2009年4月27日月曜日

アメリカの大学に求められる改革

先週、ホノルルでAssociation for Asian American Studies(つまりアジア系アメリカ人・社会に関する研究分野)の学会があったので大わらわでした。アメリカの学会はたいてい毎年違う都市で開催され、会場はホテルであるのが普通です。ですから普通、「学会に行く」というと、飛行機に何時間か乗ってどこかの都市に行き、ホテルに泊まって、ホテル内の会議室や宴会場で研究発表やらその他のイベントに出て、夕方から夜にかけてはホテルのバーや近くのレストランで遠隔地に住む友達と遊ぶ、というのが典型的なパターンです。それが、自分が住んでいる街で学会があるとなると、学会中の数日間の過ごしかたはまるで違ってきます。なにしろ、学会の最中にも授業やらオフィス・アワーやら会議やらといった、普段の大学の業務をしなければならない。そして毎日、家と大学と学会会場のあいだを車で行ったりきたりしなくてはいけない。ホテルに泊まっていれば、途中で疲れたらエレベーターに乗って部屋に戻ってちょっと休憩すればいいけれど、家から通っているとそうもできない。そしてまた、地元の人間ということで、やはり遠方から来る人たちをホストしなくてはいけないような気持ちになるので、自分の家に友達をよんでパーティをしたりする(私も先週木曜日の夜に友達十数人を家によびました)。また、今回は私は地元隊員として運営委員にも入っていたので、なにやかんやと雑用を引き受けることになる。そしてパネルの司会もする(今回のパネルは、真珠湾攻撃の歴史の記憶について。『現代アメリカのキーワード 』を一緒に編集した矢口祐人さんがパネルの一員でした)。ただでも学会では数日間のあいだにたくさんの人と会うし、やはり仕事についても考えさせられることが多く、刺激が多いので、楽しいと同時にどっと疲れるのですが、今回はいつにもましててんてこまいでした。

ところで、昨日のニューヨーク・タイムズに、「大学のありかたを根本的に変えるべし」という主旨の論説が載っています。著者は、現在コロンビア大学の宗教学科長をしているMark Taylorという人です。現在のアメリカの研究大学は、研究の専門化が進み過ぎて、細分化された分野の枠を超えた学際的な対話ができにくい、大学院生の研究はごく少数の専門家にしか読まれないようなたこつぼ的なトピックになりがちである、本来は学問の自由を守るためにできたテニュア(終身雇用資格)制度は現実には多くのベテラン教授の研究や教育における怠慢を招く、などなど。改革案としては、常設の学部・学科を撤廃し、数年ごとにもっともレレヴァンスのある大きなテーマで学際的なグループを作り、その年数が終わったらそのグループを存続するか修正するか撤廃するか決める。テニュア制度を廃止して、代わりに七年ごとに各教授の業績を審査する。とくに人文科学系においては博士論文の形式を大幅に自由化する。大学院生が、学位取得後大学における研究以外の職業にも就けるようなトレーニングを大学院教育に組み込む。などなど。それぞれの提案は、これまでにも多くの大学関係者が言ってきたことで、それほど目新しいことはないのですが、不況の折、とりわけ人文系の研究・教育の将来が問われるようになってくるので、こうした提言が注目されるのだと思います。『アメリカの大学院で成功する方法』を読んでいただけばわかるように、私は、実際のところ、もちろんいろんな問題はありますし、大学とひとくちに言ってもいろんな大学がありますが、アメリカの大学制度というのはかなりしっかりしていると思っています。この論説で指摘されているような問題も、それほどひどくはないと思っています。日本の大学で仕事をしているかたには失礼を承知で言いますが、ましてや日本の大学の仕組みと比べたら、アメリカの大学はずっと健全に機能していると思います。それでも、やはり、大学院に十年間も籍をおいて、十万ドル近くもの借金を抱えて(そういう例はそれほど珍しくありません)卒業した挙句に、大学の就職口はどこもなく、そのトレーニングを活かした別の仕事に就けるわけでもない、なんとか就職したとしても、博士論文の内容があまりにも特化していて研究書として出版できず、結局テニュアをとれずに大学を追われる、という例があまりにも多いので、なんらかの構造改革はアメリカの大学制度にも必要だろうとは思います。

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