とかいった心配をしてくださる人が多いです。そうしたプラクティカルな考慮に加えて、単純に、「よくもまあ恥ずかしげもなくこんなことまでさらけ出すなあ」と半ば呆れた反応をする人は多いようです。

セックスを含め、普通はあまり不特定多数の読者に対しては公表しないような話題も本にはたくさん入れたので、そうした反応をする人がいるであろうことは想像していましたし、実際、執筆や編集の段階で、「こんなものを本当に本にしてしまっていいのだろうか」という疑問がときどき頭のなかで湧いてきたのも事実です。そして、自分はアメリカの大学ですでにテニュアを取得し、昇進審査も通過していて、職業上の立場は一応安定しているし、日本の学界や出版界での仕事は続けていくつもりはあっても、日本の大学に職を求める予定は今のところない、という現実の状況が、この本を執筆するにあたってのプラクティカルな考慮にまったく入らなかったとは言えません。

が、実際のところ、そうしたことについては、私はあまり悩まなかったのも事実です。センセーショナリズムを狙った本だと捉える人もいるでしょうし、はしたないとか下品だとかいった思う読者もとくに学界にはいるでしょうが、そんなことを心配していては、執筆活動はできません。そういった心配から、書きたいこと論じたいことを削除したり変えたりするくらいの内容だったら、初めから書く価値がないだろうと思っています。また、正直なところ、セックスに関する記述も、私はそれほどたいしたことだとは思っていません。男女関係についての著述でセックスに触れないことのほうが変だと思いますし、かといって私は本のなかで具体的な行為の描写をしているわけでもありません。あくまで男性との出会いや交際の一部としてのセックスについて書いただけで、そうした著述を通じて自分がとくに画期的なことをしているとかいった意識もあまりない、というのが正直なところです。私の知人友人はみな「うん、確かに」と言うでしょうが、もとから平均よりはかなりぶっちゃけた性格なんです。

それから、この本を、一種の「恋愛論」として読む人が多いらしいというのも、私にとっては実はかなり意外な発見です。本を読めばわかるように、私は、いろいろな男性と出会ったりつきあったりはしてきましたが、そんなことは40まで独身でいればごく当たりまえのことでしょう。そもそも、これだけ多くの男性と出会ったりつきあったりしていながら、今でもシングルだということ自体、自分が「恋愛論」などを展開するにはまるで不適格な人間であるということは、(残念ながら)強く強く認識していますし、「論」を展開しているヒマがあったら、実際の恋愛にエネルギーを使いたい、というのが正直な気持ちです。ですから、「この本を読んで、恋愛や結婚についてすごく考えさせられた」とか「恋愛についての勇気をもらった」とか「これは一種の恋愛バイブル」とかいったコメントを聞くと、私が一番驚いてしまいます。

私がこの本を書いたおもな動機は、研究書や論文といった形式の文章では伝えにくい、アメリカの姿を描くことにありました。長期にわたってアメリカで生活や仕事をしてきたアメリカ研究者として、知的な意味でもパーソナルな生活体験といった意味でも、「アメリカ」について語るだけの資格が少しはできてきたかなと思うので、こうした本を書いたのです。だから、オンライン・デーティングや恋愛といったテーマや、体験談という著述スタイルは、著者の私にとってはどちらかというと副次的なことなのですが、アメリカ文化といったことの他に、恋愛だとか男女関係だとかインターネット上の出会いだとかいった視点からこの本に興味をもってくださる読者がいるのは、むしろ私にとって、「なるほど」といった感じです。

といった前置きをしておいて、以下、寄せられたいくつかの感想をご紹介します。

-トニ・モリソンを知らなかった自分は、明らかに著者の交際の対象外なんだなあと思った。[ちなみに、このコメントをくれたのは、私の大学時代からの友人の男性ですが、別に私の交際の対象になりたいからこう思ったわけではなくて、単に、「へー、こんなことを基準に選んでいるんだ」と思った(呆れた)わけです(と思います)。他にも、女性の友達でも、「とくに政治意識も強くない私なんかと、著者がよく友達でいるなあと思った」といった感想をくれた人もいます。]

-けっして著者のよいところばかりをアピールしているわけではないけれど、この本を読んだら、さすがに著者の価値観に合わないような人物が寄ってくることはないだろう。著者を交際相手として考えたり、口説くことをねらっている男性には、この本を読むことが非常に役に立つだろうと思った。[確かに、それはそうですねえ。素敵な独身男性で、この本に書いた私の価値観に合っていそうな人がいたら、ぜひともこの本を読ませてあげてください(笑)]

-アメリカに住んだことも、文化に親しんだことのない自分でも、著者の交際の様子や、著者の視点からの人物の描きかたで、ものすごく具体的に相手の男性たちの雰囲気、価値観、生活スタイルを知り、感じ取ることができた。ベースは、サイトを通じての著者の体験談だが、その内容を通じて、アメリカのさまざまな人物の雰囲気や文化的な背景による違いを知ることができた。小説や映画だと、感情移入ということが先に立って、文化的な差異といったことに思いをめぐらせないことが多いが、この本では、著者の交際相手という意味で、読者にとってある種の身近さ、どきどきわくわく含みの先行きへの期待感を感じさせつつ、人物の描きかたが、冷静な表現での記述に徹していて、驚くほどよく相手の男性たちをイメージすることができた。いいバランスで読めた。[私のもともとの意図が伝わったという点では、こう言っていただけることが、私には一番嬉しいです。]

-これはある意味、恋愛バイブルのようなものになりうるのかなと思った。一人の女性がある特定の年代の数年間のなかで、これだけ多くの男性と真面目な恋愛を前提とした交際をした記録というのも、なかなかありえないだろう。著者の個人的な考えや価値観に沿った恋愛の記録ではあるけれど、それでもここまで自分の感情にウソなく、熱い恋愛感情も表現しているのに、その恋愛の背景を冷静な広い視点から描いているのが凄い。人と人とのつきあい、特に男女の交際や人生のパートナーとのつきあいにおいて、「価値観のある程度の合致」が一番大事だというのは、もともと共感できる考え方だし、男女交際の最大の「真実」かなと思っているので、この本を読んだほかの人たちも、そのように感じるといいなーと思った。

-登場する人物たちについて、文化、宗教、職業、地域的な背景をもとに、「こうした人たちはえてして、こういった価値観をもち、こうした行動をするものだが、彼にとってもやはりそうであった」という類の描写がよく出て来たが、アメリカの現実を知らない自分としては、そうしたパターンをどの程度の確度のものとして理解すればいいのか、ちょっと不安に感じた。著者を知っている自分は、漠然と、「典型的な文化観」を先に持たないところから入るのかと思っていたので、意外だった。[これはなるほど、私にとってとても面白いコメントです。要するに、この本が、文化や地域によるステレオタイプを作ったり再生産したりしているのでは、ということだと思います。私としては、いっぽうでは、日本の読者の多くがもっていそうなステレオタイプ・偏見・無知(たとえば、ゲイの人々や、ワシントン・ハイツ、ハワイについて)をある程度修復したいという意図はあります。またそのいっぽうでは、現実のアメリカ社会において、人種や民族、宗教、地域、社会階層、性的指向、政治的志向などのカテゴリーによって、価値観や感覚、生活スタイルがかなりの程度違ってくるという状況も、描写したかったのです。そうした状況を、多くの日本人はよく理解していないと思うので、そうしたことを、男性の描写を通して具体的に伝えることには、意味があると思いました。それを、ステレオタイプ強化という結果にならずに伝えるのが難しいところです。]

以上は、友人からのコメントです。さらに、つい昨日、評論家の小谷野敦さんが、以下のようなコメントを発表してくださいました。ご存知のかたもいるかと思いますが、数年前に、私は某学術誌で、小谷野さんの著書についてきわめて批判的な書評を書き、それに反駁した小谷野さんと、ネット上で数回のやりとりがありました。小谷野さんは(あれだけ批判的な書評を書かれたら著者は誰でも気を悪くするのは私もわかっていました)たいそう気を害されていたはずです。それにも関わらず、『ドット・コム・ラヴァーズ』についてこうした好意的な評を発表してくださっているのは、小谷野さんのプロフェッショナリズムの顕われで、たいへん感謝しています。いつも私の味方でいてくれる友人知人に「よかった」「面白かった」と言ってもらうのはもちろん嬉しいですが、かつて激しい議論を交わした相手にこのように評価していただくのは、いっそう意味があることだと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080708






7月9日(水)東京大学駒場キャンパスにて講演会

急なお知らせですが、本日7月9日(水)4:20pmより、東京大学駒場キャンパスにて、『ドット・コム・ラヴァーズ』についての講演をします。矢口祐人先生の大学院の授業ですが、一般公開でどなたに来ていただいても大丈夫ですので、興味のあるかたはぜひいらしてください。研究者が自分の経験について語ること、といったテーマで少しだけ話したあと、みなさまからの質問やコメントにお答えするという形をとり、講演といってもきわめてカジュアルなセッティングです。

7月9日(水)4:20−5:50pm
東京大学駒場キャンパス(京王井の頭線駒場東大前駅下車すぐ) 8号館209号室

2008年7月1日火曜日

『ドット・コム・ラヴァーズ』への反応

『ドット・コム・ラヴァーズ』を早速読んで、感想を送ってくださったかたがた、ありがとうございます。丁寧に読んで、率直で具体的なコメントをくださる読者がいるのは、著者にとっては本当にありがたいことです。

「他の読者がこの本にどんな反応をするのか興味がある」というかたが多いので、以下に、いくつかのコメントをご紹介します。

-ここまで恋愛、男にこだわりがあるとは...

-自分は結婚して何年もたつうち、恋愛などという話から遠ざかっていたので、とても新鮮。

-ここに描かれているアメリカ社会は、私にとってはとても親近感がある。出てくる男性も自分の知り合いのようだったりして、「え、この人、別人だよね」とそれを確認するのに数度読み直したりした。

-eHarmony検索結果ゼロ大ウケ!そこに至るまでの質問項目の嵐にも笑える。

-ストーカーまがいの看護師の話には、「やっぱりコワい体験もしているんだ」と思った。「やっぱり」という形容詞は、日本の読者の多くがつけるのではないか。(日本ではネットでの出会いとは)危険なものという印象が強いから。

-(オンライン・デーティングが)遊び人だけのものとか、出会いがない人のためのものとかいうのではなく、またとくに危ないものでもなく、むしろ人生経験を豊かにしてくれる、というのが全体のトーンと感じた。とはいえ、そうしたポジティヴなものを得るための条件が実はたくさんあるように思う。私が強く印象づけられたのは、堂々と駆け引きをする真里さんの振る舞い。それは、英語による(広い意味での)コミュニケーション・スキルがきわめて高いことに裏打ちされていると思った。

-インターネットの普及とともに「ネチケット」が発達するように、オンライン・デーティングのマナーや規範が形成されてきているのが、社会学的に面白いと思った。でも、それが「従来型」の恋愛や恋愛観とのあいだで齟齬を生じることもあって、それぞれの人がなんとか折り合いをつけようとしている、そんなふうにも見える。

それから、最終章に出てくる「ジェフ」の部分については、「読んでいてとても辛かった」とか「涙が出てきた」というかたが何人もいます。彼との一件については、私自身はすっかり立ち直っているのですが、読者からそれだけの感情を喚起するということは、あの部分を書いたときは、私自身がまだずいぶん悲しみのなかにいたということでしょう。

以上は、私の友人知人からのコメントですが、「他人」の読者で、こんなに丁寧なコメントを書いてくださっているかたもいます。

http://bestbook.livedoor.biz/archives/50592689.html

なお、なかには、私が本を書く取材のためにオンライン・デーティングを始めたと思うかたもいるようですが、それは違います。私は本当にデートの相手を探すためにオンライン・デーティングを始めたのです。体験談を話しているうちに、「そんなに面白い話がたくさん集まったんだったら、いっそのこと本でも書いたら」と親友の矢口祐人さんに薦められて、その気になりやすい性格の私は本当に書いてしまった、という次第です。この本を通じて、日本の読者のかたがたに、現代アメリカの一端を伝えられるのなら、私のいろいろな出会いや別れも、ムダではなかったと思えます。

ちなみに、私の親は、一言だけ、「これは過激な本だね」とだけ言って、それ以上の感想は述べていませんでした...