2011年11月30日水曜日

とにかく必読!アメリカにおける中東への「関心」の形成

こちらは今学期の授業もあと二週間となりました。以前にも書きましたが、今学期は私は、アメリカ研究の学説史を概観する大学院のゼミと、アメリカ女性史の学部の授業を教えています。昨日の大学院の授業でディスカッションしたのが、私が心の底から尊敬していて友人でもあるMelani McAlister『Epic Encounters: Culture, Media, And U.S. Interests In The Middle East Since 1945』。私は大学院の授業を教えるたび、つまりほぼ毎年、この本を課題の一冊としているのですが、その度に、あまりの素晴らしさに感動を覚えます。今回もあらためて感動したので、ここでも書かずにはいられません。


Melani McAlisterは、私が大学院生活を送ったブラウン大学の同じアメリカ研究学部の二年先輩。彼女が博士論文のプロポーザルの草稿をゼミのワークショップに提出したときに、私は「こんなに面白い研究ができるんだったら、私もこの分野で頑張ろう」と思ったのをよく覚えています。当時から彼女は、ゼミのディスカッションであれ講演での質疑応答であれ、彼女が口を開いてなにか質問や発言をするたびに周りの人の理解が深まるような、ずば抜けた頭脳の持ち主でした。大学院に入ったばかりの私には、彼女はまさに女神のような存在で、自分などはどんなに頑張っても足下にも及ばない、と思っていました。どんなに頑張っても足下にも及ばないのは二十年が経過した今でもそのままですが、人生とは不思議なもので、私が博士論文を書き始める頃から、共通の指導教授を含め数人でオリエンタリズムについての勉強会をしていたこともあり、なぜか彼女は私のことを対等の「仲間」と思うようになったらしく、お互いの原稿を読んでコメントをしあったり、お茶をしながらおしゃべりするような関係になり、そのこと自体が私にはまるで信じられない思いでした。


この本は、1945年以降のアメリカにおいて中東への「関心」がどのように形成されてきたかを、「十戒」や「ベン・ハー」などの映画や爆発的人気となったツタンカーメン王展、そしてイスラエルやイランについてのメディア報道などといった「文化テキスト」の分析を通じて論じているものですが、あらゆる次元でぞくぞくするくらい素晴らしい。アメリカ研究においては彼女が扱っているような「文化」の分析はごく普通のことですが、この本においては「文化」と外交を含む「政治」の相関関係についての理論的枠組がきわめて緻密であり、それぞれの「テキスト」の分析においてその関係が見事に示されている(単に「文化は政治や歴史を反映する」あるいは「文化は政治を操作する」といったものではない)。そして、アメリカにおける中東の「関心」(ここでは「関心」と訳していますが、彼女が使っているのはinterestという単語。つまり、文化的・宗教的・知的な「関心」と、地政学的・経済的・軍事的「利益」の両方の意味がこめられているわけです)と一口に言っても、その「アメリカ」を構成しているのは実に多様で、たとえばキリスト教原理主義者や、イスラムに改宗したアフリカ系アメリカ人、イスラエル国家にさまざまな思い入れをもつユダヤ系アメリカ人、中東をフェミニズムの闘争の場ととらえる女性活動家など、さまざまな立場や背景の人間たちが、それぞれの形で中東を自らのアイデンティティ形成の舞台としてきた。アメリカの中東についての言説が、「自己」と「他者」をもとにしたものであることは変わりないものの、その「自己」が決して西洋キリスト教徒の白人男性を基盤にしたものではなく、意識的に多様な存在であり、中東とのかかわりかたも必ずしも「自己」と「他者」を二項対立的に捉えるものではない、という点で、エドワード・サイードが理論化した、二十世紀前半までのいわゆる「オリエンタリズム」とは決定的な違いがある、という分析も精確に展開されています。


もとの原著は、なんと2001年のテロ事件とほぼ同時に刊行になり、原稿完成から出版まで気が遠くなるような長い時間がかかるアメリカの学術出版ゆえ、もちろん2001年の事件のことは議論に含まれていなかったものの、本の中身で展開されている分析は、テロ事件そのものそしてその後のアメリカにおける報道のありかたや政府やさまざまな人々の反応に、どきっとするほど当てはまるものでした。Village Voiceの「2001年に出版されたもっとも重要な本」の一冊にも選ばれ、学界内外にたいへん大きなインパクトを与えた本ですが、2005年に刊行された第二版には、2001年のテロ事件とその後の展開を象徴する五枚の写真の分析を通して、メディアや文化と政治の関係がさらに鋭く論じられています。


何度読んでも、「こんなに素晴らしい研究があるものか」と感嘆する一冊。どのページを開いてどの一文を読んでも、たくさんのことが学べる一冊。私はこの本を読んでいるだけで、「研究者になってよかった」を通り越して「生きててよかった」とすら思ってしまう一冊。アメリカ研究の分野では、刊行から十年にしてすでに古典の一部となっていますが、研究者以外の読者にも、ぜひとも読んでもらいたいです。文章は精緻にして実にエレガントであり、著者の理知と人間性が本のいたるところににじみ出ています。ブラボー!

2011年11月24日木曜日

親戚との集まりで政治談義を交わす方法

今日はアメリカではサンクスギヴィングの休日です。私はこれから、ブランチ、夕方の集まり、夜のディナーと三つのパーティに出かける(こうやって招いてくれる友達がいろいろいるおかげで、自分は料理も皿洗いもしなくていいのがありがたい)ので、七面鳥たっぷりの一日に備えて昨日はジョギングに出かけてきました。でも、385カロリー消費しただけなので、今日摂取するであろう量にはとうていかなわず、ブランチと夕方のあいだにもジョギングに行こうかと検討中。(ちなみに、三ヶ月前に始めた例のフィットネス・ブートキャンプは、頑張って続けています。今週はサンクスギヴィングなので一週間お休みですが、来週から再び始まります。おかげさまで、体重はそれなりに減り、体型にも目に見えた変化が出てきました。慣れとはすごいもので、五時に起きるのもそれほど苦ではなくなってきました。)


さて、『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書きましたが、アメリカではサンクスギヴィングやクリスマスは家族や親戚が家に集まってゆっくりと食事をしながら団らんする、家族中心の休日。小さい子供がいたりすると、和やかで楽しい一日になりがちですが、親戚とは必ずしも自分と同じ思想信条やライフスタイルを共有する人たちばかりではないので、こうした団らんの場がそれはそれはオソロしい葛藤の舞台となってしまうことも少なくありません。とくに、アメリカの人は政治談義が好きな人が多く、とくに選挙の話題になったりすると、それぞれがムキになって自分の意見を主張し、しまいには七面鳥を前に大げんかになって収拾のつかない事態になる、ということも。今年は選挙こそないものの、Occupy Wall Street運動やら議会での予算削減策交渉の破綻やら、議論に火をつけるネタには事欠きません。そうした親戚との議論を予測して、主にメールやインターネット上で活動を展開する左派団体のMoveOn.orgが発信しているのが、「サンクスギヴィングに打ち破るべき五つの神話」というリスト。親戚の集まりで、保守のおじさんが議論をふっかけてきたら、冷静にきちんと反論できるようにと、話のポイントを絞って整理したもの。こうやってサンクスギヴィング用にわざわざ用意してくれるところがなんとも面白い。保守が信じている誤った神話というのは、


1 議会で予算削減策が成立しなかったのは、両党が妥協しようとしなかったからだ
2 Occupy Wall Street運動にかかわっている連中は、なにを求めているのか自分たちでもわかっていない
3 Occupy Wall Street運動にかかわっている連中は、そんなヒマがあったら仕事を探すべきだ
4 Occupy Wall Street運動にかかわっている連中は、とくに銀行や警察に対して暴力的な行動をとる意図まんまんである
5 現在アメリカが直面している最大の危機は、際限のない政府のバラマキ政策である


というもの。これらがなぜ誤った神話であるかという説明は、実際の記事を読んでいただきたいですが、とくにここ一週間、カリフォルニア大学デイヴィス校で非暴力の抗議運動(しかも抗議の対象は大学の授業料値上げや公立高等教育の弱化)を行っていた学生たちに対して警察が催涙ガスを使った事件について、大学関係者はもちろん各方面のメディアや言論人が大学学長や警察を糾弾していますが、こうした事件も、アメリカ各地のサンクスギヴィング・ディナーの話題となっていることでしょう。


ちなみに、ナショナル・パブリック・ラジオの番組では、議会で冷静に礼節をふまえた議論を行うための分科会なるものを始めた、ウェスト・ヴァージニア州選出の共和党議員Shelley Moore Capitoがゲストに迎え、サンクスギヴィングの集まりで政治談義になったときの交わしかた、というアドバイスのようなものをしていますが、うーん、議会の状況からして、あまり説得力がないような。。。



2011年11月17日木曜日

アメリカ性教育の最前線

現在ニューヨーク・タイムズで「もっともメールされている記事」リストのトップにあるのが、今週の日曜版に掲載される(オンラインでは日曜に先立って掲載されている)、Teaching Good Sexという長文記事。なかなか考えさせられます。フィラデルフィアの裕福な地域にあるクエーカー系の私立高校で、3年生の選択科目として開講されている、Sexuality and Societyという名の性教育のカリキュラムを詳しく取り上げたものです。


中絶や同性婚などとを含む性をめぐる社会制度や価値観が激しい政治的議論となるアメリカでは、性教育の是非やそのありかたも、右派と左派を分離するトピックのひとつ。「学校で性教育をするならば禁欲を提唱するカリキュラムにするべきだ」という説から、「禁欲を前提としながらも、『どうしても』や『万が一』の場合に備えて避妊や性病の予防についての基礎知識は与えるべきだ」という説、そして、「ティーンエイジャーの大半が性行為をする現在、性についての正確な知識を与え、若者たちに健全な性意識を身につけさせるためには、包括的な性教育が必要」という説までさまざま。性教育を提唱する運動は、20世紀初頭にハーヴァード大学総長のチャールズ・エリオットなどを含む知識人たちに始まる長い歴史がある。1960年代から1970年代のフェミニズムその他の流れのなかで性を肯定的にとらえ正確な知識を与えるカリキュラムが各地で考案・施行されたものの、1980年代の保守の台頭によって性教育が政治問題化してからは、多くの学区では「包括的な性教育」は、ティーンエイジャーの性行為を悪とし禁欲を前提としたカリキュラムにとってかわった。そのなかで、この学校で開講されているような授業はアメリカ全国でもきわめて例外的、とのこと。(短いながらもちゃんとこうした歴史的視点をふまえているところが、さすがニューヨーク・タイムズのエラいところ。)


この授業を担当しているAl Vernacchio先生は、大学進学に向けたハイレベルの学業と社会的責任の倫理教育の両方を誇るこの学校で、1998年以来英語(つまり「国語」)の教師として非常に尊敬されている人物。学業面での指導業績が見事なため、Vernacchio先生の性教育の授業についても生徒の親からはなんの反論も出たことがない、とのこと。この授業では、避妊や性病といった「スタンダード」なトピックから、男女の身体、同性愛、恋愛、健全な性のありかた、性行為をめぐる感情的側面、オーガズム、(女性も含む)射精、オーラルセックス、ポルノなど、あらゆる話題がカバーされる。男女の性器をアップで写した写真を何十枚も見せ、人間の身体は人それぞれであるという事実を感覚的に理解させ、自分や他人の身体について「普通」とか「普通じゃない」とかいった見方をしないようにする、といったことも。


Vernacchio氏は、12歳くらいのときに自分がゲイであることに気づき始めたものの、同性愛を罪とするような文化のなかで、自分の性的指向や性全般について話ができるような環境はなく、ひたすら本を読んで性について勉強した、とのこと。現在では、17年来のパートナーと関係をもっている。子供のときから人前で話す能力を皆に買われていた彼は、たいていの人がオープンに話すのをためらう性についても、「話す能力を神様に与えられた」というくらい、高校生相手に率直で真摯に話す腕前をもっているとのこと。授業では、生徒が自分のパーソナルなことについて先生に話すことはまったく義務づけてはおらず、そうした相談をしにくる生徒もいれば、そうでない生徒もいる。でも、一学期を通じてこれだけ性にまつわるあらゆるトピックを授業で扱えば、生徒は性についての自分の考えや感情を率直に口にすることが普通となり、性行為についてきちんとした知識にもとづいて自分なりの決断や判断ができるようになる、との基本理念。


生徒の信頼を勝ち取り、効果的にこのような授業を教えられる人物は、そうゴロゴロとはいないかも知れませんが、その理念は、正しいだろうと思います。日本でも、こうしたカリキュラムがあったらいいのにと強く思います。(私が中高生の頃は、「男女交際禁止」などという校則がある学校がけっこうたくさんありましたが、今でもそうなんでしょうか?そんなばかばかしいことを言っているひまがあったら、きちんとした性教育をするべきだと思いますが。)


ちなみに今日はアメリカ女性史の授業で、Vagina Monologues映画版を見せて(前回の授業で前半は見せたので、今日はその残り)ディスカッションをします。学生がどんなコメントをするのか、とても楽しみ。

2011年11月16日水曜日

ベストセラー作家、「街の書店」経営に乗り出す

今日のニューヨーク・タイムズに、「流れに抗うべく小説家が書店をオープン」というタイトルの記事があったので、誰のことかと読んでみると、なんと現代アメリカ作家のなかで私がもっとも好きな小説家のひとりのAnn Patchettでした。アマゾンなどのオンライン書店や、Barnes & Nobleといったチェーン店、そして電子書籍の興隆に押されて、独立系のいわゆる「街の書店」がどんどん消え去っていくのはアメリカ全国でみられている現象。Ann Patchettの住んでいるテネシー州ナッシュビルもその例にもれず、最後の砦として頑張っていた独立系の書店が閉店を決めると、郊外にあるBarnes & Nobleとヴァンダービルト大学の書店(他の多くの大学でもそうですが、この大学書店も経営はBarnes & Noble)を除いては、古本屋や宗教などの専門書店以外には「街の本屋」がなくなってしまうという状況に。「私は商売にも興味がないし、本屋をオープンすることにも興味がないけれど、本屋がない街に住むことにもまったく興味がない」と言って、書店オープンのための企画を練ること半年。自分の小説のサイン会のために全国の書店をまわりながら、訪れる各店でリサーチを重ね、大手の書籍卸売業や出版社で経歴を積んでいる出版業のプロとパートナーシップを組み、私財もかなり投入して、開店にこぎつけるとのこと。書店業は先行き真っ暗かのようなニュースばかり入ってきますが、この記事によると、厳選された書籍を並べ本を知り尽くしているスタッフが個人的なサービスを提供してくれる小規模の独立系書店が、オンライン化の流れに逆らって成功している例は、いろいろなところで見られるそうですが、果たしてそのひとつとなれるのか。街にいい書店があるということは、コミュニティの文化にとってとても大事なことなので、ぜひとも頑張ってほしいです。でも、Ann Patchettのファンとしては、書店経営が忙しくて、執筆が滞ってしまうんじゃないかと、そちらもちょっと心配。


Ann Patchettは数多くの作品がありますが、日本語に訳されているのは『ベル・カント』だけのよう。もっと訳されていい作家だと思います。この『ベル・カント』は、ペルー日本大使館公邸占拠事件にヒントを得て、また作者の友人であるというオペラ歌手Renee Flemingをモデルにして(との噂ですが、本当かどうかは知りません)書かれた、とてもドラマチックで美しい小説。とくに最後の部分が素晴らしい。私はこの作品を読んですっかりAnn Patchettのファンになり、以来彼女の作品はすべて読んでいます。『ベル・カント』はオペラ化されるという話で、サンタフェ・オペラが某作曲家に作品を委嘱したという噂を何年も前に聞いて以来、実際にオペラが上演されるという話はさっぱり聞かないので、いったいどうなったのか知りませんが、私はこのオペラができたら(やはりRenee Flemingが主演するのでしょう)サンタフェでもどこでも飛んで行って観ようと思っています。


他にも数々の作品がありますが、『ベル・カント』と並んで私が好きなのが、『Truth & Beauty: A Friendship』。これは小説ではなく、彼女の親友であったLucy Grealyとの濃厚で複雑で美しい友情について振り返ったノンフィクション。ともにIowa Writers' Workshop(水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の最初の部分に、世界各地の作家を招聘するアイオワの国際プログラムについてのとても面白い文章がありますが、これは同じアイオワ大学で作家を育成するための大学院レベルのプログラム)で修行を積んで以来、執筆の苦楽そして私生活でのさまざまな局面をともに経験しながら、それぞれの段階で友情が形を変えていく様子を振り返ったもの。Lucy Grealyは、たいへんな才能の持ち主であったと同時に、病気そして薬物依存に苦しみ事故破壊的な行動に走る人物でもあり、彼女の友人でいるのは喜びと苦しみの入り交じった難しいものであったことが明らか。そのなかで、見放すでもなく甘やかすでもなく、人間として相手と真摯に向き合い、友として相手の人生を見守った回想。ひたすら強く美しく苦しく、心うたれます。とりわけ私が気に入っている一節があり、それをここで引用しようと思って本棚を探したのですが、なぜか見つからない。大学の研究室のほうに置いてあるのかと思うので、後で見つかったら追記します。英語の文章は雄弁で美しくそんなに難しくないので、日本の読者にもぜひ読んでいただきたいです。

2011年11月13日日曜日

オンライン・デーティングの科学調査

「こんなのが出てるよ」と友達が送ってくれたのが、ニューヨーク・タイムズに掲載された、オンライン・デーティングの科学調査の結果についての記事。なかなか面白い。


2007年から2009年までにできた異性愛者同士のカップルの21パーセント、同性愛者同士のカップルの61パーセントは、ネット上での出会いから始まったらしく(全人口に占める割合を反映して、絶対数としては異性愛者同士のカップルのほうが圧倒的に多いけれども、同性愛者のあいだでネット上の出会いの割合がこれだけ高いというのは、公の場でのオープンな出会いや交流が限定される同性愛者にとって、ネットという媒体がどれだけ重要な社交の場として機能しているかを示していて興味深い)、さまざまな分野の研究者がオンライン・デーティングに目を向けるのもまあ当然。実験室で人工的に作り出された環境と違って、現実世界での生身の人間模様を分析できるのが、オンライン・デーティング研究の長所。ますます人々の生活の多くがネットを通じて展開されている現在、ネット上の出会いは現実から切り離されたものではなくて、現実そのものだ、とのこと。私が言うのもなんですが、まあそれはその通り。というわけで、オンライン・デーティングのデータを使った研究には、アメリカ最大の科学研究の資金源であるNational Science Foundationもお金を出しているとのことです。ふむふむ。


で、ここで紹介されているデータがなかなか興味深い。たとえば、オンライン・デーティングをしている人の実に81パーセントが、身長、体重、年齢のどれか(または複数)についてプロフィール上で「虚偽の申告」をしているとのこと。女性は平均して8.5ポンド(4キロ弱)、男性は2ポンド(1キロ弱)体重を減らし、男性は半インチ(約1センチ)身長を伸ばしている。自己紹介の文章で嘘を書く人の文章には、一人称をあまり使わない、否定形の文が多い、文章が全体的に短いといった、共通の特徴があるらしい。


私にとって特に面白いのが、オンライン・デーティング上の人種力学。ネットの出会いは、既存の社会の境界を取り除き、人々がより多様な相手と交際するようになるかとの予想を裏切り、オンライン・デーティングでの出会いの圧倒的多数は、同じ人種・民族同士だそうです。自分とは異なる人種の相手ともデートを考える、と言っている人でも、多くの場合は実際には自分と同じ人種の相手としかデートしていない。白人がネット上で声をかける相手の80パーセントは白人で、白人から黒人に声をかける例は3パーセントしかない。逆に黒人から白人に声をかける確率はその10倍。なんとも露骨な人種模様ではありませんか。政治や経済や教育の場で展開される人種についての議論と、人々が求める親密な交流とのあいだには、複雑な関係があることを示唆しています。


また、政治といえば、自分の政治的信条をプロフィールで明言する人の割合は非常に低い、とのこと。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、私は自分が「政治的に左の人を希望します」とはっきり書いているのに、それをまったく無視したメールがよくくるので驚いたのですが、なるべく幅広く網を広げておこうという人は、政治についてのコメントをしない、ということのようです。「私は保守です」というよりも「私は太っています」という人のほうが多いとか。ひょえー。


このデータを見ると、バカ正直に本当のことばかり丁寧にプロフィールに書いていた自分がマイノリティだったのかと思えてきますが、私が出会った男性のほとんどは、ここに出てくるケースには当てはまらなかったなあ。それは、人種に限らず、マイノリティ同士がしぜんに結びつくという摂理を表しているのかも。

2011年11月11日金曜日

APEC & オルタナティブAPEC

ホノルルでは現在、APEC(アジア太平洋経済協力会議)が開催されています。APECについては、シンガポールの事務局で仕事をしていた友人の著書を以前にこのブログで紹介しましたが、今年度はホノルル開催。環太平洋21カ国の首脳が集まるこの会議は、ホノルルがホストするイベントとしては史上最大規模で、交通規制や警備などをめぐって混乱も見えています。大イベントに際して地元住民に多少の不便があるのはしかたないとして、より本質的なところで、APECが象徴する資本のグローバリゼーションのありかたに異を唱える議論が活発に展開されています。ちょうどOccupy Wall Streetの運動が世界的に展開されている最中のことなので、その動きと合流して、さまざまな団体や活動家、言論人がAPECに対抗する活動に従事しています。


そのひとつが、Moana Nuiという集まり。アジア太平洋地域の活動家、研究者、農業や漁業に従事する人々、教育者などが集まって、資本のグローバル化や産業開発、気候変動のなかで、太平洋の国々や人々が経済的に持続可能で文化や環境を守り育てていく協力体制をどのように築いていけるかを議論するフォーラムを企画したものです。一昨日から三日間、APECと並行する形で会議が開かれているのですが、私は授業などがありまだ参加できていません。


でも、このMoana Nuiの会議の参加者のひとりであるWalden Bello氏が、昨日の夕方ハワイ大学で講演したので、聴きに行ってきました。Bello氏は、フィリピン出身で政治や社会政策を専門とする研究者であり、カリフォルニア大学バークレー校をはじめとして数多くの大学で教鞭をとってきましたが、現在はフィリピンの下院議員を務めています。バンコクを拠点とするFocus on the Global Southという研究所の創設者でもあり、世界銀行の極秘資料などを分析しながら現代のグローバリゼーションのありかたの問題点を指摘しその代替となる多国間協力体制を提言する、さまざまな著書があります。最近の著書としては、世界的な新自由主義的経済政策のなかで悪化する食糧危機を扱ったThe Food Warsがあります。


昨日の講演の主な論点は、以下のようなものです。自由貿易を拡大し資本のグローバル化を推進することによって利益を増大させることを目的とするAPECは、参加国すべての経済や人々の暮らしを向上させるような構造にはなっておらず、むしろアメリカ合衆国の覇権を強化し、そして中国の輸出産業や金融業の利益を増大させる(二十年前までは、このような環太平洋構造の批判ではアメリカと日本が槍玉にあげられましたが、今では日本の「に」の字すら出てこない。昨日の45分ほどの講演でも、「日本」という単語はついに一度も出てきませんでした)ようにできており、太平洋の島々やより小規模経済の参加国が、どのようにして持続可能な経済成長をしていけるかはAPECが問題とするところではない。とくに、小国の長期的な経済成長、先住民の生活、移民労働者の権利、気候変動、持続可能な資源開発などといった、アジア太平洋地域において現在もっとも肝要な問題について、APECは多国間の議論を促進したり対策を講じたりする意思がまるでない。APECは単に各国首脳がアジア太平洋の民族衣装を身につけて集合写真を撮り「国際協力」の視覚的イメージを作る以上の、なんら実質的な機能を果たしていない、とのこと。


グローバリゼーション批判の論点としては他でもよく聞いたり読んだりするものと共通ですが、ではBello氏の提言するような多国間協力体制を作るには、APECのありかたを改革することで可能なのか、それともまったく別の形態の組織が必要なのか、そのあたりを質問したかったのですが、質疑応答に入ったところで私は退出しなければならず、残念。でも、講演としてはなかなかよかったです。

2011年11月6日日曜日

図書館いろいろ

昨日のニューヨーク・タイムズに、かつて極東編集局長であったコラムニスト、ニコラス・クリストフが、元マイクロソフトでマーケティング部長を務めていたジョン・ウッドが始めた2000年に始めたRoom to Readというチャリティについての論説を載せています。ネパールで始まったこのチャリティは、世界各地の子供たちが本を読めるように、図書館を開設したり学校に本を送ったりするというプロジェクトで、これまでに世界で一万二千の図書館を開設し、一日につき六の図書館がオープンしているという驚異的な成果をあげているそうです。


たいへん結構なプロジェクトで、現代アメリカの図書館システムの基盤を作ったアンドリュー・カーネギーを思わせますが、私としては、これらの図書館にいったいどんな本が入っているのかについてもっと知りたいところ。こうしたチャリティの対象となる地域では、図書館以前にそもそも本自体がないところが多いため、Room to Readでは自費出版で子供たちのための本を出版もしており、クメール語やネパール語などさまざまな言語で591の本を刊行してきた、と書いてありますが、アメリカのフィランソロピーによってこれらの言語の出版文化が形作られることは、なにを意味しているのか、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の議論と照らし合わせて考えてみたいところ。また、私の元大学院生が、ベトナムとアメリカの国交正常化前後にアメリカ人(その多くはベトナム戦争を経験した元兵士)がベトナムで展開してきたさまざまな人道的チャリティ・プロジェクトの力学についての博士論文を書いたのですが(これは本当に指導のしがいがあったと思わせる素晴らしい博士論文に仕上がり、こういう学生が育つと教師をしていてよかったと心から思います)、Room to Readを彼女に分析させたら興味深いものが出てきそうな予感。


図書館ネタでもう一点、最新のニューヨーカーに、文芸評論家のジェームズ・ウッドによるShelf Lifeというエッセイ(残念ながらこれはお金を払った購読者でないと全文は読めないよ設定になっています)があります。著者の亡くなった義父が集めた莫大な数の本の処理について途方に暮れながら、人が本を買い集めるという行為の知的・情感的・物理的な意味を振り返っているエッセイなのですが、この文章がたいへん素晴らしい。フランス国籍でアルジェリアで育ちフルブライト奨学生として渡米して中東研究に従事したものの学問の道には進まずカナダに移住してビジネスマンとして生きた義父は、人柄的には親しみを感じさせる人物ではなく、存命中は著者は義父のことをコワいと思っていたけれど、死後彼の書庫に積み上げられた本を通じて彼の頭や心のなかに思いを馳せ、人にとっての本の意味を考える、というもの。著名な知識人でなくとも、この義父のようになんらかの体系にそって本を集めた人のコレクションは、全体があってこそ意味があるのであって、一冊一冊の本自体にはほとんど価値がない。けれど、今どき単なる個人の関心にそって集められた大量の古本をありがたく引き受けてくれるような図書館も古書店もめったにない。コレクションとしての価値を失い、所有者との関係が切り離されてしまえば、本というのは単なる重くやたらと場所をとる物品でしかなく、他のありとあらゆる遺品となんら変わらず、大量の本を残された家族も途方に暮れるばかり。そうは言うものの、本にはそれを読んで大切にとっていた所有者のいろいろな思いがこもっているし、その人の知的道程の地図でもあるしで、そう無下に扱うのも心が痛む。義父の本のコレクションを見ながら、生まれ育った故郷を遠く離れて人生の大半を過ごした義父の人生を振り返る、こんな文章が絶妙。


The acquisition of a book signaled not just the potential acquisition of knowledge but also something like the property rights to a piece of ground: the knowledge became a visitable place. His immediate surroundings, American or Canadian, were of no great interest to him; I never heard him speak with any excitement about Manhattan, for instance. But the Alhambra in 1492, or the Salonica he remembered from childhood (the great prewar center of Sephardic Jewry, where, he recalled, there were newspapers printed in Hebrew characters), or the Constantinople of the late Byzantine Empire, were . . . what? If I say they were "alive" for him (the usual cliche), then I make him sound more scholarly, and perhaps more imaginative, than he was. It would be closer to the truth to say that such places were facts for him, in a way that Manhattan and Toronto (and even Paris) were not.
     And yet these facts were largely incommunicable. He spent his time among businessman, not scholars. He rarely invited people to dinner, and could be emphatic and monologic. He tend to flourish his facts as querulous challenges rather than as invitations to conversation, though this wasn't perhaps his real intention. So there always seemed to be a quality of self-defense about the greedy rate at which he acquired books, as if he were putting on layers of clothing to protect against the drafts of exile.


しつこく水村美苗さんを引き合いに出しますが、『私小説―from left to right』『本格小説』に描かれている、十二歳で渡米し英語の日常のなかで生活しながら近代日本文学全集をひたすら読みあさることで自分の精神世界を築いていった水村さんを思い出させる文章でもあります。


私も職業柄、本がどんどん増えるいっぽうで、この先どうなるんだろうと思うことがよくあります。数年に一度は、もう必要ないことが確実で特に思い入れのない本を段ボールに十箱ほどずつ処分するのですが、それでも書棚スペースはほとんどなし。今はまだ、研究室と自宅を合わせてなんとかなっているものの、数年後にはなんとかならなくなるのが確実。うーむ、どうしよう。そのいっぽうで、私が子供時代に何十回と読み返した『あしながおじさん』と『若草物語』を実家から持ってこようと探したのにどうしても見つからなかったときの落胆(そういう本というのは、その箱や表紙や挿絵にも思い出が詰まっているので、新しくその本を買えばいいというものではない)を考えると、自分にとって大事な本はやはり大事にとっておかないととも思うし. . .