2009年8月10日月曜日

逆カルチャー・ショック・レポート

日本に到着して三週間が過ぎたところです。例年帰国するときは、ちょうどこのあたりで滞在を終えてハワイでの日常に戻るところなのですが、今回はこれからが腰を据えての日本での生活になります。数週間訪ねてくるのと、一年間生活するのでは、日本で経験することや感じることがずいぶん違うだろうとは想像していましたが、やはりその通りで、「住民」となるからこそ気づくこと、考えさせられることがいろいろあります。

まず、日本の戸籍や住民票制度。どちらもアメリカには存在しない制度です。戸籍制度については、若い頃からいろいろ疑問を感じていて、しばらく前に「分籍」という手続きができることを知って早速その手続きをとったという経緯があります。そのときも、けっこう憤る経験をしましたが、それについてはまた別のときに書きます。今回は、町田市に一年間住むので、町田市役所で住民票登録をしたのですが、そのときに聞かれたいろんな質問からして、日本の役所制度というのは、ひとの人生や生活にのすべてを説明できる連続性があることを前提にしてできているのだなあということを実感しました。引越をしたらいちいちもとの場所と新しい場所で転出・転入手続きをして、何年何月何日から何年何月何日まではどこにいた、ということを説明できなければ、とてもややこしいことになる。私のように、もう20年間近く日本に住んでいない人間でも、最後に住民票があったのはどこか、と聞かれ、答えると実際にそこの役所の記録と照合される。海外から帰ってきたと言えば、パスポートで入国日を確認される。私はまあ一応こうした記録があるからいいものの、なんらかの事情で一定の期間住所が不定だったという人とか(家を引き払って長期の旅に出た人とか、事情によってしばらくいろんなところを点々としていた人とか)、過去のすべてについての証明書が存在しない人とかはいくらでもいるでしょうに、そういう人にとっては日本の行政制度はとてもややこしいことになるのではないかと想像します。

なにしろ、私が国民健康保険に加入するのにも、私が別の保険に加入していないということを証明するための「資格喪失証明書」を提出しなくては加入できないと言われ、「日本で親の会社を通じて保険に入っていたのはもう十年以上も前のことで、親はそれ以来転職も退職もしているので、そんな証明書が手に入るかどうかわかりません」と言っても、「その会社がまだ存在するのなら出してもらえるはずです」と言われ、しかたなくなんとかその証明書を手に入れたのですが、そんなものが手に入らない人はたくさんいるでしょうし、そういう人こそ国民健康保険を必要としているでしょうに、なんとも面倒なシステムです。

しかし、いったん書類を揃えたら、日本の役所というのは対応が実にてきぱきとしていて、こちらの質問にもすべて答えてくれてその場で保険証を発行してくれて、転入届を出した先週ぶんから保険は有効。しかも、保険税も、私がハワイで大学を通じて入っている民間の健康保険と比べたら格段に安い。(私は前年の日本での収入がないのでそのぶんもちろんずっと安いのですが、私のハワイでの年収を前年の収入として計算しても、私がハワイで払う保険料よりも半分くらいです。)保険証をもらったその足で、さっそく耳鼻科に行ってきたのですが(私はよく中耳炎になるのですが、ちょっと前からその症状があって、それもあって早く保険に入りたかったのです)、病院でも薬局でも今さっきもらった保険証でもすべてスムーズにことが運んで、単純に「日本というのは素晴らしい国だなあ」などと思ってしまいました。なぜアメリカ社会が政府による健康保険にあれだけの抵抗を示すのか、まったくもって不可解です。

で、その国民健康保険ですが、驚いたことふたつ。ひとつは、正常分娩は保険でカバーされない、ということ。妊娠・出産は「病気」ではないから、という理屈らしいですが、これはかなり驚きです。アメリカの保険は基本的にみな民間保険ですから、プランによって違うでしょうが、たいていのプランでは出産にかかる費用(出産前の検診も含めて)はカバーされます。健康診断や予防接種が保険でカバーされない、というのも驚きました。予防が医療の一部として考えられていない、ということなのでしょうか。これはたいへんよろしくないシステムのように思います。(ちなみにアメリカでは、カウンセリングやいわゆる「セラピー」も保険でカバーされます。)そのいっぽうで、子供が生まれると政府から「出産育児一時金」などというものが出る、というのも、アメリカの感覚からしたら驚愕的なことです。出産にかかる費用が平均して30万から50万円、出産育児一時金として出るのが35万円ですから、まあ、結果的には自己負担はアメリカとほぼ同じになるのかもしれませんが、なんだかこのあたりの制度の違いに、医療だの政府の役割だのといったことについての社会的概念の違いが顕われているような気がして、とても興味深いです。

別の方面で、びっくりすることは、日本のテレビのくだらなさ。なんだってここまでくだらないものを朝から晩まで流しているのだろうと、驚くやら呆れるやらを通りこして、視聴者をばかにしているのだろうと深い憤りが湧いてきます。今でもテレビ局への就職は倍率も高くて、優秀な人が入っていくはずなのに、どうしてそういう人たちがこんなに馬鹿馬鹿しいものを作っているんでしょうか。どんな時間でも、NHK以外に見る価値のあるものはひとつも見つからない(NHKはNHKで問題もありますが、民放があまりにも目も当てられない状態なので、それと比べると非常に立派に見える)。どうでもいいようなバラエティ番組ばっかりで、とりあげている話題についてなんの知識もアイデアももっていないような「タレント」が無責任なコメントをして時間を埋め、聴覚障害者のためでもなく意味もなくやたらと出演者の発言を文字表示する。あれはいったいなんなんでしょうか???あんなものを作るほうも作るほう、そうした番組にコマーシャルを出す企業も企業ですが、そうしたものを文句も言わずに見ている視聴者も、もうちょっと局に対して発言したらいいんじゃないでしょうか?最近は局も予算削減で各番組に制作費がかけられないのでしょうが、だったらいっそのこと放送時間を減らして、「うちの局は午後5時から12時の局」とかにして、そのぶん各番組にもっと力を入れたほうがいいんじゃないでしょうか。とにかく、こんなにくだらないテレビを一日何時間も見ていたら、日本の人々の頭が腐っていくのは必至だと思います。アメリカにだってもちろん信じられないくらいくだらないテレビ番組は山ほどありますが(ケーブルで局の数が無数にあるぶん、くだらない番組も多い)、さすがに大手の民放がプライムタイムに流すような番組は、報道番組にしてもドラマにしても、お金と頭脳と創造性が多大に投入された、見応えのあるものが多いです。このあたりはやはり、「世界に見られている」という自負と現実がレベルアップにもつながっているのに対して、日本のメディアは基本的に日本のなかのものという感覚が強い、というのもあるのかもしれません。映画『ロスト・イン・トランスレーション』で日本のバラエティ番組が実に奇怪なものとして描かれていますが、その感覚は私にはよくわかります。

あ、あとそれから、デパートやブティックの女性店員の「いらっしゃいませえ」「どうぞごらんくださあい」というあの独特の発声と抑揚は、いったいどこからきたものなのでしょうか?私はあれを聞くたびになんだか背筋に悪寒が走る思いがするのですが、どこに行ってもあの調子で店員さんがしじゅう客に声をかけている(そして、あの声や抑揚は、お店以外には絶対に耳にすることがない)ので、きっと誰かが開発してなにかの手段で業界に普及したのだろうと思うのですが、知っている人がいたら教えてください。

「日本はやっぱり素晴らしい」と思うこともいろいろあります。日本の居酒屋は素晴らしい。デパ地下のお惣菜も素晴らしい。コンビニも素晴らしい。電車やバスや宅急便が見事なまでに時間通りに来るのも素晴らしい。サービス業はおおむねどこでもとてもてきぱきして対応がよい。どこかになにかを問い合わせる電話をしたら、必ずちゃんと人間が出てきて対応してくれるのも素晴らしい。(アメリカではたいてい「xの用の人は1を押してください、yの用の人は2を押してください」といったことが延々と続き、やっと人間が出てきたと思ったら、南アジアとか東ヨーロッパのコールセンターにいる、聞き取れないアクセントの英語を話すスタッフで、用が終わるころにはこちらは疲れ果ててしまう、といったことが普通です。)

などなど。「帰国子女」ならぬ「帰国おばさん」の逆カルチャー・ショックについて、またご報告します。