私は、自分も親や親戚も友達もみな無事で、直接の知人は被災地にはいません。また、私は現在、自分の研究だけをやっていればよいというとても贅沢な身なので、毎日どこかに通勤する必要がありません。(逆に、今どうしてもやって人に届けなければいけない仕事というのが少ないので、そのぶんついついテレビや新聞やインターネットに釘づけになってしまう、という側面も。)また、千代田区に滞在しているため、計画停電からも免除され、電車が止まっても都内のいろいろな場所に徒歩でも行ける、という非常に恵まれた状況にいます。さらには、原発の影響やさらなる地震の可能性がいよいよ深刻になってきたら、家と仕事と友達が待っているハワイに戻ることができます。というわけで、今日本でこの事態を経験している人たちのなかで、私はもっとも恵まれた状況にいる人間のひとりのはずです。それでも、スーパーの棚が空になっているのを見たり、余震があったりするたびに(これを書いている途中にもけっこう大きな揺れが2回ありました)、不安な気持ちになりますし、原発にかんしては、与えられる情報を自分で分析・解釈したり、さまざまな報道を相対評価する能力が自分にないので、ますます不安が募ります。
というわけで、早くハワイに戻っておいで、という友人が多いのですが、私が少なくともしばらくは落ち着いてここで様子をみようという気になるのは、私は日本でしかできない研究をするためにここに来ているのだから、その研究がまるでできないという状況にならない限りは、自分のすべきことを続けようという理由が第一ですが、こういう状況の中での日本の人々のスゴさを見たり感じたりするから、というのもあります。地獄絵を見るような被災地では、自分の家族の安否もわからないなかで、寝ずにひとりで何十人もの患者の面倒をみているお医者さんがいる。電話も通じず暖房もなく食料もほとんどない避難所で暮らしながら、「避難所のかたがたに面倒みていただいてありがたい」と頭を下げる人たちがいる。自分も親やきょうだいと連絡がとれないのに、同じ避難所の人たちを励まそうと、「頑張ろう」というポスターを作る中学生たちがいる。そのポスターを見て、「若い子たちが、自分も被災しているのに、私たちを励まそうとして頑張ってくれて、ありがたい」と涙するお年寄りがいる。ひとつのおにぎりを何人もで分けて食べているようななかで、取材をする記者に食べ物を分けてくれようとする被災者の人たちがいる。海外では、こういう状況で発揮される日本人の「我慢の精神」がしばしば話題にされますが、私は我慢の精神よりも(たしかに日本人はよく我慢をするとは思いますが、我慢はいずれ限界がくるはず)、こういう極限状況において、人に感謝の気持ちをもてること、自らが助けを必要としている人が、他の人を助けようとすること、そのことのほうが、ずっとすごいと思います。そうしたありかたは、必ずしも日本人特有のものだとは思いませんが、それでも、人々のそういう姿の映像を見るにつけ、日本の人たちの底力を感じます。
また、節電だといえば、予定されていた停電をしなくてもよくなったりするほどせっせと節電する日本人のマジメな協力性も素晴らしい。私は2003年のアメリカ東海岸一帯の大停電のときにニューヨークにいました(私の住んでいる地域では24時間近く停電が続きました)し、ハワイでもちょっと強風や雷があったりすると結構しょっちゅう停電があるので、これだけの大地震の後で、これだけの人口密度の首都圏で大停電にならないのは、それだけでも相当すごいことなのだと思います。電車の間引き運転でホームの入場が制限されても、人々はひたすらしーんと静かに並んで順番を待っている。普段だったら、この「ひたすらしーんと静かに」が、アメリカ感覚の私にはずいぶんと不気味に感じられたりするのですが、こういうときには、人々が黙って指示に従う能力(指示を出している人への基本的な信頼感があるからでしょう)が生み出す社会の秩序には、心から脱帽します。
ひとりでも多くの生存者が見つかり、被災者の人たちに少しでも早く支援物資が届き、被災地で一日も早く生活が再建できることをお祈りします。また、日本全体で経済的・社会的困難が長引くと思われるなかで、人々が心をひとつにして、私が常日頃感心するところの「てきぱき力」を発揮して、冷静にそして着々と動き、日本が元気に立ち上がり飛び立つことができると信じています。ガンバロウ!