2012年4月8日日曜日

現代日本の新聞小説 水村美苗『母の遺産』

こちらはイースターで週末がふだんより一日長いのを機に、著者謹呈で送っていただいた『母の遺産―新聞小説』を一気に読み終えました。読み終わった瞬間になにかを書きたくてたまらない気持ちになると同時に、いったいなにをどう言葉にしていいかわからないという気持ちもあって、とりあえず頭のなかで一晩寝かせてみましたが。。。


とにかく、スゴい。このブログを以前から読んでくださっているかたは、私が水村美苗さんの著作にたいへん思い入れがあることはすでにご存知でしょうが、これまでの作品それぞれが渾身の傑作でしたが、『母の遺産』は、水村さんが文字通り身を削る思いで書いたことが感じられます。もともとは二〇一〇年から一年余にわたって『讀賣新聞』の土曜朝刊に連載されたものですが、単にそれだから副題が「新聞小説」となっているわけではないのは、これまでの水村さんの仕事からも明らか。これまでの『続 明暗』『私小説―from left to right』『本格小説』それぞれにおいて、水村さんは、「西洋の衝撃」を経験した日本の文豪たちが、それまでの長く豊かな日本語や日本文学の歴史と、西洋近代との出会いに果敢に向き合い、日本という固有の現実を描くと同時に、普遍性があり知的にも道徳的にも高みを志すような文学を生み出すべく、言葉や文体や形式の問題に真剣に取り組んできた、その流れを、現代日本で継承しようと、野心的な試みをしてきました。それと同様、この作品では、夏目漱石や尾崎紅葉の新聞小説がひろく市民に読まれた明治日本が我々に残したさまざまな「遺産」を、主人公の祖母、母、そして主人公みずからの人生を通じて描き出す、というもの。『日本語が亡びるとき』で水村さんはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を詳しく論じていますが、そのアンダーソンのおもな論旨のひとつは、新聞という印刷媒体が「近代国家」という意識を生み出すのに決定的な役割を果たした、ということ。それをふまえて、「新聞小説」が、同時代の一般市民にむけて、娯楽としても楽しめながら社会や国が直面する「現実」を描き、願わくば高みを目指すべく読者を啓蒙しようとする、それがどういう意味をもっているかを考えようともする。その小説としての意匠もスゴい(後半、讀賣新聞に連載された『金色夜叉』を読んで人生が変わってしまう祖母の物語のあたりから、歴史的・文学的・理論的な旋律が交響曲のように織り混ざって、それはそれは興奮します)のですが、それよりなにより、読者が「これってひょっとして私のことが書かれているのかしら」と思わざるをえないようなリアリティが壮絶。


『私小説』や『本格小説』と違って、この作品の主人公美津紀は、ごく普通の日本の中年女性。たしかにいろいろな意味でじゅうぶん恵まれた中産階級の人間ではあるものの、その恵まれかたは決して桁外れなものではないし、実際、母の遺産が入ったことによって人生の転機が可能になるといっても、その遺産の額も非常に現実的なもので、その遺産が可能にするであろう美津紀の新しい人生の描かれかたも、哀しいほど現実の匂いに満ちている。離婚を考える美津紀の頭のなかで、きわめて具体的な数字でお金の計算がなされると同時に、「ヘルパーさん」「ケアマネ」「胃瘻」「年金分割」「Gメール」といった単語が織りなす現代日本の現実のありかたを、冷徹に描き分析しながら、その悲喜劇に振り回される自分にもその冷徹な分析を向ける。母の死によって心身ともに消耗しきる介護を終え、それと同時に、いよいよ向き合わなくてはいけなくなった自分の自分の人生の意味を振り返る美津紀の物語なのですが、「母の遺産」とは、金銭的財産のほかに、母がひとりの女性として、妻として、親として、人間として、自分に伝えたもの、背負わせたものを、どのように自分の人生において処理するか、というテーマ。「普通の女性」の「ありがちな話」を通して、本質的で深く大きな問題に向き合う、日本の『ボヴァリー夫人』のような小説。


あんまり書くとネタバレになって、「新聞小説」を読む喜びを減らしてしまうので、あまり具体的なことは書かずにおきますが、美津紀の母親への思いや老いの現実の描写も壮絶ですが、夫の哲夫との関係を振り返る部分は、読んでいて、美津紀と一緒に、蒼白になったり、頭も身体も凍てついたり、突如いろいろなことが理解できたり、なぜかすっと決意ができたり、といった体験をしている気持ちになります。自分が望んでいるようには相手が自分のことを愛していなかったということに気づき、そしてまた、自分も相手に対する愛情や尊敬をもはやもっていないことに気づく、その「ありがちな」衝撃のなかでも、楽しいこともたくさんあった結婚生活を共にした相手には、残りの人生を卑しく哀しい生き方をしてほしくないと、その卑しく哀しい生き方を阻止するための、彼女の瞬時にして冷静で賢明な判断、そして尊い思いやりと人間性に、心打たれます。私自身のこれまでの恋愛にも思いが行って、涙、涙。愛とはなにか、というシンプルにして決定的な問題を、読者に容赦なく突きつけてくれます。


他にもたっくさん言いたいことはあるのですが、物語中の具体的なことに触れずにコメントするのも難しいので、もっと多くの読者がこの作品を読んだ頃に改めてまた文章にしようと思います。とにかくスゴい小説ですので、ぜひご一読を。これを読んで、離婚を決意する日本の女性読者がたくさん現れるのではないかしらん。でも、現実の厳しさもあまりに生々しく描かれているので、自分の状況を振り返ってそれを踏みとどまる決意をする人も多いかも。



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