2010年8月6日金曜日

『広島 記憶のポリティクス』と『小さいおうち』

広島の平和記念式典にルース駐日大使が参列したことは、とても意味のあることだと思いますが、菅首相の「核抑止力」発言はいくらなんでもいただけない。いくらオバマ大統領のプラハ宣言で核をめぐる世界の論調の流れがずいぶんと変わってきたとはいえ、ある日突然地球から核がいっせいになくなるわけはないのだから、現在の世の中において抑止力が必要なのはそのとおりでしょうが、核廃絶を求める世界の人々が見守っている広島の平和式典の直後に核を是認しているようにとられる発言をするのは、いくらなんだって無神経。こういったところにも、日米安保体制を維持するという以外に、安全保障や外交、国際関係について日本の政府に筋の通った理念のようなものが欠けていることが現れていると思います。

広島の歴史の記憶と現在については、私が敬愛する文化人類学者の米山リサさんによる『広島 記憶のポリティクス』がおすすめです。これは、米山さんによる英語の原著Hiroshima Tracesが翻訳されたものです(私は英語版しか読んでいないので、和訳がどうだかはわかりません)。原著のほうを、今学期私が桜美林大学で担当したHistory and Memoryという授業でリーディングのひとつとして使いました。ポスト構造主義などの批評理論を分析のツールにしていて、理論的用語もたくさん出てくるので、そうした分野にある程度の知識がない読者には、すらすら読めるといった種類の本ではないです(ゆえに、学部生もかなり苦労していました)が、用語や表現がわからないからといって諦めずにしっかりと読み込めば、とても勉強になり、考えさせられる一冊です。

米山さんの鋭い批評は、保守的なナショナリズムだけでなく、反核・平和運動の多くの根底にある普遍的人道主義の言説にも向けられ、広島の都市再生プロジェクトや平和運動もが、日本の植民地主義や戦争責任についての忘却や回避・隠蔽に加担してしまうメカニズムを分析しています。また、そうした歴史の記憶が、国内の政治や文化だけでなく、冷戦構造という国際的文脈によっても形作られる、つまりこの問題にかんして言えば、広島そして日本における普遍的人道主義に根ざした平和運動の言説が、冷戦構造におけるアメリカの覇権を支えることになっている、ということも指摘しています。そしてまた、「歴史」と「記憶」というものそれぞれについて、精緻でニュアンスに満ちた理論的枠組をもってさまざまな素材を分析していて、「記憶」というものがいかにして形成・修正されていくかを見事に示してもくれます。建物や記念碑、語り部の証言、文学作品など、形はなんであれ、「記憶」というものが、言葉やものを媒介して表現される以上、そこには必ず発話の文脈、使用可能な言語、聴き手といった要素が介在する。それらの要素を考慮したうえで「記憶」を理解し分析することは、その「記憶」の真正性・正当性を揺るがすものではない。「歴史」と「記憶」というものは、客観と主観、公と私といった二項対立関係にあるものではなく、つねに相関関係のなかで形成されるものである、ということが示されています。また、この本だけでなく、米山さんの『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』についてもそうですが、私が米山さんの一連の著作でとても好きな点は、支配的な言説や構造について精緻な理論分析と妥協のない批評を展開するいっぽうで、そうした支配構造に対抗する有効な動きが存在することも示してくれるので、問題意識を深めると同時に希望も与えてくれる、ということです。歴史・文化研究をする人にはもちろん、そうでないかたにも、是非おすすめです。

話変わって、今回直木賞を受賞した中島京子さんの『小さいおうち』を読んでみました。読む価値はじゅうぶんある、いい作品だとは思いましたが、正直なところ、構想はとてもいいけれども、遂行においてもう一押ししてほしかった、という感想。日本が太平洋戦争に突入していく時代、東京郊外のアッパーミドルクラスの家庭で女中をしていた語り手の目からみた、その「小さいおうち」の中(や外)で起こった小さな出来事を中心にした物語。上で「歴史」と「記憶」は二項対立で相対するものではないと書いておきながらこういうのもなんですが、この作品ではそれこそ現代の「歴史」の著述にはなかなか出てこないような「記憶」によって編まれた、時代の触感がとてもよく出ていて、戦時の状況がアッパーミドルクラスの女性や子ども、家庭にどんな意味をもっていたのか、ということはよく描けていると思います。でも、私には、それぞれの登場人物や情景の書き込みかたが、いまひとつ物足りなく、物語の核となる人間関係(読む価値はじゅうぶんある作品だと思うので、これから読もうというかたのために、敢えて具体的なことは書かないでおきます)についても、どうも説得力に欠けるような気がします。私にとって一番面白かったのは、作品の最後の部分ですが、この部分が一番面白いということは、作品の強みでもあり弱みでもあるんじゃないかと思います。女中の目からみたアッパーミドルクラスの家庭と昭和の日本の流れを題材にした、という点では、これまた私が深く深く敬愛する水村美苗さんの『本格小説』〈上〉 〈下〉 がありますが、本当に寝食忘れて読まずにはいられないこの小説を、また一気に読みたい気持ちになりました。『本格小説』を読んでいないかたは、読まずに死ぬには人生がもったいないというくらい面白い作品ですので、ぜひどうぞ。暑い夏の日を過ごすにはこんな小説を読むのがとてもよいです。