1つ目の話は、娘が16歳のときにガンで亡くなった母親が、その後娘が毎年誕生日に読むようにと13通の手紙を書いて父親に託した、という話。その娘は、毎年その手紙を開けて読むことで、亡くなった母親の愛情やサポートを感じるのと同時に、だんだんとその手紙が精神的な負担にもなり、また父親との関係をも複雑なものにした、という話。その話の最後がまたなんとも言えないのですが、ここでは明かさずにおきましょう。
もう1つの話は、チンパンジーを人間の家庭で育てたら、どれだけ「人間的」な感情や行動を身につけるだろうかという実験のために、生後間もないチンパンジーを家で育てた夫婦が、やがてその「ルーシー」を野生に戻そうと決めた、という話。そのルーシーが、まずはどのように「人間として」の生活や感情を学び、その後どのように「チンパンジーとして」の生き方を学んだか、という話なのですが、これはいろんな意味でコワくなるような話です。どちらの話も、実にいろんなことを考えさせられるので、是非聞いてみてください。英語のヒアリング練習にもこれはとてもいいと思いますよ。
それとは関係ないですが、これまただいぶ遅ればせながら川上弘美の『センセイの鞄 』を読みました。文章はきわめて平易で滑らか、描写も愉快でもあり豊かでもあり、たいへん読み易いのですが、私にとっては、一気に読んでしまうというよりは、ゆっくり時間をかけて読む作品でした。37歳の独身女性と、学生時代の国語の先生が、居酒屋で出会って徐々に親交を深めていくうちに、お互い静かで温かい思慕の情が生まれる、という一種の恋愛小説。文庫版に載っている斎藤美奈子による解説によると、この本は中高年の男性を「舞い上がらせた」そうですが、世のオジサンたちというのは、いくらなんでもそこまで単純じゃないんじゃないでしょうか。この作品が気に入るのは、70がらみの男性が30代の女性と恋愛関係になって、幸せに人生の幕を閉じるという、その展開自体というよりは、人と人が知り合っていく過程、その、なんとなくぎくしゃくもして滑稽でもあって、でもそのなかに小さな喜びとか悲しみとかがたくさん詰まっている、そのさまが、優しくかつリアルに書かれているからじゃないでしょうか。70がらみの男性が若い女性と性を含めた恋愛関係になる話で、斎藤美奈子が言うところの「核心」を「はぐらかさない小説」といえば、たとえばフィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』がありますが、このふたつの作品の違いは、日本的感性とユダヤ系アメリカ人的感性の違いというか、なんだか笑ってしまうくらい違うのですが、どちらもたいへん面白いです。ひとつは女性の視点から、もうひとつは男性の視点から書かれている点でも比較が面白いです。