2009年9月2日水曜日

たかがFacebook、されどFacebook

ここ一週間で町田のさらに奥に引っ越しをしたので、しばらくブログを留守にしました。桜美林大学が管理している住宅で、前の住人の残した家具や日用品などが一通り揃っているところなので、自分で買いそろえなければいけないものは比較的少ないのですが、それでもやはり、新しい場所での生活を整えるというのは、けっこう手間のかかるものです。家のことをしながら、研究・音楽・出版・社会運動・ビジネスなど、いろいろな分野のかたと新しく知り合える機会に恵まれて、なかなか刺激的な日々を送っています。また、現代日本の歴史に残る政権交代を目撃することができて(日本に来てから選挙までの時間が短すぎて投票はできませんでした)、とても幸運です。これから先、日本が革新の方向に進んでいくか、それともネオリベラリズムに走っていくか、選挙結果だけで満足しないで国民がしっかりとモニターしていかなければいけないと思います。

まるで関係ありませんが、今週のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、Facebook Exodus、つまりFacebookからの大挙逃避、という記事が載っています。爆発的な勢いで普及したソーシャル・ネットワーキング・サイトのFacebookには、私も病にとりつかれたようにハマっているのですが、広告を出す企業との結びつきや、Facebookがもたらす人間関係のややこしさが面倒になって、きれいさっぱりFacebookをやめてしまうという人が少なくないのだそうです。このブログで既に何度か言及したFacebookについて、どこかに載せてもらおうかしらんと思って記事の長さの文章も書いたのですが、今のところ残念ながら掲載してくれるという媒体が見つかっていません。せっかく書いたものが自分のパソコンのなかにだけ入っているのはもったいないので、ここに載せておきます。この記事を読んで、Facebookを通じて私に「お友達リクエスト」をして、私が無視しても、気を悪くなさらないでください。


一日の計はFacebookにあり

ここ何年も、私は朝起きてトイレに行きシャワーを浴びた後、コーヒーを入れながらまずするのは、パソコンに向かってメールをチェックすることである。一晩のあいだに届いているメールの数は、日によって数件のこともあれば三十を超えることもあるが、一通り目を通して、すぐに対応すべきものを処理しているだけでも、じゅうぶんにコーヒーを一、二杯飲み干すだけの時間はたつ。

一日がメールで始まるというだけでも、すでにかなりのビョーキであるような気がするのだが、ここ一年ほど私の生活をさらに侵食しているのが、Facebookだ。メールに目を通し終わった後、次に私がするのが、Facebookをチェックすることである。現時点で私には156人のFacebook上の「友達」がいるのだが、世界のいろいろな時間帯に散らばっているそれらの「友達」のうち、少なくとも十人は、私が寝ているあいだに「近況アップデート」をしている。せっせと勉強に勤しんでいるべき私の指導学生が、ちゃんと勉強して本の感想を載せているか、それともパーティではしゃいでいる写真を載せているか。オバマ政権の医療改革について、私の友達はどんなソースから情報を得て、どんなコメントをしているか。ヨーロッパに旅行中の友達は、今どこにいるか。著者に原稿を書かせているあいだに自分は楽しそうに家族で東南アジアに旅行なんかに行っているけしからん新潮社の編集者は、昨日はラオスでなにを食べたか。そんなことが、これらの「近況アップデート」にざっと目を通すと、だいたい把握できてしまう。そして、ときには彼らが載せている写真やビデオやリンクを見て、またときには彼らの性格テストの回答などをフムフムと言いながら読んでいると、またそれだけであっと言う間に数十分がたってしまう。

単なるヒマつぶしと言えばもちろん言えるFacebook。しかし、最近では、私の友達のなかでも、Facebookの熱烈なファンと、頑固にFacebookに登録することを拒否し続ける人たちのあいだで、喧々諤々の議論がなされたりする。Facebookが現代の人間関係にどのような影響を及ぼしているかを学術的に研究する社会学者もいる。ほとんど依存症と言えるほどFacebookを頻繁にチェックする私は、Facebookという媒体には、かなり重要な社会的・文化的な意味があると思う。Facebook中毒者が、Facebookの使用を正当化するためにもっともらしい理屈を並べているだけと言えなくもないかもしれないが、ひとまずFacebookとはどんなものかを紹介してみよう。

Facebookとは

Facebookとは、2004年にハーヴァード大学の学部生四人が寮の部屋を拠点に開発して以来、爆発的に普及したインターネット上の無料ソーシャル・ネットワーキング・サイト(SNS)である。もとはハーヴァードの学生たちの交流を目的にデザインされたものだったのが、他大学に輪を広げ、そしてあっと言う間に年齢や職業、地域を超えて広がり、2009年8月時点では、世界で2億5千万人のユーザーがユーザー登録をしている。そのうち1億2千万人のユーザーは最低でも一日一度はログインし、3千万人のユーザーは最低でも一日一度は近況をアップデートしている。現在、日本語を含む50言語で利用可能で、利用者のうち7割以上は米国以外に在住している。いかにもデジタル世代の若者の文化という印象を与える媒体であるが、もっとも急速に利用者が増えているのは35歳以上の層である。

使い方は人によっていろいろだが、たいていのユーザーにとってのFacebookの主な用途は、友達や家族・親戚などと簡単に近況報告を交わしたり、写真や動画などをシェアすること、仕事や趣味などのためのネットワーキング、などといったことである。

また、「サーチ」機能を使って、何年も、ときには何十年も音沙汰のなくなっていた旧友やクラスメート、昔の知人などを探し出して連絡を復活する、といったことも頻繁になされる。また、就職に応募してきた人物や、「デート」を始めた相手について探りを入れるために、その人物をFacebook上で探し出して、その人がどんな人たちと「友達」でどんなことをFacebook上に載せているかなどをチェックする、といったこともよくなされる。

ユーザーは、自分がFacebookに載せる情報のうちどの部分をどれだけの人に公開するかを設定できるので、個人情報や「友達」リスト、近況アップデートなどを、「友達」以外に見られたくなければ、「サーチ」で出てくるのは名前や居住地などに限ることができる。ただし、Facebookに特徴的なのは、日本で流通しているミクシーなどのサイトと違って、ほとんどの人は本名を使ってユーザー登録しており、顔写真を載せている人の割合もとても高い、ということだ。だからこそ人探しが可能であり、ソーシャル・ネットワーキングとしての機能を果たすようになっているのだ。つまり、匿名性をたのみにして自由な発言をしたりインターネット上ならではの人間関係を築くための場というよりは、ユーザーの現実の人間関係や社交生活を広めたり深めたりして促進するための道具、としての機能が高い。

また、Facebookは、企業や団体、個人によって、イベントや商品などの宣伝や、社会運動などの活動のためのキャンペーン道具としても使われる。2008年の大統領選挙で、とくにオバマ陣営がFacebookをはじめとするインターネット媒体を効果的に利用してとくに若い支持者の輪を広げていったことはよく知られている。パレスチナ占領やイラン政権に抗議する世界中の人々がFacebook上で組織されたりするし、地域コミュニティでの政治集会やデモのための人集めにもFacebookは使われる。

Facebookがなくす物理的距離の壁

人間関係のためのツールとしてのFacebookの一番のメリットは、「友達」との情報の交換が簡単である、ということだ。お互いの日常生活が重なっている親しい相手とであれば、わざわざFacebookを使わなくても会って話をしたり電話やメールを交換したりするだろうが、話をしたいと思っていながらもしばらく連絡をとっていない友達や、わざわざメールや電話をするほど親しくはないもののお互いがどうしているかくらいは知っていたい相手というのはいるもので、そうした人たちに一斉に自分の近況を知らせるにはとても便利である。家族の写真を載せたりすると、しばらく会っていない知人に子供の成長を知らせたりもできるし、旅行中に写真やビデオを載せる人も多い。

とくに、日頃顔を合わせることのない、遠隔地に住んでいる相手が、どんな生活を送ってどんなことを考えているのか、といったことをフォローできるのは、便利でもあるし、なかなか興味深くもある。時差があるところに住んでいる相手とは、電話をするのも難しかったりするが、Facebookは、自分が好きなときにログインして、「友達」が載せたものを見て、それに「コメント」するなりプライベートな「メッセージ」を送るなり、「なるほど」と思って見るだけにするなり、あるいは同時にログインしている友達と「チャット」機能を使っておしゃべりするなり、自分の都合と意思によって決めればよいので、距離と時間の制約から解放されてコミュニケーションができる。

私はハワイの自宅の仕事机でパソコンに向かい、山手線に乗っている新潮社の編集者(前述のラオスでおいしそうな食事をしていたのと同一人物)とFacebookのチャット上で日米のデジタル文化の違いについておしゃべりをしたこともある。もちろん、本当にそうした話をしたいと思ったら、きちんとメールを交換すればいいのだが、そうするといかにも改まった仕事の話という感じになってしまうところが、お互いたまたまFacebookにログインしているというときに(つまり、お互い切迫した用事に迫られていないときに)ちょっとおしゃべりする、という気軽さがよいのである。

現在私は普段の生活の拠点であるハワイを離れて日本に長期滞在中なのだが、Facebookでアメリカの友達に自分の生活ぶりを知らせ、また友達がなにをしているかをフォローすることで、自分が遠くにいるという感覚はかなり減少する。日本で地震があったというニュースが入れば、数時間後にはアメリカの複数の友達が、「大丈夫だった?」とメッセージを送ってくる。「アップデート」に「地震はびっくりしたけど、なにも落ちてくるようなところには寝ていないので大丈夫です」と一言書いておけば、156人の友達全員に無事を知らせることができる。日本の街並や居酒屋の食事、友達との団欒の様子などの写真を載せれば、私の日本での生活をアメリカの友達に伝えることができる。また、学生が論文の一章を書き上げたという知らせや、夏休みが終わって新学期が始まろうとするときの同僚たちの興奮と憂鬱の混ざった感情、反抗期の息子の言動についての友人の愚痴を「近況アップデート」で読んだり、友達の子供がよちよち歩きを始めるようになった様子をビデオで見たりすることで、私は日本にいながらにして別の場所での人間関係を同時進行的に経験することができる。

このように、世界のいろいろな時間帯、気候、文化のなかで暮らしている友達の動向を画面上でいっときに見られるということは、我々の物理的な距離についての意識にかなり深い意味合いをもっているのではないだろうか。通信における空間的・時間的な壁が取り払われるといういっぽうで、自分が今ここで暮らしている状況とはずいぶん違う環境で暮らしている人がたくさんいるものだ、ということも実感させられる。なにしろ、自分がミーミーと蝉の鳴く夏の東京の朝、眠気まなこでパジャマのままパソコンに向かっているときに、ハワイの友達が「ハリケーンがそれてよかった」、中国への旅行を終えてテキサスに滞在中の友達が「中国も暑かったけど、テキサスは熱い」、とか書いているのを読んでいると、そして、ブータンにフィールドワークに行っている学生やモンゴルから帰ってきた学生がアップロードした写真を見ていると、世界は小さいような大きいような、実に不思議な気持ちになるのである。

人間関係の均質化

Facebookがもたらす距離感の変化は、物理的な空間や時間に限られたものではない。この新しいコミュニケーション手段によって、人間関係をめぐる距離感にも、かなりの変化がもたらされている。

そのひとつは、Facebook上の「友達」の均一化である。Facebookでは、いったんユーザーが別のユーザーを「友達」として許可すれば、その「友達」のあいだに区別はつけたくてもつけられない。つまり、兄弟だろうが同僚だろうが上司だろうが幼なじみだろうがクラスメートだろうがお隣さんだろうが昔の恋人だろうが今の夫だろうが、皆同じ「友達」の輪に入り、それらの「友達」全員が、自分がFacebookに載せるアップデートや写真やリンクなどを見ることになる。

これはなかなか複雑な状況である。日常生活では、誰でも多かれ少なかれ、相手によって違う自分を演じるものである。ボスと接するときと息子と接するときの自分が違うのは当たり前だし、女友達とおしゃべりする内容と仕事のクライアントと会っているときの会話も違って当然だ。ところがFacebookではコミュニケーションにそうした差別化をすることができない。近況アップデートが「夏はやっぱりビアガーデン」だろうが、「イイ男を見つけるのはどうしてこう難しいんだろう」だろうが、「授業がつまらなくて耐えられない」だろうが、そのメッセージは「友達」すべてに送られる。

これを人間関係の民主化・カジュアル化として肯定的にとらえることもできる。相手によって言葉や内容を選んだり、かしこまったりせず、すべての「友達」相手に同一のメッセージを送り、同一の自分を見せる。それは確かに、ある意味では画期的なことである。ひとつの自分を「友達」みんなに公開することで、それぞれの相手とのつきあいがオープンなものにもなるし、それまで存在しなかった関係が築かれることにもなる。

私は、特別親しかったわけでもない知人、Facebookがなかったらおそらく「ちょっとした知り合い」で終わっていたであろう人について、Facebookを通じていろいろなことを知ることがある。その人がどんな本を読んでいるとか(「アップデート」で本についてコメントする場合もあるし、「自分が人生でもっとも影響を受けた本15冊」といったリストをアップロードする場合もある。「友達」にそうしたリストを送られたら、自分も同じリストを作ってアップロードする、チェインメールのようなFacebook上の慣習がある)、どんな時事問題に関心をもっているとか、どんな音楽が好きだとか、そんなふうに週末を過ごしているとか、そんなことを垣間みているうちに、相手にとても好意をもつようになって、Facebookの外でもより頻繁に連絡をとりあうようになり、仲良くなった相手が何人もいるのだ。また、普段は指導生として勉強の話をする相手が、大学の外ではどんな暮らしをしているのか、遊ぶときにはどんなことをして遊んでいるのか、家族はどんな人たちなのか、といったことを覗けるのも興味深い。また、何年も、ときには何十年も会っていなかった昔の友達や、昔の「デート」の相手が、今はどんな人間になっているのか、仕事はなにをしているのか、家庭は持っているのか、禿げているか太っているかあるいはものすごくイイ男になっているか、といったことを知って安心したり幻滅したりするのも、なかなか面白い。

Facebookのおかげで、親しい友達についても、知らなかったことをいろいろ知るようになった。大人になってからできた友達というのは、よほど多くの時間を共有しなければ、お互いがそれまで生きてきた人生のあらゆる段階や側面についてそう突っ込んで知るのは難しい。アメリカで暮らしていると、友達の多くは、いろいろな国で、まるで違う環境で育ち、今の職業や生活にいたるまでに実にさまざまなことをしてきているが、それまでには聞いたことがなかったような話や事実が、Facebookのちょっとした「ノート」などで出てきて、友達について新発見をする、ということがよくある。

Too Much Information

そのいっぽうで、この人間関係の民主化・均質化こそがFacebookの悪であると主張して、周りの友達がみなFacebook友達になっているにもかかわらず、頑なにユーザー登録を拒む人もいる。そして、活発なユーザーたち自身にとっても、Facebook独特のコミュニケーションのありかたには、辟易するものもある。

その大きなひとつが、英語で言うところのtoo much information (口語的に略してTMIと言ったりもする)、つまり情報過多である。ひとが「近況アップデート」としてFacebookに載せる情報は、明らかに「友達」全員に知らせるべき種類のもの(「昨日無事男の子を出産しました。母子共に元気です。息子の名前はダニエル、体重は6.5ポンドです。」など)、多くの人にとって重要度はそれほど高くないけれども知らされたほうは微笑ましい気持ちになるもの(「両親の結婚50周年記念のパーティに親戚じゅうが集まりました」)、知る価値のあるもの(「メジャーなメディアではとりあげられていないけれど、オバマ政権の医療改革案にはこういう側面がある」)ばかりではない。日常の雑事やふと思ったこと、感じたことなどを気軽に投稿できるのがFacebookの特性であるから、とくにテキストメッセージやTwitterなどを通じて短文でメッセージをやりとりし合うことに慣れている若者たちは、多くの人にとっては「どうでもいいこと」、たとえば、「お腹が減ったから今からマクドナルドに行ってくる」「あー眠い」「このカフェでなっている音楽は嫌いだ」といったメッセージも、「友達」が載せればすべて自分のページに入ってくる。自分が本当に親しい相手が書いたものであれば、なんらかの文脈があって興味がもてるかも知れないが、小学校のとき以来顔を会わせていない相手、あるいは自分の上司や学生について、こんな日常の雑事まで知りたくない、と思う人も多いだろう。物理的にも感情的にも適当な距離があったからこそ気持ちのいい関係を保っていたのに、やたらと具体的な日常生活のあれこれや、むきだしに表された感情など、「そんなこと知りたくないよ」と思うようなことを、なんのフィルターもなく送り込まれるのはいい迷惑だ、というような相手もいるだろう。

私も、仲良しの同年代の友達になら、「とってもハッピーです」といった恋愛についての簡単な近況報告をしてもいいが、仕事上のつきあいしかない相手にそんなことを知らせようとは思わない。昔の恋人に新しい彼女ができたとか婚約が決まったとかいうことも、本人から、あるいは知り合いを通じて聞くのならいいが、Facebookで何十人あるいは何百人の「友達」と同じ扱いで知らされるのは、あまりいい気持ちがするものではない。また、学生がこちらの言うことをきかないでフラストレーションがたまっているときに愚痴を言おうと思っても、その学生もその「近況アップデート」を読むと思うと手が止まる。同じく、学生のほうも、学生仲間同士だったら教授の悪口やゴシップも交換するだろうが、その教授が見ている場では言うことが限られるだろう。

実際、こうしたことにじゅうぶん注意を払わなかったために、大きなツケを払うことになった人のエピソードもいろいろある。ある大学の教授は、授業で「『近代』とはなにか」をどうやって簡潔に説明したらいいか困って、ウイキペディアで「近代」を引いてそれを使った、ということを笑い話としてFacebookの「近況アップデート」に載せたら、それを見た学生が、「大学教授がウイキペディアを出典にして近代史の授業をしている」という噂を流し、その教授は大学運営者から叱責される、ということになった。叱責にいたることも、そのエピソードがまたインターネットを通じて全国に知られわたることも、デジタル時代ならではの恐ろしさである。また、Facebook上で上司の悪口を言ってクビになった人や、酔いつぶれ・二日酔いが続いていることを「近況アップデート」に載せていたのを見られて応募していた職をけられた人などの話も聞く。

「友達の友達なみな友達」か?

さらに面倒なのが、Facebook上の「友達」管理である。Facebookでは、ユーザー登録している誰かと「友達」になりたいと思ったら、その相手に「友達リクエスト」を送り、自分のことを「許可」してもらわなければいけない。つまり、双方の合意があってのみ、「友達」になって情報をシェアできるのだ。こうした「友達」は、ユーザー登録していそうな人をサーチ機能で探して自分でリクエストを送る場合もあるし、また、共通の知人が、「あなたはこの人と友達なんじゃないかしら?」と指摘して、双方が許可することによって「友達」になることもある。いったん「友達」になると、自分とその人のあいだに何人の共通の「友達」がいるかがページに表示されるようにもなっている。
「友達」の数は、人によって、十人未満のこともあれば、数百人のこともある。私の周りでは、平均して70人から200人くらいを「友達」としている人が多いようである。

Facebookにユーザー登録したばかりの頃は、知り合いが次々と見つかるのが面白く、「友達」が増えていくのが嬉しくて、あまりなにも考えずにどんどんとFacebook上の「友達」を増やしていく人が多い。私自身もそうだった。同じ頃にユーザー登録した友達と「Facebook友達」の数を競ったりといった、子供じみたことをしてしまったりもする。また、とにかく「友達」の数を増やそうと、よく知らない人、あるいはまったく知らない人にまで「友達リクエスト」を送る人というのもいるようである。自分の「友達」になっている人の「友達リスト」を見て、顔写真が気に入った人に「友達リクエスト」を送っている、という輩もいるらしく、その人の「友達リスト」を見るとやたらとキレイな女性ばかり何百人、というような男性もいる。

数人しか「友達」がいないよりは、50人くらいはいたほうが、なんとなく気分がいいものだが、しばらくして、自分がいろいろな近況アップデートを載せ、「友達」のアップデートもたくさん入ってくるようになって、「うーむ、ちょっとマズいかも」という気持ちになることがある。前述したように、上司や学生、クライアントには見せたくないが、クラスメートや友達にはぜひ見せたい種類のメッセージもある。「昨日のデートはさんざんだった」といったメッセージを、昔の恋人や、もしかしたら恋愛の可能性があるかもしれない相手が見るのも問題である。

だったら「友達」をもっと選択的に選べばいいとは言っても、どこでどう「友達」の境界線を引くか、という判断は現実にはなかなか難しいものである。「友達リクエスト」を送ってくれた相手を無視したり拒否したりするのは気分のいいものではないし、Facebook上で共通の知人がいる相手の場合には、「誰それは『友達』なのになぜ自分は『友達』にしてくれないんだ」、といった感情が湧いても当然だ。いったん「友達」許可した相手を、「友達」の輪から外すというメカニズムもあるのだが(そっと外すぶんには、相手にはそのことは知られないが、その相手が自分のページを見ようとすると見られなくなるので、いずれ気づかれる可能性は高い)、わざわざそんなことをするのも不必要にことを大ごとにしているようで、なんだか気まずい。

私は、いろいろややこしいので、自分の学生は「友達」に入れない、そしてすでに「友達」になっている学生には、「私生活の道具として使っているFacebookと、学生との関係には境界を引いておきたいので、すみませんがあなたを『友達』から外しますが、気を悪くしないでください」というメッセージを送ろうかとも検討した。だが、実際のところ、近況を日常的にフォローしたいような学生もいるし、かといって、ある学生は入れるが他の学生は入れないとなるとそれはそれで問題を生じるので、結局、すでに「友達」の学生はそのままにして、大学院生は入れるが学部生は入れない、というところで線を引いている。

離れられない、離せない

このように人間関係を楽しくも複雑にもしてくれるFacebookであるが、人々の生活の質、大げさに言えば人生経験におけるFacebookの影響についても、賛否両論ある。

距離を超えたコミュニケーションが簡単になり、社会的地位や年齢、地域などを超えて気軽に人々が情報やアイデアを交換するようになって、たとえヴァーチャルなものであれ、人の生活や意識が多少は広がる、という側面はたしかにある。いつもの生活では、学校や仕事と家を往復し、家族や親しい仲間といつも似たような会話をしがちなのに対して、Facebookの世界では、普段は自分とはだいぶかけ離れた生活を送っている「友達」のライフスタイルや関心をも日常的に垣間みるようになる。また、家族や友達と定期的に連絡をとろうという意思はあってもなかなか電話やメールに実際に手が届かない、という人にとっては、Facebookはまめな近況報告を簡単にしてくれる。大学に進学したり就職したり結婚したりして遠いところに引っ越していってしまった子供が元気にやっているか、どんな仲間とどんなことをして暮らしているのか、といったことをフォローしていたい親にとって、Facebookは安心感を高めてくれる道具である。

そのいっぽうで、いつでもどこでも友達と「近況アップデート」を交換しあう状況、ときには「友達」から離れたくても離れられない状況、そして自分の人間関係のなかに濃淡をつけられない状況が、暮らしや人間関係を平板にしてしまう、ということもある。ひと昔前までは、実家を遠く離れた大学に進学する若者にとって、親や兄弟のもとを離れ、一人で寮暮らしをしたりルームメートと共同生活をしたりしながら、自分独自の人間関係やライフスタイルを築き、勉強や議論を通じて自分が育ってきた世界の外の価値観を学んでいくことで、ひとりの大人としての人格を形成していくものだった。大学進学前、あるいは大学を休学して、行き先を誰にも告げずに一人で長い旅に出る、というようなことも、アメリカではそう珍しくないが、そうした旅とは、自分にとって居心地のいい環境や人間関係から敢えて自分を切り離して一人で違う世界を経験したり静かにものを考えたりすることにある。半年の大学生活の後に帰省した子供が、見違えるように大人になっていたとか、数年間姿を見なかった幼なじみが、まるで別世界の人間のように変貌していた、といったことを経験する人は多いだろう。しかし、Facebookでたえず故郷の家族や友達と連絡をとりあい、自分の生活や経験、感情について逐一報告をしあう状況のなかでは、自分を大事に思ってくれている人たちとつながっているという安心感があるいっぽうで、そうした人たちから切り離されることによって学ぶことも減ってしまうかもしれない。

たかがFacebook、されどFacebook。インターネットがもたらす人間関係や意識、生活の変化は、意外なところでも展開されている。