2009年12月5日土曜日

3人の天才男と過ごす雨の一日 — バッハ、イシグロ、チョムスキー

昨日は寒いし雨だし外に出たくないので、一日家でゆっくり、3人の天才男たちと過ごしました。過ごしましたといっても、彼らが町田の田舎の団地にやってきたわけではないですが、町田の田舎の団地にいながらにして彼らの才能と仕事に触れ、刺激と感動を味わえるというのは、この上ない贅沢です。

まずは、J. S. バッハ。このブログを読んでくださっているかたは、私がピアノを弾くことはご存知のかたが多いでしょうが、私は町田に来てから、実家に置いてあったアップライトのピアノを運んできて、ちょろちょろと弾いています。こちらに来てからは定期的なレッスンに通っていないので、我流できわめて非体系的に練習しているだけですが、それでも、音楽はやはり右脳と左脳を両方使うので満足感があります。しばらくバッハ=ブゾーニのシャコンヌに取り組んで以来、新たに長い大曲を始める気力がなかなか出ないので、バッハの平均率第二巻の曲を次々に弾いているのですが、いやー、弾いたり聴いたりするたびに(とくに楽譜を見ながら聴いていると)、バッハというのは、天才を通り越して、遺伝子の突然変異かなにかで生まれてきた、ちょっと異常な人間だったのではないかと思います。バッハがスゴいのは当たり前で、改めて言うのも馬鹿馬鹿しいくらいですが、それでも言わずにはいられない。人間業とは思えない数学的な構成と、それによって生まれるこれまた信じられないくらいの美しさ、そして、見事なまでに形式的に整った流れのなかで、そこかしこでぎょっとするような遊びや工夫がなされていて、それらが合わさって、均整のなかからものすごいメッセージが伝わってくる。私は、バッハの音楽を知ることができただけで、この世に生まれてきた甲斐があった、これらの曲を少しでも自分なりに納得がいくように弾けるようになるためだけにでも、長生きしようと思うくらいです。

私が子供時代ずっとついていたピアノの先生は、素晴らしい先生であり、同時にかなり変わった先生でした。毎回バッハの新しい曲を始めるときには、レッスンの最中に、私をソファーに座らせ、先生のレコードコレクションのなかから5枚ほどのレコードを一緒に聴く、ということをしていました。確か、リヒテル、グルダ、ブレンデル、グールド、とあと一人は誰だったか忘れてしまいましたが、とにかく、特にバッハのような音楽に関しては、無限に解釈と演奏のしかたがあって、どれが正しいというものではない、けれども演奏の巨匠たちがそれぞれどんな演奏をするのかを聴き比べてみることは大事である、ということを、小学生相手に教えていただいたのは、とてもありがたいことでした。毎週土曜日の午後がレッスンだったのですが、夕方日が暮れる時間になると、「鍵盤に向かっていることよりも人生には大事なことがある」とレッスンを中断して、夕日の見える部屋に二人で座って日が沈んで空がいろいろな色に変化する様子を眺めること15分ほど。なにもわかっていない小学生だった当時は、レッスンというものはそういうものなのだろうと思っていましたが、今考えるとなんと贅沢な教育を受けたのだろうと思います。ちなみに、私が最近聴いているのはAngela HewittのCDです。現代のピアニストのなかではバッハに関しては彼女は世界でトップのひとりだと言われています。はたして本当にそうかどうか、他の演奏をたくさん聴いてみないと判断できませんが、iTunesのいいところは、CDをまるごと買わなくても一曲ずつダウンロードできることですね。そういう聴き方が、クラシック音楽のCDの聴き方として正しいかどうかはわかりませんが、とりあえず、ひとつの曲のいろいろな解釈を聴いてみたい、というときに、平均率第二巻のCDばかり何枚も買うような財力はちょっとないので、その点、一曲ずつ聴けるのはとても便利。

次の天才は、カズオ・イシグロ。私は彼の小説はすべて読んでいて、なんともイギリス的(これはステレオタイプ以外のなにものでもないかもしれませんが、まあ私にはそう思える)で独特な内省的な心象風景とか、表面的な言葉のコミュニケーションと本当に言おうとしていることがまったく噛み合わない状況とか、自分に勇気がなかったために大事なものを永遠に失ってしまったことへの後悔とか、そういった世界を完璧にコントロールされた言語で作りだす、天才的な作家だと思っています。そしてまた、なんとも言えぬ不気味な雰囲気、なにかこれからものすごくオソロしいことが起こりそうな感じ、というのを描くことにかけては、イシグロ氏に勝る作家はあまりいません。今回読んだのは、彼の短編集、Nocturnes。音楽がテーマになっているという点でも興味があったのですが、これは彼のこれまでの作品のなかでも一、二に入ると思います。同窓会で大学のクラスメートと20年ぶりに会って間もなく読んだのでなおさら感慨深い気持ちになったのかもしれませんが(40代の主人公が多いのです)、それを別にしても、愛情とか夢とか理想とかいったものが、時間とともにどのように形を変えていくか、そうした変化に人がそれぞれどんなふうに立ち向かったり折り合いをつけたりするか、その懸命でもあり哀しくもあり滑稽でもある(この本に関してはこの「滑稽さ」の描き方が卓越していて、私は読みながら声をあげて笑った箇所がいくつもあります)さまが、シンプルでエレガントな文章で描かれています。読んでしばらくは味わいのある余韻に浸ることができます。翻訳も出ていますが、英語自体は全然難しくないし、イシグロ氏の言語世界にぜひ触れていただきたいので、原文で読むことをおススメします。

最後の天才は、故エドワード・サイード氏(ここでサイードについて書き始めてしまうときりがないのでやめておきますが、私の研究者としての起源の多くはサイードの『オリエンタリズム』〈上〉 〈下〉 にあります。本当は原書で読んでいただきたいですが、学者以外のかたには、まあ翻訳でもいいかな。今となっては古典ですが、何度読み直しても新たに学ぶところがある本です。数ある研究書の名著のなかでも、こういう本はなかなかあるものではありません)を追悼・記念して開催されているコロンビア大学の講義シリーズの一環で行われた、ノーム・チョムスキー氏の講演。チョムスキーを、「現代最高の知識人五人」に入れる人は多いでしょう。もともとは言語学者ですが、歴史や政治など幅広く研究そして言論活動を行い、とくにアメリカの外交政策に鋭い批判をし続けています。知的にも倫理的にも最高レベルの人物で、彼のことを「アメリカの良心」と呼ぶ人も少なくありません。この講義でも、冷戦終結後の国際関係がどのように変わったか変わっていないか、「帝国主義の文化」を軸に語り、オバマ大統領へも鋭い矛先をむけています。この講演を、町田の部屋で見られるというのも、YouTubeのおかげ、また、この講演をYouTubeで見られるということを私が知ったのも、Facebookのおかげです。

というわけで、昨日は実に贅沢な雨の一日でしたが、晴れた今日は、どんな天才とともに過ごそうか、考えているあいだに半日過ぎてしまいました。このあたりに、私の凡才ぶりが表れていますね。