2009年11月15日日曜日

東大本はもうやめよう!

週末、札幌に行ってきました。北海道大学の応用倫理研究教育センターというところの主催の、応用倫理国際会議というものの一環で今年から始まったジェンダー分科会の基調講演をしたのですが、なんと講演のタイトルは、"Politics and Ethics of Personal Narrative: Or, How I Came to Write Dot Com Lovers and What I Have Learned from It." 応用倫理の学会ですから、参加者のほとんどは哲学者で、他の講演も生命倫理とか環境倫理とか、ガザがどうしたとか死刑がどうしたとか、そんな話ばっかりの中で、私ひとり、オンライン・デーティングの話をしているのですから、実に変てこりんな様子でしたが、招待してくださった先生がたや講演を聴きにきてくださった人たちにはそれなりに喜んでいただけたようだったのでよかったです。聴衆のなかには、『ドット・コム・ラヴァーズ』や『アメリカの大学院で成功する方法』を持ってきて講演後サインを求めてきてくださったかたも何人もいました。どうもありがとうございました。(私は哲学の分野のことをなにも知らないので誰がどういう人なのだかさっぱりわからなかったのですが、雰囲気からして国際的に著名な哲学者も何人もいたようでしたが、ファンにサインを求められている人はいなかったようなので、そういう意味では私の勝ち!:))ちなみに、この講演では、「学者がパーソナルなことを公の場で書くということにはどういう意味があるか、読者の反応から考えて、『ドット・コム・ラヴァーズ』はどういった点で成功してどういった点で限界があったか」といったことを著者自らが省みる、という内容でした。アカデミックな場で『ドット・コム・ラヴァーズ』について語るというのも、自分にとってはいい頭のエクササイズになりました。また、普段自分が慣れているのとはまったく別の分野のディスコースの中に身を置いてみるというのも、なかなか興味深いものでした。私から見ると、他の発表の多くは、実際の具体的なデータなどに基づかずに仮の設定のもとでなされたあまりにもメタなレベルの理論的な話か、あまりにも実際的な話に終始してそれを哲学や倫理学の視点から論じることの意味がよくわからない話かが多く、具体性と理論性においてその中間くらいの話がもうちょっと聞けたら私にはもっと勉強になったと思うのですが、それは分野の性質によるものなのかも知れません。

ところで、羽田空港の書店をうろうろしているときに、以前から街の書店で気になっていたことをさらに確認。世の中には、なんだってこんなに「東大本」が多いんでしょうか。東大生の勉強法とか記憶法とかノートのとりかたとか、はてには子どもを二人東大に入れた親による子育て本とか、あるいは東大卒の母親をもった子どもについての本とか、東大生の性生活についての本とか、それだけで書店にひとコーナーできてしまうくらい沢山東大本が出版されている。見ているだけで私は気分が悪くなってくるのですが、いったいこれはどういうことなのでしょうか?

ご存知のかたが多いでしょうが、私は東大に行きました。バブリーな時代にちゃらちゃらした大学生活を送ったので、今から思うとせっかく知力も体力もふんだんにあった若かりし頃の四年間を馬鹿な使い方をしたなあと後悔が多いものの、それなりにいい学生生活だったと思っています。大学時代の友達とは今でも仲良くしていますし、自分が発起人のひとりとして近々一二年生のときのクラスの同窓会まですることになっています。また、学者の道を進んだこともあり、東大の先生がたとの関係はかなり強く、卒業後も母校とのつき合いは続け、今でも日本に一時帰国するときは駒場キャンパスの施設に泊まるくらいで、母校への愛着はあります。来るときには駒場で講演をさせていただいたり、この夏は集中講義を担当させていただいたりしたので、今の学生と話をすることもあります。そうした体験から言うと、確かに、東大生というのは一般的に、頭の回転が速いし、要領がいいし、ものごとを知ったり考えたりすることが好きだし、ものを論理的に思考したり表現したりすることが得意です。大学全体のなかでのそうした学生の割合は、他の大学と比べるとやはり高いのかも知れないと思います。でも、旧帝大時代ならともかく、現代は少子化で大学は以前よりずっと入りやすくなっているし、「勉強ができる学生」をこえた、本当の意味でのエリートと呼べるような学生はそんなにいません。驚嘆するような天才的な頭脳をもっている学生(確かに存在します)というのは、ごくごく一握りで、残りの東大生の多くというのは、教育程度が高く経済的にもそれなりに恵まれた家庭環境で育ち、子どものときからいろいろな文化や知識に触れる機会をもち、塾などに通って進学校に入って受験勉強をしてきたから、東大に入った人たちです。(東大生の家庭の収入が全国の大学で一番高い、というのはずいぶん前から指摘されていましたが、今はますますそういった傾向が強くなっているそうです。)そのことを、社会階層や文化資本の形成・再生産という視点から注目(そして批判)する意味はありますが、東大に入る学生をなにか特別な能力をもった人間のように見たり扱ったりする意味はありません。ましてやそれについて何冊も何冊も本を出版する価値のあるようなことはなにもありません。

もちろん、東大の実態とはまったく独立して、東大というラベルに日本社会が特別の付加価値をつけ、それがゆえに東大卒業生が、多くの場合実力以上の待遇を受けるのはわかっています。わかっているもなにも、それだからこそ自分だって東大に行こうと思ったわけです(私が東大を受験しようと決めた背景にはもうちょっと具体的な理由があったのですが、それはまあよし)から、そのことを否定しようとは思いません。在学中も卒業後も、東大だということだけで人から一目置かれるようなことは多々ありましたし、東大に行ったことのメリットは十分以上あったと思っています。東大生だということでステレオタイプや偏見をもたれることもあり、それをうっとうしいと思うこともありますが、実際に東大が日本社会で占めている位置を考えたらそんなことをうっとうしいと思うほうが馬鹿でしょう。(「東大生らしからぬ東大生」になりたいと思った時期などもありましたが、そんなことにこだわっていることこそ馬鹿な東大生だということにじきに気づきました。)ですから、東大生が「東大生を特別扱いするな」と言っても、多くの人には嫌味にしか聞こえないのは十分承知なのですが、やはり言わずにはいられないくらい、「東大神話」が再生産されているようなので、敢えて言います。東大生がどうしたこうしたという本をそんなに沢山出版するような価値は、東大生にはありません!

どうせ東大についての本を作るのだったら、東大では実際にどんな研究が行われているのかとか、教育内容はどうなっているのかとか、日本の他大学と比べてなにが違うのか違わないのかとか、世界の大学と比べるとどうなのかとか、そういうことをじっくり分析した本ならば、意味はあると思いますが、東大受験に成功した人にやたらと付加価値をつけるような本作りは、もうやめましょうよ!そんなことを日本の言論界が繰り返していたら、東大の価値は入ることにある(あそして、入ってからどんな勉強をするかということが、まったく問題にされない)という悲しい事態が、今後もずっと続くでしょう。そして、世界的にみたら東大は一流大学とは到底言えない、という事態が今後も続くでしょう。東大に多くの場合不相応な付加価値がつけられるからこそ、社会は、東大を厳しく分析・評価する必要があるのです。というわけで、東大本はもうやめましょう!