ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2009年12月18日金曜日
海兵隊がやってくる
数日前に、普天間飛行場のグアム移転案について言及しましたが、すでに決定されている8000人の米海兵隊員のグアム駐留がもたらすインパクトについて考察した番組が、アメリカの公共放送であるPBSで放送されました。今ならインターネット上でビデオが観られます。(こういうものが無料でインターネットで観られるなんて、本当に便利な世の中になったものです。)タイトルは、The Marines Are Landing、つまり「海兵隊がやってくる」です。25分足らずの短い時間のなかで、さまざまな視点を紹介しています。島における米軍の存在が急速に拡大することが環境や社会インフラや文化にもたらす負担を住民が認識しながらも、長い植民地化と軍事化の歴史のなかで、米軍への憧れや依存が島民の意識や生活の奥底にまで浸透しまってもいる。アメリカ国民であり、アメリカ本土よりも米軍志願率が高いほど米国への忠誠心をもちながらも、住民は大統領選には投票することができず、国家間の協定や交渉において住民の声は聞いてもらえない。そうした複雑な状況を、効果的にまとめたいい番組ですので、よかったら観てみてください。アメリカの州となって50周年を迎えるハワイとは、違うこともありますが、共通する点も多いです。
2009年12月15日火曜日
『パリ・オペラ座のすべて』
昨日、映画『パリ・オペラ座のすべて』を観て来ました。以前にこのブログで紹介したフレデリック・ワイズマン監督の最新ドキュメンタリーです。彼は、議会や学校、軍隊などの組織のありかたを捉えた社会派のドキュメンタリーを多く制作していますが、それと同時に、自らが大ファンであるバレエをはじめとする芸術関係の作品も作っています。この映画は、世界最古のバレエ団であるパリ・オペラ座のあらゆる側面を映し出したもので、バレエファンにはもちろん、創造的な活動に興味のある人、また、組織のありかたに興味のある人には、大いに楽しめます。
ただし、楽しめる、とは言っても、ワイズマン監督の作品は、現代で主流となっているドキュメンタリーとはずいぶんとアプローチが違います。そして、今の日本のテレビ番組の作り方とはとてつもなくかけ離れたアプローチを使っているので、日本のテレビに慣れた視聴者にはかなり違和感があるだろうと思います。というのは、彼のドキュメンタリーは、なんのナレーションもなく、効果音やBGMもなく、わかりやすい物語性もなく、ただひたすらさまざまな映像を淡々と映し出して行くだけ。しかも彼の作品は概して長く、この映画も160分もあります。今の日本のテレビでは、トピックやキーワードだけでなく、キャスターやコメンテーターやインタビューされている人が言っていることをそのままやたらと文字表示するのを、私は以前から気持ちが悪いなあと思って見ているのですが(聴覚障害者のためのものだったら理解できますが、そうではないようだし、聞いていることと同じことをなぜ文字で表示するのかがわからない。聞いてるだけではこちらが理解できないと思っているのか、とバカにされたような気持ちになるのは私だけでしょうか?)、ワイズマン監督の作品はそれとは対極的で、まったくなんの説明もないまま、ひたすら映像だけが続いていきます。パリ・オペラ座の歴史とか、ダンサーたちがどのような経過を経て入団するのかとか、組織構造はどうなっているのかとか、これほどお金のかかる芸術活動がどのようにして経済的に成り立っているのかとか、ダンサーのキャリアにはどのような試練があるのかとか、振り付け師やダンサーはバレエという芸術の伝統と革新をどのようにとらえているのかとか、そういったことを、わかりやすくナレーションが解説してくれる、といったことがないのです。映像に現れるそれぞれの人が、どういった人物なのかという説明すらない。代わりに、淡々と続いていく映像を集中して見ることで、視聴者自らが、その意味を考え結論を出す、という作りになっているのです。もちろん、監督独自の視点やメッセージは非常にしっかりとしたものがあるのですが、それを理解するには視聴者がきちんと見て考えることを作品も要求するのです。(ワイズマン監督がハワイ大学に講演に来たときに、私は一緒に食事会に出席したことがあるのですが、そのとき、「マイケル・ムーアの作品をどう思うか」と聞かれて、彼は「僕はああいうのはドキュメンタリーだとは思わない」と言っていました。ワイズマン監督の作品とマイケル・ムーアの作品を見比べてみると、政治的・社会的メッセージにおいては大いに通じるものがあるにしても、ドキュメンタリー制作についての考え方はまるで違うのが明らかです。)そうした意味では、ワイズマン監督の作品は、今の10代の若者の多くにはまったく理解されないでしょう。というか、それ以前に、160分もこうした作品をじっと座って観ていられる若者は少ないかもしれません。でも、自分でものを見て考える意思のある視聴者には、たいへん満足度の高い作品です。音楽にせよダンスにせよ、舞台芸術を扱った映画や番組では、時間の制約もあってそれぞれの曲や演目を細切れにしか見せないものが多いのですが、バレエをきちんと理解している監督の作品だけに、まるごとではないにしても、芸術的に意味のある単位で演目を見せてくれるのが嬉しいです。渋谷Bunkamuraではあさって18日(金)で上映が終わってしまうので、興味のあるかたは急いでどうぞ。
2009年12月13日日曜日
ヒューストンでレズビアン市長誕生
テキサス州ヒューストンの新市長に、レズビアンであることを公言している会計検査官のAnnise Parker氏が当選し、ヒューストンは同性愛者を市長にもつ都市としては全米で最大の都市になりました。より小さい都市(私が通ったブラウン大学のあるロードアイランド州プロヴィデンス市や、ハーヴァード大学のあるマサチューセッツ州ケンブリッジ市など)では同性愛者が市長になっている例はありましたが、ヒューストンは220万人の住人のいる大都市、しかも伝統的に保守的な政治風土で、最近の選挙でも同性婚を禁じる法律が成立したテキサス州で、レズビアン市長が誕生したのは、やはり画期的なことです。彼女は、自らの性的指向を前面に押し出すようなことはせず、むしろ会計検査官としての経験を強みにして選挙運動をしてきたものの、1980年代から同性愛者の権利拡大の活動にさまざまな形で携わってきた彼女がヒューストン市長になったことは、LGBTコミュニティに大きな勇気を与えています。(私がこのニュースを知ったのは、Facebookにゲイの友達がこのニュースを投稿していたからでした。)Parker氏は、19年来のパートナーと共に、3人の子供を育ててきた53歳の女性。地元ヒューストンの新聞の記事はこんな感じです。ビデオもありますのでよかったらどうぞ。
2009年12月10日木曜日
ニュースわからないことだらけ
日本の新聞やテレビのニュースは、なにしろ短すぎて、「今日はこういうことがありました」とだけ言われても、もっといろんなことを説明してくれないと、なんのことなんだかさっぱりわからない、ということが多いです。ニューヨーク・タイムズだったら同じ話題で20倍くらいの紙面を使って取り上げるようなことについて、ほんの5行くらいしか説明がなかったりするので、わからないことだらけ。
たとえば、今日の話題で言えば、小沢一郎氏率いる訪中団。600人って、ただごとではないと思うのですが、これは一体どういう意味があるのでしょうか。議員数名を連れて中国共産党の首脳と会談をするというのならともかく、議員140人を含む600人が一斉に訪れるというのは、明らかになんらかのメッセージです。ではそのメッセージはなんなのか。その基本的なことをきちんと問いかけている(そして答えている)報道をまだ見ません。「小沢氏の政治力を示す」という説明もありますが、それじゃあいくらなんでも分析に欠けていて訳がわからない。だいたい、この600人はいったい中国に行ってなにをしているんでしょうか。小沢氏本人は明日はもうソウルに移動するらしく、残りの一団は、「数グループに分かれて軍事施設や汚水処理場を視察」し、「万里の長城を見学」する予定らしいですが、果たしてこれにはどういう意味があるんでしょう。訪中が悪いというのではありません。どう考えても中国はこれからの世界でたいへんな影響力をもつ国ですから、政治家が積極的に中国との交流を図るのは大事なことですが、だからこそ、それをやる政治家はきちんとした理念と方針をもって、それを報道するジャーナリズムは深い分析をもって、国民に伝えてほしいものです。
そして、いよいよ暗礁に乗り上げてしまったらしい普天間問題。グアムを訪問した北沢防衛相が、「グアム移転は日米合意から大きく外れる」と言ったそうですが、これはいったいどういう意味なのかもよくわからない。グアムでなにを見てそう判断することになったのか。地勢的条件や設備の問題なら、わざわざ現地に行かなくてもわかるだろうし、そもそもなぜ日本の防衛相が、アメリカ領であるグアムを米軍基地の移転先候補として視察に行き、「日米合意から外れる」と判断するのか。北沢氏が「グアムで結構」と判断したらグアムに移転することになったのか。まるで日本とアメリカの政府の意向でグアムはどうにでもなるかのような話の流れですが、グアムには18万人の住民がいます。そこに既にこれから8000人の海兵隊員(その家族や関係者を入れると3万人にもなると言われている)が駐留しようとしていて、そんな小さな島にどーんと米軍が押し寄せたら、社会的にも経済的にも自然環境的にもいろいろなインパクトが及ぶのは必至。グアム知事は「グアムには受け入れ態勢がない」と言っている。だいたいグアムの住民の意向はどうなのか。なぜそういう問いが報道に出てこないのでしょうか。沖縄住民の我慢ももう限界に達しているし、もちろん早く普天間から基地を移転させることはとても重要ですが、「自分の県や自分の国の外であればなんでもいい」という主張では、軍事再編の根本的な問題は解決されないので、基地反対の活動家も、ジャーナリズムも、より大きな視点で問題をとらえてほしいです。
2009年12月7日月曜日
既婚者は読むべし
「既婚者は読むべし」と未婚者の私に言われてもまったく説得力がないかも知れませんが、まあそれはよしとしましょう。今週末のニューヨーク・タイムズ・マガジンのメイン記事で、同紙のなかで「その日にもっとも読者が知人にメールした記事」の一位になったのが、この記事。Married (Happily) With Issues、すなわち、「問題を抱えながら(幸せに)結婚生活を送っている」、という意味のタイトルです。結婚して9年になる著者が、とくに危機を迎えているというわけではないけれども、なんとなく仕事や子育てや日常の雑事のなかでマンネリ化したり受身になったりしてしまいがちな夫婦関係を、より活性化しようと思い立って、渋る夫を駆り立てて「結婚生活活性化」を試みる、その体験にもとづいたエッセイです。私は自分が結婚していないからこそ、多少距離をおいて「なるほどねえ、そういうもんだろうねえ、ふむふむ」などと面白がって読んでいますが、既婚者、それも結婚して5年以上がたつ既婚者にとっては、読んでいて心理的になかなか疲れるエッセイかもしれません。それでも、この記事が「その日にもっとも読者が知人にメールした記事」になっているということは、やはりたいへん興味をもって世界の読者が読んでいるということですから、一読の価値はあるでしょう。(ただし、ニューヨーク・タイムズ・マガジンのメイン記事がたいていそうであるように、かなり長文の記事です。このブログで何度も書いているように、こういう記事がこういう媒体に載るということだけでも、アメリカのメディアのすごさを感じます。まあ、長いですが、英語はそんなに難しくないし、愉快で面白いですので、どうぞ。後半にはセックス活性化の話題もあり。)
「結婚生活活性化」のために、著者は、結婚生活のハウツー本を買ってきて、それに載っている課題や練習問題に夫と一緒に取り組んだり、カップルズ・セラピー(こういうものに通うアメリカ人カップルが少なくないことは『ドット・コム・ラヴァーズ』
でもちらりと言及しました)に通ったりと、なんとも懸命な努力をします。そうした「課題」のなかには、アメリカではよく知られているものもあるし、「なるほどねー」と思うようなものもあります。カップルズ・セラピーでよく課される「練習」は、二人でセラピストのオフィスで座っているときに、一人が、自分の今の気持ち(相手にxをされたときに自分がどういう気持ちになるか、ということでもよい)を正直に言う。このときに、あれやこれやと理屈を言って「考え」を述べるのでなく、自分の正直な「気持ち」「感情」を述べることがポイント。(たとえば、「私はあなたが私の話をうわの空でしか聞いてないような気持ちがする」とか、「僕がなにをやっても君には気に入ってもらえないような気持ちがする」とか、「あなたと話していると、私が自分の親や友達と時間を過ごすことがまるで悪いことみたいな気持ちにさせられる」とか。)そして、その直後で、もう一人が、今その相手が言ったことをそのまま繰り返して言う。そのときに、相手の言うことについての自分の反応や意見は一切挿入せずに、今自分が聞いたことをただそのまま繰り返すことがポイント。このエクササイズを何度か繰り返すことで、二人は、相手の言っていることにきちんと耳を傾けているか、言おうとしていることや気持ちを本当に理解しているか、どれだけオープンな気持ちで相手のことを受け入れているか、ということが試される、とのことです。何回か繰り返すどころか、一人が言ったことに対して相手が即座に反論を始めて大喧嘩が始まり修羅場になる、ということも少なくないらしい。確かに、なかなか苦痛ではあるけれども、練習としては効果があるような気はします。他にこの記事で出てくる「練習」は、「あなた/君が...してくれるときに私は愛されて大事にされているんだという気持ちになる」という文の...に入る言葉をなるべくたくさん考えて、完成させた文を相手に言う。また、恋愛初期の頃のことを思い出して、「あなた/君が...してくれたときに私は愛されて大事にされているんだという気持ちになった」という文も作る。などなど。
こういう「練習」は、当然ながら、自分そして相手の心の深い奥底に、ときには故意に、ときには無意識のうちに、埋め込んであった、感情やら過去の経験やらコンプレックスやらを掘り起こすことになって、そうした現実にきちんと立ち向かった上で人間関係や愛情を築き直すということにおいては重要ではあるけれども、それと同時に、しまって整理がついていた(と少なくとも思っていた)ものをわざわざ掘り返すことで不必要にことをややこしくしたり傷つけ合ったりしてしまうこともじゅうぶんありうる。それがうすうすわかっているからこそ、多くの人はこういう改まった「活性化」作業を避けて何年も、ときには何十年も、「なんとなく」の結婚生活を続けるのではないでしょうか。それで日常生活も自分の精神状態もふたりの関係も円滑にいっているのなら、それで悪いということはないでしょう。が、この著者はある日、「仕事や友達関係や子育てに関しては、優等生の私はつねに『努力』をしてきた。なのになぜか結婚生活に関しては『努力』をするということを思いつかなかった」ということに気づき、ひとつのプロジェクトのようなつもりで、「結婚生活を充実させるための『努力』」に励むことにした、とのこと。ここで、えへん、『ドット・コム・ラヴァーズ』より引用:
どんなに似通った背景で育った二人でも、結局は別の人間なのだから、恋愛初期の、どきどきわくわくでいっぱいの時期を超えて、長期間の深い関係を続けていくためには、相手を理解する努力を続け、二人の関係をつねに評価し合わなければいけない。どんな関係でも大小いろいろな問題があるのは当然で、そうした問題から目をそらすことなく、二人で向き合って乗り越える努力を続けなければいけない...付き合い始めの頃には、自分のことを気に入ってもらおうとしたり相手を幸せにしようとしてせっせと努力をするが、いったん結婚したら、よくも悪くもその関係は一生続くものとの前提のもと、そうした努力をさっぱりやめてしまう男女は、世の中にたくさんいる。そこまで極端でなくても、多くの人は、ステディな関係に入ったり結婚したりしたら、だんだんと相手の存在と愛情を当然視するようになって、関係を深めるためあるいは維持するための意識的な努力を減らしてしまうのではないだろうか...(231−232)
というわけで、結婚しているかたは、是非この記事を読んでみてください。ちなみに、セックスライフの部分は、他の「練習」よりも意外なほど簡単に「活性化」に成功したらしいです。(笑)
2009年12月5日土曜日
3人の天才男と過ごす雨の一日 — バッハ、イシグロ、チョムスキー
昨日は寒いし雨だし外に出たくないので、一日家でゆっくり、3人の天才男たちと過ごしました。過ごしましたといっても、彼らが町田の田舎の団地にやってきたわけではないですが、町田の田舎の団地にいながらにして彼らの才能と仕事に触れ、刺激と感動を味わえるというのは、この上ない贅沢です。
まずは、J. S. バッハ。このブログを読んでくださっているかたは、私がピアノを弾くことはご存知のかたが多いでしょうが、私は町田に来てから、実家に置いてあったアップライトのピアノを運んできて、ちょろちょろと弾いています。こちらに来てからは定期的なレッスンに通っていないので、我流できわめて非体系的に練習しているだけですが、それでも、音楽はやはり右脳と左脳を両方使うので満足感があります。しばらくバッハ=ブゾーニのシャコンヌに取り組んで以来、新たに長い大曲を始める気力がなかなか出ないので、バッハの平均率第二巻の曲を次々に弾いているのですが、いやー、弾いたり聴いたりするたびに(とくに楽譜を見ながら聴いていると)、バッハというのは、天才を通り越して、遺伝子の突然変異かなにかで生まれてきた、ちょっと異常な人間だったのではないかと思います。バッハがスゴいのは当たり前で、改めて言うのも馬鹿馬鹿しいくらいですが、それでも言わずにはいられない。人間業とは思えない数学的な構成と、それによって生まれるこれまた信じられないくらいの美しさ、そして、見事なまでに形式的に整った流れのなかで、そこかしこでぎょっとするような遊びや工夫がなされていて、それらが合わさって、均整のなかからものすごいメッセージが伝わってくる。私は、バッハの音楽を知ることができただけで、この世に生まれてきた甲斐があった、これらの曲を少しでも自分なりに納得がいくように弾けるようになるためだけにでも、長生きしようと思うくらいです。
私が子供時代ずっとついていたピアノの先生は、素晴らしい先生であり、同時にかなり変わった先生でした。毎回バッハの新しい曲を始めるときには、レッスンの最中に、私をソファーに座らせ、先生のレコードコレクションのなかから5枚ほどのレコードを一緒に聴く、ということをしていました。確か、リヒテル、グルダ、ブレンデル、グールド、とあと一人は誰だったか忘れてしまいましたが、とにかく、特にバッハのような音楽に関しては、無限に解釈と演奏のしかたがあって、どれが正しいというものではない、けれども演奏の巨匠たちがそれぞれどんな演奏をするのかを聴き比べてみることは大事である、ということを、小学生相手に教えていただいたのは、とてもありがたいことでした。毎週土曜日の午後がレッスンだったのですが、夕方日が暮れる時間になると、「鍵盤に向かっていることよりも人生には大事なことがある」とレッスンを中断して、夕日の見える部屋に二人で座って日が沈んで空がいろいろな色に変化する様子を眺めること15分ほど。なにもわかっていない小学生だった当時は、レッスンというものはそういうものなのだろうと思っていましたが、今考えるとなんと贅沢な教育を受けたのだろうと思います。ちなみに、私が最近聴いているのはAngela HewittのCD
です。現代のピアニストのなかではバッハに関しては彼女は世界でトップのひとりだと言われています。はたして本当にそうかどうか、他の演奏をたくさん聴いてみないと判断できませんが、iTunesのいいところは、CDをまるごと買わなくても一曲ずつダウンロードできることですね。そういう聴き方が、クラシック音楽のCDの聴き方として正しいかどうかはわかりませんが、とりあえず、ひとつの曲のいろいろな解釈を聴いてみたい、というときに、平均率第二巻のCDばかり何枚も買うような財力はちょっとないので、その点、一曲ずつ聴けるのはとても便利。
次の天才は、カズオ・イシグロ。私は彼の小説はすべて読んでいて、なんともイギリス的(これはステレオタイプ以外のなにものでもないかもしれませんが、まあ私にはそう思える)で独特な内省的な心象風景とか、表面的な言葉のコミュニケーションと本当に言おうとしていることがまったく噛み合わない状況とか、自分に勇気がなかったために大事なものを永遠に失ってしまったことへの後悔とか、そういった世界を完璧にコントロールされた言語で作りだす、天才的な作家だと思っています。そしてまた、なんとも言えぬ不気味な雰囲気、なにかこれからものすごくオソロしいことが起こりそうな感じ、というのを描くことにかけては、イシグロ氏に勝る作家はあまりいません。今回読んだのは、彼の短編集、Nocturnes
。音楽がテーマになっているという点でも興味があったのですが、これは彼のこれまでの作品のなかでも一、二に入ると思います。同窓会で大学のクラスメートと20年ぶりに会って間もなく読んだのでなおさら感慨深い気持ちになったのかもしれませんが(40代の主人公が多いのです)、それを別にしても、愛情とか夢とか理想とかいったものが、時間とともにどのように形を変えていくか、そうした変化に人がそれぞれどんなふうに立ち向かったり折り合いをつけたりするか、その懸命でもあり哀しくもあり滑稽でもある(この本に関してはこの「滑稽さ」の描き方が卓越していて、私は読みながら声をあげて笑った箇所がいくつもあります)さまが、シンプルでエレガントな文章で描かれています。読んでしばらくは味わいのある余韻に浸ることができます。翻訳
も出ていますが、英語自体は全然難しくないし、イシグロ氏の言語世界にぜひ触れていただきたいので、原文で読むことをおススメします。
最後の天才は、故エドワード・サイード氏(ここでサイードについて書き始めてしまうときりがないのでやめておきますが、私の研究者としての起源の多くはサイードの『オリエンタリズム』〈上〉
〈下〉
にあります。本当は原書で読んでいただきたいですが、学者以外のかたには、まあ翻訳でもいいかな。今となっては古典ですが、何度読み直しても新たに学ぶところがある本です。数ある研究書の名著のなかでも、こういう本はなかなかあるものではありません)を追悼・記念して開催されているコロンビア大学の講義シリーズの一環で行われた、ノーム・チョムスキー氏の講演。チョムスキーを、「現代最高の知識人五人」に入れる人は多いでしょう。もともとは言語学者ですが、歴史や政治など幅広く研究そして言論活動を行い、とくにアメリカの外交政策に鋭い批判をし続けています。知的にも倫理的にも最高レベルの人物で、彼のことを「アメリカの良心」と呼ぶ人も少なくありません。この講義でも、冷戦終結後の国際関係がどのように変わったか変わっていないか、「帝国主義の文化」を軸に語り、オバマ大統領へも鋭い矛先をむけています。この講演を、町田の部屋で見られるというのも、YouTubeのおかげ、また、この講演をYouTubeで見られるということを私が知ったのも、Facebookのおかげです。
というわけで、昨日は実に贅沢な雨の一日でしたが、晴れた今日は、どんな天才とともに過ごそうか、考えているあいだに半日過ぎてしまいました。このあたりに、私の凡才ぶりが表れていますね。
2009年12月4日金曜日
天野郁夫『大学の誕生』
先週末、大学一・二年生時代のクラスの同窓会をしました。私は幹事のひとりだったので、人探しだの名簿作りだのといった準備をしているあいだに、運動会前の子供のように、始まる前からワクワクドキドキ勝手に興奮していたのですが、実際の集まりは大成功で、参加者みんなが心から楽しんでいたようなので、本当にやったかいがあったと思えました。このクラスは、大学の初めの二年間に語学や体育実技の授業を一緒に受ける50人ほどのクラスなのですが、なにしろバブルで遊んでばかりいて授業にほとんど出なかった人もけっこういるし、軟派対硬派(まあ、1980年代の東大の「軟派」と言ったって、全然軟派じゃないのですが、まあこれは内部での相対的な比較です)だの、東京出身者対地方出身者だの、政治活動家対ノンポリ(「ノンポリ」であるということがひとつのアイデンティティの印として機能していたということが今考えるとスゴいような気もする)だのといった、さまざまな分類によって、交際範囲はかなり限定されていて、二年間をともにしたクラスメートのなかにも、当時はほとんど口をきいたことがなかった人というのが結構たくさんいるのです。だから、20年を経た今になってその当時の人たちと集まっても、果たして楽しいのかどうか、そもそも会ってもお互い覚えていない人が多いんじゃないか、などといった不安を抱えながら、おそるおそるやってきた人も少なくなかったようです。が、実際集まってみると、そんな心配はまるで無用で、それこそ不思議なくらいのポジティヴな空気が場内いっぱいに漂う一夜となりました。単に、久しぶりに会う友達とわいわい騒いで楽しかった、というだけではなくて、クラスで一緒だったときの年齢の二倍の年齢になった今、それぞれの人が、あの時代の自分を思い出したり、それから20年のあいだに自分が生きてきた人生を振り返ったり、人とのつながりということについて改めて考えたりするきっかけになったのだと思います。そして、昔はろくにしゃべったこともなかった相手、正直言って「うざったい奴だな〜」とか「訳のわかんない人だな〜」とか思っていた相手とも、こうしてお互い大人になって会ってみると、なかなか魅力的で面白い人間であるということがわかって、昔の知り合いと新しい友達になったような、不思議な幸せ感を味わう、というのもあったと思います。また、このトシになるとやはり、いろいろな山あり谷ありの経験をしてきている人も多く、そうしたものを乗り越えて、大きくも強くも優しくもなって前に進んでいる姿を見ると、とても勇気づけられます。というわけで、いろいろな意味で感動の多い集まりとなり、幹事は勝手に大満足しております。
さて、大学といえば、少し前に、「東大本はもうやめよう!」という投稿をしましたが、私は最近、天野郁夫『大学の誕生〈上〉ー帝国大学の時代 』
を読みました。これはとても読み応えがあり、勉強になり、面白い本です。どうせ東大に関係する本を読むのなら、絶対これを読むべきです。本全体が東大の話ではもちろんないのですが、現在の東大が組織の形としても教育や研究の内容としてもなぜ今のようなものになったのか、日本の社会で東大が占めているような位置を占めるようになったのはどういういきさつによるものなのか、他の国立大学や私立大学と帝国大学の関係はどのようにしてできたのか、という歴史が、とてもよくわかります。私は知らなかったことをたくさん学び、「おー、なるほど、こういうわけだったのか!」と線を引いたり付箋をつけたりしながら読みました。明治期に官僚を初めとする国家のリーダー養成の目的で帝国大学が作られたということくらいはわかっていましたが、特有な近代化の過程をたどった明治の日本が急いで大学制度を整える上で、中世ヨーロッパの大学の伝統、フランス型の「専門学校」、ドイツ型の「国家の大学」、アメリカ型の私立大学など、いろいろなモデルがあり、結果的には多様なそれらのモデルが合わさったような形の大学制度ができあった、ということ。また、医師や法律家のための国家試験の仕組みが、大学の整備と絡み合って制度化されていったこと。また、西洋の学問を輸入するという急務が、初期の大学教育のありかたをどのように形作っていったかということ。などなど。(水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』
を読んだかたにはこの本はなおのこと面白いはずです。)また、私はアメリカの大学の仕組みから考えるとさっぱり理解できなかった「講座制」というものがいったいどのようにしてできたのかも始めて知りました。日本の大学のありかたには、私は大いに疑問を感じることが多いのですが、なにごとも、改革をするにしても、まずはなぜ今のようになったのかというきちんとした歴史的理解が必要ですので、その点で、この本はとても重要です。大学教育や学問、言論のありかたについて興味のあるかたにはおススメです。というわけで、「東大生の勉強法」の類の本を読むヒマがあったら、こちらを読んだほうが、ずっと勉強になります。
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