本のタイトルからして、音楽を楽しみより深く理解するためにはどんなふうに聴いたらいいかというマニュアルのような印象を受けますが、本の主眼はそういうことよりも(そういう具体的なアイデアもたくさん書かれているのですが)むしろ、「音楽を聴くということはそもそもどういうことか」「我々はどのように音楽を聴いているのか」「我々はなぜある種の音楽に感動をおぼえ、別の種の音楽には反応しないのか」「音楽とはどのように聴かれるべきか」「音楽を語るとはどういうことか」といったテーマのほうが中心です。音楽が人生の意味ある一部となるためには、有無を言わせぬ絶対的・超越的な音楽を体験することが重要だ。しかしだからと言って、「いいものはいいんだ、音楽はごちゃごちゃと理屈で説明したり議論したりするようなものではない」と言って知的・分析的に音楽を「語る」行為を放棄してしまうのは、リスナーとしても人間としても怠慢である。音楽への身体的・生理的・直感的な反応を大切にしながらも、「聴く」「反応する」「感動する」といった行為により意識的になってみることで、音楽的経験がより豊かになる、との前提が本全体を貫いています。この基本的な姿勢に私はとても共感します。著者の専門である西洋音楽史や、文化史、批評理論や哲学などの分野の研究をふまえた上で、そういった学術理論には必ずしも興味も知識もない一般読者にむけて、音楽を聴く上でなぜ歴史的理解が必要なのかとか、芸術の審美眼を培うとはどういうことなのか、といったことを、とてもわかりやすくエレガントな文章で説明してくれます。題材として使っているのはおもに西洋クラシック音楽ですが、論のポイントは他のジャンルの音楽にはもちろん、美術や文学や演劇などの芸術形態や、文化理解全般、そしておおげさなようですが、人生一般に応用できます。「心地よいところで、なんとなく気分のいいものを受け入れて満足しているんじゃなくて、意識的に考えて積極的に関わっていかなくちゃ」「人生は真面目に生きなきゃいかん」と襟を正すような気持ちにさせられるのです。以下、一部抜粋。
音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。(xi)
近年、ポストモダン的な「自由な聴取」をことさらもてはやすような風潮があって、最新の録音/再生メディアが可能にしたところの、聴き手が元の音源を好き勝手に切ったり貼ったり、重ねたり反復したりする聴き方によって、まるで音楽体験の新しい地平が切り開かれるかのような論調を目にすることも、稀ではない。だが . . .私は、「時間の一回性/不可分性/不可逆性の共有」. . . こそが、音楽が音楽であり続けるための最後の砦だと信じている。この一線を越えてしまったら、それこそ音楽は...「パブロフの反射反応」=「シグナル」に堕してしまうだけではないか。確かに音楽は生理的な次元に大きく左右される。だが音楽体験のすべてが単なる刺激/反応に還元されてしまったら、それはもはや音楽ではない。別の言い方をすれば、もし何らかの演奏会やCDを中座/中断しても何の痛痒も感じなかったとすれば、その人にとってそれは音楽=生命ではなく、ただのシグナル=モノだったということだ。」(31)
音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように文節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言葉でもある(87)
もちろんどういう音楽の聴き方をするかは自由だ。しかしあえて言わせてもらうなら、サウンド型聴取がはらんでいるある種の危うさに、私はどうにも強い危惧を覚えずにはおれない。それは「音楽を聴く」という、人がおのれのすべてを賭けて行なうに値する行為を、純粋なパブロフ的「刺激と反応」に還元してしまうような気がしてならないのである。私にとって音楽とは、人が人に向けて発する何かである。それは他者、つまり私以外の誰かがこの世に存在している(いた)、つまり私は一人ではないということの証ではないか。対するに眼を閉じてサウンドに聴き入るとき、外界は姿を消して何やらさまざまな音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆくーーこのことがどうにも私を不安にするのである。(132)
少なくとも私にとって、「音楽を聴く」とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことなのだ。. . . 「意味がある」とは「言葉である」ということだろう。それは他者とのコミュニケーションの存在を前提にしている。他者がいなければ意味がない/他者がいるからこそ意味は生まれる。また音楽が言葉であればこそ、それについて言葉で語り合う場も生まれよう。音楽を分かり合う/分かち合うということが出来るのである。そして、「分かる」からこそ、「分け合おうと思う」からこそ、身体が動く。スイングが、人と人の共振が生まれるのである。思うに言語性こそはヒューマンなコミュニケーションとしての音楽の生命線である。(135)
いずれにせよ私たちは、音楽についての生産的な対話をしようと思う限り、常に何らかの歴史的文化的審級を参照せざるをえない。別に「本来の」文脈を金科玉条のように守る必要はない。だが人は歴史文脈なしで音楽を聴くことは出来ない。「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう?これからはこう見えるものを、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう?一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことができるだろう?ーー音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。(167-168)
であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈の中で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を、「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことではなく、「これは何を言いたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいいーーそれも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみを知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化を知り、それに参入するということにほかならない。
. . . 初めは理解出来ずとも、まずはそれに従ってみることによって、徐々にさまざまな陰影が見えてくることもある。それらの背後には何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶がある。このことへのリスペクトを忘れたくはない。「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴き方があってもいい。歴史と文化の遠近法の中で音楽を聴くとは、未知なる他者を知ろうとする営みである。(172-173)
大きな論点に関わる部分だけしか挙げませんでしたが、本の中身では具体的な音楽の話がたくさんで、楽しめると同時に勉強になります。もちろん、シューマンの「子供の情景」第一曲やショパンの「黒鍵のエチュード」がどんな曲だか知らない人、聴いたことはあっても思い出せない人、かといってわざわざ楽譜を見たり録音を聴いたりしようとまでは思わない人にとっては、理解も楽しみも少ないでしょう。音楽そのものにまったく触れずに、音楽についての本を読んで、音楽を理解しようと思っても無理があります。本書のメッセージを真剣に受け止めるなら、本のなかで例に挙げられている曲をちょっと聴いてみるくらいの積極性・主体性をもたないといけません!
読者としても素晴らしい本だと思いますが、研究者・著者としても、「私もこういうふうに本を書けるようにならなくちゃ」と思いました。この本からは、著者の音楽に対する愛情が明らかなのと同時に、読者への素直で真摯な気持ちも伝わってきます。読者を馬鹿にしない。でも深い思考の結果自分が至った考えを、読者に理解してもらいたい。未知なる他者である音楽を知りたいという思いと平行して、未知なる他者である読者とコミュニケーションをとりたい、という気持ちが伝わってくるのです。基本的なレベルで、この人は人間に強い興味とリスペクトがある人なんだな、と感じます。「この人と飲みに行ったら、表面的な世間話だけでなくて、実のある会話ができるだろうな」と思わせてくれます。
というわけで、たいへんおススメです。私はこれから書店に行って岡田さんの他の著書を買ってきます。