2010年3月19日金曜日

Facebook上の痴話喧嘩

懲りずにまたしてもFacebookの話題です。昨日のニューヨーク・タイムズに掲載された記事は、Facebook上で口論する恋人や夫婦についての話。Facebook「友達」に公開した形での、ふたりの口論や痴話喧嘩は、往々にして他愛もないものであることが多く、当の本人たちとしては、「人前でこういうやりとりができるくらい、ふたりは親密で信頼しあっている」ことを「友達」に見せ、むしろ半分のろけのつもりでそうしたやりとりを公開していることが多いけれど、それを見せられたほうは、「もうやめてくれ」という気持ちになる、とのこと。とくに、ふたりのあいだで「普通」となっている言葉遣いや、皮肉やユーモアのセンスというのは、それぞれのカップルに固有のもので、本人たちは軽く冗談めかしたやりとりのつもりで交わしている文が、はたから見るとたいへん辛辣で本気で傷つくもののように取れることも多く、ふたりの仲を真剣に心配する「友達」も出てくる、とのこと。心配しないまでも、そうしたプライベートなやりとりは、Facebookのような「公共の場」でやるのでなく、自宅でやってくれ、と思う人も多いらしいです。なるほどねえ。私は、秋に北京に行ったときの帰りの飛行機(そのときの投稿で書いたと思いますが、雪でまる一日滑走路で待たされた挙句にフライトがキャンセルされて、北京に余分に一泊するはめになった)で後ろの席に座っていたいかにもお金持ちそうな夫婦のやりとりが、時間が経つにつれ明らかに険悪で緊張した雰囲気になってきているのが前の席の私の耳に入ってくる会話からもわかり、あのふたりはちゃんとふたりのままで家まで辿り着いただろうかと私は気になっているのですが、Facebook上でのカップルの口論はそれに似たようなものかもしれません。

それにしてもFacebookは、それが存在する前にはなかった種類の、さまざまな滑稽なジレンマを生み出しています。私自身、今困っているのは、しばらく「デート」していた相手と、「デート」する関係でなくなったときに、その人をFacebook上でどう扱うか(その人とは「デート」し始めの頃にFacebook上でも「友達」になった)、という問題。その人との将来の可能性がなくなったという落胆と悲しみを、Facebook上で他の「友達」とシェアしたいという気持ちもあるけど、そんな「アップデート」をその相手に見られたら嫌だ(私が嫌だというよりも、それを見た相手に気まずい思いをさせるのが嫌だ)。かと言って、彼を「友達」から外すのも、必要以上に事態を大ごとにするみたいだし、「友達」から外すほどショックを受けていると相手に思われたくもない、という気持ちもある。それに、彼とはこの先も実際に友達ではいつづけるつもりなので、私の普段の「アップデート」は彼に見ていてほしいと思うし、彼がどうしているのかも知っていたい。でも、彼がたとえば新しい彼女とラブラブの様子をFacebookに投稿するのを見たら、やっぱり嫌な気持ちがすると思う。ウーム、難しい。Facebookがなければ、ほとぼりが冷めるまでは連絡をしないでおいて、気持ちが落ち着いたり自分に新しい相手ができたりした頃にまたメールや電話をして友達づきあいを再開すれば済むものを、Facebook「友達」というややこしい関係のおかげで、ただでも複雑な状況や感情がますます複雑に...