2009年11月25日水曜日

Facebook、恋愛、家族関係

以前からこのブログを読んでいただいているかたで、Facebookを使っていない人は、「Facebookの話はもう勘弁してくれ」と思っているかもしれません。すみませんが、もう一回(うーん、でもこれから先もまだあるかも)ご辛抱ください。先週のニューヨーク・タイムズに、Facebookをめぐって展開される恋愛(の終わり)と家族関係についての面白可笑しいエッセイが載っています。著者は、ガールフレンドと別れた後も、彼女とはFacebook上で「友達」であり続けている。彼女の「近況アップデート」を見て、自分なしでも彼女は着々と人生を先に進んでいるという悲しくも当然な事実を何度も認識したり、彼女が自分の知らない男性の腕をとって幸せそうな笑顔で写っている写真を見て、「こいつはいったい何者だ」と、軽症ストーカーまがいにその男性の素性をリサーチしたりする。そうこうしているうちに、自分の83歳になるおじいさんが、突然Facebookを使い始めた。初めのうちは、Facebookを通じてなんとも可愛らしい会話をおじいさんとやりとりしていたのだが、そのうち、そのおじいさんと自分の元彼女が、Facebook「友達」になっているのを発見。おじいさんと元彼女は数回しか会ったことがないはずだし、当の自分が彼女ともう別れているのに、なぜこの二人が「友達」なんだ、納得がいかん。と思いながらも、たかがFacebookごときで本気で機嫌を損ねるのも馬鹿馬鹿しいと思い、初めは冗談半分で「なんでおじいちゃんが僕の元彼女と『友達』なんだ!」などとおじいさんにメッセージを送ったのだが、それに対するおじいさんの冗談とも真面目とも判断つかねる回答に、本気で機嫌を損ねてしまい、83歳のおじいさんの血圧をあげるような怒ったメッセージを書いてしまった。そうやって、訳のわからないやりとりを繰り返しているうちに、おじいさんとは仲直りしたものの、おじいさんはFacebookのアカウントをきれいさっぱり取り消してしまった、とのこと。Facebookを使っていない人には、なぜこれがそんなにおおごと(?)なのか、なぜ恋愛や家族関係のありかたにFacebookがそこまでの作用を及ぼすのか理解できないかもしれませんが、私のようなFacebook中毒者には、たいへんリアリティがあって面白いエッセイであります。よかったら読んでみてください。

2009年11月22日日曜日

ETV特集 「ピアニストの贈り物〜辻井伸行・コンクール20日間の記録〜

NHK教育テレビのETV特集で、「ピアニストの贈り物〜辻井伸行・コンクール20日間の記録」を今見たところです。クライバーン・コンクールの現場には、NHKの取材は来ていなかったので、おそらくクライバーン財団と正式の契約を結んでいるドキュメンタリー監督のピーター・ローゼン氏の動画を買い取って作ったものなのだろうけれど、日本の聴衆にむけた番組としてそれを編集するとどういう作品になるのだろうと興味津々(ついでに、コンクールの演奏中ずっと前から3列目に座っていて、しかも辻井さんや他の演奏家にもちょろちょろとついてまわっていた自分がちらっと写っていたりするかしらん、という興味もありました。確かに一カ所、ばっちり写っていました:))で見ました。

が、正直言って、私にはさっぱり面白くない番組でした。なにが面白くないって、なんのメッセージも伝わってこないからです。このコンクールについて制作者が聴衆に伝えたいことはなんなのかがさっぱりわからない。クライバーン・コンクールというものの熾烈さなのか、参加者たちの音楽にかける情熱なのか、彼らの人生や人間性なのか、コンクールで披露される演奏の多様さ(あるいは多様さのなさ)なのか、辻井さんの音楽性なのか、辻井さんというピアニストをここまで育てあげた人々についてなのか。どんな視点からでもとても面白い番組が作れるはずなのですが、なんとも焦点が定まらず、なにが言いたいのかよくわからない番組でした。まあそれは、NHKの制作者が実際に現場で取材をせず、すべてが終わった後で他の人がその人の視点からとったテープを編集して作った番組なら、焦点が定まらなくても仕方ないのかもしれませんが、それならそれで、いっそのことそのピーター・ローゼン氏と彼の視点をもっと前面に押し出した番組作りにしたほうが面白いんじゃないかと思いました。(番組紹介のHPには、ローゼン氏のことが書いてあります。)また、とくに物語性をもたせず、演奏を見せ聴かせることをメインにした番組にするなら、それはそれで立派なことだと思いますが、それだったら、あんな風に演奏をこちゃこちゃと切り貼りしないで、せめてそれぞれの曲の一楽章くらいはまるごと聴かせるべきでしょう。

このブログを以前から読んでくださっているかたたちには、私のクライバーン・コンクール記録を追っていただきましたが、私はこれからこのコンクールについての本を書くことになっています。というわけで、私が伝えたいと思っていることをこの番組にすべて言われてしまったら困るなあとちょっと心配もあったのですが、それはまるでなかったので、そういう意味では安心しましたが(笑)、一視聴者としては、不満感が残る番組でした。NHKにはもっと気合いの入った番組作りを期待します。

2009年11月20日金曜日

Mary Karr, LIT

連休の週末に街に出ても人混みでどっと疲れるだけなので、昨日の夕方から家でゆっくり本を読んでいます。普段はなんだかんだと締切だの用事だのがあって一日ゆっくり本を読むなどということはめったにできないのですが、こうしてちょっと仕事が一段落ついたときに、好きな時間に好きなだけ本を読めるというのは、一人暮らしの特権のひとつであります。

で、ここ昨日から今日にかけて読みふけったのが、詩人Mary Karrの回想録、Lit: A Memoirという本です。このブログで何度も言及しているNPRのFresh Airという番組で著者がインタビューされているのを聞いて興味をもち、アマゾンで購入しました。テキサスの小さな町で、アルコール依存症や神経衰弱を繰り返した母親のもとで育った子供時代(については、彼女の以前の著作にもっと詳しく描かれているようですが、私はそれを読んでいません)から、きわめて裕福な環境で育ちながら禁欲的な文学者としての道を選んだ男性との結婚生活、自分自身のアルコール中毒そして死の近くまでいった神経衰弱、そしてスピリチュアルな鍛錬を通じての精神的・経済的回復と自立、息子との関係などを追った回想です。このように説明するとせっかくの休日をわざわざこれを読むのに使おうと思うような題材にはとても聞こえないでしょうが、確かにハッピーな気分に満ちた本ではないものの、辛い話のなかにも自分を冷徹に見据えているものならではの強さとユーモアがあって、勇気と希望を与えてくれる本でもあります。自分を傷つけたり苦しめたりした相手について、決して嘘っぽい美化をしたりはしないと同時に、心の底では愛情を失っていない、ということも伝わってきます。(そうした意味で、しばらく前に読んだNick FlynnのAnother Bullshit Night in Suck Cityに通じるものがあります。ちなみにMary KarrとNick Flynnは友達同士らしい。)スピリチュアルな発見とか宗教的な目覚めといった話題は、正直言ってどうも苦手で、普段はわざわざ本を買って読んだりはしないのですが、著者の話しぶりがとても地に足がついていて親しみがもてた(著者自身、宗教や神といったものにはずっとまるっきり関心がなく、スピリチュアルなものに心を開くということ自体が彼女にとってとても大きなステップだったということが、インタビューからも本からもわかります)ので読んでみたのですが、無宗教の読者にもとても響いてくるものがあります。興味をもって、Mary Karrについてネット検索してみたのですが、ちなみに彼女ははっとするほどの美人で、しかもその美人のありかたが、日本ではあんまり見ないタイプの美人なのです。興味のあるかたは、本、インタビュー、写真ともに是非チェックしてみてください。

2009年11月19日木曜日

ホリデーシーズン悲喜こもごも

アメリカでは来週がサンクスギヴィングの休日です。ハワイやアメリカ本土の私の友達からも、今年のサンクスギヴィングは誰が七面鳥の担当だとか、誰の家でパーティがあるだとかいった報告が入ってきます。キリスト教人口も少なくクリスマスが休日ではなく基本的にクリスマスが商業的なものである日本と違って、アメリカでのサンクスギヴィングからクリスマスまでのホリデーシーズンは、家族や親戚が集まってゆっくりと食事をすることが中心です。普段顔を合わせることの少ない家族や親戚が食事やお酒をまじえて濃厚な時間を過ごすからこそ、そうした場で展開される人間模様は、暖かく愛情に溢れたと形容できるようなものばかりでないことは、『ドット・コム・ラヴァーズ』でも説明しましたが、いよいよ再びホリデーシーズンが到来することにちなんで、今日のニューヨーク・タイムズに、休日に露呈される家族関係や人間模様についての話題を集めたエッセイが載っています。他人の話だからこそ笑える話ばかりですが、実際にこうした経験・思いをしてきている人は私のまわりでも本当にたくさんいます。そうした思いをするのが嫌だから、はじめからサンクスギヴィングはどこにも行かずに一人で家にいるとか、家族のもとには行かず友達同士でパーティをするとかいう人もけっこういます。やはり家族関係が親密であればあるほど、ホリデーシーズンにこうした悲喜劇が展開される度合いが高くなるようです。なかなか面白いですので、ちょっと読んでみてください。

2009年11月17日火曜日

服部崇『APECの素顔』

札幌に行ってきたところなのでそれと比べるとずっと暖かいものの、東京もずいぶん寒くなりました。冬の寒さは東京よりずーっと厳しいニューイングランドやニューヨークに何年も住んでいたこともあるのですが、今では身体がハワイの気候に慣れている私には大変です。(ニューイングランドでの生活の四年目くらいには、外が零度くらいだと、「なんだ、そんなに寒くないじゃん」などと言うようになっていたのを思い出します。慣れというのはすごいものです。)なんといっても、日本は家の中が寒いのには参ります。アメリカでは寒い地域でも家のなかはセントラルヒーティングなので暖かい(そのぶんずいぶんとエネルギーが浪費されているのでしょうが)ですが、日本は家がスコスコだし、暖房を入れても寒い!北海道のような厳寒地はさすがにセントラルヒーティングが普及しているようですが。

さて、今日は私の友達の著書をご紹介します。服部崇著『APECの素顔 —アジア太平洋最前線』。出版ほやほやです。経済産業省から三年間の出向で、シンガポールにあるAPEC(「アジア太平洋経済協力」)事務局にプログラム・ディレクターとして勤務した経験をもとに、APECという組織や、シンガポールでの暮らし、そして仕事を通じて触れたアジア太平洋地域の人々や文化について紹介した本です。私はAPECという名前は知っていたものの、実際にどんなふうに運営されていてどんなことをしている組織かはほとんど知らなかったので、いろいろと興味深いことを学びました。たとえば、APECでは、参加国それぞれのことを「国」といわずに「エコノミー」と呼ぶんだそうです。APECというのは経済圏としてのコミュニティだからまあそういうものかとも思いますが、なぜそういうことになったのか、そして国といわずにエコノミーということで参加国や地域全体の意識にどのような意味をもたらしているのか、そのへんがもっと知りたくなってきます。また、APECは単なる自由貿易圏としてでなく、互いの国内制度の相互調整にも踏み込むような「深い統合」を目指すべきだという論もあるそうですが、そうした方向に進むとなると、超国家的地域コミュニティと、それぞれの国家の論理やナショナリズムがどのように関係していくのか、「国内制度の相互調整」には経済体制だけでなく人権や言論といったことも含まれるようになるのか、などなど、質問したいことがいろいろ出てきます。なにも知らないと質問もないけれど、ちょっと知るといろいろ質問が出てくるものですね。文章も読みやすく、組織の話だけでなく同僚とのやりとりなど人間的な話題が多いので、親しみをもって読むことができます。よかったら手にとってみてください。友達が書いた本だけに、私としてはパーソナルな視点からもなかなか興味深く、なるほど私の友達が『ドット・コム・ラヴァーズ』を読むときにはこういう気持ちで読むのかしらん、などと思いました。(といっても、この本は、『ドット・コム・ラヴァーズ』とは内容も性質もまるで違うものです。念のため。)

2009年11月15日日曜日

東大本はもうやめよう!

週末、札幌に行ってきました。北海道大学の応用倫理研究教育センターというところの主催の、応用倫理国際会議というものの一環で今年から始まったジェンダー分科会の基調講演をしたのですが、なんと講演のタイトルは、"Politics and Ethics of Personal Narrative: Or, How I Came to Write Dot Com Lovers and What I Have Learned from It." 応用倫理の学会ですから、参加者のほとんどは哲学者で、他の講演も生命倫理とか環境倫理とか、ガザがどうしたとか死刑がどうしたとか、そんな話ばっかりの中で、私ひとり、オンライン・デーティングの話をしているのですから、実に変てこりんな様子でしたが、招待してくださった先生がたや講演を聴きにきてくださった人たちにはそれなりに喜んでいただけたようだったのでよかったです。聴衆のなかには、『ドット・コム・ラヴァーズ』や『アメリカの大学院で成功する方法』を持ってきて講演後サインを求めてきてくださったかたも何人もいました。どうもありがとうございました。(私は哲学の分野のことをなにも知らないので誰がどういう人なのだかさっぱりわからなかったのですが、雰囲気からして国際的に著名な哲学者も何人もいたようでしたが、ファンにサインを求められている人はいなかったようなので、そういう意味では私の勝ち!:))ちなみに、この講演では、「学者がパーソナルなことを公の場で書くということにはどういう意味があるか、読者の反応から考えて、『ドット・コム・ラヴァーズ』はどういった点で成功してどういった点で限界があったか」といったことを著者自らが省みる、という内容でした。アカデミックな場で『ドット・コム・ラヴァーズ』について語るというのも、自分にとってはいい頭のエクササイズになりました。また、普段自分が慣れているのとはまったく別の分野のディスコースの中に身を置いてみるというのも、なかなか興味深いものでした。私から見ると、他の発表の多くは、実際の具体的なデータなどに基づかずに仮の設定のもとでなされたあまりにもメタなレベルの理論的な話か、あまりにも実際的な話に終始してそれを哲学や倫理学の視点から論じることの意味がよくわからない話かが多く、具体性と理論性においてその中間くらいの話がもうちょっと聞けたら私にはもっと勉強になったと思うのですが、それは分野の性質によるものなのかも知れません。

ところで、羽田空港の書店をうろうろしているときに、以前から街の書店で気になっていたことをさらに確認。世の中には、なんだってこんなに「東大本」が多いんでしょうか。東大生の勉強法とか記憶法とかノートのとりかたとか、はてには子どもを二人東大に入れた親による子育て本とか、あるいは東大卒の母親をもった子どもについての本とか、東大生の性生活についての本とか、それだけで書店にひとコーナーできてしまうくらい沢山東大本が出版されている。見ているだけで私は気分が悪くなってくるのですが、いったいこれはどういうことなのでしょうか?

ご存知のかたが多いでしょうが、私は東大に行きました。バブリーな時代にちゃらちゃらした大学生活を送ったので、今から思うとせっかく知力も体力もふんだんにあった若かりし頃の四年間を馬鹿な使い方をしたなあと後悔が多いものの、それなりにいい学生生活だったと思っています。大学時代の友達とは今でも仲良くしていますし、自分が発起人のひとりとして近々一二年生のときのクラスの同窓会まですることになっています。また、学者の道を進んだこともあり、東大の先生がたとの関係はかなり強く、卒業後も母校とのつき合いは続け、今でも日本に一時帰国するときは駒場キャンパスの施設に泊まるくらいで、母校への愛着はあります。来るときには駒場で講演をさせていただいたり、この夏は集中講義を担当させていただいたりしたので、今の学生と話をすることもあります。そうした体験から言うと、確かに、東大生というのは一般的に、頭の回転が速いし、要領がいいし、ものごとを知ったり考えたりすることが好きだし、ものを論理的に思考したり表現したりすることが得意です。大学全体のなかでのそうした学生の割合は、他の大学と比べるとやはり高いのかも知れないと思います。でも、旧帝大時代ならともかく、現代は少子化で大学は以前よりずっと入りやすくなっているし、「勉強ができる学生」をこえた、本当の意味でのエリートと呼べるような学生はそんなにいません。驚嘆するような天才的な頭脳をもっている学生(確かに存在します)というのは、ごくごく一握りで、残りの東大生の多くというのは、教育程度が高く経済的にもそれなりに恵まれた家庭環境で育ち、子どものときからいろいろな文化や知識に触れる機会をもち、塾などに通って進学校に入って受験勉強をしてきたから、東大に入った人たちです。(東大生の家庭の収入が全国の大学で一番高い、というのはずいぶん前から指摘されていましたが、今はますますそういった傾向が強くなっているそうです。)そのことを、社会階層や文化資本の形成・再生産という視点から注目(そして批判)する意味はありますが、東大に入る学生をなにか特別な能力をもった人間のように見たり扱ったりする意味はありません。ましてやそれについて何冊も何冊も本を出版する価値のあるようなことはなにもありません。

もちろん、東大の実態とはまったく独立して、東大というラベルに日本社会が特別の付加価値をつけ、それがゆえに東大卒業生が、多くの場合実力以上の待遇を受けるのはわかっています。わかっているもなにも、それだからこそ自分だって東大に行こうと思ったわけです(私が東大を受験しようと決めた背景にはもうちょっと具体的な理由があったのですが、それはまあよし)から、そのことを否定しようとは思いません。在学中も卒業後も、東大だということだけで人から一目置かれるようなことは多々ありましたし、東大に行ったことのメリットは十分以上あったと思っています。東大生だということでステレオタイプや偏見をもたれることもあり、それをうっとうしいと思うこともありますが、実際に東大が日本社会で占めている位置を考えたらそんなことをうっとうしいと思うほうが馬鹿でしょう。(「東大生らしからぬ東大生」になりたいと思った時期などもありましたが、そんなことにこだわっていることこそ馬鹿な東大生だということにじきに気づきました。)ですから、東大生が「東大生を特別扱いするな」と言っても、多くの人には嫌味にしか聞こえないのは十分承知なのですが、やはり言わずにはいられないくらい、「東大神話」が再生産されているようなので、敢えて言います。東大生がどうしたこうしたという本をそんなに沢山出版するような価値は、東大生にはありません!

どうせ東大についての本を作るのだったら、東大では実際にどんな研究が行われているのかとか、教育内容はどうなっているのかとか、日本の他大学と比べてなにが違うのか違わないのかとか、世界の大学と比べるとどうなのかとか、そういうことをじっくり分析した本ならば、意味はあると思いますが、東大受験に成功した人にやたらと付加価値をつけるような本作りは、もうやめましょうよ!そんなことを日本の言論界が繰り返していたら、東大の価値は入ることにある(あそして、入ってからどんな勉強をするかということが、まったく問題にされない)という悲しい事態が、今後もずっと続くでしょう。そして、世界的にみたら東大は一流大学とは到底言えない、という事態が今後も続くでしょう。東大に多くの場合不相応な付加価値がつけられるからこそ、社会は、東大を厳しく分析・評価する必要があるのです。というわけで、東大本はもうやめましょう!

2009年11月9日月曜日

11/14(土)佐藤康子二十五絃箏コンサート

お知らせがぎりぎりになってしまいましたが、今週14日(土)に、『ドット・コム・ラヴァーズ』の149頁に「箏の道を志してここ十年以上本格的に修業を積んでいるセミプロ」としてほんのちらりとだけ出てくる(オンライン・デーティングとはまるで関係のない文脈です)、私の親友の佐藤康子さんの二十五絃箏のコンサートがあります。彼女はここ数年間定期的に演奏会を開いているにもかかわらず、私が日本にいないので実際の演奏を聴けず、今年こそは、と期待を膨らませていたにもかかわらず、なんと今回の演奏会は私が札幌で講演をすることになっている週末と重なってしまったので、非常に残念ながら私自身は聴きに行くことができません。ので、みなさんのうち一人でも多くのかたが私に代わって彼女の音楽に触れてくださると嬉しいです。普通、箏というと十三絃で、一般の人が聴いたことのある箏の音楽は十三絃の楽器で弾かれたものですが、二十五絃の楽器はそのぶん音域が広く、違った味わいの音楽が楽しめます。行ったら、演奏後に「吉原さんのブログを見て来ました」と本人に声をかけて感想を聞かせてあげてください。そして、感想をこのブログのコメントに載せてくださるととても嬉しいです。

11月14日(土) 開場18:00 開演18:30
前売り 2,000円 当日 2,500円
会場 Studio K(JR高円寺南口徒歩5分)
お問い合わせ e-mail: yasunei@m7.gyao.ne.jp

ところで、先週末は以前にご紹介した、名倉誠人さんのマリンバ・リサイタルに行ってきましたが、本当に刺激的で素晴らしい演奏会でした。現代の作曲家による委嘱作品と一口に言っても、実にいろいろな構想とスタイルと雰囲気の曲があるものだと、当たり前のことが改めて実感されるし、マリンバのソロ曲からはマリンバという楽器の味わいがよく伝わってくる一方で、他の楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)との合奏曲では、アンサンブルから生まれる音の色彩や触感がとてもよく、感覚にも頭脳にも真摯に語りかけてくる音楽ばかりでした。「森と樹の音楽」というテーマへにも、作曲家がそれぞれの方法で取り組んでいて、比較的物語性のある曲の場合も、安易にプログラマティックになりすぎることなく、情感と理性の両方で構築されている音楽だと思いました。ぱちぱち。

まるっきり関係ないですが、私は最近I Love You, Manというアメリカ映画を見ました。日本では劇場公開されておらず、公開の予定があるのかどうかもわかりませんが、iTunesから「レンタル」という形でダウンロードして見ることができます。(そんなことができるというのを私が知ったのはごく最近のことです。世の中はほんとに便利になったものですねえ。)Paul RuddとJason Segel主演のコメディなのですが、軽いながらにもなかなか深い真実があるストーリーで、脚本がとてもよくできています。以前の投稿で紹介した、National Public RadioのFresh Airという番組でJason Segelがインタビューされているのを聞いて興味をもって見たのですが、確かに彼の演技が素晴らしいです。要は、感じがよく社交的で女性の仕事仲間や友達には好かれている男性が、恋人と婚約して結婚式の準備をする過程で、実は自分には日常的に親密な会話をしたり一緒に出かけたりする親友といえる男友達がいない、ということに気づき、あわてて「男友達探し」をする、という話です。一般的に、女性と男性では友達づきあいのありかたにずいぶん違いがあるものですが、確かに、アメリカでも日本でも、女性がいうところの「友達」がいない男性というのは、かなり多いように見受けられます。男性から見ると、女性同士の友達づきあいというのは、どうでもいいようなことをひたすらしゃべり続けたり、どうしてそんなことまで人に話す必要があるのかと思うようなことまで打ち明けたり、とくに何をするでもないのにべったり一緒にいたり、といったふうに見えることが多いようですが、以前も書いたように、『セックス・アンド・ザ・シティ』が巧妙に描いたのは、そうした「なんでもないこと、どうでもいいこと」を日常的に共有しあう女友達同士の関係というのが、女性にとっては生命線といってもいいくらい大きな意味をもっている、ということです。男性は、親密なことや感情にかかわることを話すのが照れくさいとか女々しいとかいったジェンダー観や男同士の競争心などから、なかなか同じような関係を築きにくい。スポーツや音楽をやっている男性は、その仲間との濃厚な関係はありますが、男同士のつき合いや遊びというものは、ともするとやたらと子供じみたものに走りがち、という特徴もある。などなど、そうした「男友達」のありかたを、面白可笑しく描いた作品で、とても楽しめます。

2009年11月3日火曜日

中国の本屋






文化の日にちなんで(?)、北京で見たもののうち文化的な話題を少し。

北京で行った場所のうちもっとも面白かったところのひとつが、大山子798芸術区。かつて工場(残っている設備や機械からして、重工業だったのだろうと思います)だった場所を改装して、ギャラリーやアート・スタジオ、レストランやカフェなどの集まる芸術空間にしたものです。とても大きなスペースで、私がいた数時間に見たのは全体のほんの十分の一くらいだったらしいですが、それでも大いに楽しめました。アメリカにも似たような意図の芸術スペースはありますが(マサチューセッツ現代美術館はその一例)1950年代の共産主義全盛時代に産業複合施設として活気のあったらしい空間の遺物が、今ではポストモダン芸術の舞台となり道具となっている、そのコンビネーションがなんとも興味深いです。クレーンや線路を前に結婚の記念写真を撮影するカップルが多いらしく、私が行ったときにも一組が撮影の最中でした。また、工場の内部には今でも「毛首席万歳」といった赤字のスローガンが残っており、それが今ではオシャレなアート空間となっているのも面白いです。

忙しく動き回っていたので、プライオリティの上位に入っていなかったショッピングはまるでしなかったのですが、最終日に食事をしに行った王府井という、東京の銀座のようなエリアにある、大きな本屋さんに入ってみました。言葉が読めないのだから、本屋さんに行っても仕方がないといえばその通りですが、本屋さんというものがどんな風なのかをちょっと覗いてみるだけでも私のような人間には面白いし、漢字文化のおかげで、どんな本が並んでいるのか少しはわかるのがありがたいです。紀伊國屋のような、何階もある大きな本屋の一階をちょろっと見ただけなのですが、本がどんな風に分類されているかとか、どんな本が売れているらしいかとかを見るだけでも、やはりとても興味深かったです。

たとえば、「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの思想」という特別コーナーがあり、書棚二つくらい充てられていました。なるほど。『資本論』の翻訳や、思想史や哲学や経済学の観点からの研究書らしき書物が並んでいました。そして、そのすぐ隣には、「成功学」というコーナーがあるのが面白かったです。そのふたつのコーナーが隣同士であることの論理を知りたいところです。また、「男性読物」と「女性読物」というコーナーが隣同士であり、本のデザインの色使いからして明らかに違っている(やはり女性読物はピンクが多く使われている)のです。そして、中身が読めないのであくまで漢字のタイトルやイラストから推測するだけですが、「お金持ちの男をつかまえて嫁になるための本」とか「完璧な女性になるための何か条」みたいな本がかなり沢山並んでいるのも面白かったです。また、地図を作る仕事をしている友達へのお土産として地図を買おうと、地図コーナーにも行ってみましたが、中国で売っている世界地図は、なるほど中国や太平洋が中心となっていて(ハワイ島からミッドウェイにいたるハワイ群島もかなりしっかりと載っている)、アメリカ合衆国などは右のほうになんだかずいぶん歪んだ形でぐちゃっと押しやられているのが面白いです。

「売れている本」らしきコーナーには、大前研一氏の本も並んでいました。日本でもかなり売れているらしいオバマ氏の演説集らしき本も並んでいました。中国の人々が、オバマ氏をどう見ているのか、友達に聞いてみるべきでした。

オバマ氏といえば、先週末のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、オバマ夫妻の関係についての長文記事が載っています。以前から、この夫婦は、これまでのホワイトハウスのイメージを大きく塗り替えるとして話題になってきました。クリントン夫妻も、それまでの大統領夫妻とはずいぶん違う存在でしたが、オバマ夫妻はそれともまただいぶ違うイメージ。ミッシェル夫人のカッコ良さ、強さ、賢さに加えて、なにしろ夫妻が今でもお互いに恋をしているのが明らかだ、というのが新鮮なのだと思います。「新潮45」の連載で説明したように、to love someoneとto be in love with someoneというのは違うのであって、オバマ夫妻の場合は、長年の結婚生活を経た今でもなお、in love with each otherであるということが、お互いを見る視線やふたりでいるときのちょっとした仕草、ふたり一緒にインタビューされているときの会話などから伝わってくるのです。そうした恋愛感情を、弁護士としての仕事や社会運動、そして政治家としてのキャリアを築くなかで維持していくことはたやすいことではないのは当然で、とくに自分のキャリアをもったミシェル夫人が、オバマ氏が政治家となったことをどのように考え、それがふたりの関係にどんな影響を及ぼしたか、ということなど、いろいろ考えさせられるいい記事です。やはり、いい関係を続けていくためには、政治と同じくらい、あるいはそれ以上の努力とコミュニケーションが必要なのでしょう。

2009年11月2日月曜日

北京訪問






数日間、北京を訪問してきました。本当は日曜日に戻ってくるはずだったのですが、前の晩に北京では雪が降り始め、空港でチェックインして搭乗してから、飛行機の翼の除雪作業の順番を待つことなんと10時間、その挙句に、これから出発しても成田空港が閉まるまでに間に合わないということで、フライトがキャンセルになってしまいました。空港近くのホテルで一泊を過ごし、翌朝は4時半に起こされ、空港に行ってからはなんと3つの航空会社のチケットカウンターをたらい回しにされ、やっとのことで帰国、成田からは桜美林大学のスタッフのかたたちが主催してくださった私の歓迎会(といっても桜美林に来てから既に3ヶ月ですが)に直行しました。やれやれ。

私は中国本土に行ったのは今回が初めてだったのですが、北京はやはりとてつもなくいろいろな面をもった場所であるということが、数日間の滞在でも感じられました。着いた翌日は、北京外国語大学で講演をしました。私の元教え子が現在北京外国語大学で仕事をしていて、講演の前には彼女が教えている授業を見学に行きました。この日見学した授業は、Gender and Societyという授業で、50人くらいの3年生が選択しているクラスだったのですが、授業は先生の講義、学生の発言や発表を含めすべて英語で行われます。学生の英語はかなり高レベルだったので、「留学経験のある学生が多いのか」と聞いてみたら、「あのクラスには海外生活の経験がある学生はひとりもいない」とのことでした。彼女の授業に限らず、北京外大では、英語圏文化・社会に関する授業はすべて英語で行われるそうです。教授陣は、私の教え子のように長年アメリカで勉強して英語も母語と変わらないレベルで話す人ばかりではないので、教えるほうは大変だろうと思いますが、このように読むのも聞くのも話すのも英語で勉強するおかげで、学生の英語能力は平均的な日本の大学生と比べたら格段に高くなっています。私は、水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で論じているように、「叡智を求める人」が英語だけで言論活動を行うようになったらいろいろな弊害が生まれると思うし、日本の大学でのすべての授業を英語でやるべきだとは思いません。でも、大学教育を受けた人が、普通に英語の新聞や書物を読んだり英語のテレビやラジオから情報を得たりすることができるだけの英語力はつけるべきだとは強く思うし(これについてはまた別途投稿します)、とくに英語圏の社会や文化や歴史を専門にする学生は、北京外大の学生くらいの英語力を身につけてもらいたいと思います。私の講演自体は、
Musicians from a Different Shoreの内容を話したのですが、聴衆はたいへん興味をもって聞いてくれて、とくに大学院生が非常に的を得た興味深い質問をたくさんしてくれました。

ちなみに、北京外国語大学は、外国語・外国文化や国際関係、コミュニケーション論などを専門にしようとする学生のうちもっとも優秀な人たちが集まり、外交官なども多数生んでいる(というか、外交官を養成するための大学として設立された部分が大きいようです)エリート機関で、ありとあらゆる外国語が専門的に勉強できるとのことです。で、私は、「中国の少数民族の言語も勉強できるの?」と聞いてみたところ(北京に行く飛行機のなかで、加々美光行『中国の民族問題―危機の本質 』(岩波現代文庫)を読みながら行ったので興味があったのです。ちなみにこの本は論点が明快で歴史的なコンテクストがわかりやすくて、おススメです)、北京外国語大学は「外国語」を専門としているために中国内の言語は講座がない、とのこと。少数民族言語を専門にする、別の大学があって、そこには少数民族の学生もかなりたくさん在籍しているらしいです。それはそれでまた興味深いです。

残りの2日間は、その元教え子(彼女は、両親が学者だったためにブルジョアとみなされ文革のときに新疆に送られ、ゆえに彼女は新疆で育った後に北京で大学に行ったという背景の持ち主です。新疆にいるのはせいぜい1、2年のことだろうと思っていたので家には段ボールの箱を積んで荷解きもすべてしないまま、結局10年もいることになったので、彼女は子供時代といえば段ボールのイメージが強いそうです)と、私の高校・大学の同級生で今北京で金融の仕事をしている友達に案内されて、北京観光をしました。北京は英語もほとんど通じないし、いろいろなことが実に混沌としているし、メジャーな観光スポットでも近くに地下鉄が通っていない場所が多いので、言葉ができない観光客にとっては相当エネルギーを要するところです。よって、言葉ができない観光客である私は、その二人に完全に依存しきっていたのですが、おかげで短期間とはいえ、実にいろいろな顔の北京を見ることができました。中国はすでに富裕層の絶対数は日本よりも多いそうですが、確かに巨大な新しいビルが次々と建っているし、ショッピング街の様子はアメリカや日本と同じような雰囲気だし、噂で聞いていたとおり大変なエネルギーが感じられました。経済活動という意味では資本主義国家となんら変わるところはなさそうで、政治体制が共産党独裁であるということ以外に、今の中国が社会主義国家であることは具体的にどういう意味をもっているのか、もっと知りたいと思いました。そして、全般的にそうしたエネルギーが感じられ、また中国の人口を考えると、中国全体にさまざまなインフラが整備されて社会の底辺層の生活レベルが数段上昇したら、そりゃあやはり中国が世界をリードするようになるだろうと実感されました。そのいっぽうで、紫禁城などに群をなして押し寄せる(「群をなして押し寄せる」という表現がこれほど的確な場面にはなかなか遭遇するものではありません)、中国の田舎からバスでやってきている観光客(観光バスの大型版で、みな赤や黄色やオレンジの帽子をかぶり、旗をもったガイドさんについてまわる)の波を見ると、北京のスーパー富裕層がいると同時に、中国には、いわゆる文明発達段階においてずいぶんと後の地点にいる人たちがものすごい数で存在するんだということが感じられます。こんなことを言うと、19世紀末から20世紀初頭にかけて白人優越主義者たちが唱えた文明論と似たようなロジックのようですが、本当にそんなことを感じてしまうくらい、田舎から来ている中国人(それも、北京に観光に来られるくらいの人たちはそれほど貧しい人たちではないはずですから、本当の貧困層はさらにそうでしょう)の姿や言動を観察していると、近代化・都市化・西洋化といった線的な流れの力を感じずにはいられませんでした。こんなふうに、経済・文化の発展段階が極端に違う人たちをこれだけの数抱えて、かつ、言語も宗教も生活様式もまるで違う50以上もの少数民族をも抱えて、「国家」として進んでいく中国は、これから先どういう道を辿っていくのだろうと、中国におおいに注目する必要を感じました。

他にも、感じること考えることはいろいろあった旅でしたが、きりがないので、今回はこれにて終了します。