2011年7月24日日曜日

名古屋アメリカ研究夏期セミナー

週末は、名古屋で二泊してきました。夏は暑いので有名な名古屋ですが、ここ数日は東京と同様にちょっと涼しめのお天気でよかった。名古屋に行ったのは、南山大学で開催された名古屋アメリカ研究夏期セミナーという学会で、あるセッションの司会を頼まれたからです。南山大学でこのセミナーが開催されるのは今年が5年目、今回を最後に次からは同志社大学で開催されるそうです。南山大学の前に、立命館大学で開催されていた頃、私は一度コメンテーターとしてよばれて行ったこともあるのですが、立命館、南山、同志社というラインナップからもみられるように、このセミナーは、松田武氏の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』(この本についての私の評は、以前の投稿をごらんください。この評は、松田先生ご自身もお読みになって、共感してくださったらしく、アメリカ学会で初めてお会いしたときに、たいへん温かく接してくださって、こちらのほうが感動してしまいました。自分の著書を批判した相手に、あんなふうに温かく接することができるのは、人間の器が大きい証拠。)に論じられている、東大一派に拮抗する関西系のアメリカ研究の舞台のメジャーなもの。正直言って、私は日本で学会に出席して楽しいと思うことがめったにない(これにはいろいろな理由がありますが、それはまた別のところで書きます)ので、今回もとくに期待していなかったのですが、実際はなかなか充実していて、おおいに楽しんで帰ってきました。先月東大駒場キャンパスで開催された日本アメリカ学会も、自分が予想していたのより面白かったし、私がこのように日本の学会を楽しめるようになったのは、日本の学問レベルが高くなったからなのか、私と似通った感性をもった同年代の人たちが学会の運営に携わるようになってきたからなのか、それとも私自身がオトナになったからなのか、よくわからない。今回の日本滞在中は、ふだん接する人たちのなかに学者がほとんどいなかったので、ひさしぶりに同じ言語や同じ前提を共有する人たちに囲まれて、研究という作業についてあれこれ話をしたり、いろいろな研究テーマについてあれこれ話をするだけでも、嬉しい気持ちになったし、話を聞いたりしたりしているあいだに、「自分は学者としてやりたいことがたくさんある」という気持ちを新たにしたので、めでたしめでたし。

今回のセミナーの全体テーマは、American Studies in the Global Age、「グローバル化とアメリカ研究の行方」というものでした。こうしたテーマは、ここ十年間ほど、アメリカにおけるアメリカ研究でもしきりに論じられるようになってきているので、言われるべきことはもうたいてい言われ尽くされているような気もしますが、こうしたテーマを受けて、各研究者がどのように自分のリサーチを具体的に論じるかは、結構面白い。アメリカから招待された3人の基調講演者(基調講演者3人ともがアメリカの研究者であるというあたりが、「アメリカのエラい先生のお話をみんなで聞く」という構造を表しているとも言えますが、その基調講演に対してコメントをする日本の研究者たちは、歯に衣着せず相当に批判的なコメントもしていたし、まあそれはそれでよしとしましょう)の発表もいろいろな意味で興味深かったし、遠藤泰生氏(遠藤さんは私が学部生のときに駒場で助手をしていてご自宅でクリスマスパーティをさせていただいたこともあり、また、私の留学時代にハーヴァードにいらしていたこともあってときどきボストンで遊んだりしたので、なんだか勝手に親しみを感じている)の気合の入った司会ぶりに感動。また、分科会でも、各発表が普通の学会よりもだいぶ長く、各発表にしっかりしたコメントがつき、質疑応答の時間もたっぷりあるので、けっこうじっくり議論することができて満足感が高い。私が司会をしたセッションでの発表は、Edith Whartonの小説The Age of Innocence を論じたものだったのですが、実はこの小説、私が世の中で一番好きな小説なのです。司会を私に頼んできた先生がたは、そんなことはご存知なかったはずですが、偶然にもこういうめぐり合わせになり、私は自分の好きな小説についての議論を二時間たっぷり聞けるというだけで、たいへん幸せな気分になりました。Whartonは、英米文学者をのぞいては日本ではそれほど知られていない作家(ヘンリー・ジェームズと親しかった人物で、作風も共通する部分があります)だと思いますが、なんといっても言葉の遣いかたが素晴らしいし、また、女性のオソロしさをよーくわかった作家でもありますので、よかったら是非読んでみてください。

このセミナーの残念なところは、一日目の全体会議はよいのですが、二日目の分科会のときには、「歴史社会部門」「政治・国際関係部門」「文学・文化部門」と分かれていて、自分が所属する(ことになっている)部門の分科会にしか出席できないスケジュールになっていること。私のような人間はこの三つのどれにもかかわっているし、他の部門の発表が聞きたいので悔しい。それに、私自身のことはともかくとして、せっかく「アメリカ研究」という学際的な分野のセミナーなのだから、こうしたディシプリンの枠を超えた議論を促進するようなプログラムになっていればいいのになあと思います。文学者同士が文学の話をするのなら、文学の学会でいくらでもできるわけで、それよりも、政治学者が文学の話にコメントをし、文学者が歴史家から学ぶ、といったふうになっていてこそ、アメリカ研究だと思うのですが。もちろん、自分の身体はひとつしかないので、同時進行で複数のセッションが行われるのであれば、どんなプログラムになっていてもそのうちひとつにしか行けないのですが...まあ、この点、次回からセミナーの運営をする同志社のかたたちに、提言してみましょう。


2011年7月19日火曜日

野坂操壽 x 沢井一恵 熊本公演

一泊で熊本に行ってきました。昨日の午前中の飛行機で帰ってくるはずが、台風の影響でフライトがキャンセルになり、午後の便に変更してもらい、そのぶんできた時間は、現在熊本市の副市長をしている大学の同級生とランチをしながら面白い熊本事情をいろいろと聞かせてもらいました。

今回熊本に行ったのは、熊本芸術劇場のコンサートホールで行われた、お箏のコンサートを聴きに行くため。自分が邦楽をやるわけでもないのに、お箏を聴きにいくためにわざわざ飛行機に乗って熊本まで行ったのは、このコンサートに出演したふたりのアンサンブルを一曲だけ先月東京で聴いて、「このふたりの演奏がコンサートまるごと聴けるのなら、熊本まで行く価値はじゅうぶんある」と確信したからであります。このふたりとは、野坂操壽先生と沢井一恵先生。今の自分の研究の一環で邦楽の事情にも興味があるので、二十五絃箏の演奏活動をしている私の親友の佐藤康子さんから野坂先生を紹介していただき、たいへん立派なかたでありながらまったく偉ぶらず気さくで明るいその素晴らしい人間性と、芸術に対する妥協のない真っ直ぐな姿勢に、私はすっかり惚れ込み、野坂先生大ファンとなりました。今回は、その野坂先生と、同じお箏といってもその野坂先生とはずいぶんと違う分野で活動を続けてこられた沢井一恵先生とのジョイントコンサート。野坂先生がおもに二十五絃、沢井先生が十七絃を演奏され、それぞれのソロが一曲ずつと、ふたりのアンサンブルが三曲、そしておふたりと熊本の箏演奏者たちの合奏が一曲という充実した演奏会。もうとにかく、それぞれのソロもさることながら、十七絃と二十五絃という味わいの違う楽器のかけ合いや重なり具合が生み出す迫力や緊張感や高揚感といったら、言葉に表せないものがあり、熊本まで出かけていって本当によかった!アンサンブルのうちの一曲は、今回のツアーに際してこのふたりのマエストロのために公募された新曲のなかから二位に入賞(最優秀賞該当なし)した前田智子さんの作品「青蓮華」。この作品も、箏のさまざまな音色がみごとに活かされた、優しくも哀しくも強くもある美しい曲でした。しかしなんといっても、私の最大のお気に入りは、沢井忠夫作曲の「百花譜」という作品。私のような無知な素人がお箏という楽器について抱いているイメージを根底から覆してくれる、とてつもない緊張感と彩りと興奮に満ちた曲。だまされたと思って是非とも体験していただきたい。といっても、このおふたりのアンサンブルの録音はまだ存在しないので、これから全国で展開される予定のツアーでぜひ生演奏を。そのコンサートが地元にくるまでは、とりあえず、野坂先生と沢井先生それぞれのCDをまずは聴いてみてください。私は、野坂先生の「錦木によせて」と「琵琶行」を初めて聴いたときには、心底ぶったまげました。

今回は、お箏とはなんの関係もない私が、おふたりの先生そしてこのコンサートの企画・制作をした「邦楽ジャーナル」の編集部のかたがた(私は研究のため、「邦楽ジャーナル」の編集部を訪問していろいろお話を聞かせていただいたのですが、編集長をはじめとするこちらのスタッフも、純粋で真面目なこだわりに突き動かされていて、お話をしていて楽しく刺激的です)などに混じって、コンサートのあと夜遅くまで飲みながらのおしゃべりにまで入れていただき、至福のときを過ごしました。野坂先生と沢井先生はおふたりとも70代。「70代にもかかわらず〜」という表現はまるで失礼、それどころか、「ああいう人間になれるのなら、私も早く70代になりたい!」と思うくらい、おふたりとも強く美しく、志が高くバイタリティに満ち、そして信じられないくらい可愛らしい。こんなに魅力的な女性たちと時間をともにする機会を得ただけで、ほんとうに幸せです。

熊本に朝早い便で出発したため、私はなでしこジャパンが1—1に追いついた、一番肝心なところで家を出なくてはならず、感動の試合を見逃してしまったのが無念なのですが(でも、電車やバスのなかでフェースブックをじっと凝視し、いろんな友達が次々と試合の様子を興奮して投稿してくれるので、まるで実況中継を見ているようでした。私はツイッターはやらないのですが、ツイッターやフェースブックは、新たなスポーツ観戦の形式を生み出している気がします)、野坂操壽と沢井一恵というふたりのなでしこも、日本の誇りとなる女性たち!

2011年7月15日金曜日

カリフォルニア州、公立学校でゲイの歴史が必修に

ジェリー・ブラウン知事の署名により、カリフォルニア州は、同性愛者の歴史が公立学校の必修カリキュラムに取り入れられる最初の州となりました。社会科のカリキュラムや教科書に、同性愛者たちがどのように社会に貢献してきたかという視点が入れられることが必須となり、各学区では来年1月からこの課程を実現しなければいけないこととなります。

この法案は、自らがゲイであることを公表した初のカリフォルニア州上院議員であるマーク・レノ氏によって提出されました。カリフォルニアでは、黒人や女性の歴史はすでに必修カリキュラムの一部となっていたにもかかわらず、現在まで、このブログでも以前に言及した活動家ハーヴェイ・ミルク氏などの同性愛者については、教科書でほとんど触れられていませんでした。2006年に今回と同様の法案が議会を通過したにもかかわらず、当時の共和党知事シュワルツネッガー氏が拒否権を行使して法案はボツになったという経緯がありましたが、今回は民主党の知事となり、また、ゲイの10代の若者の自殺が相次ぐといった状況のなかで、この法案を支持する動きが強くなっていました。同性愛者はコミュニティのきちんとした一員であって、立派な社会貢献をしてきている、ということを学校で学ぶことによって、偏見やいじめをなくし、人々の多様性を重んじる精神を育む、という意図の法案。もちろん、反対派は、特定の見方を子どもたちに強要するものであると抗議をしていますし、このような動きはゲイへの偏見をかえって強める可能性もあるとの見方もあり、実際に学校でどのように指導や議論がなされていくのかは今後注目すべきところです。が、同性愛のことに限らず、若いうちから、世の中にはいろいろな人たちがいるということ、そうした「いろいろな人たち」が自分のすぐ周りにもいるということを知り、また、自分たちの身体やセクシュアリティについて健全な思いをもつようになる教育がなされることは、どこの社会でもとても重要だと思います。

2011年7月10日日曜日

ミネソタ国際ピアノ-e-コンクール

昨日は、大学一・二年生のときのクラスの同窓会があって(「あって」というか、私が言い出しっぺとなって企画したのですが)、たいへん楽しい一晩を過ごしてきました。前回の私の日本滞在中に、卒業後初めてこの集まりがあったのですが、卒業後20年、つまり、大学時代が人生のちょうど中間地点となったこの時期に、共にフランス語や体育の授業を受けた(さぼった)人たちと顔を合わせるのは、なんともいえない感慨があり、参加者全員、形容しがたい高揚感を味わったので、またときどきやりましょうということになって、今回の開催に至りました。20代や30代の頃は、自分のことで精一杯だったり、周りの人のことが気になったり競争心があったりして、同級生との関係も意外に難しかったりしますが、40代ともなると、みなそれぞれが、頑張っているなかでも、失敗や挫折も味わったり、仕事や家庭生活で軌道修正や再出発をしたり、あるいは大きな病気をしたりと、山あり谷ありの経験をし、そのなかで自分らしい人生を生きるようになってきているので、他の人に対しても、素直に謙虚に優しく向き合うことができるんだと思います。昨日も、そういう集まりでした。

まったく関係のない話題ですが、つい一昨日まで、ミネソタ州のセント・ポールで、ミネソタ国際ピアノ-e-コンクール(Minnesota International Piano-e-Competition)というジュニア・コンクールが開催されていました。イベント名になぜ「e」という文字がついているかというと、このコンクールでは、ヤマハCFIIISというコンサートグランドピアノに内蔵されたDisklavierという電子技術によって、演奏されるピアノの音がそのまま直接インターネット上で流されると同時に録音されるからです。アコースティックの楽器と最新の技術の融合によって、コンクールの模様が最高の音質で世界に伝えられるわけです。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』で紹介したように、2009年のクライバーン・コンクールが一部始終ネット中継されたのは画期的なことでした。が、技術というものは、一度できてしまえば当たり前になってしまうようで、今回のチャイコフスキー・コンクールやアマチュア・クライバーンを含め、コンクールではネット中継が当然という時代になってきているようですが、楽器から直接音が伝わるというこの技術もすごい。

そして、このコンクールは、出場資格が17歳までというジュニア・コンクールなのですが、課されている演目の難易度も量もスゴいし、出場者の演奏も、信じられないくらいレベルが高い。さらに、出場者の顔ぶれを見ると、『Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Music』でクラシック音楽におけるアジア人の台頭を本まるごと一冊使って論じたこの私でも呆れてしまうくらい、アジア人・アジア系が多い。チャイコフスキー・コンクールでも韓国勢がいろいろな部門でたいへん優秀な成績を収めていましたが、このコンクールではなにしろ、本選まで残った5人は見事に全員がアジア人またはアジア系。誰にも文句を言わせない圧倒的な力で一位となった香港のAristo Sham君は、こういうのを天才というんだろうなあと思わせる音楽性と技術的腕前。日本の尾崎未空さんもファイナリストのひとりとなり、カナダのAnnie Zhouさんとともに四位を獲得。いやあ、すごいなあ。そして、こういうジュニア・コンクールで優秀な成績をおさめる人たちのすべてが音楽家になるわけではなく、それこそ医者や弁護士や学者やビジネスマンになる人もいるんだろうから、彼らのうちの何人かが、20年後にはアマチュア・クライバーンに出場するのかもしれないと思うと、思うようにならない指や足(今回アマチュア・クライバーンに出て、自分がペダルの使い方を基本から勉強しなければいけないということを認識しました)に業を煮やしながら練習している自分が馬鹿馬鹿しい気持ちにすらなってきます。まあそれはともかくとして、才能があり努力を惜しまない世界の10代の若者たちの演奏には、プロのコンクールとも、アマチュア・コンクールとも違う感動がありますので、アーカイブされた動画を是非見てみてください。

2011年7月6日水曜日

ヒューマン・ライツ・ウォッチ チャリティ・ディナー

昨晩は、ホテルオークラで開催された、ヒューマン・ライツ・ウォッチチャリティ・ディナーに出席してきました。私はチャリティ・ディナーに自分で参加できるようなお財布事情ではないのですが、ヒューマン・ライツ・ウォッチの東京事務所代表を務めていて今メディア各方面で大活躍中の土井香苗さんと知り合いであることと、私より何十倍もお財布事情のよい友人(彼が私を土井香苗さんに紹介してくれた)がテーブルをまるごとひとつスポンサーしていて私をゲストとして招待してくれたことから、友達を何人も率いてこのディナーに出席することができ、たいへん貴重な体験をすることとなりました。

アメリカでは、社会運動をするNPOやオーケストラやオペラ(そしてもちろんクライバーン財団など)といった芸術団体など、さまざまな組織が資金集めをするために、いわゆるファンドレイジングのためのガラ・ディナーを開催することはよくあります。赤絨毯の上を歩いて会場に入る、まるで宮廷の舞踏会かと思うような豪華なものから、教会の庭や学校のグラウンドにテントをはって手作りの料理を食べるというものまで、規模はさまざま。私も、テント規模のファンドレイジングでならば、サイレントオークションで売るものを寄付(サイン入りの自分の著書、ちゃんと定価以上で落札されました)したこともあるし、ものを買ったこともあります(ワインとか、アクセサリーとか)。が、日本でもこうした種類のイベントがあるということは、よく認識していませんでした。でも、聞いてみたら、やはり日本ではこういう形のファンドレイジングは珍しいだろう、とのこと。今回の震災にあたってはもちろんですが、日本でもいろいろな団体に寄付をする人はいるけれど、苦しんでいる人たちを助ける資金を集めるために、こうした大々的なイベントで、着飾った人々がおいしいお食事をいただきながらお話や音楽を聴く、という形式はあまり日本には馴染まないのだろう、と。それもそうかもしれません。

でも、昨晩のディナーは、日本でも組織力のある団体はだんだんとこういう形の資金集めをするようになっていくのかもしれない、と思わせるような、素敵なイベントでした。ヒューマン・ライツ・ウォッチの活動をビデオなどで効果的に紹介し、エチオピア人権評議会の元事務局長として人権運動に携わってきたヨセフ・ムルゲタ弁護士を迎え賞を授与し、そして、ヒューマン・ライツ・ウォッチの資金を集めるためのオークションをする、という、たいへん充実したプログラム。プロのオークショニアによるライブオークションでは、それぞれのアイテムに何十万円という値段がどんどん競り上がっていってすべて落札されるし、中東や北アフリカでの調査ミッションのための募金や、日本での震災孤児たちの人権を守る活動のための募金は、それぞれ一口50万円、5万円という値段にもかかわらず、何十人もの人たちがためらわず手(正確には手ではなくオークションの番号のついた団扇型の札)を挙げる。そうかー、日本にもこういう場があって、こういう人たちがいるんだなあと、感心。日本も社会の格差化が進んでいるから、いるところにはお金持ちがたくさんいるのはわかっていたけれど、お金のある人が、自分の贅沢のためにだけお金を使うのではなく、こうした社会的な目的のためにも寛大にお金を出してくれるのだったら、それはもちろん立派なことで、おおいにやっていただきたい。そして、どんな高い志を掲げても、個人の善意だけでは世の中は動かない。社会を動かそうと思ったら、高い志と深い善意に加えて、専門的な知識と大きな財力(をもった人たちの人脈)と高度な組織力が必要。つまりは、「政治力」が必要。今の日本、本業の政治家たちにその政治力がまるっきりないのが明らかだけれども、こういうところで優秀かつビジョンのある人たち、しかも土井香苗さんのような若い人たち(すっかりオバサン根性になった私にとって、自分より若い人はみんな「若い人」:))が、これだけ立派な組織づくりをしていることには、心から脱帽します。私にはぽーんと寄付をするような財力はないけれど、なにか別の形で私なりの貢献ができたらと思っています。みなさまも、どうぞヒューマン・ライツ・ウォッチの活動を知り、支援してください。

2011年7月4日月曜日

浮気ありの幸せな結婚生活?

前にご案内したとおり、7月2日(土)に、アマチュア・クライバーン参加者5名によるコンサート、「ピアノ・マラソン in 東京」を開催しました。おかげさまで多くのかたに来ていただいて、楽しい会となりました。司会をしたワタクシが言うのもなんですが、ただ演奏があるだけでなく、このコンクールに出場を決めたきっかけや、いざフォート・ワースに行ってみて一番驚いたことなど、出演者に一言ずつ話してもらうというコーナーを設けて、パーソナル・タッチがあったのもよかったと思います。肝心のピアノも、皆コンクールを経て一皮むけた(?)感あり、5人それぞれのキャラクターがよく表れたいい演奏だったと思います。私自身の演奏は、小さなミスはたくさんあったものの、大惨事は免れ、一応自分が表現しようとしている精神にはおおむね忠実だったと思います。自分としてはまあ70点くらいの評価。本番を繰り返すにつれて、やはりいろいろなことを自分なりに学習するものです。来ていただいた皆様から、企業メセナ協会が立ち上げた、東日本大震災 芸術・文化による復興支援ファンドへの募金を集めたのですが、アマチュア5人の演奏で集めたにしては上出来といえる額が集まり、さっそく昨日「アマチュア・クライバーン参加者主催コンサート有志」の名で寄付を振り込んできました。ご協力いただいた皆様、どうもありがとうございました。

さて、まるで関係ないですが、先週末のニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された記事がたいへん興味深い。タイトルはMarried, with Infidelities、つまり、「既婚、浮気つき」。結婚したら配偶者以外とは性的関係をもたないという一夫一婦制(ただしここでは同性関係についても論じられているので、一夫一夫、または一婦一婦の場合もあり)の原理が、幸せで末永い結婚生活を維持していくのに果たしてどれだけ現実的か、との問いかけをするもの。性や恋愛・結婚についてのアドバイス・コラムで著名なDan Savageの論を中心に、結婚した男女それぞれにとってのセックスの意味や、結婚生活における性生活の位置づけ、性的に満足するということはどういうことかなど、なかなか多面的にとりあげていて、いろいろ考えさせられます。結婚生活においては、性的快楽自体に至上の意味があるというわけではないが、性的満足は二人の関係のひとつの指標ではあるがゆえに、セックスは大事に考えるべき。そして、長期的に幸せな関係を続けていくためには、セックスにおいてお互いが「GGG = Good, Giving, Game」、すなわち、「上手で、相手に尽くして、いろいろなことにオープンである」、ということが大事。ふたりのうちのどちらかが、ある行為に興味があるのだったら、もうひとりは前向きにそれを楽しむ姿勢がなければいけない。相手の欲求にどうしても自分が応じられないというのであれば、そしてその欲求を満たすことがその相手の性的満足度に大きな意味をもっているのであれば、相手がそれを他の人間と満たすことを許容することが、結果的には結婚生活にプラスになる可能性もある、と。ただし、あらゆるフェティッシュをなんでもかんでも配偶者以外の相手と満たせばいいというわけではもちろんない。自分の欲求をどれだけ相手に正直に話すか、そして相手の欲求に対する自分の反応をどれだけ正直に伝えるか、ということは、お互いにとって相当にハードルの高い課題には違いない。また、配偶者以外の相手となんらかの関係をもったことが、結婚生活を円満にする場合もあるけれど、それが深い亀裂の始まりとなるケースも多々ある。一夫一婦制でない関係を上手く維持していくには、一夫一婦制を維持していくのと少なくとも同じくらいの努力が必要で、浮気を正当化するために安易に選ぶ道ではない、と。

私は結婚していないので、これにかんして自分がどう感じるかは、理屈でしかわかりませんが、もっとも考えさせられるのは、セックスそのもののことよりも、「配偶者が自分の欲求をつねに100%満たしてくれると考えるのは非現実的」という前提。性的欲求だけでなく、知的欲求、感情的欲求、ライフスタイルについての欲求など、人はいろいろなものを求めるけれど、どんなに深く愛し合っている者同士でも、それらの欲求をすべていつもお互いが満たすということはちょっと無理。それでも、その人との人生を大事にしていこうと思うならば、自分の欲求を結婚生活の外で満たすことで、配偶者への不満をためないようにする、というのは、理にかなっている気もします。頭のなかではいろいろと相手に求める条件のリストがあっても、実際に好きになる相手はその条件のごくわずかしか満たしていない人物であったりするわけで、それなら、他の条件は別のところで満たせばよい、と。ただし、ことがセックスとなると、たんに肉体的欲求の満足というわけにはいかず、本人にとっても相手にとってもいろいろと複雑な感情が伴いがちなので、そうもプラクティカルに解決できないことが多いのでしょうが。

ともかく、なかなか面白いので、長文ですが頑張って読み通す価値ありです。