2013年6月10日月曜日

阪田知樹くんインタビュー

第14回クライバーン・コンクール終了の翌日、これまでコンクールを連日追ってきた人たちは、なんだか放心状態のまま今日一日を過ごしているのではないでしょうか。私も、会場で生演奏を共に経験した人たちだけでなく、ピアノ仲間たちとフェースブックでのチャットを通して、あの演奏はどうだったの、この人はどうだったのと、ほとんどリアルタイムで密な意見交換をしていたので、急にそれがなくなって、少しほっとしたような(いくらなんでも、音楽業界の人間でもないのに、あれ以上毎日ピアノ音楽ばかり聴き続けていたら、ちょっと気が変になりそうです)、でもやはり寂しいような、不思議な気持ちです。

さて、このコンクール最年少の出場者で見事本選進出を果たした阪田知樹くんに、先ほどインタビューをすることができました。昨日最後の本番そして結果発表があったばかりなのに、今日も写真撮影やインタビューなどが何時間も入って、演奏が終わってもなお忙しい日が続いているそうです。疲れがたまっているはずなのに、とても気持ちよくインタビューに応じてくださって、感謝しています。以下、インタビューを一部抜粋してご紹介します。

吉原:最後の演奏と結果発表から一晩たって、今の気分はどうですか。
阪田:やりとげた、という気持ちです。こんな大きな舞台で本選まで行けたということで、自分にとっては大きな収穫でしたし、もちろんとても光栄なことでもありました。そして、自分が持ってきたレパートリーを全部弾けたのでとてもよかったです。また、アメリカの聴衆はとても反応がよく、自分がよく弾けたと思うとみなさんが本当にそれに応じた反応をしてくださるので、気持ちよく演奏できました。もちろん、完璧な演奏ができたわけではありませんが、自分としてはいい結果だったと思っています。
吉原:今回このコンクールに出ることにしたのはなぜですか。数ある国際コンクールのなかでも、クライバーンを選んだのはなぜですか。
阪田:そうですね、今回はクライバーンとエリザベート妃コンクールが重なっていたので、どっちにしようか、両方出してみようかなどと考えていたのですが、決めるにあたってまず、自分の演目が、アメリカとベルギーのどちらに合うか、ということを考えました。それから、僕はこれまでアメリカに行ったことがなく、自分が好きなピアニストがアメリカで活躍しているので、そのアメリカに行ってみたかった、というのもあります。2009年に辻井伸行さんが優勝したときの様子をテレビで見て、バス・ホールの大きさに驚いて、あんな大きな舞台で演奏してみたい、といった憧れももっていました。
吉原:去年の浜松のコンクールでの演奏を聴いた人によると、そのときから半年しかたっていないとは思えないほどの上達ぶりだ、ということでしたが、このコンクールの準備のためには具体的にはどんなことをしてきましたか。
阪田:とくに普段の練習と変わった準備はしていないのですが、演奏に対する姿勢が変わってきた、というのはあると思います。前は、とにかく上手く弾こう、ということしか考えていなかったのが、だんだん、自分でしかできない演奏をしよう、と思うようになりました。今回のコンクールだと、予選のリサイタルはそれぞれ45分間弾くわけですが、その45分間のあいだに、聴いている人を退屈させない責任が自分にあるんだ、と思うようになりました。そして自分だからこそできる演奏を、最大限提供する、ということを心がけるようになりました。
吉原:香港でのオーディションに合格して、ここに来ることが決まってからは、どんな気持ちでしたか。
阪田:僕は、オーディションやコンクールでも、それほど結果を気にしないたちなので、あまり気にかけていなかったのですが、出場が決まると、ネット上でも名前が発表されるので、周りの人たちからの注目が増えました。
吉原:それをプレッシャーに感じましたか。
阪田:僕は30人の中に入って、予選で45分のリサイタルを2回弾かせてもらえるだけでも大きな収穫だと思っていたので、あまりプレッシャーとは思っていませんでした。初めてアメリカに来て、最年少の19歳でもあるので、とくにプレッシャーを負う必要もなく、とにかく楽しまなければ損だと思ってのぞみました。
吉原:2009年の辻井さんの優勝の話が出ましたが、そのときコンクールの様子を追っていましたか。
阪田:2009年には僕はまだ高1で、国際コンクールに自分が出るなんてことは考えたこともなかったので、辻井さんのことも、テレビで結果を見て知ったくらいでした。ですから、今回自分が出ることになっても、辻井さんの優勝のことをとくに意識するということはありませんでした。
吉原:クライバーン・コンクールについては毎回ドキュメンタリー映画が制作されていますが、そういうものを見たことはありましたか。
阪田:自分がこのコンクールを受けることが決まってからDVDを見ました。そして、出場が決まると、東京まで取材の人が来たりしたのでびっくりしました。
吉原:今回のコンクールに出場するにあたって、自分の目標はなんでしたか。
阪田:とにかく自分らしい演奏をする、ということだけ考えていました。ですから、本選まで行って、その6人のなかに自分がいることが信じられない、という気持ちでした。他の人たちと比べて引け目を感じるということではありません。これまでも、いろいろな立派な先生たちの前で弾く機会をいただいて、よいと言われていたので、ファイナルに残ったほかの人と比べて自分が劣っているとか、そういうことは感じないのですが、それより、以前の自分との違いに驚いた、ということです。ここ数年、年々自分がまるで違う位置にいる、ということを実感しています。高1のときに国内のコンクールに出て、その翌年高2のときにヨーロッパに行き、そして高3のときにまた海外のコンクールに出たりコンサートをしたりするようになり、大学に入ってここに来る、というふうに進んできて、変に背伸びすることなく自分が成長してこられたと思っています。
吉原:そうして着実に大きな世界の舞台に立つようになって、そうした経験が自分の音楽の糧になっていると感じますか。
阪田:そうですね。やはり、舞台に出て聴衆の前で弾く経験の回数が、演奏に対する態度に表れるようになっていると思います。
吉原:阪田くんにとって、ヴァン・クライバーンとはどういう存在ですか。
阪田:クライバーンのCDは子供のときからよく聴いていました。そして、クライバーンの演奏は、音楽への気持ちがとてもよく伝わる演奏だとずっと感じていました。単に上手いだけでなく、本当にやりたくて音楽をやっている、暖かみのある音楽だと思います。数年前に、彼がチャイコフスキー・コンクールで優勝したときのCDを買ったのですが、そのとき、チャイコフスキーの1番とラフマニノフの3番の順で弾いたあと、委嘱の新曲をアンコールで弾いているのですが、それを聴くと、彼が熱狂的に支持された理由がわかった気がします。彼でしかできないスター性をもっていた人だと思います。
吉原:ヴァン・クライバーンといえばチャイコフスキー1番、と多くの人が思っているなかで、チャイコフスキーの1番を選ぶのはとても勇気のある選択だと思いましたが、この作品を選んだ理由はなんですか。
阪田:そうですね、やはり、バス・ホールでのクライバーン・コンクールでチャイコフスキーを弾いてみたい、そういう気持ちはあったのですが、自分が、24歳とか28歳とかだったら、こわくてそんなことはできなかったと思います。でも本当に、この場所でチャイコフスキーの1番を弾くのは、大変なことなので、ファイナルに出ると決まったとき、正直言って、嬉しいと同時にこわい気持ちにもなりました。チャイコフスキーはこれまでオーケストラと演奏したこともなかったですし。でも、本番では吹っ切れて、19歳の自分だからできること、自分だからこそできるチャイコフスキーを弾こう、という気持ちでのぞみました。
吉原:初めてこの曲をオーケストラと演奏したということですが、リハーサル、そして本番についての、自己評価はどうですか。
阪田:リハーサルの1回めは、本選進出が決まった後眠れなかったので、とにかく体力的にきつく、なにがなんだかわからない状態でのリハーサルでした。2回めはまあうまくいったと思います。本番では、もっといい演奏ができたと思うのですが、悔いが残るような思いもありません。今回のコンクールでは、予選の2回のリサイタルも、準本選でも、比較的どれも上手くいったと思っていますし、モーツァルトも自分では満足のいく演奏ができました。チャイコフスキーについては、自分はやはりまだまだですが、クライバーンがチャイコフスキー・コンクールで優勝したときは20代半ばだったわけですから、自分はその年齢に達するまでまだ何年もあることだし(笑)、これからたくさん勉強しようと思っています。
吉原:このコンクールの過程で一番難しかったことはなんですか。
阪田:僕は今回が国際コンクールに出るのは4回目で、本選まで進んだのは初めてです。初めて本選まで進むコンクールとしては、ヘビーなコンクールだったと思います。やはり、本選まで精神力・体力を保ち続けるのが大変でした。本選まで行くと、ホストファミリーの家まで取材が来ます。1曲目のモーツァルトの準備をしているときにも来ましたが、2曲目のチャイコフスキーのときには、取材で3時間も時間をとられ、練習の時間がとれず、また、ホストファミリーの家とコンクール会場との往復でも、時間がけっこうとられるので、思うように練習ができなかったのが辛かったです。
吉原:4年後もまたこのコンクールに出ようと思いますか。
阪田:いやあ、思わないですね。コンクールに絶対、という結果はありません。審査員や聴衆によっても反応は違うし、自分のコンディションによっても演奏の結果は全然違うので、今回本選まで行ったからといって、次回もまた同じようにいくとは限りません。でも、ホストファミリーをはじめ、テキサスの人たちは本当にみな温かくていい人たちで、この土地で過ごすのは楽しいので、コンクールではなく、コンサートといった形で演奏をしにここに戻ってこれたらいいな、と思っています。
吉原:自分が好きなピアニストでアメリカで活躍している人が多い、との話でしたが、好きなピアニストはたとえばどんな人たちですか。
阪田:僕は、今生きていない人たちが好きなんです。(笑)ヨセフ・ホフマンとかいった人たちが好きです。僕が持っているCDに、ホフマンのメトロポリタン歌劇場ライブ、という2枚組のCDがあるのですが、そのCDのジャケットの写真が、メトロポリタン歌劇場を舞台側から満員の客席に向かって写したもので、舞台に一台ピアノが置いてある、というものなんです。そのジャケットを見て、僕もいつかこれをやりたい、と思いました。(笑)
吉原:そうして、実際にバス・ホールの大きな舞台に立って満員の客席を見てみて、どうでしたか。
阪田:そうですね、やはり嬉しかったです。
吉原:予選のリサイタルにあったアルベニスの「トリアナ」は、私も最近勉強したんですが、とても難しい曲ですよね。インターネットで見つけた阪田くんの少し前の演奏と比べると、今回の演奏は信じられないくらい進歩していたと思いましたが、どうですか。
阪田:アルベニスは、去年、大学1年生の5月に、デビュッシー生誕200周年記念コンサートというイベントで弾いたんです。デビュッシーのエチュード第1巻と、ベルグのソナタと、アルベニスを弾きました。そのとき初めてアルベニスを弾いたんですが、あの曲は慣れるまでにずいぶん時間がかかりました。あの曲は、いろんな色合いがあって楽しいし、かつちょっとエキゾチックなところがあって、本当に素晴らしい曲だと思うので、それを聴衆とシェアしたかったんです。自分の好きな曲が弾けてよかったです。

阪田くんの聡明さ、そして彼がコンクールに正しい姿勢でのぞんでいることがよくわかる、インタビューでした。本選に進出し上位3位に入らなかった阪田くんを含む3人には、賞金1万ドルに加え、今後3年間にわたり各地でのコンサートのマネージメントがつきます。プロのピアニストとしての演奏の機会が増え、また、さらなる勉強の時間も確保することができて、変な言い方ですが、阪田くんのような若い音楽家にとっては最善の結果となったのではないでしょうか。このコンクールを踏み台にして世界の舞台にはばたき、さらにどんどんと豊かな音楽性を身につけて、阪田くんらしい音楽を披露し続けてくれることを楽しみにしています。

ちなみに、彼が言及しているホフマンのCDとは、こちらですね。








2013年6月9日日曜日

第14回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール結果発表!

2週間半の宴が終わり、第14回クライバーン・コンクールの結果が発表となりました。結果は以下の通りです。

1位:Vadym Kholodenko (ウクライナ)
2位:Beatrice Rana (イタリア)
3位:Sean Chen (アメリカ)

今日のVadym Kholodenko, 阪田知樹くん、Sean Chenのコンチェルト演奏を聴いた後では、この通りの結果になるかな、と思っていました。個人的にはKholodenkoよりもRanaのほうが音楽的な幅を披露してくれたと思いましたが、彼が1位の座を獲得するのにはなんの異存もない、というほど、今日の彼のモーツァルトは素晴らしかったし、なんといっても一昨日のプロコフィエフの衝撃は忘れられません。また、Beatrice Ranaが今後真の意味での芸術家として長いキャリアを築いていくことは確信しています。

そして、3位入賞は果たせなかったけれど、阪田知樹くん、本当によくやった!と心からの大拍手です。このクライバーン・コンクールに最年少の19歳として出場して、世界の人々の頭のなかでヴァン・クライバーン氏と結びついているチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を堂々と披露するのですから、それだけですごい!しかも、今回本選に残った6人のうち、チャイコフスキーを演奏したのは彼ひとり。オーケストラとのアンサンブルがちょっと不足していた箇所はあったものの(でもこれはすべてが阪田くんの責任とはとてもいえない。オケだけの部分でも、明らかに管楽器とティンパニが大きくずれていた箇所があって、ちょっとぎょっとしました)、あらゆるピアノ協奏曲のなかでももっとも難しいといわれるあの大曲を、立派にオケと会場じゅうに響かせて、多くの聴衆の心に訴える演奏だったと思います。入賞者の演奏と比べれば、全体的な出来は不足する部分はもちろんあったけれど、私は会場で聴きながらなんだかじーんとして涙ぐんでしまいました。

結果発表の後、閉会ガラ・パーティに出席し、なぜか出場者や審査員その他のVIPもすべて帰った後の一番最後まで会場に残って、いろんな人たちと楽しいおしゃべりをして帰ってきました。2009年同様、コンクールまるごと会場で生で聴くことができたのは、本当に素晴らしい体験でした。それぞれの出場者が自分の内にあるすべてをさらけ出して自らの音楽を披露してくれたことが最大の感動であることはもちろんですが、それに加えて、そうした若い音楽家たちを熱心にサポートする人々のありかたに、あらためて感動を覚えました。素人が、お金を払ってピアノ・コンクールを聴きにきて、あの演奏はどうだったの、それに比べてこの演奏はどうだったの、本当の芸術家はあの人だのこの人だのと、真剣に議論する姿。こういう場があるからこそ、クラシック音楽に未来があるというものです。

感じることはたくさんあり、また後ほど書きますが、とりあえず今晩は、出場者すべて、そしてクライバーン氏亡きあとのこのコンクールを立派に運営したクライバーン財団の人々、さらにこの芸術の祭典をサポートするすべての人々に、ブラボー!

2013年6月8日土曜日

第14回クライバーン・コンクール、いよいよ大詰め

本日は本選第3日め、本選出演者6人のうち3人の2回目のコンチェルトの演奏がありました。明日の午後、残りの3人の演奏があり、その後まもなく結果が発表になります。今日と明日は満員御礼だそうで、ホールも美しく着飾った人たちでいっぱいになり、たいへん盛り上がった雰囲気です。ホール前には、例年話題のピンクのキャデラック(拙著をご参照ください)も登場。明日は結果発表の後で、クロージング・ガラ・パーティがあるので、今日よりさらに、タキシードやイブニング・ドレス姿の人たちが増えるはず。

今日演奏したのは、Nikita Mndoyants, Fei-Fei Dong, Beatrice Ranaの3人。それぞれ、モーツァルト第20番、ベートーヴェン第4番、プロコフィエフ第2番を演奏しました。

Mndoyantsのモーツァルトは、全体としてよくまとまっていて、彼のプロコフィエフの演奏よりずっとよい出来でした。彼が演奏したカデンツアは、私は聴いたことのないものでしたが、次々に変調する、ロマン派以降の音楽のような、不思議なカデンツアでした。Fei-Fei Dongのベートーヴェンは、一昨日のラフマニノフと同様、とてもよい箇所もあったけれど、無理をして弾いているように聴こえる部分や、やたらと叩きつけているように聴こえる部分や、テンポの変化が不自然に感じられる部分があって、ばらつきのある演奏でした。彼女は、予選第1回のリサイタルが一番よかったので、もちろん実力は存分にあるはずですが、他の演目と比べるとコンチェルトの準備がやや不足していたのに加えて、コンクール途中でスタミナが切れてきたのかもしれません。彼女は、準本選の演奏が一番最後で、その夜遅くに本選進出が決まり、興奮もさめやらぬまま、翌日朝一番でオーケストラとのリハーサルをしなければいけなかったので、疲れてもまあ当然でしょう。彼女が3位以内に入賞することはないと思いますが、これをステップに、さらに高いレベルに上がる音楽家となってくれることを期待します。

そして、今日のスターはBeatrice Rana。一昨日Mndoyantsが弾いたのと同じプロコフィエフの第2番でしたが、これはもう明らかに彼女の演奏のほうが数段も上でした。昨日のKholodenkoのプロコフィエフ第3番とどちらがよかったかというと、2番と3番では作品の性質がかなり違うので、これは比較がなかなか難しい。Kholodenkoのほうが、火花の散るような切れと激しさがあったのは確かだけれど、それは演奏よりも曲による部分が大きいかもしれません。2番のほうが、ダークな音楽性があって、Ranaは単なる迫力だけではない、コントロールされたなかに深い芸術性を表現していたと思います。彼女は、顔や身体を大きく動かして演奏するピアニストとは違って、演奏中もかなりクールな表情を保つ人ですが、だからこそ、彼女の微妙な表情に、深い次元での音楽的理解が表れているように思います。聴衆も、昨日のKholodenkoの演奏の後と同じくらい熱く長い拍手をしていました。演奏中はコントロールのきいた表情をしている彼女も、終わってからはとても嬉しそうな笑顔をしていました。コンサート終了後、楽屋口に会いに行きましたが、多くのファンが集まっているなかでも、ひとりひとりに丁寧に話をする、とても感じのいい女性です。


まだ明日の3人の演奏が残っているのでなんとも言えませんが、巷では、優勝はKholodenkoかRanaだろう、という説が一般的。私もそれは間違いないだろうと思います。ふたりのうちどちらが1位になるか(前回は、ハオチェン・チャンと辻井伸行さんが1位を分けましたが、1位をふたりが分けるというのは、いろいろな意味で不都合なので、今後は1位をふたりが分ける、ということは絶対にしない方針だそうです)は、うーむ、難しい。Kholodenkoの室内楽や昨日のプロコフィエフは、文句を言わせず群を抜いて素晴らしかったけれど、コンクール全体を通して考えると、私はRanaのほうが幅広い音楽性を披露したような気がします。というわけで、とりあえず、今の時点での私の予測としては、1位Beatrice Rana、2位Vadym Kholodenko、そして3位がSean Chenまたは阪田知樹くん、といったところ。はてさて、どうなるでしょうか。

明日いよいよ最後の演奏そして結果発表。ぜひともウェブキャストでごらんください。

2013年6月7日金曜日

本選第2日目、Kholodenkoのプロコフィエフに大拍手

今晩は、本選第2日目のコンチェルトの演奏がありました。今日演奏したのは、阪田知樹くん、Sean Chen、そしてVadym Kholodenkoの3人。それぞれ、モーツァルトの第20番、ベートーヴェンの第5番、そしてプロコフィエフの第3番を演奏しました。これで、本選出演者の6人全員が一通りの演奏を終え、明日と明後日でもう一本のコンチェルトの演奏をして終了となります。

今日演奏は、全体として昨晩の演奏よりもずっとレベルが高かった、というのが、演奏を聴いた人たちのあいだでの合意。私もその通りだと思います。

Alessandro Deljavanに入れこんだのと同様、阪田知樹くんにsentimental attachmentを感じるようになっている私は、今日最初の阪田くんのモーツァルトを、文字通り手に汗握りながら聴きました。(自分がかつて勉強した曲だと、聴いているだけでもさらに緊張してしまうのです。)でも、私なぞに心配される必要などまるでない、最初から最後までとてもクリーンで透明度のある、とてもいい演奏でした。予選の演奏から感じていましたが、彼の演奏はとにかく邪念がなく、気負いもなく、まっすぐで清らかで、聴いていて実にすがすがしい気持ちになります。カデンツアも堂々としてかつ気品のある演奏で、オーケストラとの相性もよく、全体的にとてもレベルが高い音楽でした。何度も言いますが、19歳で初めてこんな大舞台に出て、こんな立派な演奏ができるなんて、それだけで本当に素晴らしく、日本の若者に希望を感じてしまいます(と、いかにもオバサン的発言)。

次のSean Chenの「皇帝」もとてもよかったです。曲のタイプがまるで違うので、阪田くんの演奏とは比べにくいのですが、音に輝きがあって、この作品の特徴である堂々とした様子が、フレージングからも音量からもよく表現されていました。ちょっとしたエントリーのミスや、音階の終わりがオーケストラと合わずに最後に音を足して帳尻を合わせた箇所などはありましたが、全体としてはダイナミックでよい演奏。よくも悪くも(悪いということはとくにないかもしれませんが)、これは自分が上手いということをわかっている人の演奏だなあ、という印象。

以上2人の演奏、どちらも昨日のMndoyantsとDongの演奏と比べるとずっとよかったと思いますが、今晩の最大のスターはなんといってもVadym Kholodenko。彼は予選で弾いた「ペトルシュカ」がとてもよかったので、それと同系列(?)のプロコフィエフ第3番には聴衆の期待が集まっていたのですが、これはもう、始まって2分くらいで、「この人が優勝するに違いない」と確信するほど、他の5人とは次元の違う演奏でした。第2番と同様、この曲は私はとくに好きではないのですが、彼の演奏を聴いていると、すっかり引き込まれてしまう。この人はこの曲を弾くために生まれてきたのではないかと思われるほど、音楽との一体感がある。とにかく、リズム感が飛び抜けていて、聴いているだけですっかり乗れるし、大音量の和音の続く曲でありながら、単なる迫力だけでなく、音の彩りがきわめて豊かで、フレージングにも高度な芸術性が感じられる。この曲は単に超技巧的な曲ではなく、ピアノという楽器、そしてピアノ協奏曲という形式を讃美した芸術作品なのだということ、あらためて認識させてくれる演奏。テンポが速くリズムが変化するのでオーケストラとずれてしまう可能性がある箇所もたくさんあるのですが、本選6人のなかで、オーケストラとの呼吸も彼が一番合っていて、他の演奏と比べてオーケストラ自体が上手に聴こえる。ソリストのリードにオーケストラが乗るというのはこういうことなんだなあと、納得する思い。本当にゾクゾク、ワクワク、ビックリする演奏でした。曲が終わると同時に会場全体が立って「ブラボー!」の大拍手がやまなかったことからも、聴衆をとりこにする演奏だったことがわかります。コンサートの後、お腹が空いたので近くのお寿司屋さんで食べてから(フォート・ワースにもお寿司屋さんがあるのです)帰ってきたのですが、夜も更けた今になってから「ジムに行って運動しようか」と思ってしまうくらい、元気を与えてくれる演奏でした(でも、ビールも飲んだので、実際にジムに行くのは明日になってからにします)。

3週間近くコンクールに通って、たくさんの演奏を聴いているなかでも、とくに印象に残る、後々まで耳と心と頭のなかに残る演奏というものがありますが、今日のKholodenkoの演奏はまさにそのひとつです。他に、私がとくに素晴らしいと思ったのは、Fei-Fei Dongの予選1回目のリサイタル、Alessandro Dejavanの予選1回目のリサイタル、阪田知樹くんの予選第2回目のリサイタル、Beatrice Ranaの準本選のリサイタル、Alessandro DeljavanとVadym Kholodenkoの準本選の室内楽です。どれもオンデマンドでインターネットで見られますので、今日のKholodenkoとともに是非とも見てみてください。

クライバーン・コンクール本選第1日目

いよいよ昨日はコンクール本選第1日目でした。予選・準本選のときよりも、ホールもいっぱいになって、夜の演奏なので聴衆もかなり着飾って、会場全体の盛り上がりが増しています。


今回も、出演者は2曲のコンチェルトをフォート・ワース・シンフォニーと共演します。そのうち一曲は、ベートーベンの第1番から5番またはモーツァルトの第21番から24番または27番のうちのひとつ、そしてもう一曲は交響楽団とピアノのために書かれたコンチェルトならなんでもよし、ということになっています。ただし、後者は事前に財団長、審査員長、そして指揮者の承認を得る必要があり聞いたところによると、Sean Chenはバルトークの第2番を断られたそうです。たった2回のリハーサルという制約のなかで、指揮者とオーケストラそしてもちろんピアニストがまとまった演奏に仕上げにくい作品はだめ、ということなのでしょう。自分が得意とする作品を演奏できないのは残念でしょうが、それと同時に、オーケストラとの共演でよい演奏に仕上がらなければ当然本人のためにならないし、このコンクールに出るようなレベルのピアニストは複数のコンチェルトがレパートリーにあるはずなので、まあ妥当といえる指示でもあります。(ちなみに代わりにSean Chenが選んだのはラフマニノフの第3番。これはコンクール最終日である日曜日の一番最後に演奏されます。)

本選初日の昨晩に演奏した3人は、Beatrice Rana, Nikita Mndoyants, Fei-Fei Dongの3人。Ranaはベートーベンの第3番、Mndoyantsはプロコフィエフの第2番、Dongはラフマニノフの第3番を演奏しました。

これらの演奏を聴いての私のまず最初の感想は、フォート・ワース・シンフォニーの腕前が、4年前と比べてずいぶん上がったなあ、ということ。これは、指揮者が変わった(前回のコンクールまではジェイムズ・コンロンでしたが、今回はレナード・スラトキンが指揮しています)からなのか、オーケストラのメンバーの腕前が上がったからなのか、その両方なのかはわかりませんが、とにかく、オーケストラ全体としての音のまとまりも、楽器(ピアノ以外)のソロのパートも、前回よりずっとよくなっていると感じました。オープニング・ディナーのときに、昨年このオーケストラに入団したというカザフスタン出身のヴァイオリニストや、他に最近入団したメンバー数名に会いましたが、アメリカのオーケストラのオーディションはどこもたいへん競争率が高く、しかも伝統のあるたいへん立派なオケを含め、各地のオーケストラは財政難で苦しんでいるので、空きのあるオーケストラにはきわめてレベルの高い音楽家たちが集まってくるからでしょう。(ちなみに大学教員の採用も似たような状況。)

オーケストラ自体の音のまとまりはよかったけれど、ソリストと指揮者そしてオーケストラとの呼吸はどうかというと、これは演奏によってまちまち。なにしろ出演者はみな20歳前後で、どんなにレベルが高くても実際にオーケストラと演奏した経験はそんなにたくさんあるわけではないでしょうし、しかもここでは、2日前に本選進出がわかったばかりで、それから1日半のあいだに2回のリハーサルをするだけで本番を迎えなければいけないのですから、まあ当然です。

最初に演奏したBeatrice Ranaのベートーベンは、たいへんきちんとして気品のある演奏。オーケストラとの呼吸も合っているし、ソロとしても、全体としても、とてもよくまとまった演奏でした。彼女が3位以内に入賞するのはほぼ間違いないと思います。

次に演奏したNikita Mndoyants(ちなみに彼の父親は、1977年のクライバーン・コンクールに出場して5位に入賞した、という人物)のプロコフィエフ第2番は、この作品ならではの野性的(凶暴とすらいえる)な響きやリズムが、もう少し利いているといいなあ、という印象。こういう曲は私は必ずしも好きではないのですが、こういう作品は、生で聴いてこそ面白みがある(よほど素晴らしい演奏でないかぎり、録音で聴くとただウルサイだけになりがち)というもので、その迫力をもう少し見せて・聴かせてほしかった。前回のコンクールのときにヨルム・ソンが同じ曲を演奏して、そのものすごさに圧倒されたのですが、それと比べると全体的に印象が薄い感じ。(ちなみに私は、この曲にかぎらず、プロコフィエフを、小柄な若い女性が、髪を振り乱して野獣のような表情で演奏すると、聴衆は、「この人はベッドのなかではいったいどんなふうなんだろう」と想像して興奮するんだという理論(?)をもっています。大きな図体をしたロシア人男性が演奏するのとはまったく違った効果。)

そして最後のFei-Fei Dongのラフマニノフ第3番は、カデンツアなどでなかなかいい部分もあったものの、全体としては不均衡な演奏だったように思います。第1楽章の最初の部分では、オーケストラとの意思疎通がうまくいっておらず、どうなることかと思ったものの、後半ではだいぶよくなって、この曲ならではの美しさがよく出ていた箇所も多々ありました。ただ、いくつかの箇所で、低音や内声をやたらときかせるといった納得のいかない部分があり、2009年のコンクールでまったく訳のわからないラフマニノフ(彼が演奏したのは2番でしたが)の演奏をしたボジャノフの真似をしているんじゃないかと思ってしまうくらいでした。彼女は本選に進むべきではなかったと感じている聴衆は多いようで、私は彼女の予選最初のリサイタルが素晴らしかったので、総合的に考えると本選にいてもまあおかしくはないかなと思うものの、かわりにAlessandro Deljavanが本選で演奏するはずだったブラームスを聴けていたらよかったなあと思わずにもいられません。

でも、先日のJade Simmonsのインタビューでも考えさせられましたが、個々の演奏のよしあしはともかくとして、こんな大きなコンクールでここまで進んできた出演者たちの音楽的能力と精神力に大拍手です。準本選までは、私は本当に素晴らしかったと思った演奏にかんしては立って拍手、そうでなかったものには座ったまま拍手をしていたのですが(これまでウェブキャストを見ていて、本選から現地で見学にやってきた友達によると、私は4列目の真ん中にいるので、私が立っているか立っていないかはよく見えるらしく、「あ、これはマリは気に入ったらしい」「マリはいまいちと思ったらしい」などと言いながら見ていたらしいです)、本選では、自分の評価は別にして、すべての演奏に立って拍手を送ることにしています。考えてみたら、演奏がよくてもよくなくても、プロコフィエフの第2番をオーケストラと共演して、終わってもまだちゃんと立って笑顔でお辞儀ができるなんて、それだけで大拍手に値するような気がします。

さて、今晩の最初の演奏は、阪田知樹くんのモーツァルト第20番。私が子供の頃に勉強したことのある作品です。第1日目が終わった時点では、Sean Chenの出来次第では、阪田くん3位入賞もありえる、という状況になってきたと私は見ていますが、とにかく、自分らしい素直で伸び伸びした演奏をしてほしいと思っています。

2013年6月6日木曜日

Jade Simmonsインタビュー & 動物園パーティ

昨日は、本選出場者たちがオーケストラとのリハーサルをするあいだ、聴衆は休憩の一日でした。そのあいだ、私はコンクールのウェブキャストの司会ホストをつとめているJade Simmonsにインタビューすることができました。Jade Simmonsは、みずからも2005年のクライバーン・コンクールの予選オーディションを受けたというピアニストで、現在は演奏活動のほかに、講演や、イベントのプロデュース、執筆など、多岐にわたる分野で活躍し、芸術界の新星として注目を浴びているヒューストン在住のアフリカ系アメリカ人女性で、ミス・アメリカ・コンテストでも準優勝したという経歴の持ち主。音楽についての高度に専門的な知識をもち、舞台で演奏する立場を理解し、口頭でも文章でもきわめて効果的なコミュニケーション能力があり、かつ、美しくグラマラスな容姿とチャーミングで人懐っこい性格、ということで、このウェブキャストのホストとしては理想的な人物。コンクール開催中、毎日ずっと生中継をしながら、ツイッターなどでの発信やハッフィントン・ポストにブログ執筆などを続けて、きわめて忙しいにもかかわらず、せっかくの休みの一日にインタビューに応じてくださって、大感謝です。以下、そのインタビューを一部抜粋・編集してご紹介します。

吉原(以下Y):前回2009年のクライバーン・コンクールがまるごとインターネットで生中継されたのは、非常に画期的なことでしたが、そのときにホストとして声がかかったのにはどんな経緯があったんですか。
Simmons(以下S):クライバーンとのかかわりは、まず私自身が2005年にクライバーン・コンクールのオーディションを受けたときに始まったんです。残念ながらオーディションに受からなかったのでコンクールには参加できなかったんですが、クラシックのピアノ界でアフリカ系アメリカ人の女性は珍しいということや、私がミス・アメリカに出場したことがあるといったことが話題を呼んで、そのときにずいぶんメディアの注目を集めたんです。クライバーンのオーディションには落ちたものの、同じ2005年に、ダラス・シンフォニーとの共演デビューをして、演奏の機会が増えてきました。そして、たまたまクライバーン財団が主催しているコンサート・シリーズの出演者が急にキャンセルをしなければならなかったときに、フォート・ワースに車で行ける距離のところに住んでいる私に、「明日リサイタルできますか」と打診があったんです。もちろん、若いピアニストとしては、そんな機会は逃せないので、「やります」と言って、その日一日猛練習をして、スクリアビンの音楽とカンディンスキーの絵を合わせたリサイタルをしました。そのあと、私は学校での音楽教育にもとても興味があったので、クライバーン財団の教育プログラムであるMusical Awakeningsにかかわるようになって、公立学校に出かけて行ってレクチャーと演奏を合わせた講演をするようになりました。演奏することと、人前で話をすることの両方ができる音楽家というのは珍しいので、(当時のクライバーン財団長の)リチャード・ロジンスキにとても気に入られて、財団の活動とのかかわりが増えていったんです。それで、2009年にクライバーン・コンクールがウェブキャストをすることになったとき、リチャードが是非私をホストに、と言って、私がつとめることになったんですが、それまで講演などはしたことはあっても、カメラの前で人のインタビューをするといった経験はまるでありませんでした。当時はウェブキャストのクルーは私のことなんてまるで知らなかったので、「こいつはいったい誰だ?」と思っていたはずです。私がテレビのパーソナリティかなにかだと思っていた人が多かったみたいで、私が本物のピアニストだということはコンクールの後まで広くは知られていなかったようです。
Y:2005年のオーディションのときは、なにを演奏したんですか?
S:バーバーのソナタと、ショパンのスケルツォニ短調と、リストのソネット数曲です。クライバーンの他にも、いくつもコンクールを受けて、後でConcert Artists Guildのコンクールに受かったので、マネージメントがついて演奏活動を続けることができるという、恵まれた立場になりました。とにかく、そうやって自分がコンクールに出た経験があり、審査員や聴衆の前で演奏をする、それも、クライバーンのような大きなコンクールで、自分の人生がここでの演奏にかかっている——実際にはそうじゃないんだけれど、少なくともそういう気持ちになる——なかで演奏するということはどういうことかをわかっているので、ウェブキャストのホストをするときも、演奏について批判的なことを言うことは一切せず、まず第一に、出演者に対する尊敬、というところから出発することを心がけています。だいたい、出演者の経歴を読んだだけでも、みんな素晴らしい業績の持ち主ばかりですから、それだけで尊敬の念を抱く以外にはありません。そして、演奏を聴くときには、とにかく、その素晴らしさに素直に感動し、畏怖を感じ、「自分には絶対あんなことはできない」と思うことを自分に許すのが大事だと思っています。ピアノ音楽への知識がたくさんあるアマチュアの聴衆が、ウェブキャストで演奏を見て、「今あそこでメモリー・スリップがあった」だの「あそこでミスがあった」だのとあれこれ文句をつけて、自分がよくないと思った演奏のあとで、ホールの聴衆が総立ちの拍手をしているのを見て、バカにしたコメントを投稿したりするのは、とても悲しいことだと思います。
 私は、最近は若い音楽家のキャリア・コーチングをすることがよくあるのですが、そういうときに私はまず、「あなたは、キャリアを築くにあたって、コンクールが自分の道のひとつだと思いますか?もしもそう思うんだったら、まずは、自分自身の長所と短所を冷静に理解することから始めましょう」と言うんです。私自身は、自分が審査されているということがわかっているときには、自分のなかでも最悪の演奏になるんです。もちろん、コンサートでもある意味では評価されているのですが、コンクールのような場所で、技術的なハードルをきちんと超えられるかといったことを見られているような状況では、なかなかいい演奏ができないんです。でも、突然入ったコンサートなんかでは、本番の24時間前になってコンチェルトを仕上げろと言われれば、やれるんです。生のコンサートでは、聴衆と結びつきたいという本質的な深い欲求が私のなかにあるからです。ですから、負けず嫌いな性格の私としてはある意味皮肉だけれど、私にとってはキャリアを築くための道としてはコンクールは向いてないという結論にいたり、コンクール以外の道で演奏活動を切り開けるかどうか試してみようと思うようになったんです。だから、コンクールには私には向いていなかったけれど、このコンクールの場で、若い出演者たち、それも19歳や20歳のピアニストたちが、堂々と舞台に出て自分をさらけ出しているのを見ると、音のミスとかメモリースリップといったことに言及する気持ちにはまるでなりません。もちろん、個人的な好き嫌いはあるし、誰それは今日は調子が悪かった、といったことはわかるけれど、そうしたときに出演者の頭のなかでなにが起こっているかがわかるからこそ、批判的なことは言う気にならないんです。とくに、大きなミスをした後で、聴衆が立って拍手をして「ブラボー!」なんて言っているときに、自分は「いえいえ、みなさん、今の演奏はひどかったんです。第3楽章で大失敗があったんですよ!」と説明したくなる、けれど、笑顔でありがたく拍手を受けてお辞儀をしなければいけないといった気持ち、よくわかるんです。そうしたときに、メッセージボードで間髪入れずに、演奏のミスをあげつらうような聴衆が、残念ながらたくさんいるんです。
(中略)
S:私もDeljavanが本選に行けなかったのはとても残念です。彼は前回のコンクールにも出ていたということで、たくさんの聴衆が彼を応援していたと思います。顔の表情とか演奏中に声が出るとかいった彼のエキセントリックな点は、前回も注目を浴びていたけれど、今回は、彼自身がそういったことに折り合いをつけて、自分自身をそのまま出す、といった姿勢でいたように思います。でも、昨日の彼の演奏を聴いた後で、彼がどうなるだろうと心配はしました。彼のベートーベンは、私自身の解釈や演奏とは全然違うけれど、本当に素晴らしいと思いました。でも、審査員がはたしてどう思うか、心配な気持ちはしました。
 私はあなたの本(Musicians from a Different Shore)を是非読んでみたいと思います。というのも、アジア人女性の出演者が、聴衆や、過半数がヨーロッパ系の白人男性の審査員にどう見られるか、ということに興味があるからです。私自身、アフリカ系アメリカ人女性のピアニストとして、いろいろな経験をしてきました。演奏をするようになって、レビューが出たりするようになると、そのレビューの行間を読んで、「私が勝手に深読みしているのかしら、それともここにはなにかあるのかしら」と思うことが多々ありました。「情熱的な演奏」といった表現はよくされるいっぽうで、「モーツアルトも驚くほど洗練されていた」などと書かれると、「なぜそれが驚くことなのよ?」という気持ちになります。私の文化にもっと近いと思われる音楽、リズムがきいていて迫力のある音楽だったら、そういうことは言われないんです。
Y:ガーシュインとか?ゴットシャークとか?
S:そうそう、ガーシュインとかならもちろんです!少しでもジャズの要素が入ったものや、そうでなくても、たとえばプロコフィエフなんかだったら、リズムをきかせて強い演奏をすれば驚かれないんです。それに対して、10代のときに受けたベートーベン・コンクールで「熱情ソナタ」を弾いたときに、審査員の評に、「ラフな演奏」といった表現がよくあったんですが、そういう表現をみると、「私の演奏は本当にラフだったのか、それとも審査員が私の姿をみてそうした印象を投影しているのか」と思わずにはいられませんでした。そういうことを考えると、Deljavanのベートーベンや、前回のコンクールのヨルム・ソンのプロコフィエフのように、とにかく激しい演奏をみると、審査員がなにを考えるのか、興味があるところです。私はチャイコフスキー・コンクールのウェブキャストでは、ヴァイオリン部門を担当したんですが、ものすごい腕前の日本人女性の出演者がいました。彼女は、大きな身体をした男たちには負けない、というかのように、ものすごく力の入った音を出す人で、野性的な音ではあったけれど、人を引き込む演奏だったんです。もしかすると、日本人女性が、アジア人女性のステレオタイプにまったく合わない、そういう野性的な演奏をするということに、審査員がなにかしっくりこないものを感じる、という部分があるのかどうか、気になります。もうひとり、韓国人の女性で、もっといわゆる女性的な演奏をした人がいましたが、ふたりとも同じくらいのレベルだったけれども、韓国人女性のほうが上位にいきました。
Y:音楽家にとって、ビジュアルあるいは身体的なイメージはどのくらい重要だと思いますか?とくに女性にかんしては、ドレスが短すぎるだの肌が露出しすぎだの趣味が悪いだのといろいろと言われがちですが、そうしたことにかんしてはどう考えていますか?
S:私はイメージづくりということ自体は大好きです。もっと多くの音楽家が、そうしたことに注意を払うべきだとも思います。服装にかんしては、とにかく演奏の邪魔にならないことが第一で、私はスーツケースに放り込んで、そのあとそのまま着られる、シワにならないもの、そして演奏中に楽なドレスを着るようにしています。素敵なドレスは大好きですが、ただ、これはコンサートですから、ドレスは音楽の後押しをするようなものであるべきだと思います。私は以前は衣装のスポンサーがいたんですが、その人は、ミス・コンテストの衣装を専門にする人だったので、「これはミスコンじゃなくて、コンサートなので、ドレス姿で舞台に歩いて出たとたんに聴衆がわっというようなドレスである必要はないんです」と何度も強調しました。
 身体的なことにかんしては、演奏者の身体的な癖は、可能な限りは矯正するようにするのは、教師の責任だと思っています。たとえば、私は顎を前に突き出して演奏する癖があるので、クビや背中に負担がかかって、頭痛の原因になりがちです。そういうことを直してくれる人たちがいるので、今では意識的にそれをしないようにしています。また、演奏中に私は顔を動かします。Deljavanほどではないですが、彼のような人とは共感するんです。また、弾いている最中に声が出る、ということもよくありました。まだ結婚したばかりの頃に、私が練習中に声を出しているのを夫が聞いて、「演奏のときもそうやって声を出すのか?」というので、「意識はしてないけど、出しているような気がする」というと、「聴いているほうにとっては気が散るからやめたほうがいい」と言われて、それも意識することで多少減らすことができました。Deljavanがどうして声を出すのか、私にはよくわかるんです。ベースのラインであれなんであれ、声を出していると、より自分が音楽の一部として感じられるからです。でも、ときどき、自分の声のほうがピアノの演奏よりよかったりするんですよ!(笑)私がノースウェスタン大学在籍中についていた先生があるとき、「あなた、クレッシェンドするときにいつも眉を上げているのは気づいている?」と言ったことがあったんですが、そんなこと私はまるで気づいていませんでした。先生曰く、眉は上がっているけれど、実際のクレッシェンドはできていない。眉を上げたために、クレッシェンドができているつもりになっていただけなんです。眉を上げる力を、指にまわしたほうがいい、ということに気づいたのは、その先生の指摘があったからです。ですから、演奏の少しでも邪魔になっているような身体的な癖があれば、それをなるべく矯正するのは、教師の責任だと思います。もちろん、いったん舞台に出て演奏をする段になれば、もっと自由に自分を出せばいいのですが、トレーニングの段階では、なるべくそうした癖はコントロールするようにしたほうがいいと思います。Deljavanのような人にとっては、あまりにもそれが彼の一部になっているので、もしそれを直そうと思ったら、数年間なんらかのセラピーのようなものをしなければいけないでしょうが、私は彼がそうする必要があるとはとくに思いません。彼がドヴォルジャークのピアノ五重奏を弾いているときに、弦の人たちと呼吸を合わせて迫力のある大きな音で止まらなければいけないときに、彼がまるで海賊のようなオソロしい顔をして「がーん!」と和音を鳴らした瞬間がありましたが、その顔が音楽と合っていて最高でした。(笑)でも、彼の顔の動きはあまりにも個性的なので、レビューが出るときも顔のことばかりになってしまって、演奏でなく顔のレビューのようになってしまうのが心配です。
Y:ユジャ・ワンのコンサートのレビューが、演奏についてはまるで触れずにドレスがどれだけ短かったかということばかり書いてあるみたいに。
S:でもあのドレスはいくらなんだって短すぎたでしょう!(笑)あんな身体をしていたらああいうドレスを着たくなる気持ちもわかるけれど、私はまずペダルのことを考えると、あれじゃあ最前列に座っていたお客さんは中がまる見えのはずだってずっと考えていました。それをおいてもあのドレスは彼女を引き立てるドレスじゃなかったと思います。他にもいくらでももっと素敵なドレスはあるはず。といったわけで、ユジャ・ワンのドレスについては、私はたくさん意見があるんですが(笑)、それはそれとして、彼女は演奏自体は文句なしに素晴らしいですからね。ラン・ランも、最近は顔や身体の動きがだいぶ落ち着いてきたようですし、私は長いことかれの生演奏を聴いていませんが、音楽的にもずいぶん成長したと皆が言っています。
 私は、クラシック音楽の世界では、世間からセンセーショナルな反応を受ける演奏家に対する拒否反応のようなものが存在するのではないかと思います。それを表立って言う人はいないけれど、クラシックのピアニストが聴衆をキャーキャー言わせる、といった状況に、納得のいかないものを感じる人は多いんじゃないかと思うんです。たとえば、予選でSteven Linがすごく聴衆の人気を集めました。
Y:こんなことを言うのもばかばかしいけれど、彼はほんとうにキュートですもんね(笑)。
S:そうそう!あなたのような、専門的な視点から批評をするような人でもそう思うんですから、そういう反応はきわめて自然なことなんですよね。でも、キュートだとかなんとか、そういうことを思うのは間違っている、と自分に言い聞かせてしまったりする。Steven Linにかんして言えば、彼はConcert Artist Guildのコンクールで優勝したということで、注目するようにと人から言われていたので私も注意して見ていたんです。予選1回目のリサイタルは素晴らしいと思ったけれど、私にはよくわからなかったけれどどうやらVineのソナタで大きなミスがあったらしい。でも、2回目のリサイタルのとき、彼が舞台に出てくるやいなや、聴衆はヒューヒュー歓声をあげて大拍手をしている。彼がなにか大発言をしたわけでもないし、セクシーな歌詞の歌を歌ったわけでもない。彼はピアノを弾いただけなのに、聴衆にそれだけの反応を呼び起こすということは、魔法なようだと思うんです。それを、聴衆に媚びた演奏、と解釈することもできるけれど、私はそうじゃないと思うんです。彼の演奏を楽譜を見ながら聴いていたら、たとえば、アッチェレランドの部分で、聴衆が乗ってきていると思ったら、彼はさらに少し加速する、楽譜には必ずしもそう書いていなくても、少しだけその勢いを足してみる、そういった、聴衆との本能的なコネクションを彼はもっていて、聴衆がほしがっているものを差し出す能力を、彼はもっているんだと思うんです。それで聴衆はとりこになって、休止のときには息を止めて、「彼は次になにをするんだろう?」と注目する、すると彼はその休止をほんの少しだけ長引かせる。そういう魔術のような要素は、とてもスリリングなものだと思います。
Y:それこそ生演奏の醍醐味ですもんね。
S:そのとおり!でも、世界から集められた審査員というのは、みんなとても尊敬を得ている立派な演奏家で、昔ながらのトレーニングを受けてきた人たちです。彼らのなかに、Steven Linが受けるような反応を聴衆から受けた人というのは、いないんじゃないかと思うんです。(このコンクールの審査員には入っていませんが)アルゲリッチは唯一の例外かもしれませんが、他の審査員たちは、たとえばメナヘム・プレスラーのように、彼が通ると皆がひれ伏すような存在の人でさえ、そういう類いの反応を聴衆から受けたことはないんじゃないかと思うんです。彼の靴音が舞台に聞こえただけで聴衆が興奮するような経験は、したことがないんじゃないでしょうか。そして、そういう反応を、品のないものとして拒絶する人もいるんじゃないかと思うんです。そしてまた、そういう聴衆に訴えかけるような演奏を、曲芸をするサルのような、品のないものと解釈する審査員もいるんじゃないかと思うんです。そうした解釈を批判するつもりはありません。ただ、そういう解釈もありうるんじゃないか、と思うだけです。ただ、Steven Linのような人にかんしては、審査員のそうした反応を気にして、自分らしい演奏をやめてしまうようなことはしてほしくないと思います。聴衆とのコネクションがあるからこそ、ラン・ランのような音楽家が生まれるわけですからね。聴衆の求めているものを差し出したり、逆にちょっと出し渋ってみたりといった駆け引きが効果的にできる音楽家というのは、大事なことだと思います。クラシック音楽界には、そういうことのできるスターが必要だと思います。キュートならそれにこしたことはないですしね。
Y:音楽家が、音楽以外の言葉において雄弁であることは重要なことだと思いますか。
S:今の時代には、それなしではやっていけないと思います。今の時代には、きちんとした言葉で自分の考えを語ることができて、ソーシャルメディアを有効に使うことができて、メディアといい関係を築くことができなければ、音楽家としてキャリアを築くのは難しいと思います。私自身のキャリアは、演奏に加えて、人前で話すことができる、ということで大きく助けられています。プレゼンターがプログラミングをするときに、クライバーン・コンクールの優勝者だけでなく、私のように、本番の一日前に到着して地元の大学で講演をしたり、テレビやラジオに出演したりすることができる人間をブッキングする、ということはよくあることです。そして、講演などのときに、Jade Simmonsの宣伝ばかりでなく、共演するオーケストラや主催団体がどんなイニシアティブでどんなプログラムに取り組んでいるか、といったことについて積極的に広報活動ができれば、私はその団体の大使のような役割を果たすわけです。さらに、地元の小学校に出かけて行って演奏をすれば、その学校は、「ダラス・シンフォニーがあのピアニストをうちの学校に連れてきてくれた」ということを覚えていてくれて、ダラス・シンフォニーの宣伝にもなるわけです。ですから、若い駆け出しの音楽家にとっては、そういう活動ができれば、演奏を含む「パッケージ」として自分を売り込むことができます。マスタークラスをするにしても、ピアノの演奏そのものだけでなく、音楽そのもの以外の、イメージづくりなどといったことについて、ピアニスト以外にも興味のあるような内容を扱うようにしています。そうやって、演奏そのもの以外の方法でもコミュニケーションができるということは、とても重要だと思います。今は、生演奏の他にも、インターネット上でファンやサポーターを築くことができて、私にとってはそれがとても重要な要素となっています。今の時代には、そうしたことに積極的にかかわっていくことが大事だと思うので、私はネット上でも、舞台裏の話題を取り上げたりといったことをいろいろしています。
Y:最後に、今の音楽界において、コンクールというのはどんな役割をもっていると思いますか。
S:一般的な意味では、コンクールは悪いものとは思いません。コンクールというものがあることで、音楽家はより高いレベルを目指すようになるからです。いろいろな分野で、コンクールというものが存在しなかったら、現状維持のままで終わってしまうのではないかと思います。ただ、ピアノ・コンクールにしろ、ミス・コンテストにしろ、どんな形のコンペティションであれ、参加を考える人はまず、「これは本当に今の自分がするべきことか」「これに参加する力が自分にあるか」「これに参加することで、自分が求めているものが本当に手に入るのか」ということをじっくり考える必要があると思います。そして、「もしもそれが手に入らなかった場合——実際には、手に入らない可能性のほうが、手に入る可能性よりも大きいわけですから——、それによって受ける打撃があまりにも大きくて、自分の目標を追求するのをやめてしまうことにならないか」といったことも自分に問いてみる必要があると思います。私はかつて、何ヶ月もそのために準備してパナマのコンクールに出たことがあるんですが、そのとき、パナマまで飛行機で出かけておきながら、直前になって棄権したんです。結婚したばかりのときだったんですが、パナマまで行って、予選の前日に棄権したんです。その理由は、準本選のプログラムが、自分の納得のいくレベルまで準備できていない、ということでした。(笑)「予選を通過してしまったらどうしよう」なんていう心配をしていたら、予選でいい演奏ができるはずはありません。(笑)それに、また、アフリカ系アメリカ人女性であるということで、まるで自分の人種全体を肩に背負っているようなプレッシャーを感じてもいました。で、夫には呆れられたけれど、そのまま飛行機に乗って帰ってきたんです。その後、何ヶ月もピアノにまったく触らないままの状態が続きました。精神的にすごく打撃を受けたんです。あの予選に出て演奏ができないようじゃ、演奏家としてやっていく資格がない、と思ってしまったんです。でも、それから何年もたった今になって振り返ってみると、「あのときもしピアノをやめてしまっていたら、自分はどうなっていただろう」と怖い気持ちになります。今では、実際に私の演奏を聴きに来てくれる聴衆がいて、演奏家としてちゃんとやっているわけですから。ですから、コンクールに参加するにあたって、コンクールがすべてだと勘違いしないことが大事だと思います。自分がなぜコンクールに出るのか、明確な目的意識をもってのぞむのならいいと思いますし、出る以上は優勝を目指してのぞむのはいいと思います。私自身、コンクールに出るときは、「準本選まで残れればいいや」なんていう態度ではのぞみません。出る以上は優勝を目指してのぞみます。クライバーンのオーディションを受けたときも、自分は優勝して、クライバーンで優勝する史上初のアフリカ系アメリカ人女性になるんだ、という気持ちでいました。でも、それが実現しなかったときにどうするか、それを自分のなかではっきりさせておくこともとても大事だと思います。
 もちろん、世の中には、曲がったことの起こるコンクールも存在します。あるコンクールでは審査員のあいだで賄賂が行き来するといったことを、審査員自身から聞いたこともあります。でも、クライバーン・コンクールにかんしては、可能な限り演奏者にとって最前のシステムが採られていると思います。出演者が師事している人が審査員に入っている場合などについても、可能なかぎり客観的な審査がなされるようなシステムがとられています。ただ、出演者には、とにかく打たれ強くタフな精神力が要求されます。そういう精神力とはっきりした目的意識をもってのぞめば、結果にかかわらず出演者にとってはいい経験になると思います。
 見ている聴衆にとってのほうが辛いこともありますね。Deljavan自身はすでに次の目標に向かって進んでいるのに、彼を応援している聴衆のほうがショックで立ち直れない、という状態なんじゃないでしょうか。

この通り、彼女はたいへん聡明で雄弁で快活な女性。彼女のような人物は、コンクールにとってもクライバーン財団にとっても、最高の広報武器であるに違いありません。

さて、昨日の夕方は、2009年のコンクールでも開催された(拙著で言及)、動物園でのパーティがありました。ヴァン・クライバーン氏本人がいないのが淋しいところでしたが、それを除いては、前回同様、コンクール出演者や審査員たち、財団スタッフ、ホストファミリー、ボランティア・スタッフ、その他のファンたちが大勢集まり、暑いテキサスの湿気のなかでも楽しいパーティでした。コンクール開催前のパーティでサイズを測ったカウボーイ・ブーツを出演者たちが受け取り、並んで座った男性出演者たち(女性の出演者はパーティには欠席していたので、男性ばかり)の前で披露された若い女性のテキサス・ラインダンスを照れながら見て、そのあと彼女たちに手をひかれて踊るSteven LinやLuca Burattoの姿がサイコ〜。(笑)こういうところが、クライバーン・コンクールのよさであります。



さて、今晩からはいよいよ本選のコンチェルトが始まります。

2013年6月4日火曜日

第14回クライバーン・コンクール本選出場者決定!阪田知樹くん、本選へ!

今日、残り6人の準本選の演奏が終わり、1時間ほどの審査集計を経て、6人の本選出場者が夜も更けた11時半に発表されました。結果から先にご報告すると、以下の6人が明後日から始まる本選に出場します。

Sean Chen
Fei-Fei Dong
Vadym Kholodenko
Nikita Mndoyants
Beatrice Rana
Tomoki Sakata

ここ2日間で、前半での演奏と比べて私の評価がずいぶん上がったり下がったりした人がいたので、12人の演奏が終わった時点での私の本選出場者予測は、Chen, Deljavan, Dong, Gillham, Kholodenko, Ranaだったので、6人中4人当たっていたわけですが、なんといってもAlessandro Deljavanが本選出場を逃したのが、涙が出るほど悲しいです。今日のソロリサイタルでも、いつもの通り、彼独自の音楽を魂をさらけ出して表現してくれて、それはいわゆるクリーンな演奏とは違うものだし、個性的なあまり、コンクールという場での評価はかえって低くなる、という可能性もあるとは思っていましたが、彼ほどの芸術家を本選に進ませないということはありえないと信じていました。2009年のコンクールのときは、辻井さんやハオチェン・チャン、ヨルム・ソンに注目・応援はしていたものの、今回は、すっかりDeljavanに個人的な入れこみを感じてしまい、演奏の最中も自分のほうが手に汗を握り、発表のときも本当に心臓がドキドキして、彼の名前があがらないまま終わってしまったときは、心身ともにぐったりしてしまいました。後で、ハグをしに行くと、「いいんだよ、昨日も言ったみたいに、僕はコンクールではいつも落とされるんだから」とさらっと言っていましたが、演奏家としてのキャリアをコンクールに賭けている彼にとって、これはとても大きな落胆であることは間違いありません。「審査員はともかくとして、私にとってはあなたは一番のヒーロー。これからも、あなたという人間であり続けて、あなたの音楽を演奏し続けてね」と言うと、私の手をしっかり握って「ありがとう」と言っていました。(涙)もしかすると、彼ほどの個性をもった芸術家は、コンクールという形式には実際に向いていないのかもしれません。コンクール以外に、彼が演奏家として世界にデビューする道がなにか見つかることを、強く願ってやみません。ポゴレリチの演奏が奇抜すぎるとして、ショパン・コンクールで落選したときに、アルゲリッチが抗議して審査員を辞任した、という騒ぎがありましたが、今回は、辞任する審査員こそいないかもしれませんが、彼の芸術性を高く評価して彼のキャリアを応援してくれる審査員がひとりでもいてくれればいいのですが。

そのいっぽうで、阪田知樹くんが本選に進出したのは、おおいなる快挙!予選の演奏を聴いて、このままの勢いで行けば本選まで行くのではないかという気はしていたものの、準本選ではさすがに他の出演者のレベルもそのぶん高いので、本選に入るかどうかボーダーラインくらいかなあ、と思っていました。19歳で、こんなに大きな国際舞台に初めて出て、一気に本選まで行くなんて、本当にすごい!やはり、若いということは、物怖じせず、余計なことを考えずに、コワいものなしで伸び伸びと自分の持っているものを出せる、ということでもあるんだろうなあ、そして、そういう素直な演奏こそが、聴衆そして審査員の心を打つんだろうなあ、と感じさせる結果です。もしも阪田くんが本選に進まなければ、明日か明後日にでもインタビューをさせてもらおうと思っていたのですが、こういう状況になると、これからコンクール終了まで、コンチェルトのリハーサルや本番が立て続けに入るので、お話を聞かせていただく時間があるかどうかわかりませんが、また追ってご報告します。

他にもいろいろ書きたいことはあるのですが、Deljavan落選のショックで、ワインを飲んでベッドに倒れ込みたい気分なので、今晩はこれにて失礼します。

2013年6月3日月曜日

Alessandro Deljavanインタビュー

今日は準本選第3日目。今日の演奏のなかで断然光っていたのは、Beatrice Rana。スクリアビンのソナタ第2番作品19、委嘱作品、そしてショパンのプレリュード全24曲という今日のプログラムと同じ彼女の演奏を、私は昨年の夏にカナダで聴いたのですが、そのときもとてもよかったけれど、今日の演奏はそれよりひとまわりもふたまわりも素晴らしく、とくにショパンのプレリュードは、Deljavanが演奏したショパンのエチュードと同じくらいの興奮を感じるものでした。とてもいい小説を読んでいるときのように、その場で起こっていることに夢中になりながら、次になにが起こるのか知りたくて次の章が待てない、ということを23回繰り返し、終わったときには、おおいなる高揚感に、終わってしまった悲しみが入り交じった、複雑な気持ちでいっぱい。これはコンクールの演奏だとはわかっているものの、ぜひともアンコールを演奏してもらいたい、という気持ちにさせられました。2009年のときにハオチェン・チャンが準本選で演奏したショパンのプレリュード全24曲を聴いたときには、歴史に残る演奏を聴いたという感想をもったのですが、今日のRanaの演奏も、タイプは違うけれど同じように興奮を感じる演奏でした。彼女は、委嘱作品についても、その遊び心をよくとらえた、いい演奏をしていたと思います。

今日の他の演奏については、特筆するほどよい点も悪い点も感じなかった(しかし、今日の最後に演奏したKholodenkoは、リストの超絶技巧練習曲12曲のうちの11曲を演奏したのですが、いったいなんだってこういうプログラミングをするのか、私にはさっぱりわかりません)のですが、私にとっての今日のハイライトは、今回のコンクールで私をすっかり魅了してしまったAlessandro Deljavanをインタビューできたことです。彼はまだ明日準本選でのソロリサイタルを控えているので、なるべく準備の邪魔にならないように時間を調整して、彼のホストファミリーの家を訪ねて30分ほど話を聞かせていただきました。ちなみに、このホストファミリーのおうちというのがすごい。2009年のときにも、さまざまなホストファミリーのおうちをいくつも訪ねたので、フォート・ワースの裕福な人々の暮らしというのは垣間みてはいましたが、このおうちはまた桁外れにすごい。私は、「こういう家に暮らすということは、人間にとっていったいどういう意味をもつのだろう」などと哲学的な問いを抱いてしまうくらい、大きくて豪華な家でした。インタビューの内容は、いずれどこかでまとめて発表する機会があればと思いますが、熱心にこのブログを読んでくださっているかたたちのために、とくに私が面白いと思った部分を以下抜粋・編集してご紹介します。

吉原(以下Y):昨日のドボルジャークはとにかく素晴らしかったです。2009年のコンクールのときも室内楽はドボルジャークでしたっけ?
Deljavan(以下D):いえ、前回はブラームスでした。今回は、本選のコンチェルトにブラームスを選んだので、室内楽では違うタイプの音楽を、と思ってドボルジャークにしました。あの曲は本当に素晴らしい作品だと思います。
Y:作品をすみずみまで知り尽くしているような演奏だと感じましたが、あの曲は前から何度も演奏しているんですか?
D:若いときに勉強しましたが、本番で演奏したのは19歳のときが最後です。
Y:コンチェルトでブラームスを選んだのは勇気がありますね。今回の参加者でブラームスを選んでいるのは、ひとりだけだと思いますよ。
D:そうですか。でも、明日の準本選のリサイタルで最後になると思うので、ブラームスは演奏できないと思いますが。
Y:そんなことないですよ!
D:それに、僕はコンチェルトをオーケストラと演奏するのが苦手なんです。
Y:なぜそう思うんですか?
D:何十人もの見知らぬ人と一緒に演奏するのが、気分的にしっくりこないんです。それに対して、室内楽は、このようなコンクールの場でも、(リハーサルと本番合わせて)せめて2日間のあいだに共演する人たちと関係を築くことができるので、楽しいです。僕は、理想的には、年間50回くらいのコンサートをして、そのうちの20回くらいは室内楽の演奏、という生活ができれば音楽家として最高だと思っています。ソロのピアニストの多くは、幼い頃から自分ひとりで演奏ばかりしてきて、自分がスターだと思っているので、室内楽がまったく弾けない人が多いですが、僕は室内楽はとても好きです。
Y:予選で演奏したショパンのエチュードは、私が生まれてから今まで聴いたエチュードのなかでも一番エキサイティングな演奏でしたが、この作品を演目に入れたのにはなにか理由があるんですか?
D:ショパンのエチュードは、僕にとっては古いレパートリーなんです。17歳のときに、作品10と作品25の全24曲を全部勉強しました。イタリアでは、とくにテクニックの習得にかんして昔ながらの指導法が徹底されていて、僕の先生は、テクニックを身につけるにはショパンのエチュードが一番、という人でした。そしてたしかに、ショパンのエチュードはいろいろな意味でとてもいいテクニックの勉強になります。
Y:でも、テクニックの他にも、音楽的解釈は、演奏を重ねるごとにだんだんと変化していくものでしょう?
D:そうですね。解釈は毎回変わります。弾くたびに、曲の5〜6%くらいは新しい解釈が生まれる、という感じです。
Y:2009年のコンクールのときとは、演目を大幅に変えていますね。
D:そうです。2009年には、シューベルトのニ長調ソナタを弾きましたが、あれが僕の破滅の原因でした(笑)。僕は、シューベルトやモーツァルトといった古典派の作曲家の作品はとても好きなんですが、コンクールで自分が弾くには向かない、と思うようになりました。審査員が、それぞれの作品の解釈について確固とした考えをもっているので、それから逸脱した演奏をすると低く評価されがちだからです。明日はベートーベンの「熱情ソナタ」を弾くんですが、とても心配しています。
Y:4年前にこのコンクールに出演したときと、今とでは、コンクールへの取り組みかたが違っていますか?
D:4年前は、本選に進めなかったことで、大きく怒りを感じました。まだ22歳でしたから、自分はとても幼くて、プライドが高かったんです。今は、自分が音楽家としてやること自体にもっと集中していると思います。それから、2010年から、音楽院で教えるようになったんですが、教える立場に立つようになったことで、自分の演奏にかんしても、自分が自分の教師の役割を果たすようになって、音楽家として成長したと思います。
Y:それは、具体的にはどういうことですか?
D:演奏において具体的になにかを実現しようと思ったら、まずは楽譜を集中して読み込み、細部まで理解していなければいけません。そうしたことについて、学生に言葉で説明しなければいけなくなったので、自分の楽譜の読み込みかたも向上したと思います。
Y:何人くらいの生徒を教えているんですか。
D:今、21人の生徒を受け持っています。
Y:それはかなり多いですね。
D:はい。今の自分の生活では、時間やエネルギーの60%が教えることに、残りの40%が自分の勉強に費やされています。もっと自分の勉強の時間がもてて、演奏の機会が増えればいいのですが。
Y:このコンクールと時期が重なって、エリザベート妃コンクールが開催されていますが、他のコンクールでなくクライバーン・コンクールを選んでいるのには、どんな理由があるんですか。
D:他のコンクールにもたくさん応募しているんですが、はじめから参加者として選ばれないか、参加しても予選で落とされてばかりなんです。エリザベート妃コンクールには前回出ましたが、予選で落とされましたし、ダブリンのコンクールでも予選落ちでした。ダブリンのときは、コンクールでの演奏としては自分では最高の演奏をしたのに、です。リーズには、参加すらさせてもらえませんでした。
Y:そうですか。コンクールというのはいろいろな要素が絡むので、本当に難しいですね。他のコンクールと比べて、クライバーン・コンクールは、どんな点が特有だと思いますか。
D:演目を自由に選べるというのがいいと思います。それに、財団の組織が信じられないくらいよく機能していて、スタッフがことをすべて円滑に運んでくれます。それに、僕はこのホストファミリーと前回とてもいい関係を築くことができたので、こんな立派ですばらしい家に滞在させてもらって、家族のように気楽に過ごさせてもらえるし、落選した後でも、コンクールが終わるまで残って24時間立派なピアノで練習ができる。コンクールの環境としては、とてもいいです。それに、やはりこの街では、ヴァン・クライバーン氏という人の存在が大きいと思います。クライバーン氏が亡くなったのは、大きな損失だと思います。彼がもういないということを、今回はいろいろなところで感じます。2009年には、コンクールだけでなく、フォート・ワースという街のなかで、クライバーン氏の存在を感じましたし、コンクールのときにも、僕たち全員とクライバーン氏本人が握手をして写真を撮ってくださって、そのとても温かい人柄を知ることができました。今回は、彼がもうここにいないのだ、ということを感じます。
Y:ピアニストとしてのクライバーン氏は、自分にとってどういう存在でしたか?世代が違うので、彼の演奏や録音を聴いて育った、というのとは違うのではないですか?
D:そうですね、クライバーン氏に限らず、僕は現代のピアニストよりも、もう亡くなった前世代のピアニストの録音を聴いて育ってきたんです。前の世代のピアニストたちは、音楽の解釈もそうですが、音の出しかたが今とはずいぶん違いましたし、もちろん録音のありかたも違うので、いろいろな意味で貴重な勉強になります。
Y:このコンクールでの自分の目標はなんですか?賞をとることですか?
D:今は、僕はコンサートがまったくありません。室内楽をやっていて、ベートーベン・サイクルを演奏するというプロジェクトをやってきているので、それは音楽家として自分の成長にとてもいいんですが、ソロのコンサートの機会はまるでありません。昨年度は、ソロのリサイタルをしたのは、このコンクールのオーディションだけでした。だから、今回ここに来て、予選でソロのリサイタルをするときに、自分は舞台に出て聴衆の前で演奏する準備ができていない、と思っていました。コンクールは、出るたびに、これでもう最後にしたい、と思います。毎年、「今年いっぱいやって、もうおしまいだ」と自分に言っています。このコンクールのあと、8月にクリーヴランドのコンクールにも出ることになっているんですが、それで最後にできたらいいと思っています。コンクールは自分に向いていないと思うのですが、コンクールで入賞することで、演奏の機会を手に入れる、とにかくそれが目標です。

他にも興味深い話題がいくつか出たのですが、それはまた別のところで発表することにします。私は、「僕はコンサートがまったくありません」という彼の言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになる思いをしました。彼のような個性豊かで、伝えたいことをたくさん持った、素晴らしい芸術家に、コンサートの機会がまったくないなんて、世の中の不条理としか言いようがない!世界の人々が彼の演奏に触れる機会がないなんて、人類にとっての損失としか言いようがない!とにかく、このコンクールによって、世の中の人々が彼の芸術に触れ、彼に演奏の機会がたくさん生まれることを願ってやみません。

こうして話してみると、彼は、sweetという単語がぴったりの、とても物腰や言葉遣いが柔らかで、相手の目をじっと見て、こちらが訊いていることに正直にそしてきちんと答える人物です。そして、私がどれだけ彼の演奏に感動したかと伝えると、本当にありがたそうにお礼を言っていました。明日のリサイタルが、心から楽しみです。彼が本選に行くことはまず間違いないと思うので、彼のコンチェルトを聴くのも、本当に楽しみです。

2013年6月2日日曜日

準本選第2日目 & クライバーン・コンクールに足を運ぶひとびと

今日は準本選第2日目。これで12人全員が、ソロまたは室内楽の演奏を終え、明日と明後日に、この2日間で演奏していないほうを皆が演奏し、準本選が終了します。

今日の6人の演奏のなかで、断然光っていたのがAlessandro Deljavanの室内楽。予選の演奏で私はすでに彼をひいき目で見るようになっているのは認めますが、今日の彼のドヴォルジャークの演奏は、その歌い上げかたといい、きめ細かさといい、ダイナミックさといい、なにをとっても素晴らしく、室内楽の醍醐味を存分に味わわせてくれるものでした。これだけでもう、彼を本選進出だけでなく入賞させてしまいたいくらい素晴らしかった。それに対して、同じくドヴォルジャークを演奏したAlexey Chernovは、ソロはなかなかよかったのに、明らかに室内楽の経験不足と思わせるものでした。まず、全体的に音が大きすぎかつ明るすぎて、基本的な意味で弦とのバランスが悪い。さらに、多くの部分であまりにもテンポが遅すぎて前に進まず、そして他の部分では逆にやたらと速くなる。Deljavanの同じ曲の演奏がとりわけ素晴らしかったので、それとのコントラストがあまりにも明らかだったのが気の毒なくらいでした。今日室内楽を演奏した残りのひとり、Fei-Fei Dongはブラームスを演奏しましたが、これは昨日のKholodenkoや今日のDeljavanほどではないけれど、なかなかよかった。この演奏にかんしては予選で選択していたドイツのスタインウェイではなく、ニューヨークのスタインウェイを使ったのも、弦との音のバランスという点で賢い決断だったように思います。とにかく、こうして見ると、室内楽というのは本当に、ソロとは全然違った能力が必要とされるものだなあと実感します。「室内楽が上手な人はソロも上手だけれど、ソロが上手な人が室内楽が上手とは限らない」、とはよく言われることですが、本当にその通り。

いっぽう、今日のソロは、Nikolay Khozyainov, Jayson Gillham, Sean Chenの3人。Khozyainovは、20歳の若さでありながら世界のいろいろなコンクールで優勝・入賞していて日本でも注目されていますが、このコンクールでのこれまでの演奏を聴く限りでは、私にはそれほど特別素晴らしいとも思えない、というのが正直な感想。Jayson GillhamとSean Chenの演奏はどちらもとてもよく、前者は音質の明るさときれいさ、後者はジュリアードで勉強した人によく見られる輪郭の明確さが感じられました。

ところで、今日の午後の部で私の右隣に座った男性とおしゃべりをしたのですが(このコンクールに通っていると、周りの席の人たちとたくさんおしゃべりをします)、彼は、クライバーン氏がチャイコフスキー・コンクールで優勝したときに高校生だったというので、年齢は70代。ピアノのコンサートに来たのは、生まれてこのかた今日が初めてだそうです。私が、「で、なんでこのコンクールを見に来ることにしたんですか?」と訊くと、「もう何十年もフォート・ワースに住んでいて、もちろんヴァン・クライバーンのことも、クライバーン・コンクールのことも、話には聞いていたから、いつかは試しに行ってみようとずっと思っていたんだ。それを実行に移したってわけさ」という。昨日の演奏をネットで見たときに、「室内楽の演奏も審査の一部だということを知らなかったから、スポーツの試合のハーフタイムでショーがあるようなもので、室内楽は本番と本番のあいだのエンターテイメントだと思ったんだ」と笑いながら、「バイオリンと一緒の演奏だと、ピアニストが上手なのか下手なのか僕にはさっぱりわからない」と素直なコメント。「ピアノのこともクラシック音楽のこともなにも知らないけれど、これまでの演奏はたくさんインターネットで見たよ。自分の感想が審査員の評価とどのくらい合っているか、比べるのが面白いんだ」と言って、昨日の演奏のなかで誰が気に入ったかを、プログラムを広げながら一生懸命話してくれました。70代になって生まれて初めて生のピアノ演奏を聴きにやってきて、前から4列目の真ん中の席に陣取って、居眠りをするでもなく、実に熱心に集中してずっと聴いている。休憩時間には、「どうだったと思う?」と私に訊いて、自分の感想と比べてみる。なんとも美しい光景ではありませんか。

いっぽうで、私の左隣に座っているのは、私と同様コンクールまるごとチケット2枚をとっていて、友達と一緒に来ている女性で、2005年のコンクールから通い続けている熱心なファン。若いときにピアノを習っていたことはあるけれど、ここ数十年はまったく弾いておらず、ピアノ音楽が好きではあるけれど、とくに高度な知識をもっているわけではない。妊娠中の娘がいて、ときどき面倒をみにいかなければいけないので、演奏を逃してしまうこともあるけれど、基本的に毎日やってきて私の横に座るので、ここ一週間、いろいろとおしゃべりを重ねています。「チャイコフスキー・コンクールに行ったことある?私はいつかモスクワに行ってチャイコフスキー・コンクールを見てみたいと思っているのよ」ともいう。彼女は、今回も審査員のひとりであるメナヘム・プレスラー氏が演奏しているドヴォルジャークのピアノ五重奏の録音をこよなく愛していて、ここ何年間も車を運転するときはいつもそれをかけているので、曲のすみずみまで知り尽くしている。で、昨日のこの曲の演奏が気に入らず(今日のこの曲の演奏を私が気に入らなかった以上に、彼女は昨日の演奏が気に入らなかった模様)、「この曲は、もっともっとダイナミックで、歌心と遊び心があって、最後の楽章では笑いがあるのに、今の演奏はちっともそれが表現できてなかった!」と、顔を赤くして憤慨していました。

このような素人たちが演奏についてあれこれ言うことを、うっとうしく思ったり、バカにしたりする人たちもいるでしょうが、私は、こういう人たちの存在こそに、クライバーン・コンクールの力を感じます。実際に意味をもつ評価は、ちゃんとした立派な審査員がしてくれるのですから、私の右隣の男性や左隣の女性(そして私も)の評価が正しいかどうかは、どうでもよいのです。そんなことより、ピアノ専攻の学生でもなければ、ピアノ教師でもない、まったくの素人が、クラシック音楽についての知識がないから自分にはよくわからない、などと萎縮することなく、音楽に対する素直な好奇心と、オープンな耳と心だけを持って、演奏を聴きにやってくる。そして、演奏から自分なりのものを感じ取って、興奮したり感動したり落胆したり憤慨したりする。そして、周りの人たちと意見を交換したり、自分が気に入ったピアニストに入れこんで応援したりする。こういう空気が生まれるのは、これらの演奏が、普通のコンサートではなく、コンクールという形式である、ということは一因としてあると思います。それと同時に、こうした雰囲気をコミュニティのなか、そして世界(コンクールにやってくるのはフォート・ワース近辺の人たちだけではなく、アメリカそして世界各地からこのコンクールを見るためにわざわざ飛行機に乗ってやってくる人たちもけっこういるのです)のなかで培ってきたクライバーン財団のビジョンと実践力がすごいと私は思います。音楽を専門にする人たちがコンクールを聴きにくるのは、ある意味で当たり前。コンクールに来るのが当たり前でない人たち、生まれて一度もピアノのコンサートに行ったことがなかった70代の男性や、孫の誕生を楽しみにしながら、いつの日かモスクワに行ってチャイコフスキー・コンクールを見てみたいと夢見て、プレスラーの演奏するドヴォルジャークを車のなかで聴き続けている女性が、コンクール会場にやってきて若いピアニストたちの演奏を聴き、むきになって、ああでもないこうでもないと言い合う、そのありかたに、私は演奏そのものと同じくらいの感動を心からおぼえるのです。誰が入賞しようと、実際のところ私にはどうでもいいのですが、こういう音楽との出会い、そして音楽を通しての人との出会い、そうした出会いから生まれる感動があるからこそ、私はコンクール、そして生の演奏というものに意義を感じるのです。私が見いだす意義は、出演者たちにとってのコンクールの意義とはまるで異質のものですが、クラシック音楽が今後も活発なものであり続けるためには、こうした素人たちが、素直な興味をもち、積極的な入れこみかたをするような場を、音楽関係者たちが生み出し続けていく必要があると、このコンクール会場にいると強く思います。

2013年6月1日土曜日

クライバーン・コンクール準本選第1日目

さてさて、今日から準本選です。準本選では、各出場者は60分のソロリサイタルと、Brentano Quartetとピアノ五重奏の共演をします。ソロリサイタルには、このコンクールのために委嘱された作品一曲も含められます。前回のコンクールでは、数曲の委嘱作品のうち一曲を各出場者が選べるようになっていましたが、今回は全員が指定された一曲、Christopher Theofanidisによる「Birichino」を弾くようになっています。今日ソロを演奏したのは、Claire HuangciNikita Mndoyants、そして阪田知樹くんの3人。そして、Beatrice RanaNikita AbrosimovVadym Kholodenkoが室内楽を演奏しました。

まずは、委嘱作品について。誰も聴いたことのない新しい作品を短期間のあいだに準備して演奏するというのは、出演者にとってはハードルが高いですが、コンクールの課題としてはとてもいいと思います。いろいろな録音を聴くなかで自分の演奏を作っていくのと違って、楽譜だけを頼りに、作曲者が意図したことを解読し、自分の解釈を演奏しなくてはいけないというのは、音楽家として非常に重要な側面を試される課題です。

数日前の誕生日に、横に座っているジェリーさんが、売店で売っているこの曲の楽譜を買ってプレゼントしてくれたので、私は楽譜を見ながら聴いたのですが、今日ソロリサイタルをした3人による、この曲の演奏は、それぞれがまるで違う曲のようでした。最初のClaire Huangciの演奏を聴くかぎりは、楽譜を目で追いながら聴いても、なにがなんだかよくわからない、よくわからないのは、曲がそういう曲だからなのか、それとも演奏がよくないからなのかも、判断がつかない。少なくとも、せっかく楽譜は手に入ったけれども、自分で弾いてみたいとは思わないなあ、という感想をもちました。それに対して、ふたりめNikita Mndoyantsの演奏では、リズムが利き、曲の輪郭がずっと明確で、ダイナミックでエキサイティングな曲に聴こえました。そして、3人目の阪田知樹くんの演奏は、2番目の演奏ともずいぶん違う解釈だけれど、なかなか説得力のある面白いものでした。どの演奏が作曲家が意図したものにもっとも近いのかは、楽譜をもっとじっくり読んでみないことにはわかりませんし、文学や絵画や彫刻と同じように、音楽作品も、いったん作者の手を離れれば、それを受けとる側がどのように解釈するかは作者のコントロールの及ぶところではないとも言えます。でも、残り9人の準本選出場者が、この曲をどんなふうに演奏するのかを聴くのは楽しみです。

次に、それ以外のソロ演奏についていえば、Claire Huangciの演奏は、とくに悪い点はなにもなかったけれど、自分がわざわざお金を払って彼女の演奏を聴きに行くかどうかと訊かれれば、うーん、行かないような気がする、という感じの演奏。Nikita Mndoyantsは、予選のときにも思いましたが、とにかくピアノという楽器、とくに彼が選んだニューヨーク・スタインウェイ(楽器の選択については、また後日書きます)を美しく鳴らすことが上手な人だなあと感じました。ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、私はとくに好きな作品ではないのですが、彼の演奏はなかなかよく、フォルティッシモの大きな和音でも音がきれいなままなのがよかった。そして、楽しみにしていた阪田知樹くんの演奏は、ラフマニノフのソナタで、和音や内声部に気を配りすぎて、ラフマニノフならではの長く流れるラインがいまひとつな印象があり、身体の芯から興奮を感じた予選のときの演奏ほどは感動しなかったけれども、鳥肌がたつほどよいところもたくさんありました。

そのいっぽうの室内楽。これは本当に面白いものです。なにしろ一週間ソロのピアノばかり聴きっぱなしだったので、弦楽の響きを聴くだけで音が毛穴にしみこむような感動をおぼえました。前回のコンクールと同じで、シューマン、ブラームス、ドヴォルジャーク、フランクのピアノ五重奏の四曲のうち一曲を選ぶ、というのが課題ですが、今日演奏した3人は、それぞれがシューマン、ドヴォルジャーク、フランクと別々の作品を選んだので、違う曲が聴けたのも聴衆にとってはよかった。Beatrice Ranaのシューマンは、音質やバランスのとりかたなどはとてもよかったけれど、とくに第一楽章のきれいなメロディーの部分などは、ちょっとテンポが遅すぎて、もうちょっと前に進んでほしい、と感じましたが、これは彼女のリードが足りないからなのか、それともカルテットのテンポに彼女が合わせていたからなのかは、私にはわかりませんでした。次のNikita Abrosimovのドヴォルジャークは、とくに第二楽章のテンポが遅すぎ、また最終楽章の軽やかな部分もいまひとつな印象。それに対して、今日最後にフランクを演奏したVadym Kholodenkoは素晴らしかった。前回のコンクールでフランクを選んだのは、いろいろな意味で物議をかもしたEvgeni Bozhanovだけでしたが、今回もフランクを選んだのは彼ひとり。そして、彼の演奏は、有無を言わさず、ソロ・室内楽合わせて、今日のなかで群を抜いて素晴らしいものでした。シューマンとドヴォルジャークを演奏したカルテットとは同じ人とは思えないほど、弦もノリノリで、曲全体がエキサイティングなものでした。私は室内楽の知識が限りなく少ないので、あくまで演奏を聴いての印象ですが、このフランクの曲は、ピアニストにとっては技術的にはかなり難しいけれど、ピアノが弦をリードする、という意味では、シューマンやドヴォルジャークよりもやりやすいのではないかと感じました。でもそれは、Kholodenkoの演奏が格別よかったからそう感じたのかもしれません。とにかく、今日の室内楽を聴いて、私の同伴者は「今回のコンクールではKholodenkoが優勝する」と言い切っているくらいです(この「同伴者」は、私とは比べものにならないくらい音楽のことがわかっている人なので、彼の言うことに注目する価値はじゅうぶんありです)。

というわけで、予選とはひと味もふた味も違った展開のある準本選。たいへん面白いです。

カウボーイと文化の街 フォート・ワース

予選と準本選の中日である昨日は、聴衆にとっては休みの日でした。さすがに一週間朝から晩までリサイタルを聴きっぱなしは疲れたので、寝坊してから、髪を切ったり(知らないところで、しかもアメリカで、髪を切るのはたいへん心配なのですが、ハワイに戻るまで待っていられない状態だったので、滞在先の近くの美容院に行ってみましたが、結果は意外に満足いくものでした)ペディキュアをしてもらったりして、ゆっくりと午後を過ごしました。前から感じていたのですが、テキサスの女性、とくにクライバーン・コンクールに足を運ぶような女性はそうですが、それ以外に街で見かける多くの女性も、たいへんきれいな外見をしています。「きれいな外見」というのは、洋服やアクセサリーにかなりお金がかかっていて、髪もばっちり決まっているし、お化粧をたっぷりしている。長年アメリカで暮らしていると、日本に行くたびに都会の女性がきちんとした身なりをしているので自分がずいぶんみすぼらしく思えるのですが、それと同じような感覚をテキサスでも感じます。もし自分がハワイからテキサスに引っ越すことがあったら、住居費を相当節約できるぶん、身なりを整えるのにお金がかかりそうな気がします。

夕方からは、Historic Stockyards、つまり家畜収容所として歴史的に機能してきたエリアに出かけ、ステーキを食べてきました。フォート・ワースに来たのは今回が5回目でありながら、Stockyardsに行ったのは今回が初めてでした。フォート・ワースが、もともと放牧業の中継地点として発展してきた街であることは拙著で説明しましたが、クライバーン・コンクールが開催されているダウンタウンのバス・ホールや美術館の並ぶエリアにいると、その事実は少ししか実感しません。が、Stockyardsに行ってみると、そのエリアに車で入った途端、思わず「お〜!」と声を出してしまうくらい、まさにカウボーイの街で、まるで西部劇の世界。百年くらい前の雰囲気がそのまま残っている。今でも年間通して毎週ロデオが開催されているらしく(ぜひとも行ってみたい)、「そうだ、ここはテキサスだったんだ」ということを思い出させてくれます。拙著でフォート・ワースが自称The City of Cowboys and Culture、つまり「カウボーイと文化の街」であることも書きましたが、こうしたカウボーイの街で、クライバーン・コンクールのようなイベントが世界的なものに成長してきたことの面白さが、Stockyardsに行くとさらにわかります。ちなみに、ステーキ屋さんでは、ステーキの他に、物珍しさで、Rabbit-Rattlesnake Sausage、つまりウサギとガラガラヘビのソーセージなるものを食べてみましたが、普通のソーセージとそう変わらない味でした。




テキサスにはもう何度も来ているのでそう驚かなくなりましたが、最初に来たときに新鮮だったのが、地元の男性はごく日常的にカウボーイ・ハットを被る、という事実。別に、ウェスタンをテーマにした特別なイベントに行くときでなくても、街やレストランで、きちんとした男性が、普通にカウボーイ・ハットを被り、カウボーイ・ブーツを履いている。ビジネスマンが、スーツにカウボーイ・ハット、という姿でいることもあるし、たいへんオシャレなレストランに、ウェスタンの服装とカウボーイ・ハットの男性が何人もいる。そうか、この土地ではこれが普通の格好なんだ、ハワイでは地元の人が日常的にアロハシャツを着る(アロハシャツにもいろいろありますが、ハワイではアロハシャツは正装なので、仕事にはもちろん、結婚式やお葬式にもアロハシャツを着ていくのはごく普通)のと同じようなものなんだろう、と納得。それにしても、テキサスでは、そのへんのいわゆる「場末」の雰囲気のハンバーガー屋さんなどに、きちんとしたスーツ姿のビジネスマンが昼間やってきて、ハンバーガーとビールというランチをとっていたりするのが、私にはなんとも面白いです。

さて、拙著で、クライバーン財団が、音楽ファンだけでなく街全体の誇りとしてクライバーン・コンクールを育んできたことを強調しましたが、今回も、このコンクールの存在は街のいろんなところで感じられます。ダウンタウンにはクライバーン・コンクールの垂れ幕が各所で見られるし、街のバス停のベンチもコンクールの広告になっている。バス・ホール近くのレストランに行くと、ウェイターが「今のところ誰が有望だと思いますか?」などと話しかけてくる、といった次第。


今日から準本選。午前中から始まった予選と違って、演奏は午後1時半からで、午後の部と夜の部のあいだにも3時間近い休憩があるし、ソロと室内楽の演奏が交互にあるので、聴衆にとってはだいぶ楽になります。夜には阪田知樹くんのソロのリサイタルもありますので、ぜひウェブ中継をごらんください。