2011年2月2日水曜日

文化庁メディア芸術祭

今朝は、国立新美術館で開催中の、文化庁メディア芸術祭に行ってきました。私は、現代美術とかメディア芸術といったものにはまったく疎いのですが、文化行政についての研究をすることになった手前、そんなことを言っている場合ではないし、国立新美術館は以前に建物を外から眺めたことはあっても中に入ったことはなかったので、この機会に出かけてきました。国立新美術館は、自らのコレクションを持たない美術館ということで、いったいどういうものなのかしらんと思っていましたが、やっていることを見てみると、なるほど、美術品の購入や保存にかかる費用を、企画展の主催や教育普及活動に投入できるのなら、それはそれでなかなか面白いことができるんじゃないかと興味をそそられます。建物は、想像以上にデカく、美術館というよりコンベンションセンターのような雰囲気。

で、肝心のメディア芸術祭ですが、これは1997年から始まったものだそうで(毎年2月に受賞作がこの芸術祭で展示されるそうですが、私は普段は2月に日本にいないので知りませんでした)、アート、エンターテイメント、アニメーション、マンガの4部門で世界中から公募で集まった作品を審査し、受賞作品を展示するというもの。私は、マンガはさっぱり読まないし、アニメにはどうも馴染めないし、ビデオゲームのようなエンターテイメントはまるっきりやらないし、それ以前にまず「メディア芸術」の根底にあるメディア技術というものがさっぱりわからない人間なので、このイベントを楽しむにはまったくもって不向きな人間なのですが、それでもなかなか面白かったです。アート部門の審査委員がコメントで書いていたように、技術の斬新さやその利用法で勝負するというよりも、それを使ってこそ創造できるものを表現している感じが各作品から伝わってきたし、最新の技術を使った作品のなかに、なにか切なかったり懐かしかったりするものが感じられるのが面白かったです。私はなにしろマンガを読まない人間なので、今のマンガはこういうテーマでこういう手法でかかれているのかということを知るだけでも勉強になったし、受賞作品を手に取って座って読める別室があるのがよい(読み出したら何時間でも座ったままになってしまいそうなので、受賞作の『ヒストリエ』の初めの部分を読んだだけで退室してきました)。エンターテイメント部門は、なにをもってその境界を定めているのかよくわからない感(別に芸術祭のほうで定めているわけでなく、応募する制作者のほうが自ら定めるのでしょうが)もありましたが、展示スタッフが親切で好感度高く、いろいろ触って楽しめてよかったです。これからこの展示終了の13日まで、聴いてみたいテーマシンポジウムなどもあるので、また足を運ぼうかと思います(入場無料なのがありがたい)。

メディア芸術祭に行った主な理由は、それが文化庁主催のイベントであるからなのですが(そんな理由でこの展示を観に行く人は少ないかも)、昨日は、文化庁で開催された、「劇場・音楽堂の制度的な在り方に関する検討会」というものを傍聴に行ってきました。指揮者の佐渡裕さん、その他、さまざまな芸術関係の団体の代表や地方都市で文化行政に携わる人による意見発表のヒアリングだったのですが、発表者の意見には重なる部分が多く、聞いているだけで現在の日本の舞台芸術をめぐる文化行政の問題点がよくわかりました。とくに公的な文化施設にかんしては、市民に公平に開放する「公の施設」としての役割と、芸術文化を創造・育成する場としての役割のあいだでどのように折り合いをつけるのか、という問題。また、芸術・技術面で高度に専門的な知識と能力をもった人材をどのように育成・登用していくのか、という問題。打ち上げ花火的なイベントに終始せず、地域社会の血となり肉となっていくような継続的な芸術文化活動を育成するにあたって、行政のもつ役割はなにか。などなど。私が『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール 』で考えたようなこととつながる点がたくさんあります。ちなみに私は数日前に平田オリザ氏の『芸術立国論 』を読んだばかりで、いずれ平田氏にもインタビューしてみたいと思っているところですが(ちなみに私が学生時代にときどき訪れた駒場のアゴラ劇場は、平田氏の実家であるということを、この本を読んで初めて知りました)、内閣官房参与である平田氏も当然この検討会では前の席に座っていました。話しかけようかとも思いましたが、なんと言って話しかけていいものやら思いつかず、今回はおとなしく退散。それにしても、同じ芸術文化の研究をするといっても、ニューヨークで音楽家たちと話をしたり、フォート・ワースでクライバーン・コンクールを見学したりするのと、文化庁の検討会を傍聴に行くのとでは、ずいぶんと違った視点から「文化」が見えるものです。