2011年5月31日火曜日

宴のあと

日曜日の本選、授賞式、閉会ディナーをもって、コンクールは終了しました。今は、ダラスの友達のところに遊びにきて、明日の朝日本に出発します。ピアノ・テキサスのワークショップを含めての2週間は、終わってみると本当に夢のようで、こんな体験をしたのがまったくもって信じられない思いです。ピアノについても、人生全般についても、深くいろんなことを考えさせられる、素晴らしく貴重な経験となりました。

準本選の演奏を聴きながら、まず頭に浮かんだのが、「あー、自分が準本選に残らなくて本当によかった!」という思いです。予選であんな大失敗をしてしまったので、残るわけはありませんでしたが、もしもミスがなく自分なりにとてもいい演奏ができていたとしても、準本選に残るような人たちと自分とのあいだには、もっと根本的なレベルの違いがある、ということが、25人の演奏を聴いてよくわかりました。なにかの間違いでセミファイナリストとなってしまい、あの人たちに混じって舞台で20分(準本選は16~20分)も演奏しろと言われたら、泣き出して「嫌です、辞退します」と言ってきびすを返して走って逃げるだろうと思うくらい、準本選のレベルは高く、とくに2日目の演奏はすごかった。そして、本選の6人となると、もうコンクール云々はどうでもよく、プロの演奏会を聴くのと同じ気持ちで聴きました。最後に演奏したClark Griffithの演奏を聴きながら、私は、その音楽性に感動すると同時に、「これでもうこのコンクールが終わってしまうのか」と悲しい気持ちで、涙が出てきてしまいました。審査の結果は、多くの聴衆の予想通りとなりましたが、誰が何位だとか、そんなことは本当にどうでもいい、というのが多くの人たちの気持ちだったと思います。

現在の職業が演奏家でなくても、かつて音大で勉強してプロを志したり、ある時点まではプロに準ずる演奏活動をしてきていた人たちと、私のような「本物の」アマチュアとが一緒の土俵で比べられるのは、なんだか納得がいかないという気持ちもないではありませんが、すべてが終わってこの経験を振り返ってみれば、準本選や本選に残るような人たち(彼らは、ほんとうにプロとなんら変わらない演奏をします。プロのほうのクライバーン・コンクールとは、演目の量こそ違え、演奏の質そのものはそう変わるとは思えません)と、私のような人間があえて一緒になって、それぞれの姿勢とアプローチでピアノや音楽への愛情を表現するというのは、実に独特の素晴らしさがあるとも思います。プロとして、あるいはプロ並みのトレーニングを受けた人たちが上手な演奏を競い合うだけだったら、イベントとしてはちっとも面白くないけれど、ピアノの腕前はさまざま(といっても、出場している70数名は、その倍ほどの応募者のなかからオーディション録音で選ばれてきているので、やはり一定水準には達している)で、ふだんの仕事や生活もてんでんばらばらな人たちが、世界から集まってきて、自分たちの仲間が生み出す音楽の感動を共有し、緊張や興奮を共に体験するからこそ生まれる友情や絆こそが、このアマチュア・コンクールの本質だと思います。

そしてついでに。過去のアマチュア・クライバーン・コンクールで出会った男女が結婚に至ったケースというのは複数あるらしいのですが、私は「そんな夢物語みたいなことがあるかいな」と懐疑的でした。が...具体的なことはここで書くようなことではないので省略しますが、そういうことが起こりうるんだ、と思うようになった、と思わせぶりなことだけ書いて本日はこれにて。ムフフ。

2011年5月27日金曜日

ピアノというクスリ

一昨日、コンクール出場者は71人から25人にしぼられ、今日と明日が準本選です。当然ながら私は25人には入っていませんが、25人の顔ぶれを見ると、「そりゃそうだよな」という結果となっており、自分なぞとはまるっきり次元が違うことが明らか。準本選と本選の演奏を聴くのがとても楽しみです。

予選最後の日に、優勝候補のひとりと噂されているChristopher Shihの演奏がありましたが、彼の演奏を聴いていると、度肝を抜かれるというか、身体に震えがくるというか、深いため息が出るというか、もうそれはそれは素晴らしく、こんな人と私が同じ舞台で弾くなどということが、ばかばかしいやら可笑しいやら。「こういう人が出る舞台に、私なぞを立たせていただいて、本当に申し訳ありませんでした」と謝りたくなります。彼は1997年のプロのほうのクライバーン・コンクールに出場したという人で、つまりプロのピアニストとしてのトレーニングや経験を積んだ人なのですが、現在はなんと医者。プロのクライバーン・コンクールに出た人と私を一緒にされても困るのですが、そうしたことはともかくとして、彼のような人がプロの演奏家としての道を選択せず、それでもアマチュアとしてこのようなコンクールに出ようという気持ち、そのあたりに私はとても興味があります。機会があったらゆっくり話を聞いてみたい。

彼に限らず、このコンクールに出ている人たちの顔ぶれを見ると、実に考えさせられることが多く、私はここにいることがひとつの人生の転機になっているような気すらします。それは、これから真剣にピアノの道を志すとかそういったことではなく(もちろん、もっともっとピアノが上手くなりたいという気持ちはとても強くなりましたが)、この人たちと一緒にいると、私は、人間としてもっと優れた人間であらねばならないという気持ちになるのです。準本選や本選にいくような人たちが、ピアノ演奏と関係のない仕事をしたり子育てをしたりしながらそれほどの演奏能力を身につけるためには、私なんかとは比べものにならない努力をして、練習時間を作り、効率的な練習方法を身につけ、つねにより高きものを目指しているはず。ピアノ云々ということを超えて、そうした姿勢そのものに、人間として学ぶことが多いです。そしてまた、自分の人生のなかで、ピアノをどういう位置づけにしたいかということについても、深く考えさせられます。もっと上手くなるために、自分の時間や労力やお金の配分を大幅に変更して、ピアノにもっと集中することも可能。でははたしてそれが自分が本当に求めていることかというと、私の場合はそうも言いきれない。コンクールが始まってから興奮しすぎて夜眠れない(ふだん私はよく寝る人間なのですが、コンクールが始まってからは自分の演奏が終わってからも連日3−4時間しか寝ていません)ので、ベッドで横になってここで経験したことを考えていると、私の頭に浮かんでくるのは、執筆プロジェクトの案。これだけ刺激的な音楽体験をしながらも、それについてなにをどう書きたいか、ということにまず頭がいくのは、自分の性向や資質が一にも二にも物書きであって、ピアノ弾きというのはそれより下にある、ということなのだなあと、自分で改めて認識して感心(?)したりしています。

さて、昨日は、ピアノ・マラソンという催しがありました。これは、プロのコンクールのほうでもあるのですが、準本選に残れなかった出場者のうち希望者が、残りのプログラムの一部を同じ舞台で演奏できるというものです。審査員もいなく、聴衆も少なく、リラックスした雰囲気のなかで演奏するので、こちらでのほうが本番よりずっといい演奏をする人も多いです。私も、とにかくシャコンヌを大きなピアノで弾いてみたいので、弾いてきました。予選で弾いたバーバーの思い出組曲のうちのヘジテーション・タンゴをもう一度(もっと上手く弾けるということを自分にも友達にも証明したかった)弾いてから、シャコンヌを弾いたのですが、この20分で、いろんなことを勉強しました。なんのプレッシャーもないので緊張はまるでせず、気分はノリノリで弾いたので、とくにタンゴはとても楽しくパンチのきいた演奏ができたと思いますが、緊張しないぶん、どうしても集中力が100%でなく、ディテールへの配慮は散漫で、ラフな演奏でもありました。しかし、ハンブルグ・スタインウェイをああしたホールで弾くのは、麻薬のようなもので、下手でもなんでも、とにかく快感。私はハワイでは電子ピアノで、東京ではアップライトピアノで練習しているので、こんな楽器とホールをどう扱っていいものかまったくわかっておらず、自分がピアノという楽器の性質をちゃんと理解していないということがよくわかりました。ピアニッシモで和音を弾くとまろやかに温かく響きわたるその音に、自分でびっくり感動してしまい、しかし感動している間に曲は進んでいくので、そのときどきに気をつけなければいけないことに気が回らなくなる。そして、楽器とホールの素晴らしさに合わせて鍵盤のタッチやペダルの踏みかたを適宜調整しながら弾くということができない。なので、とてもムラのある演奏になってしまうのですが、まあそれはそれとして、とにかく麻薬のような快感。私はポルシェを運転したことはないけれど、きっとポルシェを運転するのはこういう感じなんじゃないかと想像します。私たちのようなアマチュアがこんな楽器を触らせてもらうためには、よほどの大金持ちでもなければ、こうしたコンクールに出場するくらいしか機会がない。というわけで、大枚をはたいて、有給をとって、せっせと練習して、わざわざテキサスまで世界からやってくるアマチュアピアニストたちの気持ちはよくわかります。それにしても、予選を通過できなかった人たちにも、こうしてこの楽器をもう一度演奏させてくれるというその心遣いが、やはりクライバーン・コンクール運営者たちの粋なところだと思います。

ピアノ・マラソンに加えて、昨日はコンクール出場者のうちの希望者がプロの音楽家と室内楽を譜読みできる、という企画もありました。私はふだん室内楽を弾く機会などないので、これまたありがたしと張り切って参加し、ブラームスのクラリネット三重奏のアダージョ(自分のレパートリーを練習するので精一杯なので、音符がたくさんあって拍が変化してややこしい他の楽章はなしで、アダージョだけお願いしました)を合わせてもらったのですが、これまたソロとは違った快感。クラリネットとチェロの人たちもとても優しく、室内楽というものを形にしていくためにはどういうことに気をつけるべきかということを示してくれて、最高に楽しかったです。この室内楽はコンクールでは今年初めての企画らしいのですが、たいへん素晴らしいアイデアだと思います。

といったわけで、さっさと敗退したにもかかわらず、最高に楽しく刺激的な毎日を過ごしています。

2011年5月23日月曜日

いやはやの巻

やれやれ、とにもかくにも終了いたしました。ネットで見ていただければわかりますが(見ていない人は見なくていいです!!!)、ワルツの途中で訳がわからなくなり(これはワークショップ最中の演奏でもつっかかった箇所で、「ここが危ないんだよなー」などとちらりとも思いがよぎると案の定そこで訳がわからなくなる)数小節ぶんとんでもない大惨事になりましたが、それによってコンクールの評価はもう問題外になったので、残りは割と吹っ切れて好きな演奏をしました。コンクールの他の出場者の多くは、音大を出ていたり他のコンクールにもたくさん出場していたりする人たちなので、そんな中に私のような未経験者が混じって舞台に立たせてもらっただけでも夢のような話だし、あんなに素晴らしい楽器(ハンブルグ・スタインウェイD)で音響のいいホールで、愛情いっぱいの聴衆に向かって好きな曲を演奏できるのは、至福の思いでした。こういう場に身を置いていろんな出会いをすることで、いろんなことを感じたり考えたり学んだりし、人生の大切な宝物になりました。頑張ってここまでやって来てよかった!そして、これからしばらくは練習しなくてよくなってよかった!(笑)コンクールの残りの期間は、友達の演奏を聴き、思う存分飲みしゃべって過ごすぞ〜!

日本やハワイやアメリカ本土など、いろんなところから応援のメッセージを送ってくださった皆さま、本当にありがとうございました!それがどれほど嬉しいことか、ふだんはペラペラとしゃべったり書いたりする私にも、表す言葉がありません。

2011年5月22日日曜日

コンクール本番前夜

いよいよ明日からコンクールの本番が始まります。出場者が次々と集まってきて、今日はフォート・ワース名物の大きなメキシコ料理レストランでウェルカム・ディナーがありました。さすがクライバーン財団、温かくいい雰囲気の集まり。世界のいろいろなところからやってくる、実にさまざまな職業の人たちと会うのは、単純に面白いです。自分が弾かなくてよくて、取材するだけだったら、もっと気が楽だけれど、緊張や恐怖や興奮を共有することで生まれる絆というものもあるのでまあよしとしましょう。

フォート・ワースの地元新聞は、コンクールのことを大きく取り上げ、何人かの出場者のプロフィール紹介もしています。2009年のプロのコンクールのときに、地元メディアが総力で取材をしているのにいたく感心しましたが、アマチュア・コンクールにこれだけの紙面を割くというのも驚き。こうした姿勢が、地域コミュニティの芸術支援の血となり肉となっているのだと思います。

ピアノ・テキサスのワークショップのミニ・セッションは今日で終了。最後のコンサートでびしっと決めて明日に備えようと思っていたのですが、緊張しすぎてまるで納得のいかないできばえとなってしまいました。でも、ワークショップの運営者であるTamas Ungar先生が、この5日間で全員が大きく成長したこと、コンクールでは余計なことを考えずとにかく自分の音楽をすること、と、とても心に響く言葉をくださり、それだけで私は胸がいっぱい、涙が出そうでした。この5日間でできた、音楽への愛情とピアノへの思い入れを共有する仲間たちが、お互いを応援して演奏を楽しみにしていると思うと、それだけで私はもうじゅうぶん、という気分。

私の出番は、テキサス時間の明日23日の一番最後、夜10:15からです。私の直前に演奏するのは、ベルリンのアマチュア・コンクールで優勝してベルリン・フィルと共演したという、Jun Fujimotoという日系カナダ人。彼もワークショップに出ているので、何度も演奏を聴きましたが、私なぞとはまるで異次元の腕前。そんな人の直後、しかも初日の最後でみんなが疲れているときに弾くと思うと、嫌で嫌でたまらないのですが、そんなことを言っても始まらない。Junとはさっき一緒に飲みに行って仲良くなったので、それでずいぶんと気が楽になりました。上手い下手などということは一切ふっ切って、音楽を楽しめたらと思っています。見られていると思うとますます緊張するのであまりこの事実を広めたくないのですが、演奏はすべてネット上で生中継されるそうです。

新たなるピアノ体験さまざま

一昨日は、マスタークラスの後Harold Martina氏のプライベートレッスンを受け、夜はコンサートでバッハ=ブゾーニのシャコンヌを演奏。こちらは緊張しながらも実力相応の出来で、とにかく大きなホールでコンサート・グランド・ピアノでシャコンヌを弾くというのが夢だった私には、ごちゃごちゃとしたミスはともかくとして、気分のいい体験でした。

この日はコンサートの後、ワークショップを運営しているTamas Ungar氏が参加者全員を集め、自分たちの演奏についてなど話し合う時間を設けてくれました。緊張して手が震えたりつっかえたりどんどん演奏が速くなったりしてしまうという状態を皆が共有し、どうやってそれに対処するかということをお互い話し合ったのですが、話の内容自体はとくに大きな発見があるというわけではなくても、そういった気持ちをみんなで話し合うということには大きな意味がありました。グループのなかでも飛び抜けて上手な人というのが何人もいるのですが、そうした人たちも演奏経験の少ない私などと同じような気持ちでいるのだなということもわかるし、なんといっても、ここにいる仲間が、お互いがいい演奏ができるようにと応援しあっているということが、最大の心強さにつながり、話しているあいだに涙が出そうな気分になってきました。このグループのなかには、テキサスの医者やマサチューセッツの弁護士やニューヨークの建築家やブラジルの投資家やドイツの物理学者など、いろんな人がいるのですが、ふだんの仕事や生活とはまったく関係なく、ピアノへのこだわりで結ばれたこういうコミュニティというのがあるんだなあと、感じ入るところ多し。

昨日は、朝一番でRobert Roux氏のマスタークラスでバーバーを演奏。こちらの演奏はけっこうよい出来で、本番でああいうふうに演奏できれば自分としては満足だなあと思ったのですが、こういう演奏は本番以外のときにしかできないもの(苦笑)。マスタークラスの指導はこれまた素晴らしく、前日のレッスンに加えて、これだけでずいぶんと良くなった感触あり。

そして、昨晩のコンサートでは、初回の雪辱をはらすべく、再びバーバーを演奏。またしてもたいへん緊張しましたが、今回は前回とはまるで違った体験になりました。前回は、緊張しすぎて自分で音楽に入りきることができず、音が心配になって頭が先走り、テンポがどんどん速くなってコントロールを失うという状況でしたが、今回は、緊張しながらも音楽には入り込み、少々のミスはともかくとして気分良く演奏していたのですが、入り込みすぎて途中で音がわからなくなり、次の回復できるところまで流れを保つために複数の声部の入り組んだ箇所で右手の単線だけを弾くという大惨事に。にもかかわらず、残りも気分的には集中して演奏でき、一種の高揚感を味わいました。これがコンクール本番だったら、間違いなくこれでアウトですが、今回のワークショップに参加して他の出場者のレベルを見て、私が予選を通過する可能性はゼロであるということをじゅうぶん認識したので、私はもう上手に弾くことなど忘れて、気持ちよく自分らしい演奏をすることに集中することにしました。その点、昨日は演奏の後、何人もの人が、とてもよかったとか、私もあの曲を弾いてみたいから楽譜を見せてくれとか、弾いている本人がとても楽しそうに弾いているのを見て気分がよかったとか、曲の雰囲気がとても良く出ていたとか、いろいろ言ってくれたので、メモリースリップはまあよしとしましょう(と自分に甘い)。本番では、音楽に入り込み、かつ、形も整った演奏ができるとよいのですが...

それにしても、このワークショップに参加することで、自分の演奏についても、他の人の演奏についても、ピアノ指導のありかたについても、実にさまざまな発見をしています。ここにいる参加者は、技術的にもなにごとかと思うくらい長けているのだけれど、それ以上に、それぞれの思い入れが強く感じられる人間的な演奏をします。その人たちと友達になり、彼らの人生を少しずつ知るにつれ、そのピアノへの思いにますます感動。自分自身の音楽への愛情もいっそう深められている気持ちがします。

さて、ワークショップは本日で終了し、今日はいよいよコンクール参加者のためのディナーパーティがあります。その後で、最後の一回の練習演奏をして、明日の本番に臨みます。

2011年5月20日金曜日

アマチュア・クライバーン・コンクール 地元(ホノルル)報道

数日前に電話でインタビューを受けていたのですが、今朝のハワイの地元新聞ホノルル・スター・アドヴァタイザーに、こんなでかでかとした記事が載ってしまいました。いやー、参った。新聞のウェブサイトのトップページに顔写真入りで載ってしまったので、読む人は結構多いのではないかと思われ(この記事が今朝載ったということは、記事を読んだという知らない人からのメールでついさっき知りました)、ますます「あー、マズいことになった」感増大。しかし、なにしろメディア対策が得意なクライバーン財団の主催イベントなので、このように出場者の地元メディアにも広報がなされているのは当然で、まあ仕方ないか...

今朝は、朝8時半から、John Owings氏のマスタークラスを受け、バッハ=ブゾーニのシャコンヌを演奏しました。昨晩のコンサートでの悲惨なできばえよりは落ち着いて弾け、また、Owings氏の温かく優しく、そして具体的でポイントを突いた指導は、涙が出るほど素晴らしく、たった1時間で自分の演奏がずいぶんとよくなった気持ちがします。それに、シャコンヌのような曲は、ハワイの自宅にある電子ピアノや、今回の東京での滞在先にあるアップライトピアノで弾くのと、大きなホールでスタインウェイのグランドピアノで弾くのとでは、まるっきり違う体験で、途中の難しい箇所がいかにごちゃごちゃになろうとも、最後の大きな和音でどーんと終わるときには、たいへんな満足感があります。マスタークラスででも、この曲をホールで弾けたというだけで、私は至福の気分。

人の演奏を見学するのでも、自分が演奏するのでも、マスタークラスというものは本当に素晴らしく、私は、残りの人生をマスタークラスを受けたり見学したりして過ごせたらどんなに幸せかと思ってしまいます。

あと一時間で今度はプライベートレッスンなので、その準備にかかります。

2011年5月19日木曜日

本番はオソロしい

先ほど、ピアノ・テキサスのワークショップの夜のコンサートで、今回初めての演奏をしてきました。結論から言うと、自分的にはまったくの大惨事に終わりました。今晩弾いたのは、予選で弾くことにしている、サミュエル・バーバーの「思い出」組曲作品28より「ワルツ」「パ・ドゥ・ドゥ」「ヘジテーション・タンゴ」の3曲。とても思い入れのある曲なのですが、なんといっても最初の「ワルツ」の出だしで一番つまづきがちで、そこで肝心な音を外してしまうと、動揺して、そこから坂を転げ落ちるようにどんどん崩壊していく...というパターンが、今日も展開されてしまいました。よっぽど途中で演奏をやめて舞台を下りて帰ってこようかと思ったくらいでした。落ち着いて弾けばじゅうぶん弾けるはずなのはわかっているのに、舞台に出ると、頭上から照りつけるライトの強い光にまずびっくりし、その反射で客席などまるで見えないのにどぎまぎし(数人でも知っている顔が見えればずいぶん安心するのですが)、どうでもいいようなミスをしながら弾いているうちに、暗譜はちゃんとできているはずなのに、途中で頭が真っ白になってしまうんじゃないかという強迫観念が湧いてきて、全体的なことよりもその場その場の音(それも、どういう質の音を出すかということではなく、次に出すべきはドだったかミだったかというレベルの話)のことしか考えられなくなってくる。落ち着いて弾けているときは、なんといってもちゃんとしたホールでスタインウェイのコンサート・グランド・ピアノを弾いているわけなので、自分でも幸せな気分になるくらいいい音が出るのですが、そんな落ち着いた気持ちでいられるのは、12分のうち2分くらい。いやー、まいった。復習(今、漢字変換をしようとしたらまず出てきたのが「復讐」。なんと適切な変換であることか!)用に一応録音もしたものの、聴く気にもならないくらいの出来でした。

本番(本番といっても、これはあくまで練習コンサートなので、聴衆はほんの一握りしかいないのですが)というのはオソロしいなあと実感。他のいろんなアマチュア・コンクールやコンサートに出て演奏経験を積んでいる人なら慣れているでしょうが、私のように人前で演奏する機会をまるでもってこなかった人間は、一回の演奏のたびに寿命が3年くらい縮まる思いです。でも、コンクール本番でいきなりこれだったらどうにもしようがないけれど、コンクール前に数回は舞台で演奏する練習ができるので、その数回で少しは度胸がついて落ち着いて演奏できるようになるといいなあ...

というわけで、自分の演奏は悲惨でしたが、他の参加者たちとお友達になって、演奏のあと部屋でビールを飲みながらおしゃべりしたりするのは、とても楽しいです。私としては、そういう交流が主な目的で来ているので、精一杯楽しむことにします。といっても、明日は、朝8時半からマスタークラス、正午にプライベートレッスン、夜はコンサートと、長い一日が控えているので、もう寝まーす。