ところで、アメリカでは間もなく新学年が始まります。(アメリカでは夏休みが明けるのがけっこう早く、大学によってはもう来週から始まるところもあります。)私の友達にも、子どもが家を出て大学に行く準備をしている人が数人いて、そのへんをちょこまかと走り回っている少年だった頃のことを思い出すと感慨深いです。アメリカでは、大学は学業の場であるだけでなく、親元を離れて生活するなかで自立性や社会性、コミュニティ形成能力を養う場でもあるとの考えから、多くの私立大学は全寮制をとっており、地元から通う学生の多い州立大学でも、多くの学生は敢えて寮やアパートで生活するのが一般的です。一、二年生のうちは、寮の部屋で大学が割り振るルームメート(ひとりの場合もあるし複数の場合もある)と生活を共にし、三年生以降は、自分の親しい友達と一緒にアパートを借りる、といったパターンが典型的です。育ってきた背景や環境も、興味や趣味も、性格も生活習慣も、大学に求めていることも、自分とはまるで違う相手と空間や時間を共有し、掃除や整理整頓、食事の準備やゴミ処理、睡眠時間やステレオの音量、部屋での社交生活や性生活などについてルールを決めたり交渉したりすることで、異なる人間と共生するということの基本を身につけていく。もちろん、どうしても耐えられなくてルームメートを変更してもらうといったこともあるものの、こうした他人との共同生活は大学という経験のなかでも授業での勉強以上に大切なことと考える人が多いです。
ところが最近では、部屋割りをする大学側も、また学生のほうも、トラブルをなるべく少なくしたいという、ある意味当然といえる理由から、ルームメートの適性を調べるサービスを利用するケースが多くなってきている、とのこと。こうしたサービスは、政治指向や勉学に対する態度や清潔度があまりにもかけはなれている者同士が部屋を共にするのは難しいだろうとの前提から、それこそオンライン・デーティングと同様の方式で、適合性の高いと思われるルームメートのマッチングをするのだそうです。確かに、こうした方法である程度フィルタリングされた相手とならば、日常生活で大きな問題が起きる可能性は低くなるだろうけれども、そうやって自分と似た者同士としか生活を共にしないのであれば、広義の「異文化」体験、また他人と共生することを学ぶという意味での大学生活の意義は大きく減少してしまう、とのMaureen Dowdによる論説がニューヨーク・タイムズに載っています。私も大賛成です。もちろん、自分は翌日の授業のための勉強をしたいのに、ルームメートが連日夜中じゅう部屋でお酒を飲みながらパーティをしていたら、自分が大学に来た本来の目的が果たせないし、宗教や政治指向がまるっきり相容れない相手と生活を共にするのは実際問題困難でしょう。でも、大学の一歩外に出たら、そうした自分とまったく違う人たちがいっぱいの社会で生きていくのだし、高等教育を受けた人たちはそうした世界を平和に存続させていく担い手となってもらわなければいけないのだから、まずは大学という小世界で、そうした共生共存の基本を経験しておくというのはとても重要なことだと思います。
アメリカでは、大学を卒業して、大人になってからも、ルームメートと一緒に生活をするということはよくあります。私も、大学院時代は、寮で暮らした最初の一年の後、五年間ずっとルームメート(二人暮らしが二年間、三−四人暮らしが三年間)と一緒に家を借り、ハワイに行ってからも初めの一年間はルームメートのいる生活でした。当然ながら、ひとつ屋根の下で生活していれば、相手がどこの国の人であろうが、いろいろな意味で異文化体験になるし、その家のなかでのミニ文化が形成されてきたりして、たいへん貴重な体験でした。日本ではそういう生活様式はあまりないようですが、若者はもっとそうした共同生活をしていいと思うし(そのためには、アパートの大家さんなどが、家族以外の人同士の共同生活にもっとオープンでなければいけないでしょう)、また、未婚・晩婚が増えさらに高齢化が進む日本では、気の合う高齢者同士が共同生活をする、といった生活形態ももっと増えていっていいと思います。人とのかかわりや、社会のありかたに、かなり根本的な変化をもたらすのではないでしょうか。