2021年8月9日月曜日

ピアノはモノである 田中智晃『ピアノの日本史』

 私は1968年生まれ。育った東京のマンションの4畳半の部屋にはヤマハのアップライトピアノがあり、3歳でレッスンを受け始めました。そのピアノは、今もその実家にカバーがかかり、物置き台となって残っています。私の世代の人たちの約五分の一が似たような経験をしているはず(1979年に国産ピアノの出荷台数はピークを迎え、2000年時点で日本におけるピアノの普及率は21%)。そして、日本の楽器産業は現在圧倒的に世界をリードしている。なぜそうなったのか?それを見事に解明してくれるのがこの本、田中智晃『ピアノの日本史 楽器産業と消費者の形成』。かなりどっしり感のある本ですが、面白くて一気に読了してしまいました。

戦前の複数の日本企業がピアノ製造法を学んで国内での生産と流通システムを作り、戦後にヤマハが高品質を保ちつつ大量生産を可能にする製造技術を開発し、日本の一般家庭にピアノを付随サービス付きで届けるとともに海外市場を開拓し、ブランドを確立して世界トップの楽器メーカーになる過程を、丁寧なデータ分析で解説。でも(少なくとも私にとって)この本で一番面白いのは、その生産の仕組みの部分ではなく、それを継続していくためにピアノ製造業者が考案してきたあれこれの市場開拓や流通システム整備の部分。ピアノとは音楽という芸術のための楽器であると同時に、近代産業の産物であり、モノであり、製品である。それも、やたらと部品が多くて生産には高度な技術が必要、安くなったとは言ってもそれなりに高価、たいていの消費者は一度買ったらそうそう買い換えない、買っても弾けるようになるためには相当の学習が必要、家のスペースを食う、騒音問題あり…など、あれこれややこしい性質を帯びたモノ。そうした性質ゆえ、いくら製造技術を改良し続けても、誰もがテレビや冷蔵庫を買うようにピアノを買うわけではないし、やがて市場は飽和状態になること、すなわち「斜陽化」を、製造業者はある時期からちゃんと見越していた。それに対応するために、あれこれの事業展開を進めてきた。その部分がたいへん面白いのであります。著者は流通史の専門家なので、特約店の仕組みはとりわけ丁寧に分析されていて、「なるほどそういうことだったのか」と腑に落ちることたくさん。私には、とくにヤマハ音楽教室の話がものすごく面白い。カワイが始めた予約販売の話(「ヤマハレディ」への言及がちょっとあるんだけど、もっと知りたい!)も面白い。電子楽器やプレイヤーピアノをめぐる試行錯誤の話も面白い。そしてまた、海外市場の話も面白い。…と、「面白い」という面白くない単語を何度も繰り返してしまうくらい、興味深いデータと分析が満載。テクニカルな情報が多いにもかかわらず、文章も明解で読みやすいです。
個人的には、国内外の労働面(工場の従業員とか、調律師の養成とか、ディーラーの研修とか)についてもっと知りたった気もします。マーケティングについてももっといろいろ分析できそう。また、実に素敵な表紙でも示されているように、一般消費者にとってピアノという楽器は特有のジェンダー化された意味づけがされているので、それが生産・流通・消費の過程でどう作用しているのか、もっと正面からの分析も欲しい(←自分でやれと言われそうなので、はい、やります)。そして、グローバル市場での「日本企業」としてのヤマハの意味付けも知りたい。最後の最後で触れられている、中古ピアノ市場についてももっと知りたい。…などなど、さらに知りたいことが次々に頭に浮かぶということ自体、脳を刺激するよい本の印。これじゃあ何が何だかわからないというくらい、付箋がいっぱいになってしまいました。オススメです!