2008年7月28日月曜日

デートの会計 その2、そしてインターネットと読書

昨日、『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」と、もう一人のゲイの友達(ここでは「アンディ」としておきましょう)と一緒に食事と映画に出かけ、先日の投稿に書いた、ゲイの人同士のデートの会計について聞いてみました。「ジェイソン」は、よく知らない相手や、もう二度と会わないかもしれない相手と、貸し借りの関係を作るのは嫌なので、初めてのデートのときにはいつも割り勘にする、と言っています。ただ、しばらく交際するようになってからは、お互い順番におごり合いっこをするそうです。彼は、ここ数年間つき合っているボーイフレンドがいるのですが、彼ともそうしています。私も一緒に三人で出かけるときなどは、私のぶんまで二人のうちのどちらかが払ってくれることもあり、私もときどき彼らのためにおごったり料理を作ったりします。(ただ、「ジェイソン」はヴェジタリアンで、彼が来るときはかなり考えて料理をしなければいけないので、ついつい彼とは外で食事をすることが多くなります。)「アンディ」はシングルなのでよくいろんな人とデートに出かけますが、デートに誘ったほうが払うのが普通、と言っています。

話題は変わって、先日の「ニューヨーク・タイムズ」に、インターネットと読書についてのこんな長文記事が掲載されました。ビデオもあって面白いので、ちょっと見て(読んで?)みてください。インターネット時代に育った十代の若者や大学生の「読書離れ」について、多くの人が危機感を抱いていますが、一日に何時間もインターネットでものを調べたり読んだり、あるいは友人知人とチャットやメールをしたりする若者は、本当に「読書離れ」しているのでしょうか。従来の紙の本の読書と、ネット上での「読書」は、どう違うのでしょうか。莫大な量の情報がネット上でアクセスできるようになったことは、私たちの知識や思考を豊かにしているのでしょうか、それとも貧困にしているのでしょうか。インターネットという媒体に懐疑的な人たちは、静かに座って本をひろげ、線的な叙述と思考に集中する、という伝統的な「読書」が若者の日常生活から姿を消してきていることに強い危惧の念を抱きます。そのいっぽうで、インターネットの可能性をよりポジティヴに評価している人たちは、従来の「読書」とは、本あるいは著者から読者への一方的なコミュニケーションであるのに対して、ネット上での読者は、「読書」の過程で、自分の興味に応じて関連資料を同時に調べたり、コメントを書き込んだり、他の読者と対話したりすることができるぶん、より能動的で積極的だ、という見方をします。こうしたトピックはえてして偏った議論になりがちですが、いろんな視点から話を展開しているあたり、さすが「ニューヨーク・タイムズ」です。私は、かつては本を読みふけって育った文学少女で、内容もそうですが物体としても、紙の本というものをこよなく愛しているし、今では本を書く人間になったので、本という媒体の将来はとても気になります。それと同時に、「デート」はもちろんですが、自分の読書やリサーチ、執筆などが、インターネットという媒体ができたことによって、それまでとは比較にならないくらい可能性が広がったのも確かで、インターネットのない生活はもはや想像できません。ひとくちにインターネットといっても、そこにある情報や、その使いかたは、ほんとうに複雑多様なので、ひとくくりにして乱暴な議論をせずに、その実体をきちんと丁寧に考えていきたいと思います。


追伸 私の高校と大学の同級生だった男友達(普通のお友達です)のお父様が、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださいました。私は、そのお父様が駐在中にロスのお宅にしばらく遊びに行ったことがあるので、ご家族そろって仲良くさせていただいているのですが、そのお父様は、この本を読んで、息子に、「真里ちゃんの男性遍歴が赤裸裸に書いてあって、びっくりした。お前が出てくるんじゃないかと思ってハラハラした」と言っていたそうです。読者はそれぞれ、いろんな読み方をするもんですねえ。(笑)

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