今や古典となった『想像の共同体』で、ベネディクト・アンダーソンは、近代国民国家の形成(より正確に言うならば、多様な人びとのなかでの「国民」意識の形成と浸透)における「国語」そして新聞などの印刷物が果たした役割を論じましたが、本書で兵藤氏は、近代日本に国民国家の理念をもたらしたものは、浪花節が代表する口頭的な物語芸能であったと説きます。芝の新網町などを初めとする都市の貧民街で生まれ、「下等」芸能として他の演芸者から蔑まれた浪花節の芸人たちは、自らもそうした貧民街の出身であり、「下級労働者」である聴衆は、そうした芸人たちの社会的位置と、彼らが語る法制度や政治機構の論理に抵抗するような物語、義理人情のモラル、そしてメロディアスな声に、ある意味では魅了され、またある意味では「からめとられて」ゆく。この本の面白さは、浪花節の芸能史を、近代日本の政治史・社会史・思想史として論じていること。つまり、兵藤氏は、浪花節が表象した「家族」や「義理人情」のモラルが、いっぽうでは「下からの国民形成」を達成するのと同時に、また他方では社会主義思想への防波堤としても機能することとなり、そしてそうした心性が、戦時下にファシズムと結びついていく、というのです。すごーい。一部抜粋:
明治政府がイメージした家父長制的な国家像は、大衆に浸透する「国民」のモラルとのずれをかかえている。くりかえしいえば、日本近代の「国民」という物語は、制度外の擬似的ファミリーのモラルに、より多くの親近感をもつものだった。おもしろーい。これは、アドルノなどのいわゆる「フランクフルト学派」の批評理論の具体例として考えるとわかりやすいですね。
貧民街出自の芸人によって語られる制度外のファミリーの物語が、法制度による家族国家の構築をくわだてる政府のおもわくなどを超えた日本「国民」をつくりだしてゆく。(186)
法制度から逸脱する「義士」たちの物語が、政治・社会からとりのこされた下層の大衆の共同性をからめとってゆく。
そこに鼓吹される制度外のファミリーのモラルは、政治から疎外された者たちに、日本「国民」としての平等と解放を幻想させ、それは既存のヒエラルキーや法制度の枠組みにたいする暴力的破壊の気分さえ醸成するだろう。都市下層にわだかまる大衆の情念に、声と節調のレベルでかたちをあたえるのが、雲右衛門の義士伝だった。(192−193)
貧民街出自の芸人たちが鼓吹する擬似的ファミリーのモラルが、社会主義者たちのロジックを吸収・解体してしまう。戦争という国家的危機と、それに呼応するようにして流行する浪花節の声が、階級という差異・差別の感覚を溶解し、日本国民という均質で亀裂のない心性の共同体をつくりあげてゆく。(235)
それにしても、せっかく浪花節を題材とした『<声>の国民国家』というタイトルの本なのだから、音源がほしい。コストの点からCDなどを付けるのが無理なら、せめて読者が実際の浪花節を聴けるリンクとか録音とかの情報を参考文献に入れておいてほしかったですねえ。でも、とにかく面白いので、ぜひどうぞ。