2010年10月3日日曜日

著述という名の翻訳

私は今ある翻訳の仕事を手がけているせいで、翻訳というテーマ、とくに小説家が翻訳というテーマを扱った論述に敏感になっているのですが、昨日のニューヨーク・タイムズに掲載されたMichael CunninghamのFound in Translationという論説がなかなか素晴らしい。Michael Cunninghamは、ヴァージニア・ウルフの人生を題材にした小説The Hours翻訳もありますが、翻訳は読んでいないのでその良し悪しはわかりません)の著者。この小説はなかなか名作で、映画もよかったです。で、その著者がこの論説で述べているのは、文学作品というものは、単に意味を伝えるという機能だけでなく、文章がひとつの音楽のように、言葉の流れやリズムを通して読者に語りかけるものである以上、作品が他の言語に翻訳されるときには、そうした音を通じて伝達される意味も翻訳されなければならず、ゆえに翻訳は難しい。けれども、文学(ここで扱われているものは文学、とくに小説ですが、論じられていることのポイントは広義な著述活動全般にもあてはまるでしょう)における翻訳というものは、ひとつの言語から別の言語へ文章を書き替えるという作業だけではない。ある意味では、著者が頭のなかで思い描いた世界のビジョンを、文章という形にする、その作業そのものがもっともハードルの高い翻訳であり、どんなに優れた作家でもそれが完璧に遂行できるということはありえない。そしてまた、その作品があるときには原作のまま、あるときには別の言語に翻訳されて、読者の手に届くとき、著者が伝えようとした世界と読者が読み取るものとのあいだで、一種の翻訳がおこなわれる。著者と読者のあいだに、ある世界が共有されるという理想と希望を求めて、著者も読者も作品に向かう。

という大きな話もさることながら、私がおおいに共感したのは、小説家志望の若者の多くは、
「なんのために書くか」と問われると「自分のため」と答え、もちろん究極的にはその答は間違っているとは言えないけれども、単に自分を満足させるために書くのだったらその作品が世に出る必要はない。ましてや、働いたり子どもの世話をしたり習い事をしたり友達づきあいをしたりニュースをみたりと忙しい世の人々に、すでに傑作とよばれるにふさわしい文学がたくさん存在するなかで、自分の小説を読ませる筋合はない。ものを書く人間は、そうした他にもやることがたくさんある忙しい人に、あえて他のことを休んで人生の数日間を、自分の文章を読みふけりその世界に浸ることに費やしてくださいというのであれば、その人のその時間をムダにしないだけの作品を提供する義務がある、と。内容的にも文章的にもまったくもって読者をバカにしているとしか思えないような書物がたくさん世に氾濫するなかで、この謙虚さと志の高さを兼ね備えたメッセージを、(私自身を含めて)ものを書く人間も本を作る出版社も肝に銘じないといけないですね。とにかく、この論説は内容も文章もすぐれたなかなかの美文ですので、読んでみてください。

1 件のコメント:

Shunichi さんのコメント...

 「性愛英語・・・」と「ドットコムラバーズ」楽しく読ませていただいた者です。
 ご紹介の新聞の論説で、encoding, code-switching, decoding(というと不正確かもしれませんが)を広義にtranslationと捉えている部分よりも印象に残ったのは、作家にとって書くことは自己表現であるのみならず、読者への贈り物だ、と説いている部分です。というのは、つい最近出版された内田樹氏の「街場のメディア論」の中の、著作権をめぐっての論考の中で、氏が「本を書くというのは本質的には『贈与』だと思っている」と記しているのを読んでいたので、その(私にとっての)偶然(の同一表現)に驚いたからです。
 文脈は若干違うかもしれませんが、かたや米の小説家、かたや日の学者(評論家?)の二人の物書きが、同じことを言っているという事実は、いわば状況証拠的に、その言辞が真実だということを示している気がします。
 吉原様にも今後さらに多くの贈り物を読者にしていただきたいと思います。