2010年7月31日土曜日

「未離婚」の人々

30日(金)に、『性愛英語の基礎知識 』『ヴァン・クライバーン 国際ピアノコンクール』の合同出版記念パーティをしました。夜中の1時過ぎまで大いに盛り上がって、たいへん楽しい会となりました。参加してくださった皆さま、ほんとうにありがとうございました。友達やお仕事仲間が、それぞれの人生の段階で自分がやっていることを、きちんと見ていてくれているということほど、人生において強い武器はない、ということを改めて実感する一夜でした。

さて、今日アメリカではチェルシー・クリントンの結婚式の話題でもちきりのようです(日本の読者にとっては、メソディスト派クリスチャンの新婦と、ユダヤ教の新郎が、それぞれの宗教伝統を取り入れた形式の結婚式をおこなった、ということはなかなか面白いのではないでしょうか)が、オンライン版ではそのおめでたいニュースのちょっと下に、The Un-Divorced、すなわち「『未離婚』の人々」というタイトルの記事があります。

『性愛英語の基礎知識 』のなかで、"currently separated"つまり「現在別離中」という表現について説明しましたが、これはその「現在」が何年間にも、ときには何十年にもわたる夫婦(?)を指すものです。一緒に生活していくことは無理だとの結論に至った夫婦が、別々に暮らし、多くの場合それぞれ新しい恋人やパートナーを見つけ、"move on"(これも『性愛英語』に出てきます)し、事実上は別れているにもかかわらず、さまざまな理由から法的な離婚手続きをとらないまま長期間が経過する。そうした「未離婚」の状態で、とくに困ることもなく、むしろそのままにしておいたほうがメリットが多い場合もあるので、その状態が何十年も続くこともある。一緒に暮らしていないし、別のパートナーがいたりするのだから、知人友人はてっきりもとの夫婦は離婚済みなのだと思っている場合もあるし、そう思われていてとくに困ることもない。逆に、別々に暮らしてはいるけれど、きわめて友好的な関係で、二人でさまざまな社交の場に出かけていく「夫婦」もある。フィランソロピストのウォーレン・バフェットなどは、妻と1977年に「別離」したまま2004年に彼女が亡くなるまで離婚はせず、その間ずっと自分の新しいパートナーである女性と一緒に暮らしており、三人は仲がよく、三人の連名で友人知人にホリデー・カードを出すことなどもあったそうです。

関係をもとに戻すつもりがないのなら、いっそのこときちんと離婚してしまったほうがすっきりしてよさそうなものを、こうした人々が敢えて「未離婚」の状態を長期間続けている最大の理由は、財政的なものだということです。とくに、不況下では共同名義の不動産を売っても損をするばかりだし、友好的な別れなのであれば、わざわざそれぞれが弁護士を雇って財産分与を決めるのは精神的にもお金の面でも面倒である。また、健康保険、年金、税金などにおいて、法律上は結婚していたほうが有利に働くことが多いので、とくに離婚の必要に迫られていなければ、「未離婚」のままにしておく男女が多く、はじめは当面の処置のつもりでしていたことが、あれよあれよという間に何十年もたってしまう、ということがあるようです。「子どものため」という理由で「未離婚」の状態を続けるケースは驚くほど稀だそうですが、実際に別居しているのであれば、子どもの精神状態にとっては法的に離婚していてもしていなくてもそれほどの違いはないと思われる(私の友達にもそういうケースがあります)ので、それはまあ納得がいくことでもあります。もちろん、「未離婚」が、単に離婚に伴う係争に直面したくないためにそれを先延ばしにした結果であるというケースも少なくありませんが、敢えて「未離婚」をライフスタイルとして選択している人が多いというのは、なかなか興味深いことではあります。

私は今、リリー・フランキーの『東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン 』を読んでいるのですが、ここのオカンとオトンの関係が、まさに「未離婚」ですね。

2010年7月25日日曜日

「在日コリアンの戦後」と先住ハワイアン教育

昨晩、NHKスペシャル「日本と朝鮮半島 第4回 解放と分断 在日コリアンの戦後」を観ました。GHQ文書や占領政策に携わった人たちの証言、当時の映像などをもとに、日本敗戦後の在日コリアンの民族運動を、とくに教育に焦点を当てて追ったもので、とても興味深く見応えのある番組でした。植民地時代に皇民化教育を受け、日本国内では参政権も与えられていた在日朝鮮人たちは、戦後、みずからの言語を取り戻し子どもたちにみずからの教育をして民族としての誇りとアイデンティティを回復しようと、コミュニティの各人がお金や労力や知恵を提供して朝鮮学校を作る。そのいっぽうで、冷戦の進行のなかで、占領期初期には積極的に日本の民主化を推し進めていたGHQの政策転換と、在日朝鮮人の扱いを決めかねていた日本政府の意向が合わさって、在日の人たちは参政権も日本国籍も剥奪され、教師や親や生徒たちの果敢な反対運動にもかかわらず、朝鮮学校は閉鎖されてしまう。その時期に学校に通った人たちの今の姿も出てきて、いろいろなことを考えさせられます。閉鎖された朝鮮学校が各種学校という扱いのもとで再開し、現在に至るまでの流れにもうちょっと時間を割いてくれたら、現代の朝鮮人学校そして在日コリアン全体の位置づけにより明確に結びつけられただろうと思いますが、それでも、日本に内在する差別と冷戦体制下のアメリカの政策の両方が語られているという点で、よい番組でした。

今日のホノルル・スター・アドヴァタイザーには、現在のハワイにおける先住ハワイアン教育と連邦政府の教育政策についての記事があり、上の番組を観たばかりだったこともあって、これもいろいろ考えさせられます。19世紀に欧米からキリスト教宣教師がやってきて、資本家たちとともに次第にハワイ王国を植民地化していくなかで、ハワイ語(そしてフラなどのさまざまな伝統ハワイ文化や生活習慣)の使用が抑圧されたり禁止されたりした結果、先住ハワイアンの人たちのなかでも、ハワイ語を母語として日常的に使用する人は現代では皆無に近くなってしまいました。しかし、1970年代から興隆してきた、ハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる先住民運動のなかで、ハワイ語やハワイ文化を回復しようという動きが高まり、ハワイ大学でも非常にたくさんの学生がハワイ語の授業を受講するようになりました。また、ハワイ語を母語と同様に使用する世代を再び育てようということで、算数や社会などの科目もすべてハワイ語で指導する学校やプログラムも設立され、現在では、ハワイ州全体で16の公立学校がHawaiian immersion programという集中的なハワイ語の指導をおこなっており、約2千人の生徒がこれらのプログラムで学んでいます。しかし、連邦の教育省がNo Child Left Behind法(これについては『現代アメリカのキーワード 』にエントリーがありますので参照してください)のもとで課する標準テストの免除を教員たちが連邦政府に求めている、とのことです。全国共通の標準テストの成績によって生徒や学校に罰則が与えられたりすることは、先住民の言語の使用を推進する先住アメリカ言語法と相容れないものであり、また、英語で勉強をしていない生徒(全教科をハワイ語で勉強する学校では、英語の授業は5年生から始まる)に全国共通の標準テストを英語で受けさせても、生徒の学力を正確に判断できるとはいえないとして、特別な措置を要求しているわけです。連邦の教育省は、こうした学校の状況を調査中ではあるが、標準テストをめぐる扱いについての決定がいつどのような形で出されるかは不明、とのこと。

みずからの意志で移住し、法的にも文化的にもその国の市民として生きようという選択をした移民と、植民地化や戦争といった状況のもとで意に反して他国の住民となった人々の歴史や状況は一緒くたには扱えませんが、政策や多数派の意識とは別に、多民族・多文化・多言語という社会の現実があるなかで、マイノリティがみずからの言語と民族性を豊かに継承しながら、マジョリティや他のマイノリティと共存していくためには、どういった教育の形が望ましいのか、おおいに考えさせられるところです。

2010年7月19日月曜日

家系の謎

週末に、親戚の集まりで関西に行ってきました。いとこがカメルーンに移住するのでその送別会と、もと私の祖父母の家で今は叔父がひとりで住んでいる家を近々なんらかの形で処分することになるかもしれないので、そうなる前にみんなで集まっておこう、という主旨で集合しました。

兵庫県伊丹市にあるこの家は、私が小さ
い頃から律儀に毎年夏休み・冬休み・春休みを過ごしに行っていた家で、祖父母が生きていた頃(祖父は私が小学生の
ときに亡くなりましたが、祖母は私の大学院時代まで長生きしました)よくいとこたちと遊んだ思い出があるので、私
にとっては愛着のある家です。また、東京のせせこま
しいマンションで育った私
にとって、土地もゆったりして庭があって、洋間の応接間があり、床の間のある和室には縁側があり、敷地内の隣にはいとこの家族が住んでいる、というのは、まさに「田舎の親戚の家」で、そこに出かけていくのは子供時代の私にとってそれなりに楽しみなものでした。今考えてみれば、伊丹というのは関西の田園調布のように設計された街で(実際、駅前から住宅地にいたる様子などは、田園調布とよく似ている)、田舎でもなんでもなく、かなり大きな家の立ち並ぶ、裕福で閑静な住宅地。また、私の意識のなかでは「古い日本家屋」と記憶されていたその家も、いわゆる昭和の「文化住宅」で、実は建って五十年弱しかたっておらず、私が育った東京のコンクリートのマンションと建設時期がそう違うわけではない(そして、私がホノルルで住んでいるマンションともそれほど年齢が違わない)ことを考えると、急にありがたみが減少するような気持ちもします(アメリカでは、歴史を感じさせる古い家に住みたがる人が多いので、百年以上前に建った家に住むことはまったく珍しくありません)が、それでもまあ、私は個人的に郷愁があります。震災で崩れなかったのが不思議なくらいで、その前も後も一切改装などをしていないため、今では外から見るとお化け屋敷のような様相をなしていますが、それはそれでなんだかちょっと面白い。ただし、冬はおそろしく寒く夏はおそろしく暑いし、お風呂も台所もトイレも建ったときのままの状態なので、住むにはまったくもって適さず、ましてや叔父がひとりで一人で暮らすにはムダが多すぎる、かといって跡継ぎもいない、ということで、売却または取り壊しを検討しているわけです。部外者の私としては、せっかく今どき珍しい日本風家屋を、どこにでもあるような醜いマンションにしてしまうより、もとの家の様式を残した小さな一軒家風の記念館にでもして公開したらいいのではないかと思うのですが、それに熱意を示したのは私といとこのひとりだけでした。

記念館などという案が出るのは、私の家系はなかなか興味深いものであるらしいからです。私の祖父は、叙勲までしたなかなか著名な農学者だったのですが、その祖父は婿養子として祖母の家に入りました。祖母の家は四国などに土地をもつ地主で、男子がいなかったため祖母が婿をとることになったわけです。私は祖父母が生きている頃はもちろん、最近までそうしたことに興味がなかったので、話を聞くようになったのはここ数年のことなのですが、どうもこの祖母の家系も、祖父の家系も、なにやらたいへん面白いらしい。祖母の家系については、押し入れから家系図が書かれた巻物が出てきたのでそれを見てみましたが、なんとその始まりは、なんとかかんとかの皇子。年号が書いていないのでいったいいつのことなのか、もっとじっくり読み込んでみないとわからないのですが、その巻物の長さからして、ちょっとやそっとのものではない。誰がいつどうやって調べたのかもわからないし、にわかには信じがたいほど古いところまで遡って書かれているので、本当なのかしらんと疑ってしまうくらいですが、でっちあげにしては細かいことまでできすぎているようでもある。最後は私の祖父母の名が出てきて終わっているのですが、わざわざ婿養子をもらって家系存続に努めた努力も空しく、私の代にもその下にも家系を継ぐ男子がなく、あの長い巻物の記録はこれにて消滅してしまうのでしょうか。

そのいっぽうで、祖父の家系は、なんと、海賊の末裔らしい。かつて瀬戸内海をかけめぐっていた渡邊水軍の子孫らしいのです。しばらく前までは、四国にあった家のお蔵に、罪なき人々から略奪した財宝が保管されてあったらしい(ほんまかいな)。私がこれを知ったのはつい数年前のことで、海賊というとブラッド・ピットを思い浮かべる私は、心底仰天しました。「私の先祖は海賊だったらしい」と友達にいうと、「なるほどそう言われると納得がいく」という人が多いのですが、いったいなんのこっちゃ。それにしても、なんとかの皇子の子孫が海賊の子孫と一緒になったというのも奇妙な話ですが、さらにその子孫がハワイに住んだりカメルーンに住んだりするのも、なんだか面白い。

祖父母の古いアルバムも出てきましたが、その写真もたいへん興味深く、明治の文豪の写真に見るようなものと同じような背景やポーズ写っている祖父母の写真がたくさんあって、この人たちと自分が血がつながっているというのがとても不思議な気持ちになりました。

Gail Bernsteinという日本史家が、福島から東京や上海そしてインドネシアまで広がるある一家族の三世紀十四世代にわたる歴史を追った、Isami's House: Three Centuries of a Japanese Familyという無茶苦茶面白い本があるのですが、ここで描かれている家族の歴史、とくに第二次大戦後の坂を転げ落ちるような凋落ぶりが、私の家族とあまりにもよく似ているので、驚愕しながら読みました。十四代遡れるというのもすごいと思いましたが、こちらはなんとかの皇子までさかのぼる巻物があるのですから、その気になって研究をすれば、私自身の家系をネタにしてとても面白い歴史書または小説が書けるかもしれません。

2010年7月15日木曜日

アメリカの中絶医療の現状

今週のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、The New Abortion Providers、つまり新時代の中絶施行者、というタイトルの長文記事があります。たいへん読み応えのある記事で、アメリカ女性史の授業で中絶問題を扱う私も、知らなかったこと、驚いたことがたくさんあり、とても勉強になりました。今後このトピックを授業で扱うときはこの記事をリーディングの一部にしようかと思います。

1973年の連邦最高裁のRoe v. Wade判決で中絶が合法化されてからも、それまで非合法におこなわれていた中絶には暗いイメージが伴い、社会的保守派からの抗議もあって、多くの医師は中絶処置をおこないたがらなかった。医療のメインストリームが中絶から距離を置こうとするなかで、中絶合法化の実現に大きな役割を果たしたフェミニストの活動家たちが、中絶を必要としている女性たちが安全な処置を受けられるよう、全国各地に専門のクリニックを設置し、無機的で冷たいイメージの病院とは違った、温かい雰囲気のなかで処置が受けられる設備やサービスを提供した。そして、それまでは非合法で危険(きちんとした知識や技術をもたないにもかかわらず、金目当てに闇の中絶をおこなう医師も少なくなかった)な中絶で命を落としたり大きな傷を負ったりする女性が多かったのに対し、女性医師やスタッフが温かくサポートするなかで安全な中絶処置を受けられるようになった。ここまでは一般的に理解されていることですが、この記事で扱われているのは、その中絶処置を提供する医師そして医療機関の事情。

アメリカは州によって法律も文化も大きく差がありますが、全体的に見て、中絶合法化以後も、社会的にも、そして医療の現場でも、中絶はメインストリーム化したとはとうてい言えず、全国で中絶処置を提供している医師のオフィスは1982年の700から2005年には367とほぼ半減している。年間におこなわれる中絶処置の数は、1970年代からほぼ120−130万でほぼ安定しており、女性の三人に一人が45歳までに一度は中絶をする。都市部では、産婦人科の門を叩くか、かかりつけの内科医に紹介してもらえばたいてい中絶処置を受けられるが、全米の女性のうち三分の一が住んでいる87%の郡では、中絶施行者を見つけることができない。現在おこなわれている中絶処置のうち、医師のオフィスでおこなわれるのはほんの2%、病院でおこなわれるのは5%ほどで、残りはすべて専門のクリニックでおこなわれている。医師が中絶を支持するということは、自らがその処置を提供するということではなく、患者をクリニックに紹介するということを意味する、という驚くべき事実。

この背景には、Operation Rescueなどといった中絶反対団体による抗議運動や、中絶をおこなう医師に対する脅迫や殺害まで起こる社会的風潮もありますが、そのほかにも、医療の現場において中絶がメインストリームと考えられてこなかった、という現実もあるとのことです。アメリカ医学会は、中絶処置のケアのための標準を設定してこなかったし、医学部のカリキュラムにも中絶は入っていなかった。1990年代に若い医学部の学生たちがそうした状況を憂え、医学部の授業や研修医のトレーニングの過程で中絶についてのきちんとした教育を受けられるよう、医学会や政府に働きかけた。その結果、現在では、産婦人科の研修プログラムの約半数が中絶のトレーニングを必須とし、さらに約40パーセントが選択制でトレーニングを受けられるようにしている。(ウォ—レン・バフェットの財団が、中絶を医学教育の一部にするための資金を多額に提供しているらしいです。これも私は初めて知りました。)こうして、医学教育そして医療の現場において中絶をメインストリーム化することによって、中絶というのは医師がおこなう処置の一部であるという認識を、医療の現場においても社会的にも広める効果があるものの、医療の最先端にいる医師たちが普段の勤務先の病院や自分のクリニックから定期的に時間をとって、各地のクリニックに足を運んで中絶をおこなう、という状況を維持するのは困難である。中絶を必要としている女性たちが、心身ともに安全な環境で中絶を受けられるようにするためには、医学教育においても、医療の現場においても、保険制度においても、中絶がよりメインストリーム化することが必要だ、とのこと。(ここではごくかいつまんで説明しましたが、実際はもっとさまざまな情報や視点があって非常に興味深い記事ですので、時間と意思のある人はもとの記事を読んでください。)

宗教、倫理、法律、性、医療などが複雑に絡み合った、アメリカにおける中絶をめぐる議論、そして殺人にいたるまでの感情は、日本人にはなかなか理解しにくいものがありますが、実際のところ中絶問題は、アメリカの政治を大きく動かすこともある大きな社会問題のひとつです。中絶に反対するキリスト教右派の狂信的な主張や行動というだけでなく、医療の現場におけるプラクティカルな問題も大きな要素としてあるのだなあと、考えさせられます。

2010年7月13日火曜日

ミッドライフ・クライシス連載、最終回「友情編」本日掲載 

日経ビジネスオンラインに全三回でお送りした、ミッドライフ・クライシスについてのコラムの最終回が、本日掲載になりました。今回は、「友情編」です。一般的に言って、男性同士の交友関係と女性同士の友達関係のありかたがずいぶんと違うのは多くの人が気づいていることでしょうが、なにがどのように違うのか、そして中年期に入ってそれぞれの関係はどんな変化を遂げるのか。アメリカの事例を描写しながら、日本の男女にも経験や観察に結びつけられる形で書いています。先日言及した角田光代『対岸の彼女 』を読んだ人は、葵と小夜子の関係を思い浮かべながら、そして自分の交友関係について考えながら、この記事を読んでいただけるといいかと思います。どうぞよろしく。

2010年7月10日土曜日

中高クラブ活動に「?」

昨日、中学高校時代の親友と一緒に、母校を訪問に行きました。もうほんの一握りしか残っていないけれども私たちが教わった先生がたがまだいらっしゃるあいだに、私の新著を持って遊びに行こうと思って行ったのですが、一緒に行った友達は子どもが今同じ学校に通っているし、同級生のひとりがその学校で国語の先生をしているしで、別の視点からも母校をのぞくことができて、なかなか興味深い体験でした。

で、巨大なキャンパス(私の母校はもともと山や田んぼに囲まれた土地にあるマンモス校なのですが、今では幼稚園から大学まである一大複合体となっています)を歩き回っている途中、女子のクラブ活動を少し観察し、なんだかとても複雑な気持ちになりました。いっぽうで、スポーツであれ音楽であれ美術や文芸であれ、中高生がクラブ活動に熱中している姿というのは、とてもすがすがしくて心打たれるものがあります。とくに、チームスポーツの規律や結束は見事だし、大きくかけ声をかけ合いながら、決まった動きに沿って練習する様子は、思わずじーっと見入ってしまいます。また、女子のダンス部の練習を見ていると、明らかに私の世代とは身体の動かし方が違うのに新鮮な驚きを覚えます。私たちの頃は、どんなに運動神経がよかったりセクシーだったりする人でも、ああいう身体の使い方はしなかったよなーと思うような動きとリズムで、感心してしまいます。

そのいっぽうで、多くのクラブ活動、とくに運動部の活動に見られる、先輩と後輩の上下関係には、ぎょっとするものを感じます。授業や交友関係は同級生とばかりなので、クラブ活動を通じて学年を超えた活動や人間関係を経験するのはいいことだと思いますが、たったひとつかふたつしか年の違わない上級生が、やたらとエラそうな口調で下級生に指導したり、うまくできないとものすごい勢いで怒ったり、そしてまた下級生が従順に「ハイッ!」と声を揃えて先輩の指図に従ったりという様子を見て、「あー、だから私はクラブ活動というものをほとんどやらなかったんだ(少しだけやったときも、同学年の数人しかいない、クラブというよりサークルのようなものだった)」と思い出しました。私の友達にも、「クラブでは先輩がいばっていて理不尽なことを下級生にやらせてばかりいた」というような思い出のある人がたくさんいます。

中学生や高校生のときから、あんなふうに強固な上下関係を自明のものとして、単に学年が上であるというだけで上級生が下級生を叱ったり(あることを上手にやろうとしているのだから、叱るべきときというのももちろんたくさんあるでしょうが、叱るにしたって建設的でやる気を促すような叱り方というものがあるだろうに、なんだかやたらと高圧的だったりする)、自由な発言や話し合いが許されない雰囲気であったり、そうした環境のなかで自分の役割をきちんと演じることばかりに一生懸命になっていたら、やはり長期的にはそれが社会生活にも延長されるだろうと思うと、そら恐ろしい気持ちになります。あれはちょっとどうにかならないんでしょうか。学年にかかわらずその活動で実力のある人はよきリーダーとしてのありかたを学び、一般部員は友好的で結束力のあるグループの雰囲気を作りながらお互いの力を伸ばし合うにはどうしたらいいか、全員で知恵を出し合って話し合って決める、というふうであれば、意味のあるチームワークや年齢を超えた活動というものが身につくと思うのですが、多くのクラブ活動では既存の体制や方法を無批判に実行するだけの人間が育つように思えてなりません。ちょっとおそろしい。

2010年7月6日火曜日

ハワイ州知事、シヴィル・ユニオン法案に拒否権発動

つい先ほど、ハワイのリンダ・リングル知事が、1月に上院、4月に下院を通過したシヴィル・ユニオン法案に拒否権を発動すると発表しました。シヴィル・ユニオン実現まであと一歩というところまで行き期待が高まっていただけに、支持者の落胆は大きいことが、インターネット上の投稿やツイートでわかります。

このブログでも何度も書いていますが、シヴィル・ユニオンとは、同性のカップルにも結婚と同様の権利や特典や責任を授与するもので、連邦レベルやシヴィル・ユニオンを認めていない他州では認知されないものの、州内では配偶者としての健康保険加入や相続など、既婚者と同様の権利が認められる、というものです。ここ数年間、さまざまな団体が忍耐強く活動を続け、今年は州議会の会期最終日に下院を通過し、最終的な決定が知事の手に委ねられていました。リングル知事は、個人的には結婚と同等の関係を同性者に与えることには反対だが、結婚(あるいはそれと同類の関係)そしてそれに伴う権利や特典を異性愛者に限定することは公平な公民権の概念に反するというシヴィル・ユニオン支持者の意見にも耳を傾け、両方の立場の意見や感情を熟慮したとしながらも、「結婚という重要な制度についての決定は、ひとりの人間や多数派政党の政治的工作によってなされるのではなく、市民全体によってなされるべき」との理由を掲げて拒否権を発動しました。「政治的工作」というのは、この法案の審議が下院で延期されていたにもかかわらず、会期最終日になって(反対派の視点からすれば)無理矢理通過させられたことを指すものです。

私も今年は遠く日本からこの法案を見守ってきただけに、ここにきてこういう結果になるのは実にがっくりです。

「男と女のミッドライフ・クライシス」第2回

日経ビジネスオンラインで掲載中のコラム、「男と女のミッドライフ・クライシス」の第2回が本日掲載になりました。今回は、仕事上の転機という形で表れるミッドライフ・クライシスを扱っています。野心に燃えてがむしゃらに働いた20代や30代を経て、それなりの地位や収入を手に入れたものの、責任に比例して自分のやりがいや満足度が増えるわけではなく、また、がむしゃらに働く過程で犠牲にしてきたものにふと気づき愕然とする―そんなときに、アメリカの男性・女性それぞれが人生の転換を図るか、その傾向を紹介しています。あくまで「よくあるパターン」の話ですから、個人の苦悩や心理を深く分析しているわけではありませんが、「よくあるパターン」を捉えることによってこそ見えてくるものもあると思います。是非読んでみてください。

2010年7月2日金曜日

ミッドライフ・クライシスの女性が読むべし 角田光代『対岸の彼女』

ふだん日本に住んでいないので、小川洋子『博士の愛した数式 』にしても川上弘美『センセイの鞄 』にしても、ずいぶん遅れて読んでいるのですが、その流れで、角田光代『対岸の彼女 』を昨日の夜から今日にかけて一気に読みました。(途中、台所のガスレンジのカバーを洗剤につけ、お風呂掃除をしました。(笑)このことの意味は、小説を読めば分かります。)読み終わると同時に、身体も頭も心も布団になだれ込みたいような感覚に襲われると同時に、親しい女友達にすぐさま「読んだ?」とメールしないではいられませんでした。涙を誘う小説がいい小説とは限らないのは言うまでもありませんが、この本にかんしては、最後の百ページくらいはしゃくりあげて泣きながら読みました(布団になだれ込みたくなったのは脱水症状もあったのかもしれません)。

いろんな読み方ができ、いろんなことを考えさせられる小説ですが、なにしろ私はミッドライフ・クライシスについてのコラムを書いている最中、しかもその「友情編」の稿を数日前に書き上げたばかりなので(ちなみに「仕事編」は7/7、「友情編」は7/14に掲載予定です。またこのブログでお知らせします)、中年の女性同士の関係についていろいろ考えていたところで、とても強い思い入れをもって読みました。そのコラムでも書いているのですが、『セックス・アンド・ザ・シティ2』のつまらなさの一因は、女性たちそれぞれが自らの問題にきちんと向き合っていない、ということの他にも、これまでのSATCシリーズの要だった4人のあいだの友情が形骸化している、ということがあると思います。子どものいる人いない人、結婚している人していない人、仕事をしている人していない人、そういった相違で、女性の生活はとくに中年期に入るととても大きな差が出てくる。そうした違いを超えるだけの結びつきがある場合には、中年期に入ってこそ女同士の友情はありがたみが増すいっぽうで、生活の違いは価値観や社会観の相違も表し、親愛の情だけでは超えられない溝ができてくることもある。そうしたことを、私自身この年齢になって(小説の登場人物は私よりちょっと年下ですが)、しかも日本で久しぶりに生活してみて、感じることが多いので、田村小夜子と楢橋葵のあいだの、発見・すれ違い・思い込み・受け入れといった、喜びとねじれの両方を含んだ関係にはたいへん感情移入しました。生きかたや求めているものやライフスタイルが違う者同士が本音でつき合っていくためには、お互いの想像力と、自分にも相手にもまっすぐに向き合う姿勢と覚悟が必要なんだなあと教えられました。

私がこの一年間日本で暮らしてよかったことのひとつは、親しい女友達との関係を再確認できたことです。もっとも親しい友達とは、ふだん遠くに住んでまったく違う生活をしていてもやはり結びついていると感じられるのですが、やはり近くにいてより日常的なやりとりを繰り返して、一緒にものごとを見たり体験したりするからこそできる結びつきというのはあります。とくに今の時期に、自分にとって一番大事な相手とそういう時間をもてたことは、ほんとうによかった。というわけで、ここは公共の場を使って大事な女友達にメッセージです。アイシテルよーん!