2009年3月19日木曜日

ジャーナリズムのオンライン化がもたらすもの

シアトルの「ポスト・インテリジェンサー」という新聞の紙バージョンが廃刊になり、報道活動はオンラインのみで続行することになりました。日本と同様アメリカでも、インターネットの急速な普及と人々の活字離れで、新聞や雑誌の多くは深刻な経営難に陥っており、新聞の廃刊は今後も続くと思われます。オンラインの報道が一概に悪いとは決して言えません。しばらく前の投稿でも書いたように、日本と比べるとアメリカはインターネット上でのジャーナリズムをはじめとする言論活動がずっと充実していて、「ニューヨーク・タイムズ」や「ウオール・ストリート・ジャーナル」などの大手新聞もインターネットという媒体の特性をきわめて効果的に使って、画像や動画を含む多様な形式できわめて洗練された報道をしています。オンライン版は収入マージンが小さいので経営の面ではあまり有効な策ではないらしいですが、これから先、紙の媒体がオンラインに移行していくのはおそらく必至でしょう。

紙の新聞が失われることがもたらす影響についての興味深い論説が、「ニューヨーク・タイムズ」に載っています。(この論説の著者は、以前「ニューヨーク・タイムズ」の東京支局長をしていたNicholas Kristofです。)いわく、人は、オンラインでニュースを読むときには、自分が興味のある話題や、自分が賛同する論旨の記事を選んで読む傾向が強い。なんらかの政治的意見をもった人のほとんどは、自分の意見や立場を確証するような文章を積極的に読み、自分の信念を強めるのに対し、自分と違う意見を表明した文章については、あまり真剣に考えようとしない。ある調査によると、中立的な情報源が民主党支持者と共和党支持者それぞれに同じニュースを送ると、どちらの党の人々も、自分と同じ意見を示している記事を熱心に読み、逆の立場の記事はまともにとりあわない、という結果が出たそうです。まあ人間というのはたいていそういうものだろうとは想像できますが、「ニュースを読む」という活動のオンライン化が進むと、こうした政治的な隔離と非寛容がますます悪化するだろう、というのがこの論説の主旨です。人々が、自分が興味のある話題について、自分の考えていることをサポートしてくれるような報道しか読まなくなったら、政治的・思想的・文化的な境界を超えた真剣な対話や議論というものが社会から消えてしまう。それは想像するだけでも本当に恐ろしい、という意見には私も賛成です。

もちろん、紙の新聞だって、多くの人は自分の好きなセクションの自分の興味のあるニュースにしか目を通さないのが現実でしょう。私自身そうです。なにしろ「ニューヨーク・タイムズ」なんかはあまりにも記事が多くてひとつひとつが長いので、毎日新聞に一通り目を通すということだってとてもじゃないですができません。私はスポーツのセクションは広げすらしないままリサイクルですし、ビジネスのセクションもめったに読みません。総合セクションでも、自分が背景をまるで知らない国や地域のニュースだと、読んでも理解するのに時間と労力がかかるので、面倒だから飛ばしてしまうことが多いのが正直なところです。それでも、何十頁もある紙の新聞をよっこらしょと広げて、どこを読もうかと選びながら一枚一枚めくっていく過程で、一応は見出しや写真だけでも目に入ってくるので、なんとなく世界で起こっていることは感じ取れます。それに対して、オンライン版では、見出しを見て意味がわからないものや興味の湧かないものには、カーソルを動かさないので、頭に入れる情報を自分でおおいにフィルターをかけているわけです。仮に毎日「ニューヨーク・タイムズ」を隅から隅まで読んだとしても、「ニューヨーク・タイムズ」という媒体を情報源の中心に選んでいることで、すでにある程度のフィルターはかかっているわけですから、さらにそれに大きく厚いフィルターを自分でかけるのは、たしかに、とても恐ろしいことです。とは言っても、じゃあ、積極的にフォックス・ニュースを見てみようという気になるかというと、うーむ。。。