2010年10月27日水曜日

Parrot and Olivier in America

しばらく前に購入したKindleで私がまずダウンロードした本のうちのひとつが、Peter Careyの『Parrot and Olivier in America』。仕事関係の本をいろいろ読んでいたため、これを読むのが遅くなりましたが、途中まで読んであまりにも面白いので、昨日むりやり時間を作って(つまりやるべき仕事をサボって)読み終えました。

アメリカについて勉強する人なら誰でも必ず一度は触れる、『アメリカのデモクラシー』という重要な本があります。フランス貴族のアレクシス・ド・トクヴィルが1831年にアメリカを視察旅行した際の観察をまとめ、アメリカの政治制度や社会風土を論じたもので、アメリカ型民主主義にかんする洞察は現代からみてもとても的をえていて興味深いのですが、Peter Careyのこの最新作は、なんとこのトクヴィルのアメリカ見聞旅行を題材にした歴史小説。フランス革命後の混乱を逃れるためアメリカの刑務所を視察するという名目で新大陸に出かけるオリヴィエは、もちろんトクヴィルをモデルにした人物。そして小説には、通称Parrotという(粗野な育ちでありながら、なんでも見事に物まねできる能力からくる通称)、波瀾万丈な人生を生きてきた、教育は受けていないけれども知恵と能力のあるイギリス出身の元印刷工(というだけでは説明不足なのですが、説明しだすとややこしいのでここでは省略)がもうひとりの主人公となっています。このふたりが、妙ないきさつから共に旅をすることになり、その珍道中のさまを、ふたりがそれぞれの視点から語る、という形式になっていて、この形式が絶妙。こうした出自も身分も性格もまるで違うふたりが、互いのこと、そしてアメリカのことを交互に語ることで、市民革命期のヨーロッパやアメリカの様子が複層的に見えてくるし、物語としても読者をぐいぐい引き込む。トクヴィルについてはもちろん、この時期のアメリカ史については莫大な研究があるので、そうした資料を綿密に調べてあることはもちろんですが(著者のウェブサイトには、この小説を書くにあたって著者が参考にした文献リストが載っています)、小説ですから、もちろん著者が史実に面白可笑しく手を加えたり、著者の想像の産物である人物や出来事もたくさんあり、その手の加えかたが、さすがと唸らせる。アメリカの市民社会に驚愕し、拒否反応と親慕の情を同時に深め、自分も「アメリカ人」になろうとまで決意するオリヴィエが、アメリカのなにに魅かれ、なにについていけないと感じるか、そしてオリヴィエの言によれば「後ろを向いている」フランスと前につきすすむ若いアメリカの最大の違いをどこに見るか、といったことから、オリヴィエの政治や政治家や商業や芸術や女性についての具体的な観察まで、面白さは尽きません。また、物語の終わりでふたりの主人公がどのような表面・内面ともにどんな変化を遂げているかにも、不思議な感動があります。

著者のPeter Careyは、オーストラリアを代表する現代作家ですが、1990年代からはニューヨークに住んでいて、そうした彼のアメリカへの思いとも重ねあわせて読めるのではないでしょうか。この小説を読むと、トクヴィル(私は大学院のとき以来読んでいません)も読み直したくなるし、Careyの他の作品も全部読んでみたくなります。

ちなみに、しばらく前のニューヨーカーに、この小説のレビューも含めたトクヴィル論の記事がありますので、とくにアメリカ研究者にはおすすめです。

それから、Kindleについてですが、今のところおおいに気に入っています。文字のサイズを変えたり線を引いたりしおりをつけたり(メモをとることもできるのですが、私はまだそこまで至っていません)もできるし、なんといっても軽量なのがすばらしく、小説を読むにはなかなかよいです。本格的な研究書を読むにはまだ使っていないのでどうかわかりませんが、検索ができるという点では、研究書にはむしろ向いているとも思います。来月はしばらくニューヨークとワシントンとテキサスに出かけるので、そのとき持ち歩くにはとても便利なはずです。

2010年10月26日火曜日

アメリカの新型文化外交

冷戦さなかの1950年代や1960年代に、アメリカ国務省が積極的にジャズ・ミュージシャンなどを世界各地に送り出し、芸術文化を通してアメリカの自由と民主主義を宣伝する(という意味で、アメリカ国内でさまざまな形で強固な人種差別が残るなか、あえて黒人のミュージシャンが積極的に送り込まれたのもポイント)「文化外交」が推進されました。この歴史については、『Satchmo Blows Up the World』というたいへん興味深い本があり、ミュージシャンたち自身がどのように自らの立場やアイデンティティや芸術をこうした国策と折り合いをつけていったか(あるいはつけなかったか)に関して、ニュアンスに富んだ分析がなされています。アメリカ政府は2001年以来こうした文化外交に再び力を入れるようになり、10年間で文化外交に当てられる予算は約7倍にも増大しました。今年度はこの文化外交プログラムの一環として3つのダンス・カンパニーがアフリカ、アジア、太平洋、南米などに公演ツアーに派遣されています。

これまで文化外交は、このように音楽やダンスなどの舞台芸術が中心だったのが、オバマ政権が百万ドルをあてた新プログラムのもと、絵画や彫刻などの美術の分野でもいわゆる「文化大使」を派遣する、という発表がなされました。これによると、ブロンクス美術館が管轄となって、選ばれたアーティストたちが、パキスタン、エジプト、ベネズエラ、中国、ナイジェリア、そしてケニアのソマリア難民キャンプなどに派遣され、パブリック・アートを制作する、とのことです。

私は今、文化政策の日米比較について研究を始めているところなので、こうした形での政府と芸術の関わりにはおおいに関心があります。国のプロジェクトということで、アーティストたちの表現にどのような制約が加えられるのか加えられないのか、こうした文化交渉が芸術そのものにどのような影響を与えるのか、各地の市民が作品にどのような反応を示すのか、興味津々です。

2010年10月21日木曜日

Juan Williams氏、NPRからFOXへ

先ほど、ジョギングに行く車でラジオをつけたら、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)でなんだかやたらと騒いでいるのでなにかと思いきや、アナリストのホアン・ウィリアムズ(Juan Williams)氏が、保守のテレビ局FOXの番組に出演中、極端で個人的な意見を発言したとして、NPRがウィリアムズ氏との契約を破棄した、とのことです。NPRやFOXについては『現代アメリカのキーワード 』に項目がありますので参考にしてください。ウィリアムズ氏は、FOXの人気番組でもありかつもっとも物議をかもす番組でもあるThe O'Reilly Factorで、「飛行機に乗っているときに、イスラムの衣服を身につけた人が乗っていたら、心配になる」との発言をした、とのこと。この発言の後には、イスラム教徒すべてを過激派と一緒にするのは問題だ、という意味のコメントも補足したものの、この発言には当然ながら多方面からの非難が殺到。もともとNPRのスタッフ記者だったウィリアムズ氏は、以前にも他局の番組や新聞の紙面で個人的な見解を述べることが多かったことから、NPRは彼に警告を出しており、スタッフ記者から契約で仕事をするアナリストに立場を変更していましたが、今回のこの発言はNPRの編集方針に合わず、NPRのアナリストとしての信頼性をおとしめるものだとして、NPRはウィリアムズ氏との契約を破棄。

それを受けてウィリアムズ氏のほうは、「NPRが自分を解雇したのは、自分が『リベラルな黒人』というNPRが期待する枠組みにはまらないからだ。自分を解雇するのは、NPRにおいて意見や思想の多様性が認められていないからだ」と、いわゆる「リベラル・メディア批判」を展開。また、この事態を受けて、FOXはさっそく2百万ドルの報酬でウィリアムズ氏をスタッフに迎え入れたという、これまたえげつない展開。また、この一連の出来事をやり玉にあげ、政府のNPRへの資金提供を一切打ち切るべきだと言い出している保守派の政治家もいる、とのことです。

ハワイ・パブリック・ラジオという局を含め、今ちょうどNPRの番組を配信している全国の公共ラジオ局は、資金集めのためのキャンペーンをしている最中なだけに、こうしたニュースが今出てしまうのはなんとも都合の悪いタイミングです。

2010年10月17日日曜日

エストニア 歌の革命

ひょんなことから、『The Singing Revolution』というドキュメンタリー映画を観ました。「ひょんなことから」というのは、ネットのレンタルDVDを検索していて、音楽関係のものを借りることが多い私に「おススメ」として出てきたというのと、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』のおかげでリトアニアにちょっと興味をもったので、近隣国についての話だというこの映画を借りてみたわけです。予想を大きく超えてとてもいい映画でした。

バルト三国が独立したときのことは覚えていますが、そのときもそれほど詳しい報道を見聴きした記憶もなく、「ソ連から独立した」という以上のことは正直言ってまったくなにも知らなかったのですが、この映画を観て、よくもこんなことを自分がこれまで知らずにきたものだと呆れると同時に、エストニアの人々の粘り強さと勇気と知性に実に感動しました。国民の3人に1人が参加するという「歌の祭典」も感動ですが、周辺の強国(ロシアの以前にはデンマークやらスエーデンの支配があったのですが、この部分は映画には出てこない)ロシア、ソ連、ナチス、そしてまたソ連に支配・占領され、住民の多くがまともな嫌疑もないままシベリアに連行されるなど、実に苛酷な歴史を生きるなか、民族の誇りを保ち続け、ソ連共産政府を相手に、根気と勇気のある独立運動を展開し、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチの波をうまく利用し、内部の対立も理性的に乗り越え、軍事介入の危機のさなか、独立を手に入れたというその歴史、そしてそれがかくも最近のことであるという事実に、ひたすら驚かされました。「自分たちの国」にかける思いの強さというのはすごいものです。『日本語が亡びるとき』との関連で、エストニアの国語、そして文学について是非知りたいと思いました。美しい土地でもあるようだし、行ってもみたい。とにかく、たいへん勉強になると同時に感動を得られる映画ですので、ぜひどうぞ。

2010年10月15日金曜日

「アメリカ人の宗教知識」へのコメント

先日の投稿で紹介した、Pew Research Centerによるアメリカ人の宗教知識にかんする調査結果について、宗教学・歴史学・社会学などさまざまな分野の専門家がコメントしたものを、Social Science Research Council(これは私の今年度の研究助成金を出してくれている機関です)がブログで発表しました。これもなかなか面白い。

専門家たちに出された質問が、「Pew Research Centerによる調査結果は、アメリカにおける宗教の知識(そして無知)についてなにを明らかにしていると思いますか。このような形の宗教知識はアメリカの公共生活においてどれほど重要だと思いますか。」というものだったことも大きいでしょうが、専門家たちは、具体的な結果についてのコメントだけでなく、このようなクイズ形式で人々の「宗教知識」を計り、その結果によってその社会的な意味を論じる(要は、人々の無知を嘆いて悲観する)ことの問題点を指摘している人が多いです。主要な宗教の教義・聖典・人物などについての具体的な知識は、もちろんないよりはあったほうがよいだろうが、多くの人々にとって「宗教」やとはそのような事項にかんする知識ではないし、「宗教知識」をそのように定義すること自体に調査そのもののバイアスが表れている。また、アメリカ人の多くがこのような宗教知識に欠けているのはたしかにしても、おそらくそれは、世界の歴史や地理、時事問題、文学などについて同様の調査をしても似たような結果が出ると予測され、他の分野とくらべてとくに宗教にかんする知識が欠けているとはいえないだろう。そしてさらに、アメリカにおいてこのような形の宗教知識がたとえ増えたとして、それが実際にどのような社会的影響をもたらすかは明らかではない。などなど。なかなか興味深いので、よかったら読んでみてください。

2010年10月10日日曜日

アメリカ人の宗教知識

しばらく前に、Pew Research Centerというワシントンのシンクタンクが、アメリカ人が世界の主要宗教についてどれだけの基本知識をもっているかという調査結果を発表し、話題になりました。さまざまな宗教的アイデンティティをもつ人に、各宗教の歴史、教え、主要人物などについての質問に答えてもらったところ、世界の宗教についてもっとも総合的な知識があったのは、無神論者/不可知論者だという皮肉な結果。でも、考えてみれば、アメリカのような社会で無神論者/不可知論者の立場をとるには、さまざまな宗教について意識的・批判的にものを考え勉強しなければいけないので、この結果は実際は当然といえば当然ともいえるでしょう。それについで成績がよかったのは、ユダヤ教、モルモン教、白人の福音主義プロテスタント、白人のカトリックの人々。比較的成績が悪かったのは、主流派プロテスタント、「とくになにも信仰していない」(これは「無神論者/不可知論者」とは別個のカテゴリー)、黒人プロテスタント、ヒスパニック系カトリック。こうした全体の結果の他にも、どのグループがなにを知っていてなにを知らないか(たとえば、聖書やキリスト教についての知識が多いのは福音主義プロテスタントとモルモンであるいっぽうで、世界の宗教、および社会における宗教の位置づけについての質問にかんしてもっとも成績がよかったのは無神論者/不可知論者とユダヤ教。宗教改革の主要人物が「マーティン・ルーサー」であると答えられたのは全体の半分未満(!)、インドネシアの人口のほとんどがイスラム教であると答えられたのは三分の一未満など)というデータもなかなか興味深いです。

この結果を受けて、ニューヨーク・タイムズの論説委員のNicholas Kristof(彼は以前ニューヨーク・タイムズの日本局長をしていた人物)が、過激派や原理主義に焦点をあてた「宗教クイズ」を昨日の新聞に載せています。Pew Research Centerの調査に使われた質問も、多くの日本人にとってはけっこう難しいのではないかと思いますが、これはさらに難しい。ちょっとやってみてください。

私は、日本の大学では、世界思想史と並んで、世界の宗教にかんする授業を必須にするべきではないかと思っています。学生に宗教心を植えつけるなどということが目的ではもちろんありません。ただ、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も国の主流文化の一部ではなく、仏教や神道でさえ多くの人々にとってはきわめて漠然としたものである現代の日本において、今の世界で起こっていること、そして世界の人々が信条としていることを、きちんと理解するためには、少なくとももっとも主要な宗教についての基礎知識が必要だと思うのです。私自身、宗教にかんする無知は、アメリカを専門とする研究者としてはもちろん、ものを考えるひとりの人間として、かなり大きな欠陥だと思っています。実際に聖典を読みながら、主な宗教の歴史や教義や信仰様式、宗教間関係、宗教と政治、宗教と科学などについて、内容の濃い通年の授業が大学一年や二年のときにあったら、とても意義深いのではないかと思います。

2010年10月3日日曜日

著述という名の翻訳

私は今ある翻訳の仕事を手がけているせいで、翻訳というテーマ、とくに小説家が翻訳というテーマを扱った論述に敏感になっているのですが、昨日のニューヨーク・タイムズに掲載されたMichael CunninghamのFound in Translationという論説がなかなか素晴らしい。Michael Cunninghamは、ヴァージニア・ウルフの人生を題材にした小説The Hours翻訳もありますが、翻訳は読んでいないのでその良し悪しはわかりません)の著者。この小説はなかなか名作で、映画もよかったです。で、その著者がこの論説で述べているのは、文学作品というものは、単に意味を伝えるという機能だけでなく、文章がひとつの音楽のように、言葉の流れやリズムを通して読者に語りかけるものである以上、作品が他の言語に翻訳されるときには、そうした音を通じて伝達される意味も翻訳されなければならず、ゆえに翻訳は難しい。けれども、文学(ここで扱われているものは文学、とくに小説ですが、論じられていることのポイントは広義な著述活動全般にもあてはまるでしょう)における翻訳というものは、ひとつの言語から別の言語へ文章を書き替えるという作業だけではない。ある意味では、著者が頭のなかで思い描いた世界のビジョンを、文章という形にする、その作業そのものがもっともハードルの高い翻訳であり、どんなに優れた作家でもそれが完璧に遂行できるということはありえない。そしてまた、その作品があるときには原作のまま、あるときには別の言語に翻訳されて、読者の手に届くとき、著者が伝えようとした世界と読者が読み取るものとのあいだで、一種の翻訳がおこなわれる。著者と読者のあいだに、ある世界が共有されるという理想と希望を求めて、著者も読者も作品に向かう。

という大きな話もさることながら、私がおおいに共感したのは、小説家志望の若者の多くは、
「なんのために書くか」と問われると「自分のため」と答え、もちろん究極的にはその答は間違っているとは言えないけれども、単に自分を満足させるために書くのだったらその作品が世に出る必要はない。ましてや、働いたり子どもの世話をしたり習い事をしたり友達づきあいをしたりニュースをみたりと忙しい世の人々に、すでに傑作とよばれるにふさわしい文学がたくさん存在するなかで、自分の小説を読ませる筋合はない。ものを書く人間は、そうした他にもやることがたくさんある忙しい人に、あえて他のことを休んで人生の数日間を、自分の文章を読みふけりその世界に浸ることに費やしてくださいというのであれば、その人のその時間をムダにしないだけの作品を提供する義務がある、と。内容的にも文章的にもまったくもって読者をバカにしているとしか思えないような書物がたくさん世に氾濫するなかで、この謙虚さと志の高さを兼ね備えたメッセージを、(私自身を含めて)ものを書く人間も本を作る出版社も肝に銘じないといけないですね。とにかく、この論説は内容も文章もすぐれたなかなかの美文ですので、読んでみてください。