昨日は、本選出場者たちがオーケストラとのリハーサルをするあいだ、聴衆は休憩の一日でした。そのあいだ、私はコンクールのウェブキャストの司会ホストをつとめているJade Simmonsにインタビューすることができました。Jade Simmonsは、みずからも2005年のクライバーン・コンクールの予選オーディションを受けたというピアニストで、現在は演奏活動のほかに、講演や、イベントのプロデュース、執筆など、多岐にわたる分野で活躍し、芸術界の新星として注目を浴びているヒューストン在住のアフリカ系アメリカ人女性で、ミス・アメリカ・コンテストでも準優勝したという経歴の持ち主。音楽についての高度に専門的な知識をもち、舞台で演奏する立場を理解し、口頭でも文章でもきわめて効果的なコミュニケーション能力があり、かつ、美しくグラマラスな容姿とチャーミングで人懐っこい性格、ということで、このウェブキャストのホストとしては理想的な人物。コンクール開催中、毎日ずっと生中継をしながら、ツイッターなどでの発信やハッフィントン・ポストにブログ執筆などを続けて、きわめて忙しいにもかかわらず、せっかくの休みの一日にインタビューに応じてくださって、大感謝です。以下、そのインタビューを一部抜粋・編集してご紹介します。
吉原(以下Y):前回2009年のクライバーン・コンクールがまるごとインターネットで生中継されたのは、非常に画期的なことでしたが、そのときにホストとして声がかかったのにはどんな経緯があったんですか。
Simmons(以下S):クライバーンとのかかわりは、まず私自身が2005年にクライバーン・コンクールのオーディションを受けたときに始まったんです。残念ながらオーディションに受からなかったのでコンクールには参加できなかったんですが、クラシックのピアノ界でアフリカ系アメリカ人の女性は珍しいということや、私がミス・アメリカに出場したことがあるといったことが話題を呼んで、そのときにずいぶんメディアの注目を集めたんです。クライバーンのオーディションには落ちたものの、同じ2005年に、ダラス・シンフォニーとの共演デビューをして、演奏の機会が増えてきました。そして、たまたまクライバーン財団が主催しているコンサート・シリーズの出演者が急にキャンセルをしなければならなかったときに、フォート・ワースに車で行ける距離のところに住んでいる私に、「明日リサイタルできますか」と打診があったんです。もちろん、若いピアニストとしては、そんな機会は逃せないので、「やります」と言って、その日一日猛練習をして、スクリアビンの音楽とカンディンスキーの絵を合わせたリサイタルをしました。そのあと、私は学校での音楽教育にもとても興味があったので、クライバーン財団の教育プログラムであるMusical Awakeningsにかかわるようになって、公立学校に出かけて行ってレクチャーと演奏を合わせた講演をするようになりました。演奏することと、人前で話をすることの両方ができる音楽家というのは珍しいので、(当時のクライバーン財団長の)リチャード・ロジンスキにとても気に入られて、財団の活動とのかかわりが増えていったんです。それで、2009年にクライバーン・コンクールがウェブキャストをすることになったとき、リチャードが是非私をホストに、と言って、私がつとめることになったんですが、それまで講演などはしたことはあっても、カメラの前で人のインタビューをするといった経験はまるでありませんでした。当時はウェブキャストのクルーは私のことなんてまるで知らなかったので、「こいつはいったい誰だ?」と思っていたはずです。私がテレビのパーソナリティかなにかだと思っていた人が多かったみたいで、私が本物のピアニストだということはコンクールの後まで広くは知られていなかったようです。
Y:2005年のオーディションのときは、なにを演奏したんですか?
S:バーバーのソナタと、ショパンのスケルツォニ短調と、リストのソネット数曲です。クライバーンの他にも、いくつもコンクールを受けて、後でConcert Artists Guildのコンクールに受かったので、マネージメントがついて演奏活動を続けることができるという、恵まれた立場になりました。とにかく、そうやって自分がコンクールに出た経験があり、審査員や聴衆の前で演奏をする、それも、クライバーンのような大きなコンクールで、自分の人生がここでの演奏にかかっている——実際にはそうじゃないんだけれど、少なくともそういう気持ちになる——なかで演奏するということはどういうことかをわかっているので、ウェブキャストのホストをするときも、演奏について批判的なことを言うことは一切せず、まず第一に、出演者に対する尊敬、というところから出発することを心がけています。だいたい、出演者の経歴を読んだだけでも、みんな素晴らしい業績の持ち主ばかりですから、それだけで尊敬の念を抱く以外にはありません。そして、演奏を聴くときには、とにかく、その素晴らしさに素直に感動し、畏怖を感じ、「自分には絶対あんなことはできない」と思うことを自分に許すのが大事だと思っています。ピアノ音楽への知識がたくさんあるアマチュアの聴衆が、ウェブキャストで演奏を見て、「今あそこでメモリー・スリップがあった」だの「あそこでミスがあった」だのとあれこれ文句をつけて、自分がよくないと思った演奏のあとで、ホールの聴衆が総立ちの拍手をしているのを見て、バカにしたコメントを投稿したりするのは、とても悲しいことだと思います。
私は、最近は若い音楽家のキャリア・コーチングをすることがよくあるのですが、そういうときに私はまず、「あなたは、キャリアを築くにあたって、コンクールが自分の道のひとつだと思いますか?もしもそう思うんだったら、まずは、自分自身の長所と短所を冷静に理解することから始めましょう」と言うんです。私自身は、自分が審査されているということがわかっているときには、自分のなかでも最悪の演奏になるんです。もちろん、コンサートでもある意味では評価されているのですが、コンクールのような場所で、技術的なハードルをきちんと超えられるかといったことを見られているような状況では、なかなかいい演奏ができないんです。でも、突然入ったコンサートなんかでは、本番の24時間前になってコンチェルトを仕上げろと言われれば、やれるんです。生のコンサートでは、聴衆と結びつきたいという本質的な深い欲求が私のなかにあるからです。ですから、負けず嫌いな性格の私としてはある意味皮肉だけれど、私にとってはキャリアを築くための道としてはコンクールは向いてないという結論にいたり、コンクール以外の道で演奏活動を切り開けるかどうか試してみようと思うようになったんです。だから、コンクールには私には向いていなかったけれど、このコンクールの場で、若い出演者たち、それも19歳や20歳のピアニストたちが、堂々と舞台に出て自分をさらけ出しているのを見ると、音のミスとかメモリースリップといったことに言及する気持ちにはまるでなりません。もちろん、個人的な好き嫌いはあるし、誰それは今日は調子が悪かった、といったことはわかるけれど、そうしたときに出演者の頭のなかでなにが起こっているかがわかるからこそ、批判的なことは言う気にならないんです。とくに、大きなミスをした後で、聴衆が立って拍手をして「ブラボー!」なんて言っているときに、自分は「いえいえ、みなさん、今の演奏はひどかったんです。第3楽章で大失敗があったんですよ!」と説明したくなる、けれど、笑顔でありがたく拍手を受けてお辞儀をしなければいけないといった気持ち、よくわかるんです。そうしたときに、メッセージボードで間髪入れずに、演奏のミスをあげつらうような聴衆が、残念ながらたくさんいるんです。
(中略)
S:私もDeljavanが本選に行けなかったのはとても残念です。彼は前回のコンクールにも出ていたということで、たくさんの聴衆が彼を応援していたと思います。顔の表情とか演奏中に声が出るとかいった彼のエキセントリックな点は、前回も注目を浴びていたけれど、今回は、彼自身がそういったことに折り合いをつけて、自分自身をそのまま出す、といった姿勢でいたように思います。でも、昨日の彼の演奏を聴いた後で、彼がどうなるだろうと心配はしました。彼のベートーベンは、私自身の解釈や演奏とは全然違うけれど、本当に素晴らしいと思いました。でも、審査員がはたしてどう思うか、心配な気持ちはしました。
私はあなたの本(Musicians from a Different Shore)を是非読んでみたいと思います。というのも、アジア人女性の出演者が、聴衆や、過半数がヨーロッパ系の白人男性の審査員にどう見られるか、ということに興味があるからです。私自身、アフリカ系アメリカ人女性のピアニストとして、いろいろな経験をしてきました。演奏をするようになって、レビューが出たりするようになると、そのレビューの行間を読んで、「私が勝手に深読みしているのかしら、それともここにはなにかあるのかしら」と思うことが多々ありました。「情熱的な演奏」といった表現はよくされるいっぽうで、「モーツアルトも驚くほど洗練されていた」などと書かれると、「なぜそれが驚くことなのよ?」という気持ちになります。私の文化にもっと近いと思われる音楽、リズムがきいていて迫力のある音楽だったら、そういうことは言われないんです。
Y:ガーシュインとか?ゴットシャークとか?
S:そうそう、ガーシュインとかならもちろんです!少しでもジャズの要素が入ったものや、そうでなくても、たとえばプロコフィエフなんかだったら、リズムをきかせて強い演奏をすれば驚かれないんです。それに対して、10代のときに受けたベートーベン・コンクールで「熱情ソナタ」を弾いたときに、審査員の評に、「ラフな演奏」といった表現がよくあったんですが、そういう表現をみると、「私の演奏は本当にラフだったのか、それとも審査員が私の姿をみてそうした印象を投影しているのか」と思わずにはいられませんでした。そういうことを考えると、Deljavanのベートーベンや、前回のコンクールのヨルム・ソンのプロコフィエフのように、とにかく激しい演奏をみると、審査員がなにを考えるのか、興味があるところです。私はチャイコフスキー・コンクールのウェブキャストでは、ヴァイオリン部門を担当したんですが、ものすごい腕前の日本人女性の出演者がいました。彼女は、大きな身体をした男たちには負けない、というかのように、ものすごく力の入った音を出す人で、野性的な音ではあったけれど、人を引き込む演奏だったんです。もしかすると、日本人女性が、アジア人女性のステレオタイプにまったく合わない、そういう野性的な演奏をするということに、審査員がなにかしっくりこないものを感じる、という部分があるのかどうか、気になります。もうひとり、韓国人の女性で、もっといわゆる女性的な演奏をした人がいましたが、ふたりとも同じくらいのレベルだったけれども、韓国人女性のほうが上位にいきました。
Y:音楽家にとって、ビジュアルあるいは身体的なイメージはどのくらい重要だと思いますか?とくに女性にかんしては、ドレスが短すぎるだの肌が露出しすぎだの趣味が悪いだのといろいろと言われがちですが、そうしたことにかんしてはどう考えていますか?
S:私はイメージづくりということ自体は大好きです。もっと多くの音楽家が、そうしたことに注意を払うべきだとも思います。服装にかんしては、とにかく演奏の邪魔にならないことが第一で、私はスーツケースに放り込んで、そのあとそのまま着られる、シワにならないもの、そして演奏中に楽なドレスを着るようにしています。素敵なドレスは大好きですが、ただ、これはコンサートですから、ドレスは音楽の後押しをするようなものであるべきだと思います。私は以前は衣装のスポンサーがいたんですが、その人は、ミス・コンテストの衣装を専門にする人だったので、「これはミスコンじゃなくて、コンサートなので、ドレス姿で舞台に歩いて出たとたんに聴衆がわっというようなドレスである必要はないんです」と何度も強調しました。
身体的なことにかんしては、演奏者の身体的な癖は、可能な限りは矯正するようにするのは、教師の責任だと思っています。たとえば、私は顎を前に突き出して演奏する癖があるので、クビや背中に負担がかかって、頭痛の原因になりがちです。そういうことを直してくれる人たちがいるので、今では意識的にそれをしないようにしています。また、演奏中に私は顔を動かします。Deljavanほどではないですが、彼のような人とは共感するんです。また、弾いている最中に声が出る、ということもよくありました。まだ結婚したばかりの頃に、私が練習中に声を出しているのを夫が聞いて、「演奏のときもそうやって声を出すのか?」というので、「意識はしてないけど、出しているような気がする」というと、「聴いているほうにとっては気が散るからやめたほうがいい」と言われて、それも意識することで多少減らすことができました。Deljavanがどうして声を出すのか、私にはよくわかるんです。ベースのラインであれなんであれ、声を出していると、より自分が音楽の一部として感じられるからです。でも、ときどき、自分の声のほうがピアノの演奏よりよかったりするんですよ!(笑)私がノースウェスタン大学在籍中についていた先生があるとき、「あなた、クレッシェンドするときにいつも眉を上げているのは気づいている?」と言ったことがあったんですが、そんなこと私はまるで気づいていませんでした。先生曰く、眉は上がっているけれど、実際のクレッシェンドはできていない。眉を上げたために、クレッシェンドができているつもりになっていただけなんです。眉を上げる力を、指にまわしたほうがいい、ということに気づいたのは、その先生の指摘があったからです。ですから、演奏の少しでも邪魔になっているような身体的な癖があれば、それをなるべく矯正するのは、教師の責任だと思います。もちろん、いったん舞台に出て演奏をする段になれば、もっと自由に自分を出せばいいのですが、トレーニングの段階では、なるべくそうした癖はコントロールするようにしたほうがいいと思います。Deljavanのような人にとっては、あまりにもそれが彼の一部になっているので、もしそれを直そうと思ったら、数年間なんらかのセラピーのようなものをしなければいけないでしょうが、私は彼がそうする必要があるとはとくに思いません。彼がドヴォルジャークのピアノ五重奏を弾いているときに、弦の人たちと呼吸を合わせて迫力のある大きな音で止まらなければいけないときに、彼がまるで海賊のようなオソロしい顔をして「がーん!」と和音を鳴らした瞬間がありましたが、その顔が音楽と合っていて最高でした。(笑)でも、彼の顔の動きはあまりにも個性的なので、レビューが出るときも顔のことばかりになってしまって、演奏でなく顔のレビューのようになってしまうのが心配です。
Y:ユジャ・ワンのコンサートのレビューが、演奏についてはまるで触れずにドレスがどれだけ短かったかということばかり書いてあるみたいに。
S:でもあのドレスはいくらなんだって短すぎたでしょう!(笑)あんな身体をしていたらああいうドレスを着たくなる気持ちもわかるけれど、私はまずペダルのことを考えると、あれじゃあ最前列に座っていたお客さんは中がまる見えのはずだってずっと考えていました。それをおいてもあのドレスは彼女を引き立てるドレスじゃなかったと思います。他にもいくらでももっと素敵なドレスはあるはず。といったわけで、ユジャ・ワンのドレスについては、私はたくさん意見があるんですが(笑)、それはそれとして、彼女は演奏自体は文句なしに素晴らしいですからね。ラン・ランも、最近は顔や身体の動きがだいぶ落ち着いてきたようですし、私は長いことかれの生演奏を聴いていませんが、音楽的にもずいぶん成長したと皆が言っています。
私は、クラシック音楽の世界では、世間からセンセーショナルな反応を受ける演奏家に対する拒否反応のようなものが存在するのではないかと思います。それを表立って言う人はいないけれど、クラシックのピアニストが聴衆をキャーキャー言わせる、といった状況に、納得のいかないものを感じる人は多いんじゃないかと思うんです。たとえば、予選でSteven Linがすごく聴衆の人気を集めました。
Y:こんなことを言うのもばかばかしいけれど、彼はほんとうにキュートですもんね(笑)。
S:そうそう!あなたのような、専門的な視点から批評をするような人でもそう思うんですから、そういう反応はきわめて自然なことなんですよね。でも、キュートだとかなんとか、そういうことを思うのは間違っている、と自分に言い聞かせてしまったりする。Steven Linにかんして言えば、彼はConcert Artist Guildのコンクールで優勝したということで、注目するようにと人から言われていたので私も注意して見ていたんです。予選1回目のリサイタルは素晴らしいと思ったけれど、私にはよくわからなかったけれどどうやらVineのソナタで大きなミスがあったらしい。でも、2回目のリサイタルのとき、彼が舞台に出てくるやいなや、聴衆はヒューヒュー歓声をあげて大拍手をしている。彼がなにか大発言をしたわけでもないし、セクシーな歌詞の歌を歌ったわけでもない。彼はピアノを弾いただけなのに、聴衆にそれだけの反応を呼び起こすということは、魔法なようだと思うんです。それを、聴衆に媚びた演奏、と解釈することもできるけれど、私はそうじゃないと思うんです。彼の演奏を楽譜を見ながら聴いていたら、たとえば、アッチェレランドの部分で、聴衆が乗ってきていると思ったら、彼はさらに少し加速する、楽譜には必ずしもそう書いていなくても、少しだけその勢いを足してみる、そういった、聴衆との本能的なコネクションを彼はもっていて、聴衆がほしがっているものを差し出す能力を、彼はもっているんだと思うんです。それで聴衆はとりこになって、休止のときには息を止めて、「彼は次になにをするんだろう?」と注目する、すると彼はその休止をほんの少しだけ長引かせる。そういう魔術のような要素は、とてもスリリングなものだと思います。
Y:それこそ生演奏の醍醐味ですもんね。
S:そのとおり!でも、世界から集められた審査員というのは、みんなとても尊敬を得ている立派な演奏家で、昔ながらのトレーニングを受けてきた人たちです。彼らのなかに、Steven Linが受けるような反応を聴衆から受けた人というのは、いないんじゃないかと思うんです。(このコンクールの審査員には入っていませんが)アルゲリッチは唯一の例外かもしれませんが、他の審査員たちは、たとえばメナヘム・プレスラーのように、彼が通ると皆がひれ伏すような存在の人でさえ、そういう類いの反応を聴衆から受けたことはないんじゃないかと思うんです。彼の靴音が舞台に聞こえただけで聴衆が興奮するような経験は、したことがないんじゃないでしょうか。そして、そういう反応を、品のないものとして拒絶する人もいるんじゃないかと思うんです。そしてまた、そういう聴衆に訴えかけるような演奏を、曲芸をするサルのような、品のないものと解釈する審査員もいるんじゃないかと思うんです。そうした解釈を批判するつもりはありません。ただ、そういう解釈もありうるんじゃないか、と思うだけです。ただ、Steven Linのような人にかんしては、審査員のそうした反応を気にして、自分らしい演奏をやめてしまうようなことはしてほしくないと思います。聴衆とのコネクションがあるからこそ、ラン・ランのような音楽家が生まれるわけですからね。聴衆の求めているものを差し出したり、逆にちょっと出し渋ってみたりといった駆け引きが効果的にできる音楽家というのは、大事なことだと思います。クラシック音楽界には、そういうことのできるスターが必要だと思います。キュートならそれにこしたことはないですしね。
Y:音楽家が、音楽以外の言葉において雄弁であることは重要なことだと思いますか。
S:今の時代には、それなしではやっていけないと思います。今の時代には、きちんとした言葉で自分の考えを語ることができて、ソーシャルメディアを有効に使うことができて、メディアといい関係を築くことができなければ、音楽家としてキャリアを築くのは難しいと思います。私自身のキャリアは、演奏に加えて、人前で話すことができる、ということで大きく助けられています。プレゼンターがプログラミングをするときに、クライバーン・コンクールの優勝者だけでなく、私のように、本番の一日前に到着して地元の大学で講演をしたり、テレビやラジオに出演したりすることができる人間をブッキングする、ということはよくあることです。そして、講演などのときに、Jade Simmonsの宣伝ばかりでなく、共演するオーケストラや主催団体がどんなイニシアティブでどんなプログラムに取り組んでいるか、といったことについて積極的に広報活動ができれば、私はその団体の大使のような役割を果たすわけです。さらに、地元の小学校に出かけて行って演奏をすれば、その学校は、「ダラス・シンフォニーがあのピアニストをうちの学校に連れてきてくれた」ということを覚えていてくれて、ダラス・シンフォニーの宣伝にもなるわけです。ですから、若い駆け出しの音楽家にとっては、そういう活動ができれば、演奏を含む「パッケージ」として自分を売り込むことができます。マスタークラスをするにしても、ピアノの演奏そのものだけでなく、音楽そのもの以外の、イメージづくりなどといったことについて、ピアニスト以外にも興味のあるような内容を扱うようにしています。そうやって、演奏そのもの以外の方法でもコミュニケーションができるということは、とても重要だと思います。今は、生演奏の他にも、インターネット上でファンやサポーターを築くことができて、私にとってはそれがとても重要な要素となっています。今の時代には、そうしたことに積極的にかかわっていくことが大事だと思うので、私はネット上でも、舞台裏の話題を取り上げたりといったことをいろいろしています。
Y:最後に、今の音楽界において、コンクールというのはどんな役割をもっていると思いますか。
S:一般的な意味では、コンクールは悪いものとは思いません。コンクールというものがあることで、音楽家はより高いレベルを目指すようになるからです。いろいろな分野で、コンクールというものが存在しなかったら、現状維持のままで終わってしまうのではないかと思います。ただ、ピアノ・コンクールにしろ、ミス・コンテストにしろ、どんな形のコンペティションであれ、参加を考える人はまず、「これは本当に今の自分がするべきことか」「これに参加する力が自分にあるか」「これに参加することで、自分が求めているものが本当に手に入るのか」ということをじっくり考える必要があると思います。そして、「もしもそれが手に入らなかった場合——実際には、手に入らない可能性のほうが、手に入る可能性よりも大きいわけですから——、それによって受ける打撃があまりにも大きくて、自分の目標を追求するのをやめてしまうことにならないか」といったことも自分に問いてみる必要があると思います。私はかつて、何ヶ月もそのために準備してパナマのコンクールに出たことがあるんですが、そのとき、パナマまで飛行機で出かけておきながら、直前になって棄権したんです。結婚したばかりのときだったんですが、パナマまで行って、予選の前日に棄権したんです。その理由は、準本選のプログラムが、自分の納得のいくレベルまで準備できていない、ということでした。(笑)「予選を通過してしまったらどうしよう」なんていう心配をしていたら、予選でいい演奏ができるはずはありません。(笑)それに、また、アフリカ系アメリカ人女性であるということで、まるで自分の人種全体を肩に背負っているようなプレッシャーを感じてもいました。で、夫には呆れられたけれど、そのまま飛行機に乗って帰ってきたんです。その後、何ヶ月もピアノにまったく触らないままの状態が続きました。精神的にすごく打撃を受けたんです。あの予選に出て演奏ができないようじゃ、演奏家としてやっていく資格がない、と思ってしまったんです。でも、それから何年もたった今になって振り返ってみると、「あのときもしピアノをやめてしまっていたら、自分はどうなっていただろう」と怖い気持ちになります。今では、実際に私の演奏を聴きに来てくれる聴衆がいて、演奏家としてちゃんとやっているわけですから。ですから、コンクールに参加するにあたって、コンクールがすべてだと勘違いしないことが大事だと思います。自分がなぜコンクールに出るのか、明確な目的意識をもってのぞむのならいいと思いますし、出る以上は優勝を目指してのぞむのはいいと思います。私自身、コンクールに出るときは、「準本選まで残れればいいや」なんていう態度ではのぞみません。出る以上は優勝を目指してのぞみます。クライバーンのオーディションを受けたときも、自分は優勝して、クライバーンで優勝する史上初のアフリカ系アメリカ人女性になるんだ、という気持ちでいました。でも、それが実現しなかったときにどうするか、それを自分のなかではっきりさせておくこともとても大事だと思います。
もちろん、世の中には、曲がったことの起こるコンクールも存在します。あるコンクールでは審査員のあいだで賄賂が行き来するといったことを、審査員自身から聞いたこともあります。でも、クライバーン・コンクールにかんしては、可能な限り演奏者にとって最前のシステムが採られていると思います。出演者が師事している人が審査員に入っている場合などについても、可能なかぎり客観的な審査がなされるようなシステムがとられています。ただ、出演者には、とにかく打たれ強くタフな精神力が要求されます。そういう精神力とはっきりした目的意識をもってのぞめば、結果にかかわらず出演者にとってはいい経験になると思います。
見ている聴衆にとってのほうが辛いこともありますね。Deljavan自身はすでに次の目標に向かって進んでいるのに、彼を応援している聴衆のほうがショックで立ち直れない、という状態なんじゃないでしょうか。
この通り、彼女はたいへん聡明で雄弁で快活な女性。彼女のような人物は、コンクールにとってもクライバーン財団にとっても、最高の広報武器であるに違いありません。
さて、昨日の夕方は、2009年のコンクールでも開催された(拙著で言及)、動物園でのパーティがありました。ヴァン・クライバーン氏本人がいないのが淋しいところでしたが、それを除いては、前回同様、コンクール出演者や審査員たち、財団スタッフ、ホストファミリー、ボランティア・スタッフ、その他のファンたちが大勢集まり、暑いテキサスの湿気のなかでも楽しいパーティでした。コンクール開催前のパーティでサイズを測ったカウボーイ・ブーツを出演者たちが受け取り、並んで座った男性出演者たち(女性の出演者はパーティには欠席していたので、男性ばかり)の前で披露された若い女性のテキサス・ラインダンスを照れながら見て、そのあと彼女たちに手をひかれて踊るSteven LinやLuca Burattoの姿がサイコ〜。(笑)こういうところが、クライバーン・コンクールのよさであります。
さて、今晩からはいよいよ本選のコンチェルトが始まります。